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神武の来た道 (了) 神武の北上

神武東征の仕上げは、紀伊半島の「北上」
だったが、それはどんな理由によるものか?

鉄や金に加えて、神武が狙ったらしい熊野・吉野の
 主たる鉱物資源が水銀(朱、丹)だったと考える
と、紀伊半島を東から西へと横切る中央構造線沿い
を、東にまっすぐ進めばよさそうなものを、
くどいようだが、なぜ熊野灘を廻って南から北へ?



↓神武が即位したという橿原神宮(奈良県橿原市)
「神武天皇崩御2600年」の来春、大祭が催される。
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『日本書紀』は、神武が長髄彦の抵抗で半島横断
が果たせないと分かったとき、次の台詞を記した。
〜「いま自分は日神の子孫であるのに、日に
向って敵を撃つのは、天道に逆らっている。
一度退去して弱そうに見せ、天神地祇をお祀りし、
背中に太陽を負い、日神の威光を借りて、
敵に襲いかかるのがよいだろう」〜

その戦略も分からないではないが…。

〜日神の威光を借りた神武軍は12月、皇軍は
ついに長脛彦を討つことになった。〜
同盟を結んだ饒速日命が長髄彦を斬った。〜辛酉
の年春一月一日、天皇は橿原宮にご即位になった。〜
東征に就いてから、6年が経っていた。

古代とはいえ、
もっと効率のよい時短ルートはなかったものか…。


↓中央構造線はこのように走っている。
三峯川総合開発工事事務所のサイトから拝借)
紀伊半島を横切る構造線の東端に、伊勢神宮が
あり、西端に日前・国懸神社がある。
また構造線に沿って、丹生の地名や丹生神社が
多く、古来、水銀鉱山も多かったという。
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橿原神宮の拝殿と、畝傍山(うねびやま)の裾野。
最後に立ち寄った宇陀水銀鉱山は右(東)方向。
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私は、最近こう思うようになった。
神武(か神武なる人)の不自然な「迂回」は、
地理的な「天(北)」へと駆け上がる、
記紀編纂者の苦肉の演出だったのではないかと。

もし、本当に
神武が中央構造線沿いに進んでいたとしても、
記紀が、大和朝廷にとって中央集権を強化する
ツールとして位置づけていたことは、確かだろう。

記紀が強調したかったのは、皇祖神である
女神・天照大御神の煌めく誕生と、
天(高天原)という概念の導入と、さらには、
十二支に基づいて「子(北)」を王位の方向と
する、新しい王権神話の創設ではなかったか。



その意味で、神武が玉置神社のある十津川村
をはじめ、熊野の険しい山脈を北上する物語は、
豊富な鉱脈を含む紀伊半島そのものを手中にした
とする強引な勝利宣言だったのではないだろうか。

そうでなければ、記紀編纂の8世紀になってなお、
おそらく古神道と修験道が息づいていた
「反逆の聖地・熊野」を、「神武東征ルート」
として、たやすく位置づけることはできなかった。



朝7時半、那智山から見る、熊野本宮方面(東)。
縄文から続いた東西軸を崇拝するヨコ志向は、
記紀から、タテ志向の信仰観に変更されたと思う。
神武の来た道 (了) 神武の北上_a0300530_15382653.jpg


琉球の信仰にも、ヨコ志向とタテ志向があった。
太陽の昇る東方を崇拝する「ニライカナイ」
と、ひとえに天を崇拝する「オボツカグラ」
という、相対する宗教観・自然観だ。

「オボツカグラ」は時代がかなり下った
1713年に出た『琉球国由来記』に登場するが、
その大和的な概念はすぐに廃れてしまったようだ。











by utoutou | 2016-03-14 18:22 | 神社 | Trackback | Comments(0)
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