伊雑宮へ〈16〉藤原vs.蘇我

聖徳太子と蘇我馬子の撰録を含む『神代皇代大成経』は、
江戸の識者の間で論争となった挙げ句に禁書となり、
神官ら多くの人が処分された「伊雑宮事件」として語られる。

が、偽書とされるほど興味深々となるのは人の常、
未だに「原本は伊雑宮の神庫にある」とも囁かれる。曰く、
秘伝書にはコピーがあり、太子の没後、推古天皇が伊雑宮のほか、
大阪の四天王寺と大三輪社(大神神社)に秘蔵させたと。
四天王寺…聖徳太子が建立した寺であるところに信憑性が漂う。


さて、その聖徳太子が、後に持統天皇が不開門(あかずのもん)を
建てることになる千田寺に「遊覧」したときの話が郷土資料にある。

(要約)
〜垂仁天皇の時代、天の真名鶴が「大歳の神前」に稲穂を落とした。 
倭姫が池に種を撒くと五穀豊穣に。八百万神に神酒を献じた。
後年、その話を聞いた聖徳太子が来て感歎。
山を無量山、寺を千田寺と名づけて、倭姫の古語を残した〜

持統天皇もこの話を聞食(きこしめして)行幸…と続くが、
持統は聖徳太子の痕跡をも封じようとした。
その胸中にはいったい、どんな怨念が渦巻いていたのだろうか。



伊雑宮の境内の聖なる木立。
その北に素戔男尊や大己貴命など出雲の神々を祀っていた不思議な森。
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持統vs.聖徳太子、その対立の構図は、
藤原氏vs.蘇我氏という政権争いの反映だったと思う。
持統が伊勢行幸した年の半世紀以上前から、その種はあった。
ちょっと歴史をおさらいしてみる。


用明天皇皇子・聖徳太子が十七条の憲法を制定したのは、604年。
    伯父・蘇我馬子との実質的な二頭政治の下だった。
622年に聖徳太子が死去すると、蘇我氏の専横政治となる。

645年、乙巳(いっし)の変、大化の改新。
    中大兄皇子(後の天智天皇)は中臣鎌足(藤原鎌足)らと、
    宮中で蘇我入鹿を暗殺。翌日、入鹿の父・蘇我蝦夷も自害した。

672年 壬申の乱。
    天智天皇の大友皇子に対し、弟の大海人皇子(後の天武)が
    海人族を味方に反旗をひるがえし、大海人皇子が勝利した。

686年、持統の夫である天武天皇が崩御。
大津皇子、草壁皇子も薨去して、690年、持統が天皇に即位。
697年 持統天皇、孫の文武に譲位。
文武は藤原不比等の娘を迎え、聖武天皇が生まれる。


持統が他界したのは、703年。
その背後には常に、天皇家の外戚(外祖父)の座を、
そして政治の実権を狙う藤原不比等の闇の目が光っていた…。


ところで、件の「乙巳の変」。
聖徳太子の伯父・蘇我馬子から4代目の入鹿が暗殺され、
結果、蘇我氏が滅亡に追いやられた。

その凄惨な現場に居合わせたのが、古人大兄皇子。
舒明天皇を父にする中大兄皇子と大海人皇子の異母兄で
皇位継承権一位、母は蘇我馬子の娘だった。

実はこの皇子が、中大兄皇子による暗殺の本命
だったのでは?という説がある。

とすれば、追手を逃れて琉球に渡った可能性もある。
玉城で「天武大主」と碑銘のある墓を知ってから5年、
いよいよその謎を解く日がきたと、胸が騒ぐ…。



近鉄上之郷の駅前に立つ観光MAP、集落の右端(北)が倭姫旧跡地。
その上(西)の神森に「素戔男尊を祀れる宮地ありき」と郷土史は語る。
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伊雑宮周辺は、穏やかな集落という趣きだが、
まだまだ日本の歴史を覆すような秘密が隠されているかもれない。
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by utoutou | 2014-11-04 10:59 | 伊勢 | Trackback | Comments(0)
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