六甲山と瀬織津姫 138 聖徳太子〈その8〉

10/13(金)夜、NHK『歴史秘話ヒストリア』で放送
 の『聖徳太子の棺 伝説のその先へ』を偶然観て驚いた。

数日前に訪れた叡福寺(大阪府南河内郡太子町)を映す
VTRに井上あさひアナがいた。(↓テレビ画面を撮影)
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私が訪れた日の叡福寺(聖徳皇太子磯長御廟)。
晴天だったが、町の循環バスから降り立ったのは唯一人。
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山号でもある磯長山(しながさん)に太子の墓がある。
直径50m余の丸い古墳だと↓オンエアで全貌を知った。
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叡福寺境内から石段を登り、二天門を通ると太子廟がある。
宮内庁による案内板(推古天皇皇太子聖徳太子 磯長墓)も。
左に菊紋、手前に賽銭箱とお香立て。お線香は200円だった。
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墳丘の高さは19mとか。地形に沿うように御廟が立つ。
二重の結界石が聖域を取り巻いている。内側は空海作とか。
御廟正面の扉から10m石段を上がると横穴式石室とか。
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御廟の正面に「三骨一廟」を表す彫刻が掲げられていた。
聖徳太子、妃、母である皇后、3人が葬られている。
622年に相次いで逝去。死因は伝染病か暗殺かと言われる。
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↓番組でCG再現された玄室。室内に3つの棺が並ぶ。
一番奥に見えるのは、母・穴穂部間人皇后の石棺、
前列左には妃の膳大郎女を、右に聖徳太子の棺を安置。
太子と妃の棺は絹を貼合した乾漆で作られたが、制作には
1年かかかったので、「太子は2度葬られた」ことになる。
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その謎解きを、猪熊兼勝氏が語っておられた。
  没後、太子を見直す動きが生まれ、棺は作られたのだと。  
その後も蘇我入鹿暗殺に始まる大化の改新、そして
壬申の乱と混乱は続き、多くの人命が失われたとき、
「聖徳太子」の名が生まれ、国を再生するシンボルとなったと。

棺の材質である乾漆は最高級の絹だったという。いっぽう
斉明天皇と藤原鎌足のは麻製で、その違いが太子信仰を
物語っている…など、まさに秘話満載のヒストリアだった。


ところで、太子妃4人のうち
この膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)だけが、なぜ
こうして太子と母との三骨で同葬されることになったのか?
 再生のシンボルなら、太子だけのほうが相応しいのでは? 

番組を観終えて、そんな素朴な疑問が湧いたとき、
思い至ったのは「磯長(しなが)の里」という地名だ。

ここ河内国磯長は渡来氏族・息長氏の支配地だったようだ。
膳大郎女は膳(かしわで)氏の姫だが、もしや息長氏系か。

ともあれ、磯長=息長。
また、同町に鎮座する科長(しなが)神社の「科長」も
同様で、すべて「息を長く吹き続ける」という意味という。
科長神社には、息長垂比売(神功皇后)の生誕伝承もある。

また、龍田大社(奈良県生駒郡)の祭神・志那都比古神
志那都比命の「志那」も、「息が長い」との意味という。
風神や「息が長い」神徳から連想されるのは古代産鉄だ。

「聖徳太子」には、息長氏が隠れているのではないか。
 さらに息長氏には、沖縄が隠されているかもしれない。
 「息長と沖縄は同義」とする説があり、発音も似ている。
















# by utoutou | 2017-10-16 15:46 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)