六甲山と瀬織津姫 145 消えたアカル姫

住吉大社にアカル姫が祀られていたことは、思えば
 驚くにはあたらなかった。神の坐すところ祀る民あり。
新羅から帰ったアカル姫は、難波の上町台地に、
 新羅から渡来した人々に祀られた…ヒメコソ神として。

 追って来た天之日矛は上陸できず但馬に落ち着いたと
 伝わるが、難波には天之日矛の末裔・三宅氏の名が残る。

いや、しかし、そういう理解でよいのだろうか?
三宅氏の祖は田道間守で但馬から出た一族と言われる。
つまり、父方は天之日矛でも母方はアカル姫ではない。
ではいったい、難波でアカル姫を祀った一族とは?

アカル姫は新羅から「帰った」というのだから「故郷」
は、この国のどこかに存在しているのではないか…
祀ったのはその民かと思っていると、語り部が言った。

「実は、アカル姫が久高島から難波に上がっていく様子を
霊視したことがあったのですよ。そこには松林と井戸が
あって、住吉大社だと分かったのですが、赤い太鼓橋
のあたりで、その姿がパッと消えてしまった…」


↓今年の春に参った住吉大社(大阪市住吉区)の境内
 にある太鼓橋。姫が消えたとはどんなメッセージか?
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語り部に降りてくる不思議なイメージ。私が聞く。
「姫が消えたとは、どういう意味なんですか?」
「アカル姫は住吉大神、つまり綿津見神の娘なのでしょうね」
「豊玉姫とか玉依姫のような…?」
「海神の姫だから、上古から大海を船で行き来できたのでは」
「難波でアカル姫を祀ったのは、それでは安曇族…?」
「はい、住吉で姿を消してからは、北の方角へ進み、
 琵琶湖を通って、信州へと逃れていくのが視えました」
「逃れて、消えた…」
「アカル姫を崇める一族が、です…」


参拝後に、境内の休憩所で見た古代船の絵。
第四宮に祀られる神功皇后の征討船を描いたものか。
第四宮は当初、姫宮と呼ばれたらしいが、その姫とは?
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語り部は「アカル姫は消えた」と言うが、9〜10世紀成立
 の『住吉大社神代記』に、その名は「子神」として載る。

〜赤留比売命神(中臣須牟地神(なかとみすむちのかみ)。
草野神(かやのかみ))〜

草野神とは、新羅の前身国・伽耶(加羅)を暗示している
ようだが、中臣須牟地神は、何やら聞きなれない神名だ。
「住道神(すむちのかみ)」の名もあったが、どちらも
磯歯津路(しはつみち)に「住む神」ということらしい。

磯歯津路なる街道ができたのは5世紀後半、雄略の時代。
住吉津に着いた外国からの技術者や使節を、大和の飛鳥へ
向かわせるために造られた主要交通路だった。


地図は『東アジアに開かれた王宮〜難波宮』から拝借。 
赤の矢印は私の加工で、住吉津(=住吉大社)の場所。
東を流れる大和川に向け磯歯津道(点線)が築造された。
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『住吉大社神代記』には、次のようにある(要約)。
☆住道神は八前なり。天平元年(※729年)、託宣に
 よって河内国丹治比郡の盾原(たてはら)に鎮座した。
 ☆中臣須牟地、神須牟地、須牟地曽弥、の三神社を創祀。

そのなかで、アカル姫は、中臣須牟地神社
中臣須牟地神として祀られたが、祭司したのは、
藤原鎌足・不比等の父子の出た中臣氏だったという。

語り部の言う安曇族でなく、系譜を異にする氏族だ。
つまり、アカル姫は、朝廷祭祀を司る中臣氏によって
来朝者への饗応のために創祀された住道神社に祀られた。

延喜式(玄蕃寮)に、次のような事情が載る(要約)。
☆新羅から来朝客には、各地から稲を集めて醸した。
☆その酒を難波館(※迎賓館)で給した。

『住吉大社神代記』に、アカル姫が
「草野神(かやのひめ)」と特筆された理由とは、
鹿野姫」に通じる神徳も備えていたからなのだろうか。
 その女神は酒の神、つまり「酒を醸す月の神」だった。

語り部の言う「姫が消えた」とは、そのことか…。
神徳だけを奪われて、姫を祀る一族は追いやられた?


# by utoutou | 2017-11-19 10:17 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)