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筑後・高良大社の神籠石

所用で博多にいるので、昨日は宗像大社に行こうとしたが、着いたのは予想外の駅だった。

11:23 博多
JR鹿児島本線快速・小倉行き (540円)
11:51 東郷
スマホのメモ欄にはそう記してあった。東郷駅から宗像大社まではバスで12分。
順調ならその後、神湊へ行きフェリーに乗って中津宮のある大島まで。
大島では、女人禁制の沖津島が見える北端の遥拝所に立てるかもと、期待していた。

そろそろ東郷かと電車を下りる支度をしていると、何やら胸騒ぎな車内アナウンス。
「まもなく、久留米〜」
あらま。。ようやくそこで、乗る電車を間違えていたことに気がついた。
どうやら、まったく同じ時刻に博多を出た、同じ鹿児島本線の、逆方向の電車に乗ったらしい。

そんなわけで、止むなく計画を変更。久留米駅から2駅目の久留米大学前駅まで行き、
耳納(みのう)山地の西端にある高良大社(こうらたいしゃ)に馳せ参じた。
旧国幣大社、延喜式内明神大社、筑後国一の宮、創建は西暦400年と、御由緒書にある。

高良大社の御祭神は、八幡大神(はちまんおおかみ)
          高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)
          住吉大神(すみよしおおかみ)
筑後・高良大社の神籠石_a0300530_7385175.jpg



ここは神籠石(こうごいし)で有名な、あの高良大社ではないか!
ということに気がついたのは、本殿裏の神域へと坂道を登りきり、振り返ったときのことだ。
筑後・高良大社の神籠石_a0300530_7405343.jpg


実は一度、高良大社の神籠石について調べたことがある。
「高良」(たから)という地名が沖縄本島には何ヶ所かあり、高良さんという名字もある。
読みは違うが高良と高良。過去に何か民族的な交流があったのではと推理してみたりした。

ただ、神籠石とは山全体を要塞とするべく囲んだもののはずで、これではあまりに短距離。 
そこで再び坂道を下り、振り返って列石を見る。
筑後・高良大社の神籠石_a0300530_740737.jpg


さらに下りてみて、やはり神籠石だと確認。神籠石とは古代、神域を囲むものでもあった。
最初に登るときには気がつかなかったが、登り口に「史蹟 神籠石」と石碑が建っていた。
筑後・高良大社の神籠石_a0300530_7402716.jpg


改めて調べると、神籠石とは、7世紀頃に築造されたとされる列石遺跡のこと。
その名が高良大社「縁起」に記されていたことから、1898(明治31)年に小林庄次郎氏が、
「神籠石」として紹介。聖域の境界石として、広く知られるようになった。

ところが、明治33年(1900年)に八木奘三郎氏が「城郭」説を打ち立てて反論。
以後「神籠石論争」が勃発したが、半世紀を経て「古代の城郭 」であると決着がついた。
最近では「神籠石」のある10自治体が「神籠石サミット」を始めたが、「城郭」説は覆っていない。
一部の神籠石遺跡から城郭の基礎となる土塁が発掘されたこと、
築造が白村江の戦いの後にあたるため、国土防衛の必然があったこと等がその根拠だ。

しかし、ここ高良山に限っては……? 神籠石を見つめながら考えた。

論争が勃発した以降も各地で発見された神籠石だが、この成り立ちには二極対立ではなく
「聖域」から発展した「城郭」という「複合説」の視点があってもよいのではないか。
沖縄における城(ぐすく)の成立に「グスグ展開説」があるように(過去記事はこちら)。

沖縄には「城(ぐすく)とは、聖域から城塞化したものもある」という説があり、実際、
古代の御嶽から、三山時代(いわば戦国時代)の戦死者らしい人骨も多く発掘されている。

神は石を依り代とするらしい。だから神奈備は動かない。動くのは人の世で、そこに時間が流れる。
神籠石もまた。などと、つらつら思いつつ、
神山で神籠石に浸るうちに時は過ぎ、ここ東郷の宗像大社に着く頃には陽も西に傾き始めていた。

とはいえ、図らずも嬉しい大社めぐりの旅。
14:03 久留米大学前
JR久大本線
14:29 久留米
JR鹿児島本線快速・小倉行 (1,430円)
15:34 東郷
バスで宗像大社へ。
筑後・高良大社の神籠石_a0300530_7411669.jpg

by utoutou | 2013-12-06 12:59 | 神社 | Trackback | Comments(0)
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