アマミキヨは山東省から渡来した?

百名海岸のヤハラヅカサに船を着けた琉球の始祖アマミキヨは、ゆえに海から来た渡来人である。
琉球王府が出した『中山世鑑』には「昔開闢の神アマミキヨはじめて五穀の種子を天より請い来りて、
これを久高島及び知念玉城に始めた」とあるが、古代史では「天」(あま)を「海」(あま)と解するのが一般的。
つまりアマミキヨは、五穀の種子を携えて渡来した渡来人である。


ヤハラヅカサから50mほど入ったところに浜川御嶽がある。
伝承では、アマミキヨはここで仮住まいした後、急斜面を登って標高110mのミントングスクまで移動した。
そして途中、裸人を見たとも。「裸世」(はだかゆー、裸人が歩いていた時代)だったのだ。
現在でも豊富な水量があり、傍の河口からじゃんじゃん水が流れている。
300m西には、稲作発祥の地・受水走水(うきんじゅ・はいんじゅ)がある。
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沖縄学の父・伊波普猷(1876〜1847年)氏は、
「今日の沖縄人は紀元前に九州の一部から南島に殖民した者の子孫である」と記した。
地元・知念(村)で村長や校長の要職にあった郷土史家・新垣孫一氏も、
その著『琉球発祥史』(1955年)で伊波普猷説を、次のように紹介している。


〜琉球史の発掘者と推称すべき伊波普猷氏は、
難解なるオモロの琉球開闢神話が初めて日本の開闢神話と符合せることを発表し、
かつ伝説による「アマミキヨ」と云う種族は、大島海見嶽に天降りせる人々にて、
暫次南下せしこと、また奄美の地名は九州東海岸にある海人部の地名と同一であると唱えた。
(中略)最初の琉球人は口碑の如く久高島に到着し、
これより知念玉城に居を定めたのであろうと論じている〜


アマミキヨの定住地域はやがて知念半島全体へと広がり、点在する居住地跡が、
琉球王府時代に国王と聞得大君が参詣した「東廻り」(あがりうまーい)のコースとなった。
つまり、アマミキヨは一族あるいは集団だったのか。


東廻りコース(『沖縄大百科事典』より)。
図中「4」の馬天(ばてん)以南の地域を「東四間切り」(あがりゆまじり)と言った。
佐敷、知念、玉城、大里、現在の南城市である。
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琉球石灰岩からなるミントングスク。
『ミントングスク調査覚書』(1979年、沖縄県文化財保護委員会)によれば、
「原始時代の遺跡であることがわかる。
遺跡内からは当時の生活用具である石斧や土器類等が採集される。
採集される遺物を見ると沖縄の貝塚時代とグスク時代を含む複合遺跡であることが分かる」という。
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この調査で発掘されたのは、石斧、すり石、フェンサ上層式土器(グスク時代)、
薄手硬質土器(後期縄文時代)、ゴホウラの貝殻など。
そして私は調査資料の中の「聖地」の項目に、気になる箇所を発見した。

〜大正3年11月26日付で島尻郡長・斉藤用之助から県内務部長に提出された
『県史編纂資料』(東恩納文庫蔵)に次の記述がある。
免登武能之霊場ハ字仲村渠ニアル俗ニ明東城トモ云フ(中略)
一説に曰く阿摩美好ノ神ノ後ナル天帝子其天帝子ノ出所ハ支那山東省ノ明東府大東島也ト〜

ミントンは「明東城」。アマミキヨは山東省の明東府から渡来した……と?
by utoutou | 2013-08-16 21:54 | 玉城 | Trackback | Comments(0)
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