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九頭龍大神 ① 南朝を守護した天川弁財天

神武は東征の途、吉野の国栖(くず)に寄った。
国樔、葛、国主、国津、来栖、久須、九頭も
含め、クス・クズとは「先住の民」との意味らしい。

歴史学者・喜田貞吉(1871〜1939年)
は、次のような論考を著している。

〜国栖人を以て、やはり隼人や、肥人や、出雲民族や、
海部・土師部などと言われたものと同じく、石器
時代から弥生式土器を使った、先住民族の一民族
であると考えている。彼らは古伝説において、
国津神または地主神として伝えられたものである。

土着民の事を国人などと呼ぶ事は、諸所に例が多い。
国栖あるてはその文字のままに、『クニスミ』
すなわち前々から国に住んでいた人の意か。〜
(『先住民と差別』河出書房新社より)




そう言えば、下市口(奈良県)から熊野への
路線バスに乗る前、国栖に近い吉野神宮に参拝。
明治天皇が創建したそうで、後醍醐天皇を祀る。
九頭龍大神 ① 南朝を守護した天川弁財天_a0300530_07464175.jpg



武家の専横政治と対決した後醍醐天皇は、
「建武中興」を掲げて鎌倉幕府を討幕したが、   
足利氏の謀反で吉野に遷居、やがて崩御した。
後醍醐天皇はじめ南朝の天皇らの行宮だったのが、
他でもない、奥吉野の天川弁財天だったという。

南北朝時代は、
後醍醐天皇の中興(1333年)の3年間と、
吉野に都を構えて以降3代の天皇による57年の歴史
を数えるというが、その3分の2以上の期間は、
奥吉野に拠点が置かれた。
天川村役場HPより)

文字通り天川弁財天の守護のもと奥吉野に身を
置いた南朝の天皇たちは、当然のこと、
弁財天という名の龍神大神を崇敬していた。

また時代はさかのぼって、天武天皇こと
大海人皇子も、天川村を訪れていたが、
琴の音に合わせるように天女が現れ戦勝を祝した。
その天女は、役行者が弥山山頂に祀ったという
弥山大神、すなわち龍神大神だった。



その龍神こそ、九頭龍大神と同神だと思う。
そう言えば、天川弁財天に伝わる「天河秘曼荼羅」 
(能満院所蔵)も、九頭ならぬ妖怪のような三面蛇神。
七福神のひとりとして福神に仕立て上げられる
のは、室町時代以降のことだったらしく、
それまでは、怨念の逆巻く呪詛の女神だった。
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さて、天川村と縁の深い吉野神宮を訪れたのは、
朝8時ごろだった。近鉄の吉野神宮駅で降りて、
タクシーに乗ると、1㎞走る間、バックミラー
を覗き込んで年配の運転手さんが言った。
「この寒い時期に、ご苦労なことですなあ」
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   年末のこと、境内は墨絵の世界のように沈んで、   
案内図に見た桜満開の写真が恨めしかった。
あの吉野桜も、3月末の開花までもう一息という…。
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by utoutou | 2016-03-18 19:46 | 九頭龍 | Trackback | Comments(0)
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