六甲山と瀬織津姫 75 明刀銭は語る

朝鮮半島の伽耶が丹後と琉球を繋ぐキーか‥。
そう思ったのは、丹後・久美浜の海岸近くから、
琉球と同じあるモノが出土したと知ったからだった。

旭神社の鎮座する久美浜蒲井・旭地区から東へ10㎞。
箱石浜海水浴場近くの箱石浜遺跡(遺物包含地)から
中国の明刀銭(めいとうせん)が2枚出たという。

【明刀銭】とは‥※「琉球コンパクト辞典」より
〜中国の戦国時代(紀元前403〜221年)、燕の国で
流通した貨幣。表面に〈明〉の字があることから、
そう呼ばれる。1923(大正12)年、那覇市城岳の
貝塚から日本で初めて発見された。〜


↓明刀銭。画像はコインの散歩道さまから拝借。
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明刀銭が出た丹後久美浜・箱石遺跡については、
諸々の資料によると、以下のような概要だ(要約)。

☆明治時代に新王朝(8〜22年)の貨泉が出た。
☆縄文・弥生土器、銅やじり、土師器なども出た。
☆青銅製の明刀銭も2枚(長さ14㎝)出ており、
現在は神谷神社に保管されている。
☆現在は砂州になっているが古代は河口で、大陸と
交易した港が存在していたと考えられる。
☆大和系の土器も出土。瀬戸内海との交流もあったか。


明刀銭は、琉球と丹後と大陸をまたぐ何らかの
交易があったことを表しているわけだが、この
刀型の通貨は、いったい誰が何の交易で使った痕跡か。


「琉球産の宝貝交易の担い手は隼人だった」と言う
 森浩一氏は、『海から知る考古学入門』にこう記した。
(要約)
☆燕の領域は華北の東部、東北の南部、朝鮮半島
の北東部で、その範囲内で明刀銭が分布している。
☆城岳の明刀銭は朝鮮半島北西部の西海岸から
南下、さらに倭人伝ルートを通って九州に渡り、
南島の島々を経由して沖縄本島にもたらされたか。
☆「貝の交易の道」では、隼人の役割が大きかった。



こちらは、
那覇の史跡旧跡案内にも載る城岳公園からの景観。
沖縄県庁の白く大きな建物が見える('14年撮影)。
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城岳は現在は公園として整備されているが、戦前まで
は鬱蒼とした松林で、那覇港を眺望する景勝地だった。
このあたりの旧名は、真和志間切古波蔵村といった。



「琉球八景」を描いた葛飾北斎もこの地を「城嶽霊泉」
と題して、汪樋川から流れ出る湧水を描いている。
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北斎の絵に描かれる拝所の跡だろうか。
公園の一角に建っている拝所に、「600年前、
貢船の舟子たちが建立」とあったのを覚えている。
今では想像もつかないが、この地は内海の湾口だった。
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隼人族と言えば、摂津や丹波や丹後や但馬にいた
日下部氏のこと。言うまでもなく海部で、和邇氏の同族
であり、大陸から来たアマミキヨだろうと書いてきたが、
その人々は漢民族に夷狄として追われ、海に消えた。
その中に伽耶に留まり、琉球や丹後に流れた人々もいた
のではないかと、私は常々考えていたのだった。






by utoutou | 2016-12-23 21:44 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)
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