六甲山と瀬織津姫 118 奥武島の御新羅(ミシラギ)

玉城城とレイラインの話は、思えば4年前に始めた
当ブログの初回に、「太陽の道と貝の道」として書いた。
アマミキヨが築いたという玉城城とレイラインの関係が
分かれば、琉球の歴史の一端は紐解けるか…と考えていた。

先月の沖縄旅でも玉城城に登り、一の郭の前に立って
玉城台地(現在は琉球ゴルフ倶楽部のコース)を見渡した。


カメラ視線の真っ直ぐ先から、夏至の太陽が昇るという。
↓稜線を描く山の麓に、玉城の神女オバアが「琉球最古に近い」
と言った「垣花の御嶽」が、またその1㎞先に垣花城址がある。
夏至の朝日は2点の「垣花」を貫いて玉城城の一の郭に届く。
それはまた、垣花城(照城之嶽)と玉城城という2点の
「アガル御イベ・ツレル御イベ(=東方の御嶽)」を繋ぐ。
語り部は、「アカル姫はアガルイの御嶽にいる」と言った。


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さて、
垣花城跡〜垣花御嶽〜玉城城を通る「アカル姫のレイライン」。
その先(西南の先端)は、奥武島(南城市玉城奥武)である。
奥武島から撮った写真の東北に、5㎞離れた玉城城の城壁が写る。
奥武島(南)と玉城(北)を結ぶ橋(60m)の奥武島側から撮影。
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ミシラギは、漢字で表記すると「御新羅(みしらぎ)」。
標識に 〜観音堂由来の難破船を繋いだ岩〜 と、短い
説明があるように、奥武観音堂ができるきっかけとなった
400年前の難破船伝承の残る地で、以来、拝所となっている。


「新羅から来た船」は、難破して奥武島に辿り着いた後、
↓防波堤の右端近くの岩に船を繋ぎ、避難していたという。
一帯は志堅原(しけんばる)集落。船乗りたちは、滞在中に
使った川泉に「仁川」と命名。現在も「じんがー」と呼ばれる。
集落の人々の協力で船の修復も終わり、やがて帰国した一行は、
その恩に報い、琉球王府を通じて純金の観音像を贈ってきた。
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「新羅」から到来した観音様を安置する奥武島観音堂。
ハーリー(海神祭)前日、航海安全などを祈願するのが恒例。
コンクリート製の鳥居には三日月の彫刻。'17年2月の撮影。
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「新羅」製の観音像は高さ24㎝ほどの大きさだったという。
蓮の上に乗り、左手に糸玉、右手に糸巻きを持っていた。
それが今次の戦乱で失われてしまったため、終戦後、
京都から取り寄せたのが ↓こちら。陶製の楊柳観音という。
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『奥武島誌』('11年、奥武区自治会発行)は、しかし、
「漂着船は新羅から来た」という伝承には、やや懐疑的だ。
その理由とは…。以下、記事を要約。

☆漂着した年代(※1615年頃)は古老たちの推測であり、
漂着船の国籍(中国か韓国か?)を含めて調査研究が必要。
☆ミシラギとの関連が伝わる「新羅」は、西暦356年から
朝鮮半島東部にあった国で、935年に滅亡しているため、
「新羅から来た」にしては、時代的に700年ほどズレがある。


私はこう推理する。難破船に乗っていた一行は、
自ら「新羅人の末裔」と名乗っていたのではないだろうか。
いっぽう、400年前の奥武島の人々は、そもそも、
新羅に対して親しみの感情を抱いていたのではなかったか。

各地のレイラインには日置族の関与があったと言われる。
玉城城のレイラインも然りで、その存在があったと考える。

日置族の本拠は南薩摩。熊襲・隼人と故地を一にする。
『契丹古伝』を和訳した浜名寛祐氏は、こう記している。
「新羅は熊襲が興した国である」。そして、
「新羅第四代の王・脱解(だっかい)は琉球で生まれた」と。

古来、琉球と深い関係があり、もしその伝承が残っていたと
 するなら、「新羅」をめぐる年代のズレは問題にならないし、
 新羅に、わざわざ「御(み)」を冠した拝所名もうなずける。





by utoutou | 2017-07-13 12:57 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)
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