六甲山と瀬織津姫 51 武内宿禰

古代、六甲山は武庫山と呼ばれたというが、
武庫泊(むこのとまり)を見下ろす位置にある。

万葉集には、難波の地から西の方向を見渡すと、
武庫の港から船が出て行くのが見える…という、
これから旅立つ人の思いを歌った歌があった。
武庫の津は難波を出て最初の寄港地だったらしい。
武庫は、山であり海なのである。



神呪寺の仁王門には「武庫山」と山号額が掛かるが、
廣田神社(古代の海岸線)からは、わずか3km。
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甲山・登山道の中程(標高200 m余)から港を展望
に、六甲山ロープウェーのアナウンスを思い出す。
「晴れた日は関空や紀伊の山々もご覧になれます」
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さて、
海部の勘注系図からも同族と分かる日下部氏と
安曇氏は、共に南方から渡来の先住海人族だが、
実は紀国の名草氏も加わっていたようだ。
そして、その系譜に武内宿禰の名が浮上する。

安曇氏、名草氏について、『住吉大社』
(住吉大社編)は、次のように記す(要約)。

☆安曇はアマ(海)ツ(の)ミ(神)で海神の意味。
☆応仁天皇の時代から、淡路島や難波にもいた。
☆本拠は筑前国粕屋郡安曇で、志賀海神社の社家。
☆『日本書紀』神功皇后の朝鮮出兵の条にある
〜磯鹿の海人名草を遣わして視しむ〜の「名草」
とは、志賀海神社の安曇氏に関係する海人の一人。

名草の名前は、『住吉大社神代記』にも見える。
〜然して、新羅国を服え給い、三宅を定め、亦、
大神の社を定めつ奉つる…祝(はふり)は
志加乃奈具佐(しかのなぐさ)なり〜

神功の新羅出兵に志賀の名草氏(安曇氏)が
従軍したことは、どうやら間違いなさそうだ。



名草氏の本拠は紀の国だった。
↓名草彦と名草姫が祀られている名草宮。
現在は日前神宮・国懸神宮(和歌山市)の摂社
だが、創祀当初の日前宮は「奈具佐の濱宮」と
呼ばれ、天照大御神の御杖代・倭姫も巡行した。
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「名草」と言えば、神武東征の物語で
「名草戸畔を誅した」とのくだりに登場する
女首長・名草戸畔が有名だが、私が日前宮に
 参拝した後、語り部は少し唐突に質問をした。

「近くに武内宿禰の井戸はありませんでしたか?」
あるも何も…知らなかったので…と、調べると、
市内近隣に鎮座する安原八幡宮の奥宮・武内神社
 に、誕生のとき産湯を汲んだという井戸があった。

武内宿禰の母は、日前宮を祀る紀伊国造
・宇治彦の娘・山下影姫と、また父は孝元天皇
の三世孫にあたる方と言われている。

また、
武内宿禰の生誕地、あるいは紀氏のルーツには
九州説もあるが、この安原八幡宮の祭神を知り、
少なくとも朝鮮半島との強い関連が感じられた。

安原八幡宮の祭神は誉田別尊(応神天皇)、
そして、気長足姫尊(神功皇后)、武内宿禰。

由緒は…(平成祭礼データより、要約)
〜神功皇后が三韓より凱旋の際、忍熊王の難を避け、
難波から紀水門(ここ安原)に船を着けた。
誉田別を武内宿禰に護らせ、自らは迂回路を取り、
後に戻って合流、この地に頓宮を建てた〜

武内宿禰生誕の地、一族が勢力を張った地、
というのが、応神天皇が身を寄せた理由だったか。

明治末の時代まで安原は「名草郡」にあった。
名草山の麓に位置し、古代産鉄地だったようだ。



↓日前宮。その御神体は、日前神宮は日像鏡、
国懸神宮は日矛の鏡という2鏡である。
神宮皇后の先祖で、新羅から渡来したという
天日矛命との関係が、にわかに気になってくる。
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by utoutou | 2016-09-11 22:03 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)
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Commented by たぬきた at 2016-09-12 21:49 x
日前宮の真北(南北線)には生田神社、籠神社が並び建ちます。

六甲山をロッコウサンと呼んでいては真実はいつまでも解りません。
ヤマト言葉風味でムコウのヤマ。と読むと俄に古代の真実に近づくかもしれません。
廣田神社の御祭神は天照大神荒魂で瀬織津媛命と言うのは暗黙の了承事項ですが、
祭神の又の神名には、、、向津媛命と奉り、大日霊女貴命とも。
向(ムコウ)は出雲(大倭)大王家=大国主の向家の事。凡そ、向大王家(大倭大王/出雲大国主家)の日女命(巫女の意味のヒルメの命)
廣田神社は元々甲山(カブトヤマでは元々の意味はわからない。コウノヤマ(高野山、神の山=神奈備山))に有って数度の遷座を経て現在地に鎮座させられました。
神呪寺が元々の場所かもしれません。
寺院建立に際して甲山の荒ぶる神(麁乱荒神=廣田神社の神さま)が執拗に祟り阻害した云々との伝承があります。
(結局、この麁乱荒神さまは空海の法力により観音像に封印されて甲山鷲林寺に鎮祀る。更にこの分霊を遷し祀るのが清荒神だとも))
Commented by utoutou at 2016-09-14 14:23
> たぬきたさん
いろいろコメントをありがとうございます。当方からのコメントはこちらにまとめさせていただきます。猿田彦大神、明治政府の皇国史観、仰る通りで同感至極です。
向津媛、ロッコウサンに関しても、確か「美具久留御魂神社」のあたりで何度かコメントを戴きました。向津媛、六甲山は出雲王家・向家と関連づけて考えるべしとのご意見を参考にすると、目から鱗が落ちるように解けそうな部分もあるいっぽう、これは根本的な立ち位置(扱う時代)の違いなのでしょうが、向家の伝承と、琉球の口伝による「スサノオ」の相違にはいつも相容れないものを感じて立往生してしまいます。
向家伝承では「スサノオは侵略者」との伝えがあるとのことですが、琉球口伝では「スサノオは天地大神様」として崇めます。その食い違いは民族の発祥した時代の相違か、伝承の立ち位置の違いか…。いずれにしても、どちらが正しいかというより、どちらも歴史をいまの時代に捉え直すための重要なツールとして学ぶべきだろうと思っています。
と、ここまで書いて、向家の伝承に「息長帯姫」があったことを思い出し、大元出版さんから刊行の斉木雲州氏の御著書を取り出すところです。他に参考書があればまたご教示をよろしくお願いいたします。
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