天武の墓〈4〉ミントン古伝の皇子

琉球一の旧家・ミントン家の秘伝は
「阿摩美姑(アマミコ)は日本から渡来した」
と、古人大兄皇子の存在を暗示している。

『如件(くだんのごとし)』(1963年刊)。
アマミキヨの居住地とされるミントングスク(南城市玉城仲村渠)
に接するミントン家の門中だった窪田道全氏が
著した私家版の書(ガリ版刷り、20ページ)である。

窪田氏は仲村渠に生まれ、農業を営む傍ら、終生を郷土史の
研究に捧げた「物知り翁」だったというが、90歳で他界する
10年前「私の時代に古老から聞きおぼえた伝説」(序)を遺した。

冒頭の「免武登能阿摩美姑神渡来開闢」の項に関連するくだりがある。
アテ字は明治時代のもので、ミントン・アマミコ神・渡来・開闢と読む。

以下引用
〜免武登能阿摩美姑神と申しましたら、
たいていの人は沖縄開闢神なることはおわかり
だと思いますが、どんな開闢なされたか、
その系図を知る方は少ないと思いますので、
私は阿摩美姑の渡来なされた事、
又、開闢の糸口 免武登能御嶽の御案内を書きまして、
後に阿摩美姑について述べたいと思います。
阿摩美姑は、支那唐の時代に日本から渡来なされたようであります。
百名の南海岸 八原司(ヤハラジカサ)に船を着けられ、此処から
御上陸なされ、浜川の泉の清水で遠い旅の疲れを直してから、
今の免武登能に住居を求められたようであります。〜

沖縄の人は中国のことを、時代によらず「唐」と呼ぶ。
カチャーシー(三線の早弾き)の定番曲「唐船ドーイ」がいい例で、
唐船(とうしん)とは、「中国船」のことである。
そんな先入観から、つい読み流してしまっていた。

が、「唐の時代」を西暦で表せば、618〜690年。
古人大兄皇子が出家して吉野に隠遁したのは、645年。
琉球に逃れたとするなら、まさに同時代のことだった…。


ミントングスク。御嶽の石香炉は「アマミキヨ約三十代に対する拝所
で、人骨のある御墓は英祖王から後の御方である」と『如件』に。
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『如件』に伝わる「アマミコ神」伝説を、まとめてみる。

・2、3ヶ月を経て島を巡り、アマミコは多くの裸人に会った。
「あなた方には夫婦はいるか」と問うと「いない」と答え、
「子はいるか」と問うと「女は子を産むからいる、男にはいない」
と答えたので、アマミコは「種は男にある。女の袋を借りて子を作る
ので子は男のものである」と、血筋(ナーシジシジ)について教えた。

・アマミコは恥をクバの葉で隠させ、夫婦を結ばせ、貞操を守らせ、
和を教え、一定の場所に定住し、家を造ることを教えた。

・子が産まれたら物負けしないよう「川降り(カーウリ)」や
名付けの行事を、また家に孕んだ女がいるときは「葺不合」
(フキアエズ)の印を見せるなどの行事や習慣を教えた。

・日本風の火葬を教えた。「香座(かざ)する間柄」という昔の言葉
は、火葬した匂いを共有する親戚の仲という意味である。

これらの言い伝えと、沖縄特有の「天帝氏」という言葉から、窪田翁は、
「アマミコは日本から渡来した天御子(アマミコ)である」
「天御子と天帝氏は皇室の皇子に違いない」と記している。


那覇市壷屋の陶器店に陳列されている厨子(骨壷)。
風葬や土葬の場合の洗骨後に使う骨壷が並ぶ。
すべて日本風でなく琉球風のもの。
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また『如件』は受水走水での稲作についても述べている。
「ここで稲作がどうして始まったかの由来を知る人は少ない」と。
少し長くなるので、次回につづく…。

↓写真右方に古代米(地米)のカラウカハ、左方向に受水走水がある。
「これこそ天武大主の時代の稲作の始まり田んぼ」だと語り部も言う。
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by utoutou | 2014-11-12 23:20 | 天孫氏 | Trackback | Comments(0)
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