ヤマトタケル ㉔ ここにある理由 〜 日本武尊白鳥稜古墳

「百舌鳥・古市古墳群を世界文化遺産に」と、
キャンペーンを展開中の河内(大阪府南部)。

百舌鳥(もず、堺市)と
古市(羽曳野市・藤井寺市)のエリアには、
4世紀後半〜6世紀中頃に造られた
巨大な古墳が、現存するだけで99基もある。

といった情報をはじめパンフレットには、
「鉄製品の多量副葬」「倭の五王の奥津城」
「国際色豊かな副葬」といった、古代の国際交流
   を伺わせるスケールの大きいコピーが満載。  

そんな古市にあって、
ヤマトタケルの古陵は、もはや影が薄い?
というのも、古墳は、
その孫・応神の時代から突如巨大化した。

百舌鳥古墳群には、仁徳天皇陵(縦長486m)
があり、古市古墳群には、応神天皇陵(425m)や
履中天皇稜(365m)と、巨大な前方後円墳が目白押し。



ヤマトタケルの白鳥稜(後円部の一部)も、
カメラにほんの端っこしか写らないほど大きいが、
巨大古墳に比べれば、稜の長さは半分の190m。
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古市古墳群MAP。赤矢印を
加筆した、いちばん大きいのが応神稜。
その下、赤で名前を加筆したのが白鳥稜古墳。
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上のMAPで、ヤマトタケル稜の左横、
矢印を加筆した稜は、'92年に発掘され、
「こちらがヤマトタケル稜の本命か」とも
言われた峯ヶ岡古墳。非常に小さい。



↓ 白鳥稜の横幅のごく一部。
左の赤い舗装道路は竹内街道という。
大阪(灘波)と奈良(飛鳥京)を結ぶ最古の官道。
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さて、この地にヤマトタケル稜ができた経緯
について『日本書紀』は、こう記している。

〜ヤマトタケルは伊勢国の能褒野の稜に葬られたが、
白鳥となって、稜から出て倭国をさして飛んで行った。
柩には衣だけで残っているだけだったので、白鳥の行方
を追ってみると、倭の琴弾原(奈良県)にとどまった。
それでそこに稜を造った。白鳥はまた飛んで河内に行き、
古市邑(古市)にとどまった。またそこに稜を造った。〜


これまでに私は「白鳥と名のつくのは産鉄地」
という法則を知ったが、その通りで、
調べて見ると、やはりこの地も産鉄地だった。

いま、近くを走る近鉄線に「土師ノ里」駅
があり、ここが古代の土師氏(土師部)の里
だったと分かるのだが、実は、
その土師氏が奉斎したのは、兵主神。
つまり製鉄神、産鉄族が崇める神だった。


陵墓の造営、埴輪の制作、大王の葬送儀礼
に関わる人々を土師氏(土師部)といい、
主に古墳の周辺に配置されたというが、
彼らは同時に、製鉄にも従事していた。

「その高温技術を利用して、
製鉄・鍛冶に関与していたと考えられる…
古代では、
鍛冶と陶工は同じ穴の狢(むじな)であった」
(浅井壮一郎著『古代製鉄物語』2008年、渓流社) 



白鳥稜のすぐ近く、ここに
「誉田白鳥埴輪製作所遺跡」があった。
そして、埴輪製作に従事する土師氏の
大集落があったという。いわば、埴輪村だ。



「誉田白鳥埴輪製作所遺跡」にあった埴輪の写真。
9基の窯跡から、様々な埴輪が発掘された。
他に、白鳥を思わせる水鳥型の埴輪も。
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「埴輪村」で、思い出すことがあった。


崇神天皇の時代、乞われて
三輪山に大物主を祀ったのは大田田根子。
彼は「茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑から呼ばれた」

茅渟県(ちぬのあがた)とは、
この河内のこと。大田田根子とは、
陶邑=埴輪村にいた土師氏ではなかったか。

そして、倭姫も、その甥っ子の
ヤマトタケルも同じ系譜にいたと考えられる…。

by utoutou | 2015-07-08 21:51 | ヤマトタケル | Trackback | Comments(0)
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