天武の墓〈6〉ミントン古伝の英祖王

『如件』の著者で、いまは亡き窪田道全さんが、
語り部の前に現れたことがあった。
地元の男たちが、浜川御嶽からヤハラヅカサの海に
降りるための石段を整備したときの話…

御嶽で祈願しようとする語り部の前に
姿を見せた道全さんらしき老人が、
工事人の住所氏名を宣ったという。
工事人とは石積みの名匠・窪田繁雄さん。
道全さんの息子である。  
繁雄さんはいまも不思議そうに振り返るが、
父の願いはアマミキヨの御嶽を後世に伝えることだった。

『如件』で、阿摩美姑(古伝では「天御子、皇室の御子」)の
系譜を著すくだりに、その思い入れが伺える。以下要約。

・阿摩美姑に2男3女が生まれた。
・長男は国王、首里天孫子となった。
・2男は玉城城を構え按司となり玉城天孫子となった。
・3男は農業の指導者になった。
・長女は聞得大君として天地神祇を祀り、次女はヌルになった。
・阿摩美姑は女の神様で、夫はソネ彦といった。
・天孫氏25代の王は、逆臣・利勇に滅ぼされた。
・舜天王統3代のとき飢饉がうり義本王が行方不明に、
 玉城天孫子30代の湧川按司が王位を継ぎ、英祖王となった。
(※英祖王の在位は、1260年 - 1299年)
・英祖王と大成王は天次(※玉城城)に空葬された。


玉城城の一の郭にある「大成王の墓」。
英祖王も空葬されていたとは『如件』にのみ伝わる秘史だ。
a0300530_8262921.jpg


これまでも書いてきたが、『中山世鑑』や『中山世普』では、
英祖の出自を、母親が太陽を飲み込む夢を見て孕んだ
「てだこ(太陽の子)」と、なぜ曖昧化したのか。

それは、天孫氏王朝の初代王こと天武大主が、
窪田道全氏が記したように「大和から渡来した天御子」
だったからと考えれば合点がいく。

『中山世鑑』を現した羽地朝秀は
日琉同祖論者だったというが、
琉球王朝は天孫氏王朝の歴史
を空白にすることで削除した。

ただ『如件』だけは、
天孫氏王朝の終焉について示唆していた。

〜最後の別れ(※天孫氏25代の王)は
大里村西原城に祀られ、西原按司の子孫が崇めている〜

南城市大里西原の拝所「ウフユー」。
「天孫氏二十五代」の位牌は秘かに祀られてきた。


久高島の「地割(じーわい)」制度を始めたのは英祖王と言われる。
大化の改新で制度化した日本の「租庸調」を取り入れたというが、
その伝統は現代にも継がれ、いまも畑地はすべて島人の共有制。
a0300530_8261472.jpg


東海岸から地割の方向を見る。防風林の向こうに地割の畑地が並ぶ。
9月末撮影。大きな台風一過。樹々の葉はすっかり落ちていた。
a0300530_8295710.jpg

by utoutou | 2014-11-18 09:26 | 天孫氏 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://mintun.exblog.jp/tb/20393857
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
<< 遷宮前の伊雑宮へ〜の前に内宮早朝参り 天武の墓〈5〉ミントン古伝の葺... >>