六甲山と瀬織津姫 38 豊葦原の大国主

伊計島・セーナナー(海人七氏族)の御嶽を
背にして右(西南)を見ると、宮城島が見える。
海中道路(1971年完成)が貫通するいまは、
勝連半島から伊計島まで一気にアクセスできる。
古代の船は、島々添いにこの海を往来したが、
干潮時には、近い島同士なら歩いても渡れたそうだ。


ちょうど大潮の日、珊瑚礁が露になった
その干潮(ヒシ)が、目の前に広がっていた。
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セーナナーを背に左を向いても↓干潮の海。
(写真中央右)に伊計島の北端近くにあるホテルが、
またその先に、本島の金武湾周辺の陸地が見える。
金武湾沿岸にも、九州弥生時代の遺品が出た
宇堅貝塚や、伊波貝塚などがある。ヒシは、
南洋・琉球奄美諸島・九州を結ぶ珊瑚礁の道だ。
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沖縄方言では干潮を指す「ヒシ」という言葉。
隼人族は、ズバリ「鉄」をそう表現したという。
台湾や南洋系の海人族の間では、「鉄」「鉄斧」。
マレー語では、besiに「鉄」という意味がある。

豊葦原の瑞穂の国とは、この東海の島々のことだ。
そしてこの島々から発した人々は「豊」の一族…。
干潮(ヒシ)を見渡すこの海辺に立ち、
そう思わずにいられなかった。



セーナナーの聖域内の石碑には、
「御先神様御降臨の聖地」と刻まれている。
御先(うさち)とは、紀元前後のことをいう。
その時代に往来した古代海人七氏族の痕跡を、
この地に残った後裔族が語り継ぎ、建立したようだ。
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御嶽内には石棺がいくつか安置され集合墓地の
様相を呈している。市教委の説明板にある通り、
この「降臨地」から、ある一族は島内の西部へと
移り住み…またある一族はヤマトへと北上した。
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海人七氏族の痕跡は↓御嶽内の拝所にも見られた。
縦70cmほどの小ぶりな石に神名が刻まれている。

左は、左三つ巴紋とその下に「大国大主神」と。
右は、左二つ巴紋とその下に「恵比寿大神」と読める。
中央には日月紋らしき刻印があるが、その下の神名は、
摩耗していて、しばらく目を凝らしても読めなかった。

とはいえ、大国主と恵比寿神というヤマトの神名
は、末裔同士の交流が長く続いた歴史を偲ばせる。
逆に、大国主は琉球に発した言葉とも考えられる。
沖縄本島には、大国大主という按司がいて、
大国家という根家があったとの伝承が残っている。
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海人族は、「移住する王朝」でもあったと思う。
首長・大国主に率いられた一族は居住地を
離れて新たな土地へと移住したが、故郷に残った
血縁一族とは交流を続け、領土を拡大していった。

その「豊の国」は九州を北上し瀬戸内海を渡って、
丹後へ、出雲へ、紀伊へ、大和へと移住した。

海人七氏族とは、「豊の国」から移動して
ヤマト国を拓いた「七つの首の蛇(龍蛇族)」。
神女は「七ぬウミナイ」(7人の日巫女)という。
(那覇市に残る所縁の記事は、こちら

「豊の国」の日巫女たちが崇めたのは、豊受大神。
  籠神社は亦名を宇迦御魂(うかのみたま)とする。 
海人七氏族(七つの首の蛇)の御魂である。















by utoutou | 2016-07-23 19:01 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)
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Commented at 2016-07-23 22:41
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by utoutou at 2016-07-25 10:20
> kamisamatunagariさん
こんにちは。熱海の来宮神社には参ったことがなく、テレビのバラエティー番組で拝見しました。出演者のキャンピングカーが停泊していましたね。境内で1泊、楽しそうでした。
姫神が出現するとは…見える方なのですね。(霊視する人を、沖縄では「見える人」と言います)。見えない私が言うのも失礼かもしれませんが、見たままのイメージでよろしいのではないでしょうか。あるいは、 kamisamatunagariさんが感じる神名が正解なのでは。心温かくなるお話、ありがとうございました。
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