2013年 08月 21日 ( 2 )

ミントングスクは太陽の神殿

畏れ多くもミントングスク神域の上に立ち、久高島を遠望遥拝して、私は初めてあることに気がついた。
振り向いたその先には、おおよその方角ではあるけれども、玉城城が鎮座していたのである。
考えてみれば当然のことだった。
玉城城の一の郭に開いた穴に、久高島から昇った夏至の朝日が射すのだ。
その玉城城はアマミキヨが造った。ミントングスクは住居跡とされる。
このふたつが、久高島に昇った「太陽の道」と無関係であるはずがなかった。


ミントングスクは、下の日の出入り図で言えば青線の上に位置する。
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実はミントングスクの神域内にも香炉が4つある。
階段を上がった登り口の右にある久高島への遥拝所(おとーし)にひとつ。
そこから真っ直ぐに進むと突き当たりガジュマルの木の下にある火の神(太陽霊)にふたつ目。
左の崖際にある遥拝所に3つ目。そしてアマミチュー・シルミチューの墓所の拝所に4つ目。
これら4つの香炉に囲まれる祭祀空間が、ミントングスク神域中の神域である。
現在でも、この4つの香炉で拝礼する(四方拝)のが、正しい参拝の仕方だという。

下の写真は火の神だが、ひとり瞑目していたとき、ふとまた気がついた。
久高島への遥拝所が東に向いていることは当然として、この火の神は対極の西に配置されている。
つまり、アマミキヨが初めて整えた住居であり祭祀場であったミントングスクも、
まぎれもなく東西軸に貫かれた「太陽の神殿」なのだった。
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玉城城の一の郭に沈む冬至の夕陽
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久高島。本島を望む西海岸にある、島で最高位の御嶽・フボー御嶽。
立入り禁止のため参拝者は御嶽の入口で拝礼するが、傍らに立てられた御嶽内マップを見ると、
入ってすぐ左にふたつの拝所が並んでいる。
ひとつは首里への遥拝をするワカリカサ、もうひとつは玉城への遥拝をするティリリカサ。
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首里城と玉城城への遥拝は、つまり「夏至の日の入り」と「冬至の日の入り」への遥拝を意味したと思う。
首里城に「西のアザナ」(物見台)があり王が日没を拝したように、
ここは神の島の「西(夕陽)の遥拝所」だったのではないか。

「古代日本の太陽信仰は朝日・夕日信仰」だったと著したのは、歴史家の大和岩雄氏だ。


「古代日本人の太陽信仰・日神祭祀の太陽神・日神といえば、天照大神」だが、
それは「王権によって作られた日神像」で「そのまま引用して、太陽・日神信仰を論じても、
古代日本人の心意も信仰も見えてこない。
高天原 → 葦原中国 という垂直思考は、『記』『紀』を作った支配者の統治思想であって、
われわれの祖先、権力者でない人々は、太陽の賛美は天上に輝く太陽でなく、
朝日さす 夕日かがやく 朝日・夕日であった」(『神と人の古代学』2012年、大和書房)

古儀の太陽信仰が東(あがり)と西(いり)を崇めることだったのは、
琉球第二尚氏王朝三代・尚真王の時代に始まったとされる久高島の祭り・イザイホー
(島の30歳から41歳までの女性たちが神女になる就任儀礼)が物語っている。
イザイホーの祭祀場・御殿庭(うどぅんみゃー)の祭屋は東西軸に並ぶ。
中央、イザイホーでは蒲葵(クバ)で覆われたという神殿(神アシャギ)を駆け抜けた女性たちが
3日3晩籠る「七ツ屋」(仮屋)は、北斗七星に例えられていたと思う。

4日目、神女となって厳かに円舞に臨む女たちが抱く大扇には、太陽と月が描かれていた。
儀式がすべて終わると神女たちは整列し、大扇を両手で捧げ持って4回拝礼する。
その隊列は東に向いていた。(『神々の古層5 主婦が神になる刻[イザイホー・久高島]』参照)
by utoutou | 2013-08-21 22:07 | ミントングスク | Trackback | Comments(0)

