六甲山と瀬織津姫 ⑨ 日置部のレイライン

六甲山が聖地たる所以は、ひとつには
六甲比命神社が鎮座していること、そして
もうひとつは、天日穂命の古代祭場があることだ。


六甲比命神社の磐座は、多聞寺(神戸市北区)
の奥の院として、雲の岩(↓写真奥の岩)や心経岩と
一体となっており、夏至の日の入りを向くという。
逆に、日の出方向に天穂日命の磐座がある。
この太陽の道(レイライン)を引いた古代人とは誰か?
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 磐座について、独自の視点で綴っておられる
ブログ『火(ホ)と「ニワ」と鍋釜』で、
甲山の磐座』(4/7)という記事を拝見したが、
六甲山東端にある甲山の東斜面からは、
見通しがよければ、年中、日の出が拝めるという。

ちなみに神呪寺は、北緯34度に位置している。
伊勢神宮、三輪山など、多くの聖地と同じ緯度である。
'80年に放送のNHK番組『謎の北緯34度32分をゆく
〜知られざる古代』は、未だに語り継がれている。

また、空海が創建した高野山も同緯度だと気づき、
「空海はなぜ北緯34度にこだわったのか?」
について調査された研究家に、笠井則男氏がいる。
笠井氏は、空海が金剛界曼荼羅を模してお寺を配置し、
レイラインを作ったのではとの仮説をまず立てたという。
(『空海の謎 ウェブサイト空海』に詳しい記事がある)。

レイライン作りに携わったのは、古墳時代初期
に活躍した測量集団・日置部(ひきべ)だった。
彼らは太陽の影を利用して、正確な緯度を測量。
レイライン上に寺院を配置するための日読みをした。



真名井神社の鳥居から宮津湾を遠望。天橋立から
北(写真左)へ約3km行くと日置(ひおき)の里。
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日置(ひき、ひおき)氏の祖先は出雲臣族という。
このうち紀伊・日置首は、天穂日命の後裔。

ようやく、六甲山の「天穂日命の古代祭場」に
↓ ストーンサークルがある意味にに合点がいく。
造ったのは天穂日命の裔にあたる測量集団だったか。
世界的に、夏至の日の出のとき、ストーンサークル
外側の立石と中心の石が一直線に並ぶとされる…。
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そういうわけで、日置氏は、
野見宿禰の土師氏や、菅原道真の菅原氏と同祖だった。

そして、日置氏には次のような特徴がある。
○土師氏は、埴輪作りや古墳造営に携わった。
○日置部は、製鉄・鍛冶を職掌としつつ
測量・暦作り・卜占いなどもした。
○日置部は太陽祭祀を司り、宮中では主殿寮殿部
として灯燭を司り、浄火を管理した。
 ○日置の語源は火起(ひき)。火鑚りの神事をした。
○日置郷は、新潟から鹿児島まで各地に点在した。

火と日と霊を崇め、御祀りをする火の一族。
沖縄久高島のアグルラキに住んだ島の始祖
アナゴノシー・アナゴノファーをやはり彷彿とさせる。
漢字表記にすると「穴子の子・穴子の婆」。

この一対神は、てぃだが穴(太陽の穴)
日夜守り崇めた天穂日命の一族だろうと、語り部は言う。
古代琉球人は、太陽は西(方言で、いり)に沈み、
地下を通ってまた東(あがり)から昇ると信じていた。
その太陽信仰からすれば、
地下は、夜の間の太陽の道(レイライン)だった。


ところで、日下部首の祖とされる浦島子がいた里
は日置(ひおき)といった。両者は同族だったのか?

日下部(日下部連、日下部首)は、開化天皇の御子
である彦坐王の後裔といい、『新撰姓氏録』には、
火闌降命(ほのすせり)の後裔で隼人と同族とある
ので、血脈は異なっているらしいが…。

とはいえ、日下部のいたところに日置の地名あり。
丹後だけではない。薩摩の阿多(吾田)にも日置があった。
阿多には、隼人の祖・火闌降命を生んだ木花咲耶姫がいた。
そのため木花咲耶姫は、亦の名を神阿多都比命という。

丹後と阿多は、海人族だった日下部氏を象徴する、
あるモノで繋がっていた。そして、琉球も…。



久高島・伊敷浜。東(あがり)のニライカナイを望む。
アナゴノシー・アナゴノファーの住んだ
アグルラキ(通称・みるく)はこの浜から近い。
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by utoutou | 2016-04-25 11:40 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)
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