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六甲山と瀬織津姫 57 おなり神の滅亡

丹後半島の神社巡り。竹野(斎宮)神社の
次は熊野神社(京丹後市久美浜町)へと急いだ。
 国道178号を小1時間、西へ走り、久美浜湾を目指す。
  伊邪那美命を祀る熊野神社が兜山の頂上に鎮座する。


ところが、直近で右折する交差点を逃し、結局、
日本海側へ抜ける周回道路に入ってしまったらしい。
やがてどんどん下るので車を止め、振り向くと↓兜山。
標高約191.7m、熊野神社の御神体山とされる。
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古くは甲山、神山と呼ばれたらしい。
山名が同じなら、その姿も六甲山の東端に建つ
神呪寺の神体山・甲山とそっくりなので驚いた。
↓こちら鷲林寺方面から遠望した六甲山の甲山。
その相似は何か謎を秘めているように感じる…。
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残念ながら熊野神社参拝は断念したが、
熊野神社の由緒は次の通り(要約)。
(※京丹後市教育委員会)
☆社名は熊野郡の名称の由来になった。
☆『日本三代実録』の「868年」に記事がある。
☆甲山は神山が転じたもの。もとは山全体が信仰
の対称になっており、祭祀遺跡も多い。
☆勧請したのは丹波道主命と川上麻須郎である
と江戸時代の地誌『丹後旧事記』に記録がある。
(丹波道主命は川上麻須郎の娘を娶った)


丹波道主命は開化天皇の孫(=日子坐王の皇子)。
『日本書紀』崇神天皇の条に、四道将軍として
丹波に派遣されたと記される。また垂仁天皇の
皇后・狭穂姫命の亡き後、その遺言に従って、
日葉酢姫ら5人の娘を後宮として喚上した。

 后妃が交替するドラマに、どんな理由があったのか?

記紀は、その前段に、狭穂姫の兄・狭穂彦が
 謀反を起こしたが失敗、兄と妹は絶命したと伝える。

丹波道主命の姫たちが指名された理由について、
川上順子氏は著書『古事記と女性祭祀者伝承』
(JP出版)で、次のように分析している(要約)。
☆崇神・垂仁天皇の時代に、皇后の出自が皇統譜
に繋がる皇孫であることが強調され始めた。
☆しかし、母「族」は問題にされなくなった。
☆狭穂姫の死で、ヒコヒメ制は消滅した。

ヒコヒメ制の消滅とは、「おなり神」の消滅を
 意味すると私は思う。おなり神とは琉球の古い信仰で、
妹(おなり、うない)が、兄(えけり)を
霊的に守護することをいう。


琉球王朝で最高位の神女として、国家安泰と
琉球王を守護した聞得大君も王の姉妹か王女だった。
(↓首里城。台風18号襲来前の10/1に撮影)
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神の島・久高島の↓久高殿で行われた古祭
イザイホーも、おなり神が誕生する儀式だったし、
いまも「おなり神信仰」は生きている(10/1に撮影)
六甲山と瀬織津姫 57 おなり神の滅亡_a0300530_13384666.jpg



兄に殉じた垂仁皇后・狭穂姫は「妹なる皇后」
だったと、川上氏は著書で述べている。対して、
後宮の日葉酢姫らは「ポスト妹なる皇后」だったと。

私は思う。
このときヤマトの「おなり神」信仰は滅亡した。
が、琉球では現代まで絶えることなく脈々と続いた。

『日本書紀』では、垂仁天皇の条を境に、
「丹後の姫」に関する事績は次第に消えていく。

王権の成立過程で進んだ「妃選びと祭祀」の変更
は、裏返せば、海人族とその原郷だったろう琉球の
 切り離しに他ならなかったのかもしれないとも思う。




by utoutou | 2016-10-05 08:43 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(4)
Commented by at 2016-10-05 19:48 x
utoutoさん、こんにちは(●´∀`)ノいやー狭穂姫のお話が、ヒコヒメ制の消滅、ひいてはヤマトのおなり神信仰の終わりとは面白いですね!沖縄特有のものかと思ってたら、昔はヤマトにもあったと( ´艸`)でもそう言われてみると妙に納得できますねー。沖縄に残っててヤマトで消滅してしまったものって本当にいっぱいありますねー(>ω<、)沖縄では今後とも残っていって欲しいですねー、古代から続く貴重な文化が!
Commented by utoutou at 2016-10-07 08:52
> 寅さん
こんにちは。他にも豊鋤入彦命・豊鋤入姫とか名草彦命・名草姫のように兄妹と分かる神名を、ヤマトで神社の御祭神に見るたび、ここは海人系の神社なのだな…と思っていましたが、おなり神について確信したのは丹後に行ってからでした。
おっしゃる通り、琉球の文化や信仰の根本は変わらないですね。イザイホーもイラブー信仰も御嶽も。
Commented by kamekokishi at 2016-10-07 11:51
はじめまして。「鎌倉、まぼろしの風景」というHPを書いている亀子です。真喜志きさ子著「琉球天女考」を読んで、古代の鎌倉を考えるには沖縄に学べばいいんだと気付かされました。こちらのブログをとても興味深く読んでおります。
Commented by utoutou at 2016-10-08 10:13
> kamekokishiさん
こんにちは。ご訪問ありがとうございます。「琉球天女考」は私も拝読しました。
ところで、亀子さまはイワクラ学会の方でしょうか? ブログ「火(ホ)とニワと鍋釜」の記事でお名前を拝見した記憶があります。
もしかすると、丹波・丹後の地上にも、星々の写し絵のように創られた地形があるのかもしれませんね。六甲ではあのTさんも試みておられましたが。早速、「鎌倉、…」のHPも拝見いたします。
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