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六甲山と瀬織津姫 104 サムハラと渡来人

サムハラ神社・奥の院は、
岡山県津山市加茂町の日詰山の中腹にある。その
山頂に築かれた落合城(亦名は百々城、1581年築城)
に、サムハラと刻まれた石碑があったという。
それ以前の謂れは、いまのところ分かっていない。


城址のある日詰山の山頂から、旧名・美作加茂町を一望。
巨大な階段の展望台があったが、登らなくても眺望はよく、
加茂町の南部にあたるここからは、地勢がよく分かった。
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↓こちらは、加茂町歴史民俗資料館にあったジオラマ。
資料館には町随一の万燈山古墳について知るべく訪れた。
赤の矢印は当方の加工で、下のがサムハラ神社のある
日詰山、上が万燈山古墳のある塔中(たっちゅう)集落。
古墳は、町の東を流れる加茂川と、西を流れる倉見川に
挟まれた丘陵の先端に、6世紀後半に築かれた。
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万燈山古墳。
直径24m、高さ4mの円墳。築造された6世紀後半
から7世紀はじめまで22体もの追葬が行われたといい、
南(写真左)に大型横穴式石室の開口部がある。
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美作最大の規模である玄室は、幅2.2m、奥行き6.6m。
傍の説明板によると、天井には巨大な花崗岩を8個使用。
出土品は、金環、勾玉、直刀、鉄鏃、土師器、須恵器、
高杯、祭具、大甕、そして鉄滓など多数。
近くで農作業していた古老は、「これは王の墓」と言った。
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資料館でしばし見とれた、万燈山古墳から出た馬具。
資料館の天井のライトが写り込んでいるが、馬具の
金張りには1400年の歴史時間を感じさせない色艶があった。
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万燈山古墳に葬られた「王」の経済力を物語る出土品の
極め付けがこちらの土師質亀甲型陶棺(6世紀後半)。
石室内部には、石棺(1)、木棺(7)もあったが、
最大の特徴である陶棺(1)には、3体が合葬されていた。
身と蓋は2分割式。18本の足を持つ姿は、まさしく「亀」。
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土師質亀甲型陶棺は、吉備王家の繁栄した古墳時代、
 吉備の東北部である後の美作だけに集中して作られた。
その特殊な事情について、真壁忠彦氏は著書
『古代吉備王国の謎』で、次のように推理した。以下要約。

☆美作には大和王権の屯倉(みやけ、直轄領)があった。
☆中央に直接従属して鉄生産に関わる人々が多かったか。
☆土師式陶棺は、製鉄のための製鉄炉で焼かれたのでは。


美作国の前身は、『日本書紀』が欽明16(555年)
に置かれたと記す白猪(しらい)の屯倉と言われる。
美作が鉄生産に関わる朝廷の直轄領であったことは、
大量の鉄滓が出土していることからも明らかだという。

資料館で見た古墳とたたらの分布図によれば、加茂にも
古墳は24基、たたら遺跡や遺物散布地は125ケ所ある。
屯倉に役人が派遣された、6世紀後半に陶棺は作られた。



資料館に、こんな一文があった。
〜古来、加茂の原動力は鉄と木材だった。
万灯山古墳の被葬者は、鉄を握った首長だった。〜
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その「鉄を握った首長」とは誰だったか…。
白猪屯倉の管理に携わった人物に、百済系渡来人
の白猪臣がいたという。白猪屯倉は複数ヶ所あったとも。

もし陶棺が作られたこの加茂の地が大和朝廷の直轄領で、
渡来人がいたとするなら、彼らがサムハラの護符を定着
させたとも考えられるのではないだろうか。

古代韓国語で
「サム」は「生きる」、「ハラ」は「しなさい」。
「サムハラ」は「生きなさい」の意味になるという。






















by utoutou | 2017-04-30 20:22 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)
Commented by at 2017-05-01 19:57 x
utoutoさん、こんにちは!(´∀`*) 私も歴史民俗資料館行きました。今思えば、あそこ役場かと思ったのですが、コミニティー会館みたいなとこですかね?すぐ目の前の温泉施設でひとっ風呂浴びて、津山ラーメン?食べて、歴史民俗資料館行ったら叔父から電話掛かってきてしまってじっくり見れなかったのですが、やっぱりやっぱりやっぱり加茂イコール鉄というイメージは残った歴史民俗資料館でした。不思議ですねー、久高島について調べてたら出会ったこの追跡アマミキヨで作者のutoutoさんしかり読書の私しかり、お互い岡山の山奥のど田舎の歴史民俗資料館に行き着くなんて(笑)(●≧艸≦)何だか色々と繋がっていきますねー(*ノ∀<)何なんですかね(笑)お寺の方に連れられて下津川というところに行ったのですが、そこでこの辺は頭のいいのが生まれると言ってましたが、ただの地元自慢かと思いますが、偶然ですかね?そして今でも地元の人が明治6年の一揆について、誰がどちら側の人間だったと語っていたのが頭に残っています。この一揆は深くさかのぼると古代に行きつくのではとなんとなく思ったりもしました(ノ∀`)σ(笑)続きを楽しみにしています!
Commented by utoutou at 2017-05-04 12:36
> 寅さん
こんにちは。加茂町の歴史民族資料館は観光客の行かない場所らしく、サムハラ神社で帰りのタクシーを呼んで(町に1台しかないので毎回呼びます)「資料館へ」とお願いすると、運転手さんに聞かれたんです。「それ、どこにありますか?」って。「福祉センターの2階みたいですよ」と言うと、「あぁ」と(笑)。でも、お宝の多い素晴らしい資料館でしたね! そして、おっしゃる通りなぜあの場所に辿り着いたのでしょうね。サムハラにはもっと知られざる由来があったりしてと思っているのですが。
あと、なぜあの山奥に金比羅神社が勧請され大物主神が祀られているんでしょうね。ここにも、秘史が埋め込まれていそうに感じました。頭の良い人が生まれるというお話は菅原氏が学者の家系だという意味でしょうか。そこから美作菅家党が起こったようですから。
いや〜それにしても、ホヒの神様とハジ様には興味が尽きないですね。「因幡の白兎」との関係も気になるところです。ご先祖様のこと、また何か分かりましたら教えてください!
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