ミントングスクは世のはじまり

ミントングスクに山東から渡来した祖先が祀られていることは、
「昔、神の世に牛、馬、豚、羊等の獣を唐のサントンの国より持ち帰られたり」
との伝承からも伺えるが、この祖先が「明東」なのかは分からない

はたしてアマミキヨ・シロミキヨは、
紀元前にヤハラヅカサに漂着した徐福一団のことだったのか。沖縄の歴史、
その核心に迫る発見となるか。木村教授のさらなる調査研究を心待ちにしたい。

さて、現在、ミントングスクの神壇には4つの香炉が安置されている。
文字通り「明東」の存在の大きさが際立つ。
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a0300530_14344589.jpgミントングスクのある仲村渠に住む古老の話では、
神壇の香炉には、左からシロミキヨ、アマミキヨ、(中央がアマミキヨ神の位牌)、天孫氏、ミントンの銘(神事を司る神人)がある。

久高島の祭祀を記録した写真家・比嘉康雄氏も『神々の原郷 久高島(下巻』)(1993年、第一書房)では、右のように図示。
ミントン家当主の知念幸徳氏曰く「左からシロミキヨ、アマミキヨ、天孫氏、ミントン」。
中央「トゥトゥメー」とは位牌のこと。
  
しかし、大正15年にミントングスクを調査した鎌倉芳太郎氏によれば、
神壇には「香炉9個ヲ安置セリ」と。
鎌倉芳太郎氏(1898~1983年)は香川県出身。高校の美術教師として沖縄に就き、
後に型絵染作家として人間国宝に。戦前の沖縄の文化を調査記録し、
首里城の再建にも尽力。「沖縄文化の父」とも呼ばれる。

祖先神「ミントン」は「アマミキヨ・シロミキヨ」とは別神か?
先の古老は言った。
「ミントン神屋の香炉は、左から時代が古い順に並んでいる」
つまり、ミントン(明東)の渡来に先立った時代に始祖神がいたと。
であれば、アマミキヨとシロミキヨは、夫婦神ではない。
アマミキヨ族、シロミキヨ族と称される渡来の一族がいたということになる。

鎌倉芳太郎氏がスケッチした「ミントングスク神域見取図」。
図中の左上に、鎌倉氏が当時のミントン当主の知念伊郎氏から聞き書きした「開闢伝説」。
鎌倉芳太郎氏著『沖縄文化の遺宝』(岩波書店)より。

(開闢伝説)
世の初まりは(シルミチュー、アマミチュー)の御神(オテダ、オチチ)のあがり口にて
生まれ給いぬ、七日七夜の後に上り来られたり、これまでは天と地分かたず
夜と昼なし、即ち神は「二ライカナイ」に居られたり、
然して神がこの「ミントングスク」に降らせられたる時に初めて天と地と分かれ、
夜と昼の分け生じたり。
『ミントン』(1990年、玉城村仲村渠発行)P.52
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『沖縄文化の遺宝』に鎌倉氏が記した「開闢伝説」への解釈は次の通り。

昔始まりは、「アマミチュ」「シルミチュ」の御神、
「おてだ」「おちち」の上り口にて生まれ給い、「二ライ」「カナイ」に居らせられ、
七日七夜の後に「ミントングシク」に降臨せられ、
初めて天と地と分かれ、夜と昼の分れ目が出来たという。
これは日月星辰に対する信仰であり、
明らかに沖縄の古代民族の太陽崇拝の思想から生れた神話である。
そしてこの神話によって、『琉球国由来記』(年中祭祀)に記されている
首里御城中の「御日御月御前」及び聞得大君御殿の日月崇拝の意味が分かってくると思う。

「おてだ=太陽」と「おちち=月」は「上り口=水平線」で生まれ、ミントングスクに降臨した。
「ミントングスクは世のはじまり」。ミントングスクには壮大な神話がある。

現在のミントン当主・知念幸正氏にグスクの上方に案内してもらった。
凪いだ海に、アドキ島、タマタ島、コマカ島、そして久高島が、一直線に遠望できた。
あっと思った。後ろを振り向くと、真正面にあの城(ぐすく)がそびえていた。
by utoutou | 2013-08-21 17:58 | ミントングスク | Trackback | Comments(0)