人気ブログランキング | 話題のタグを見る

神武の来た道 ⑰ 琉球の熊野三所権現

沖縄県国頭郡金武(きん)にある金武観音寺。
境内の洞窟に鎮座する金武宮は、
補陀落僧・日秀上人が創建したと言われ、
熊野権現が祀られている。

 伊弉冉尊(いざなみのかみ)
速玉男尊(はやたまおのかみ)
  事解男尊(ことさかおのかみ)  


↓「高野山真言宗 金峯山 観音寺」の山号。
熊野の補陀落山寺は天台宗だったが、
こちらを開いた日秀上人は真言宗の行者だった。
思えばこの観音寺が私の熊野参りの始まり。
まずは県内と、この旅で熊野神社巡りをした。
神武の来た道 ⑰ 琉球の熊野三所権現_a0300530_15334695.jpg


沖縄には「琉球八社」なる神社がある。
金武宮はそのうちの一宮だが、日秀上人の
存在なくして、八社の創建は始まらなかった。


↓ことに、日秀上人が
波上宮(なみのうえぐう、那覇市若狭)の
再建に貢献したことは、よく知られた歴史。
波上宮は写真右の磐上に、手前は波の上ビーチ。 
神武の来た道 ⑰ 琉球の熊野三所権現_a0300530_16231590.jpg


八社のうち、波上宮はじめ
七社は、金武宮と同じ熊野三神と呼ばれる
   伊弉冉尊、速玉男尊、事解男尊を祀る。  
  (八幡菩薩を祀る安里八幡宮を除く)  
 
ただし、盛んな熊野信仰を伝える
『琉球国由来記』などは18世紀になって
からの史料で、日秀上人の来沖から200年
以上が経過している。真言宗とは、主に
王家守護の気運のなか高まった信仰らしい。

王朝時代、熊野三所権現と呼ばれたのは、
識名宮(熊野本宮に見立てられた)、
末吉宮(熊野新宮に見立てられた)、
普天間宮(那智山飛龍権現に見立てられた)。

 境内で見た各社の御由緒書きには、
   文字通り、熊野神と王家との関係が伺える。  


【識名宮(那覇市繁多川)】御由緒
〜尚元王(琉球第二王朝第五代王、
1528〜1572年)が長子の病気回復に霊験
を得て建立した〜国王やノロから一般の方々が
各地より参集し、礼拝を捧げ〜尚堅王より毎年
一・五・九月の吉日に国王の行幸が始まった〜

神武の来た道 ⑰ 琉球の熊野三所権現_a0300530_16581268.jpg




【末吉宮(那覇市首里末吉町)】御由緒
〜末吉宮は王朝官社時代の琉球八社
の一社で、俗に「社壇」「首里社壇」など
と称され、史料では尚泰久の時代
(一四五六年頃)天界寺鶴翁和尚が熊野
三所権現を勧請して祀ったという。〜
神武の来た道 ⑰ 琉球の熊野三所権現_a0300530_17011011.jpg


【普天間宮(宜野湾市普天間)】御由緒
〜往昔、普天間の洞窟に琉球古神道を祀った
ことに始まり、尚金福王から尚泰久王の頃
(一四五〇〜六〇年)熊野権現を合祀した
と伝えられている〜当宮の縁起には、
首里桃原に女神が出現され、後に普天間
の洞窟に籠られた。さらにその後、土絵窟
より仙人が現れ「我は熊野権現なり」と、
御神威弥高に示された〜
神武の来た道 ⑰ 琉球の熊野三所権現_a0300530_17262151.jpg


時の琉球王が勧請していた熊野権現。
実は、琉球の熊野信仰は日秀上人より
もっと以前に始まっていたという説がある。

普天間宮を勧請した琉球第一王朝
・尚泰久王の時代より遡ること200年。

英祖王統初代の王・英祖のとき来訪した
禅鑑という僧がいた。僧は名乗らず、ただ
補陀落僧と言ったと『琉球国由来記』は記す…。


by utoutou | 2016-02-17 21:20 | 神社 | Trackback | Comments(0)
名前
URL
削除用パスワード

※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。

<< 神武の来た道 ⑱ 補陀落僧と英祖王 神武の来た道 ⑯ 補陀落山寺 >>