久高島が「神の島」である理由

城(グスク、琉球列島全域に推定200〜300ヶ所)とは、「一般に小高い丘の上に形成され、
城壁や石囲いを有するが、それがないものもある」(『沖縄大百科事典』)。
が、1960年以降に展開された「グスク論争」を経てもなお結論には至っていない。

代表的な説は3つある。

聖域脱 
グスクの本質を聖域におき,そこを中心に一部のグスクが城塞として発展したとする考え。
たとえば、勝運グスクは城塞があるからグスクとよぱれるのでなく,
そのなかに聖域をもっているからグスクとよぱれるのであり,主体はあくまでも聖域の存在にある。
(民俗学的視点…仲松弥秀による説)

集落説 
グスクを三つのタイプに分類。
A式が政治的権力者の居城・支所
B式が原始社会から古代社会へ移行する時期の防御された集落
C式が発生当初からの集落の拝所や墓地で、A式はB式から発展したとする考え。
(考古学的視点…嵩元政秀による説)

グスク展開説 
グスクの共同体論に,歴史的な視点を加えるなら、
聖域説も集落説もグスク展開の一面としてとらえることがてき、矛盾しない。
その意味で、城塞化したグスクのうち最後にのこったのが首里グスクとする考え。
(歴史学的視点・‥高良倉吉による説)以上『高等学校 琉球・沖縄史』(東陽企画)より


城の「東西軸」に注目する私としては、仲松の「聖域説」に共鳴。
ただ三説とも、原始〜古代社会で「聖地(グスク)は動かなかった」という点で共通している。

故・仲松弥秀氏の著『神と村』(1990年、梟社)によれば、
氏も当初は「グスクすなわち城」と考えていたという。
ところが、各地のグスクを踏破した結果、
「古代に祖先たちの共同葬所(風葬所)だった場所ということがわかった」。
さらに時代が進み「グスク=聖所」を保護していた豪族が、
隣に居館を建て、その両方を石で囲み拡大した結果、外観上も城(しろ)となったのだと。

玉城城付近に住む人から聞いた話を思い出す。
「玉城城にはこの戦前でも頭蓋骨が見つかることがあったそうだ」と。葬所ならそれも頷ける。

玉城城は敷地が5千平方mで、複郭を持つ。
グスク研究の第一人者である安里進琉球大教授は、
2千平方m以上のグスクを「大規模グスク」と呼ぶ。

安里教授によれば、大規模グスクはすべて複郭構造で、正殿、御庭、聖域、倉庫がある。
なかでも、4万平方mを越える浦添城、首里城(他に今帰仁城がある)は、
周辺に寺院、王陵、豪族の住居といった施設が配置された「王都」としての性格が強い。
また、その王宮には「冬至の朝日が久高島の方向から昇る」。
浦添ようどれ(陵墓)はニライカナイ信仰や太陽子思想にもとづいて設計されたという。


図・写真とも『琉球の王権とグスク』(安里進著、2006年、山川出版社)より借用
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太陽と城の位置関係。
浦添城と首里城から見て冬至の日の出方向である久高島からは、夏至の日の入りが見える。
玉城城からは久高島が夏至の日の出方向だが、冬至の日の出方向には肉眼で見える島はない。
(図は『玉城城跡整備実施計画報告書』より。赤青線(字)は筆者)a0300530_18323399.jpg


















夏至の日の入り。久高島から浦添、首里方向を望む(2013年6月23日の撮影)。
左側の稜線は知念半島、斎場御嶽(せーふぁうたき)。
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1年でもっとも太陽が小さくなる「冬至」の日の出。
1年でもっとも太陽が大きくなる「夏至」の日の入り。
二至の太陽は、古代の人々にとって「神の死と再生」そのものに見えたと思う。
世界の冬至祭とは、神の再生を祝う祭りだった。
そういえば、東京でも大国魂神社や八幡神社などでは冬至祭をやっている。
by utoutou | 2013-08-12 20:15 | 久高島 | Trackback | Comments(0)
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