六甲山と瀬織津姫 ⑫ アマミキヨのレイライン

六甲山から話が東西南北に飛んでいるが、
そもそも日下部の氏族名に目が止まったのが
六甲比命神社だったこともあり、軸足は変えずに
日下部つながりで、さらに飛んでみる。

前回の続きで、話はまず南九州から。
弥生時代に琉球産ゴホウラ貝の貝輪加工所
があったとされる高橋貝塚(弥生前期〜中期)は、
西海岸の日置郡(現・南さつま市)金峰町にある。

7世紀、この地を本拠に阿多君一族が栄えたという。
 『日本書紀』に「吾田君小橋 火闌降命の子」とある
ので、この一族は日下部であることが分かる。
そうすると、日下部と日置部と隼人は同族で、
縄文時代から貝交易を代々行っていたと考えられる。

さて、ゴホウラの貝輪は、北九州はじめ大和各地
(北限は北海道)における弥生時代の祭祀遺物だが、
木下尚子・著『南島貝文化の研究〜貝の道の考古学』
(法政大出版局)によれば、貝輪には南島型・九州型の
2タイプがある。後者は九州で製品化されたため、
沖縄ではゴホウラ貝を供給するのみだったという。

供給地と考えられる、未製品のゴホウラが出土した遺跡
はそう多くはなく、沖縄・奄美諸島でたった7カ所。
種子島、奄美大島を除けば、沖縄本島の3カ所のみ、
宇堅貝塚、木綿原遺跡、そして垣花遺跡だという。

垣花(川原)遺跡については、以前も書いたが、
(記事はこちら)夏至の朝日が城門から入る
玉城城(南城市玉城)から近く、2kmの距離もない。

玉城城は、「アマミキヨが築城した」と言われる。
太陽の道(レイライン)を取り入れた城門。
その設計者とは、もしや阿多族の流れにある人々
ではなかったかと、私は最近、考えるようになった。
阿多・日置氏がアマミキヨならば、
日の出入りを観測してレイラインを引くのは容易だろう。



「一の郭はゴホウラ貝の形」と、長く語られてきた。
地元では、方言でスーフカ(潮吹貝)と呼ばれた。
「玉城城は貝溜まり」と言う人もいるが、詳細は不明。
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確かに城門とゴホウラの貝輪の形状は似ている。
↓ゴホウラ貝輪の復元模型。画像は『南城市史』より拝借。
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↓玉城城跡の内部。
夏至の朝日は、城壁の中央にある城門から差し込み、
左の木の下の御嶽にピタリ当たると言われている。
夏至の朝日を見るイベントが、よく催されている。
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標高180m、玉城城の城門から久高島方向を望む。
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さて、時代は下って12世紀、
くだんの南薩摩の日置郡金峰町を本拠にする
阿多忠景(生没年不詳)という豪族がいたという。
薩摩平氏の一流で、薩摩を直轄統治下に置き、
大隅・日向をも傘下に置いた南九州の覇者だった。

この阿多忠景が、保元の乱で破れた
源為朝に娘を嫁がせたとの伝承が、南九州にある。
 そして、為朝と共に琉球に渡って来たというが、
実は沖縄にも、戦前までは同じ伝承があったようだ。

為朝は大里按司の妹を娶って舜天が生まれ、
この舜天(1187〜1237年)は、琉球初代王になった。
そして、為朝は舜天を残して琉球を去る…。
これ以降の筋書きが、沖縄では途絶えた伝承だ。

〜為朝、琉球を去るに臨み、彼が最も信頼する家人、
阿多権守忠景を残して遺児を託した。〜
(与世里盛春・著『日本のふるさと--琉球--』より)

阿多忠景が琉球に骨を埋めたのかは分かっていない。


舜天のいた浦添城と↓浦添ようどれ(王墓)には、
冬至の日に、久高島の方向から朝日が昇る。
これもアマミキヨのレイラインか?
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by utoutou | 2016-05-05 20:20 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)
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