六甲山と瀬織津姫 ⑲ 珍彦(うづひこ)は倭の大王

保久良神社の鳥居横に銅像が建つ椎根津彦命。
亦の名は倭宿禰命、珍彦(うずひこ、うづひこ)。
「籠神社本系図」には、
始祖・天火明命(饒速日命)の孫とある。
「海部氏勘注系図」には、天照大神の五代目の孫と。



籠神社の椎根津彦命の像に比べると、柔和な表情。
鳥居の隣という立ち位置は、椎根津彦命こと珍彦が、
実はこの神社の主祭神なのだろうかと感じさせる。
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保久良神社の由緒は、その晩年をも記している。

珍彦は倭国造の要職を子孫に譲ると、この菟原に
戻り、吉野の宇陀で出会った土着の民の
弟猾(おとうかし)と共に故郷の開拓に尽くした…。

はたして、弟猾という人は、
珍彦と同族だったのか。同族になったのか?

「勘注系図」によれば、珍彦の父は天村雲命、
母は伊加里姫、そして吉野直の姫を娶った。その
妃は白雲別神の女・豊水富命(とよみとみのみこと)。
この豊水富命が、吉野首(おびと)の祖と呼ばれる
井光(いひか、『紀』)=井氷鹿(いひか、『記』)。

『日本書紀』では神武が大和へと軍を進めたとき、
吉野の「井の中」から出て来た人物が井光である。
おそらく丹(水銀)を採取する土着の民の女首長。

ならば、珍彦が、宇陀にいた弟猾伴って
摂津の菟原に帰郷した話も、そう不思議ではない。
そんなことを考えていたとき、語り部が言った。

「倭宿禰は丹後から大和のかけての国々を治める
大王だったと思います。だから神武を先導できた。
逆に言えば、宇陀や吉野や吉野川流域の人々は、
倭宿禰こと珍彦の臣民だったということになりますね」

そう考えて初めて、
まさに「珍彦」の名前が、真実味を帯びてきた。

古代、
「珍」と「貴」は、いずれも「うづ」と読まれた。
あの「隼人の盾」や、大分県の日田で発掘された
「卑弥呼の鏡」にも描かれていた渦巻紋と同義だった。

毎夕隠れては、朝になると必ず昇ってくる太陽
を表すその渦巻紋は、不死と再生と輪廻の象徴。
「珍(うづ)彦」とは「日(太陽)の御子」だった。
つまり大和の前身となった、倭の大王だったのだろう。



「珍彦神社」という目線で保久良神社を振り返ると、
↓遥拝所の意味も、なるほどとうなづくことができる。
「遥拝所」は、太陽の昇る東を向いていた。
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また、境内の内外には巨石の磐座群が残っており、
それは渦巻きを描くように配置されているという。
↓こちら、境内の立石という磐座。
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立岩の傍に、磐座についての説明があった(要約)。

☆この岩は人々が神に祈願するために立てた岩。
社務所の裏に「神生岩(かみなりいわ)」がある。
神社の裏の岩群を中心に、大きな円形状に巨石が
配置されており、この岩群は磐座・磐境と呼ばれる。

☆昔の人は巨石に神を招いて、農業生産、諸行繁栄、
村里安全を祈ったので、ここは古代祭祀遺跡。
祭具である壺、甕、皿の土器破片や、
鏃や斧の石器が出土している。

☆ここでの祭祀は、紀元前200年頃から行われた。
またこの磐座は、大和(奈良県桜井市)の大神神社
の背後の三輪山頂の磐座と、同じ時期のものである。



↓こちら、保久良神社本殿の南西にある神生岩。
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三輪山の山頂と同じ時期の磐座??
説明版のそのくだりでは、少なからずのけぞった。
語り部が先日、ふとこんなことを言っていたからだ。

「珍彦は、三輪山の周辺に祀られていませんか?」

調べると、三輪山の山頂には、大神神社の奥宮
・高宮神社(こうのみやじんじゃ)があるという。
祭神は「日向御子神」。はたして珍彦のことか⁉︎








by utoutou | 2016-05-28 22:54 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)
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