天武の墓〈3〉琉球の和邇氏

天武大主(古人大兄皇子)が身を寄せた先と、
私が考えるのは、和名垣花(わなかきのはな)。

現在の南城市玉城垣花である。
全国名水百選の垣花樋川(かきはなひーじゃー)の崖上。
垣花樋川は昔、「和名川」(わながー)と呼ばれた。


↓玉城仲村渠(なかんだかり)から垣花樋川への散歩道。
付き当たり左上が垣花樋川、その上が垣花集落。
右下が海。垣花は典型的な高地性集落だ。

いっぽう、この道の右、かつての
わいとい(切り通し)道を降りると「天武の墓」に出る。
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和邇氏が日本最古の渡来族であること、
和名の始祖がアマミキヨとも考えられることは
既に書いたが、沖縄でもう一ヶ所、
北中城村に和仁屋(わにや)という土地がある。

本島中部の東海岸。
現在は埋め立てられて古代を偲ぶべくもないが、
国道329号に和仁屋という名の交差点があり、
近くに荻堂貝塚がある。

荻堂貝塚は 国指定有形民俗文化財。
今から約3500年前の貝塚である。
(ちなみに玉城の和名も、3500年前の遺跡)

1919(大正8)年の発掘調査では、土器、石器、骨器、貝器や、
猪・ジュゴン・犬の骨が出土。生活の痕跡が確認された。

貝製の腕輪、魚骨製の耳飾り、石製の垂れ飾りなど
の装飾品も発堀されており、高貴な文化が伺える。
語り部によれば「和仁屋は、和名の同族が移動した」。

その「和仁」と同じ神名のつく神社が、遠く離れた
(わににますあかさかひこ、天理市)にある。
※「神奈備へようこそ」HPを拝借

神社名ともなった赤阪比古は、別名「和仁古」。
『新選姓氏抄録』に、大和国神別とある。
大国主六世孫・阿田賀田須(アタカタス)命の後裔とも。

アタカタスの名は『新撰姓氏録』に
「宗形君、大国主命六世孫、
吾田片隅(アタカタス)命之後也」ともあるので、
宗像氏と和邇氏は同族と知れる。
どちらも海人族。そう言えば、宗像(福岡県)と琉球
の間には、上古から貝の交易ルートがあった。

宗像大社にはご存知、奥津宮、中津宮、辺津宮があるが、
和名の大森(うふんり)の御嶽は奥津座(おくつくら)、
中森(なかむい)の御嶽は中津座(なかつくら)と呼ばれた。
沖縄県内では珍しく、大和言葉の御嶽名がついていた。


話はまた奈良に飛び…和爾坐赤阪比古神社から車で30分。
大神神社摂社・若宮社に参拝したことがあった。
大直禰子=大田田根子は、和邇氏と同族である三輪氏の祖。
↓文中「大物主の孫」は、和邇氏が三輪山の主だったことを示す。
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いっぽう、ホツマツタエや竹内文書は、
6代大物主として「鰐彦」の名を伝え、
それは三輪明神、櫛甕玉のことだとする。
とすれば、鰐彦こそ疑いなく和邇の始祖だろう。

海をまたぐ古代倭のネッワーク。

和爾の始祖=古代琉球王朝の流れを汲む村が
7世紀にもあったなら、
海人系の皇子の逃亡先として、これ以上の最適地はない。


垣花樋川から見る太平洋の海。
外洋から複数の明澪(水路)が陸に繫がる。
その地形が古代船をこの地に導いた。
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by utoutou | 2014-11-09 21:45 | 天孫氏 | Trackback | Comments(4)
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Commented by ゆん at 2014-11-09 23:56 x
言霊はホツマツタエですか?
Commented by utoutou at 2014-11-12 04:50
はい、そうだと思います。
Commented at 2015-02-21 22:42 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by utoutou at 2015-02-22 22:22
TOY POPさん ありがとうございます。沖縄に視点を置いて歴史を見ると、記紀神話がいかに創作かということが浮き彫りになるように思います。そこで、日本書紀を編纂したという舎人親王は、いったいどういう役割を担った人物なのかについて、つらつら考えているところです。
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