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六甲山と瀬織津姫 113 海を支配する王

吉備津彦に首を跳ねられた温羅(うら)と、浦島太郎。
ふたつの名が含む「うら」とは、「浦」を意味すると思う。

もちろん、浦島太郎の「浦」は、文字通り「浦」である。
「浦島の子」と読まれたのは中世以降だそうで、「浦の島子」
と読むのが正しいとする水野祐氏の説があるが、卓見だ。
浦々を取り締まり交易権を掌握する長としての「島子」、
あるいは「嶼子」は、『魏志東夷伝』に見える伊都国の官名
「泄蟆觚(しまこ)」に通じるというのが、水野説の根拠。

丹後の浦島神社は「宇良神社」とも表記するが、さて。
語り部の言った沖縄県国頭村宇良も、東シナ海に面する
集落で「ウラは浦の意」だと、『国頭村史』は記している。

ちなみに、沖縄で「浦」の地名の代表格といえば「浦添」。
 語源は「浦襲い」で、「海を支配する所」という意味があり、
浦添城は舜天・英祖・察度といった琉球王の居城だった。

また時代は下って、琉球王家の居城・首里城の正殿は
「百浦襲(もんだすい)」と呼ばれた。
百浦…つまり「数知れぬ浦々を支配する王の居処」である。


さて、吉備の「鬼」と呼ばれた温羅(うら)は、どうか。
こちらの名も「浦」の意味と取るのが自然ではないか…。
その実在性が疑問視されたり、個人でなく渡来人の集団を指す
のではないかという説もあったりで、本名か否かも不明。

つまり、温羅も「渡来して海を支配した王」なのだ。
鬼退治の舞台・吉備津は、神奈備山・中山の周辺に拓けた。
現在は瀬戸内海の湾岸線から10㎞以上奥まっているものの、
吉備津彦の時代には、海岸線はその南麓に迫っていたという。



JR吉備津駅から南へ進むとすぐに現れる吉備津神社一の鳥居。
写真の中央に写る緑色の物体は旧山陽道を走行中のトラック。
旧山陽道は古代、海岸のごく近くを通っていた。
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つまり、4世紀頃に築城されたという吉備津彦の御陵こと
中山茶臼岳古墳も瀬戸内の「浦」を見下ろす最高の立地に
あった。その場所は当然のこと「鬼」を征服した側よりも、
征服された側、吉備王家を築いた一族の墓にふさわしい。



吉備津神社の拝殿の天井には、菊の御紋の提灯。また、
注連縄の上の扁額には「平賊安民」とあって何やら意味深?
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中山茶臼岳古墳が吉備津彦御陵として宮内庁管轄となった
のは明治時代のこと。その考古学的根拠は乏しいと言われ、
被葬者は「海を支配した王」とする声もあるという。
つまり、その王とは「浦の嶼子」だったとも言えるか…。
なんだか浦島太郎と桃太郎が脳内で混乱してきた。
↓写真は、吉備津神社境内の「桃太郎みくじ」。
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ところで、吉備国は「真金吹く吉備」と呼ばれた。
〜真金吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ〜
と言う歌が「古今集」に。「真金吹く」は吉備の枕詞なのだ。
吉備王家が繁栄した源泉は、吉備で産出する鉄であり、大和
朝廷が吉備に屯倉を置いたのも、鉄を狙ってのことだった。


と、こうして美作〜因幡〜吉備と駆け足で廻った旅を
振り返るのも、そろそろお仕舞いかと思ういっぽう、
それにしても、この旅がアマミキヨとどう関係するのかと、
やや疲弊気味になっていた数日前、語り部が言った。

「もう、因幡のことは終わりですか?」
「はい、ネタが尽きたようで…」
「因幡と吉備に渡来したのは、同じ一族だと思います。
琉球にも関係があるかと。共通点は何かありませんか?」

うむ…と悩むこと三日三晩。今朝ようやく気がついた。
弥生時代の船である。鳥取の青谷上寺地遺跡と、
吉備から分かれた備後の御領遺跡(福山市神辺町)に
遺る船の線刻画は酷似している。沖縄のハーリー船とも…。




by utoutou | 2017-06-16 16:20 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)
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