白兎神社から海岸沿いの国道9号線を西へ15分走ると、 長尾鼻という、まさに猿田彦の鼻のような形をした岬に着く。 全長1㎞という岬の付け根あたり(写真左)に、弥生遺跡はある。 語り部が、「古代琉球に関係があるようだ」と霊視した 「サムハラ神社奥の院(岡山県美作町)の北にある岬の周辺」 はこの日本海沿いと思われるが、岬の南西部(↓青谷交差点) から見ると、長尾鼻(写真右)はそう長くは見えなかった。 近くにあった青谷上寺地遺跡展示館を訪れた。 弥生時代の青谷地域を示すCGを撮影して赤丸を付けてみた。 上の赤丸は、現在の海岸線に位置する↑青谷交差点あたり。 下の大きな赤丸が、遺跡中心地(集落)のだいたいの位置。 西に勝部川、東に日置川という2本の川が流れる。現在、 河口部は平野だが、昔は見た通り、潟湖(内湾↓)の際だった。 1991(平成3)年、道路建設予定地の調査で発見された。 日置川河畔の北側にも、青谷上寺地遺跡より規模は 小さいが、青谷横木遺跡という遺跡がある。 日置川流域の旧地名は、文字通り、気高郡日置郷という。 日置(ひおき)…久々に見たその名は、八頭郡中心部の 春分・冬至のレイライン沿いに白兎神ゆかりの寺社が並ぶ 理由を、ようやく解いてくれた気がする。因幡の地に、後に 朝廷の日置部(太陽と火を祀る部民)となる人々がいた証か。 日置部については、「日置部のレイライン」などにも 書いてきたが、遺跡でそれを目の当たりにするのは初めて。 天穂日命を始祖となる「ホとヒの人々は沖縄・久高島にいた」 と、語り部はかねがね言っていた。土師氏はその末裔だとも。 天穂日神社は、9世紀頃まで因幡一宮より上位だったという が、この地で繁栄した最古の一族が祀ったとも考えられる。 さて、 青谷寺地遺跡の展示でまず目を見張った遺物は ↓ 盾。 武器のコーナーにあったそれは、水銀朱で赤く塗られ、 左右一対の渦巻き紋と、三角形の文様が描かれている。 「弥生時代中期後葉」との説明なので、AD1世紀頃のものか。 まさに「隼人の盾」のシンボルマークと同じ文様に息を飲んだ。 が、後に朝廷に服属して隼人と呼ばれ、日下部と名乗ることに なる熊襲は、縄文時代から大海を渡り交易していたらしい。 その象徴だった渦巻き紋の付いた遺物は、大いに有り得る? 櫂(かい)にも、渦巻き紋が描かれていた。 こちらは、弥生時代後期初頭から古墳初頭のものという。 イラスト化された蕨手紋に九州の珍塚古墳の壁画を思った。 弥生時代かそれ以前、この青谷に渡来した人々が 乗っていたらしい丸木船の模型やイラストも展示されていた。 その全長は縄文時代最大級の丸木船よりも長く、7.9mという。 構造も少し違い、縄文時代のように船尾は尖っていない。 四角に整形された板を貼り、大きく反り上がった設計だった。 その構造船の周りを、小中型の丸木舟が囲んで進む船団を 描いた線刻画は、沖縄の爬竜船競争(ハーリー)を思わせた。 沖縄にいた先週は、ハーリー(海神祭)のある旧5月4日 の直前だったこともあり、ランチを兼ねて奥武島に寄った。 ハーリー船の保管庫に、お祭りを前に島所有の船を整備 する海人がいたので、写真を撮らせてもらいつつ聞いた。 「船の長さはどれぐらいありますか?」 「うーん、7mから8mぐらいあるね」 「古代船と似てるけど、あっちは船尾が反り上がってました」 「これは競技用だから。本物の爬竜船は船尾が反り上がってる」 古代人は、まさにこの規模の船で東シナ海を航海した? 青谷上寺地遺跡からは、朝鮮半島や中国(新、漢)との 交流を窺わせる遺物がいくつも発見されている。
by utoutou
| 2017-06-01 12:46
| 瀬織津姫
|
Trackback
|
Comments(0)
|
by utoutou カテゴリ
全体 ミントングスク 久高島 イザイホー 玉城 語り部 城(ぐすく) 天孫氏 御嶽 スサノオ 出雲 神社 琉球の神々 伊勢 洞穴(ガマ) 龍蛇神 ヤマトタケル お知らせ 天女伝説 斎場御嶽 ナーワンダーグスク 石垣島 九頭龍 瀬織津姫 琉球の玉 舜天 琉球王 グスク・御嶽 最終章 未分類 最新の記事
以前の記事
2024年 03月 2024年 02月 2024年 01月 2023年 12月 2023年 11月 2023年 10月 2023年 09月 2023年 08月 2023年 07月 2023年 06月 more... 画像一覧
最新のコメント
最新のトラックバック
検索
記事ランキング
ブログパーツ
フォロー中のブログ
ブログジャンル
外部リンク
ファン
|
ファン申請 |
||