ヤマトタケル ㉓ 石灯籠と百済 〜 誉田八幡宮

羽曳野市の白鳥神社と誉田八幡宮に立つ
石灯籠には、太陽と月の文様の火袋がある。


拝殿のすぐ近くにある当宗(まさむね)神社
の脇にも、こうして太陽と月の石灯籠が。祭神は
中部朝鮮の楽浪郡から渡来の当宗忌寸の祖神とか。
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当宗神社から応神天皇陵への散歩道にも灯籠が。
誉田八幡宮に隣接する広大な応神天皇陵。
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白鳥神社と誉田八幡宮、
ヤマトタケルに所縁の深い二社の共通点
としての石灯籠について考えつくのは、
当宗神社の由緒にも伺える朝鮮半島との関係。


古墳群で有名なこの河内には百済系渡来人
が多く住み、安宿(あすか)部郡があった。
地名の由来は百済系渡来人がここを
安住の地「アンスク」と呼んだことといい、
近くの河内飛鳥にある飛鳥戸神社の祭神は、
百済王の昆伎が祀られていた(現在は素戔嗚尊)。



なんと古市駅で飛鳥の車両に遭遇。
安宿(あすか)と飛鳥(あすか)は、
近鉄近鉄南大阪線で繫がっている。
飛鳥戸神社のある上之太子駅へは5分、奈良の
飛鳥へもその先20分で着くほどの「地続き」。
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ふたつの飛鳥を「近つ飛鳥」「遠つ飛鳥」と呼ぶ。
近つ飛鳥博物館HPによれば、
それらは「古事記」に記載があるそうで、
難波に近い河内飛鳥を「近つ飛鳥」、遠い
奈良の飛鳥を「遠つ飛鳥」と名付けたという。


「あすか」の語源について記すのは、
『古代は生きている〜石灯籠と稲荷の謎を解く』
(近江雅和著、1994年、渓流社)。
それがスケールのたいへん大きな話で…。


近江氏「あすか」についてのくだり要約
・河内の安宿は百済系渡来者が多い土地だった
・語源はペルシャの古代帝国「アスカ王朝」
・「アスカ王朝」は中国では「安息国」と呼ばれた
・河内の安宿が大和に移って明日香になり、
 枕詞の「飛ぶ鳥」から飛鳥の地名になった
・ペルシャ由来なので飛鳥汁は牛乳で煮込んだ野菜汁


飛鳥の名はペルシャから。そして、
石灯籠も大陸由来であると、こう近江氏は記す(要約)。

中国で石灯籠が発見されたのは、山西省と松江省で、
いずれも北方遊牧系がいた北辺の地域。よって石灯籠
は非漢文化系の鮮卑族のもので、朝鮮半島を経由した。
また『日本書記』によれば、石灯籠の近畿大和
への伝来は552年(欽明天皇の時代)だったという。

誉田八幡宮などにある石灯籠の年代は不明
だが、半島経由という歴史があるのなら、
同じ文様の石灯籠のあった
酒折宮(山梨県)も気になるところ。

酒折宮は、ヤマトタケルから賜った
という火打袋をご神体として祀る神社。
それは、火守りの翁の返歌に感動しての授与だった
と『日本書紀』は記すが、酒折宮にも、
もしや大陸半島由来の隠された由緒があるのか?


ヤマトタケルが東征の帰りに寄った酒折宮(山梨県)。
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それよりもなぜ、
ヤマトタケルの陵がこの地にあるのか。
ヤマトタケルと大陸、そし百済との関係とは?

「古市の古墳群を歩いてきましたよ」 
 そう伝えたとき、語り部は言ったものだ。
「馬が見えます。
そこには騎馬民族が入っていますね」
「騎馬民族ですか…」(絶句)
 
石灯籠を造ったという鮮卑は、遊牧騎馬民族。
紀元前3〜6世紀にかけて中国北部にいたという。
思えば百済の王家も、騎馬民族から出たと言われる。

by utoutou | 2015-07-04 20:11 | ヤマトタケル | Trackback | Comments(6)
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Commented by 徹平 at 2015-07-04 21:47 x
Utoutou様こんばんは。
ロマンが広がりますね。
百済が出てくるとは、何かが繋がるような気がしてなりません。

さちばるの庭に行ってきたのですが、さちばるの庭はグスク跡なのでしょうか?
Commented by 武部正俊 at 2015-07-05 12:30 x
以前、伊勢志摩の猿田彦の痕跡を調べていて「追跡アマミキヨ」に出会いました。それ以来愛読し、刺激を受けています。
僕は大阪人で、仕事の関係で大阪東部にも良く出かけます。
馬の話が出ていましたが、応神天皇陵の軸線を南南東方面に辿ると、河南町に「白木」と「馬谷」という地名があります。「白木」は新羅に通じそうですし、「馬谷」は馬の放牧地をイメージしてしまいます。朝鮮半島との係わりを感じます。
また、地理院地図で応神天皇陵の軸線を引くと、馬谷と白木の間辺りに鳥居マークがあり、そこにぴいたり繋がります。鳥居マークが付いていますが、実際は小さなお堂で、中に石仏が安置されています。形的には大日如来には見えないのですが、地元では「大日さん」と呼んでいるようです。
何かの参考になれば幸いです。
Commented by utoutou at 2015-07-06 11:11
徹平さま
こんにちは。百済・新羅と沖縄との人的交流が応神の時代にあったという説もあるようですので、興味深いですね。

さちばるの庭に行かれたのですね。山の斜面が庭になったことで、さちばる(先原、崎原)の海と百名の高台が繫がり、一帯の地形がより分かるようになったと思います。庭の上にある天空の茶屋付近には、沖縄稲作の祖の墓があります。

いっぽう、海沿いにある浜辺の茶屋あたりは、親田や塩田があったと伝わっていまして、マース(塩)御嶽の石標が今もあります。茶屋から浜へ下りる左側。今度ぜひご覧になってみてくださいね。

Commented by utoutou at 2015-07-06 11:38
武部さま
初めまして。ブログを運営しておられるのですね! ゆっくり拝読させていただきます。

応神陵の情報もありがとうございます。白木、馬谷。朝鮮半島と関連がありそうですね。関東でも和邇氏と関連のある古墳には馬の埴輪、男塚・女塚、そして十一面観音などといった共通点があるようです。つまり「大日さん」もそのひとつに入るのではないでしょうか。

古市には初めて行ったので本当に不案内なのですが、大和川が流れているのが興味深かったです。灘波と奈良をつなぐ川と古墳群の関係とか、応神稜は大和川の上流を向いている?とか、チラっと考えたものでした。今後ともよろしくお願いします。
Commented at 2015-07-08 12:11 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by utoutou at 2015-07-09 13:27
徹平さま
実は昨年の夏に玉城・天空の茶屋さんに於いて「宮里聡さんお話会」を催しまして40名を越える方々にお集まりいただきました。これは語り部と私の対談形式でして、私ひとりのお話し会はやっておりません。
いずれにしろ、ちょっと検討してみたいと思います。
ありがとうございます。

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