六甲山と瀬織津姫 ⑪ 春日山〜六甲山レイライン

昨夜、日下(くさか)について考えていた。
語り部から、電話で質問があったためだ。
「ヒノモトのクサカって、何ですか?」
いつものように神託があったらしい。
神託は声だけなので、漢字表記は分からないという。

日の下か、日の元か、日の本か、火の元か…?
また、クサカは日下でよいのか、草香なのか…?
そこから日下部を解いてみよと、挑まれている感じだ。


そして朝になり、最初に目についたものがこれ。
中村明蔵氏・著『隼人の実像』(南方新社)。
たぶん、ここにヒントがある。経験上。
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私は表紙にある「隼人の盾」に注目した。
8世紀初頭のものか。1963(昭和38)年に
奈良の平城宮跡から発見された16枚の板である。
1枚の高さは5尺(150cm)。人が隠れるほど大きく、
幅は1尺8寸(54cm)、厚さ1寸(3cm)だという。

奈良文化財研究所HPからも拝借した。
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『隼人の実像』を開き、該当する箇所を読む。
「第二部 朝廷に服属した隼人の諸相」より
「儀式に使用された隼人の盾」の項。

 南薩摩の隼人たちは、律令制度が整っていくなか、
中央に強制移住させられ、隼人司なる役所の所属と
なり、元旦や新嘗祭など朝廷の儀式の警護を担った。
また犬の鳴き声を真似る邪気払いの役割も果たした。

警護の際に掲げ持っていたのが「隼人の盾」で、
『延喜式』の隼人条には、その図柄は
〜「赤白土・墨をもって鉤型を画く〜とあった。
(要約と引用ここまで)

以下は私見…。
中央の渦巻き紋は鉤(かぎ)型で、隼人(日下部)
の祖(浦島太郎、神話では海幸彦)の海洋性を
表していると思う。また盾の上下に描かれた鋸歯紋は、
隼人はワニ(和邇氏)だという暗号だろうと思った。

日下部氏は、開化天皇の御子・彦坐王の後裔という。
その母(開化の妃)は、和爾氏始祖の妹・意祁都比売命
(おげつひめのみこと)。つまり日下部は和邇氏である。

和邇氏はまた、応神以降七代の天皇にも妃を出した。
天皇家の外戚として勢力を誇ったわけだが、時代が下り、
同族の隼人は都に移住させられて天皇の警護を担う。
大和の先住氏族だったにもかかわらず、
朝廷への服従を絵に描いたような職分は屈辱的だ。

さて、生駒山の西麓(現・東大阪市)に、
古来、草香(くさか)と呼ばれる土地があった。
二ギハヤヒが天降ったのは至近の哮峯(たけるがみね)
こと別名・草香山だったし、あの神武が東征の折り
熊野への迂回路をとった分岐点もここ。そして、
この地に定着していた人々が、日下族だった。



地図は日下雅義著『古代景観の研究』(中央口論社)より拝借。
6〜7世紀の摂津・河内・和泉の地図。
右端の南北は生駒山地、その西麓に草香津(赤線で加工)。
白い部分は海で、草香は港だった。
地図中央に平城京の副都だった難波宮■が見える。
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「日の下の日下」とは、まさにその草香津のこと。
平城京時代、「春の日の春日」と対句で歌われたという。
その意味を、吉村貞司氏は、
『原初の太陽神と固有暦』(六興出版)で解いた。

〜日下の土地は、日の出を見る地点であると同時に、
日没を見る所でもあった。具体的に言うと、
奈良の春日山を真東に、春分・秋分にこの神聖な
日の出を迎え、日は真西の大海の果てに沈みゆく日
を見ることができた。〜

日下とは、古代海人族による太陽祭祀の聖地だった。
そのことを語り部に伝えると、こう返ってきた。
「西の大海に沈む夕陽は、では、どの山にかかりますか?」
私は思わず唸った。
「ああ、六甲山でしょうね」

さっそく調べてみると…。
春日山(奈良市)北緯34度45分13秒
六甲山(神戸市)北緯34度46分40秒
2点は東西に並ぶ、春分・秋分の「太陽の道」だった。

レイラインに沿って日下族は移動したらしい。そんな
測量技術に長けた日下と日置は、やはり同族だったのだろう。






















by utoutou | 2016-04-30 16:40 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)
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