2016年 09月 11日 ( 1 )

六甲山と瀬織津姫 51 武内宿禰

古代、六甲山は武庫山と呼ばれたというが、
武庫泊(むこのとまり)を見下ろす位置にある。

万葉集には、難波の地から西の方向を見渡すと、
武庫の港から船が出て行くのが見える…という、
これから旅立つ人の思いを歌った歌があった。
武庫の津は難波を出て最初の寄港地だったらしい。
武庫は、山であり海なのである。



神呪寺の仁王門には「武庫山」と山号額が掛かるが、
廣田神社(古代の海岸線)からは、わずか3km。
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甲山・登山道の中程(標高200 m余)から港を展望
に、六甲山ロープウェーのアナウンスを思い出す。
「晴れた日は関空や紀伊の山々もご覧になれます」
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さて、
海部の勘注系図からも同族と分かる日下部氏と
安曇氏は、共に南方から渡来の先住海人族だが、
実は紀国の名草氏も加わっていたようだ。
そして、その系譜に武内宿禰の名が浮上する。

安曇氏、名草氏について、『住吉大社』
(住吉大社編)は、次のように記す(要約)。

☆安曇はアマ(海)ツ(の)ミ(神)で海神の意味。
☆応仁天皇の時代から、淡路島や難波にもいた。
☆本拠は筑前国粕屋郡安曇で、志賀海神社の社家。
☆『日本書紀』神功皇后の朝鮮出兵の条にある
〜磯鹿の海人名草を遣わして視しむ〜の「名草」
とは、志賀海神社の安曇氏に関係する海人の一人。

名草の名前は、『住吉大社神代記』にも見える。
〜然して、新羅国を服え給い、三宅を定め、亦、
大神の社を定めつ奉つる…祝(はふり)は
志加乃奈具佐(しかのなぐさ)なり〜

神功の新羅出兵に志賀の名草氏(安曇氏)が
従軍したことは、どうやら間違いなさそうだ。



名草氏の本拠は紀の国だった。
↓名草彦と名草姫が祀られている名草宮。
現在は日前神宮・国懸神宮(和歌山市)の摂社
だが、創祀当初の日前宮は「奈具佐の濱宮」と
呼ばれ、天照大御神の御杖代・倭姫も巡行した。
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「名草」と言えば、神武東征の物語で
「名草戸畔を誅した」とのくだりに登場する
女首長・名草戸畔が有名だが、私が日前宮に
 参拝した後、語り部は少し唐突に質問をした。

「近くに武内宿禰の井戸はありませんでしたか?」
あるも何も…知らなかったので…と、調べると、
市内近隣に鎮座する安原八幡宮の奥宮・武内神社
 に、誕生のとき産湯を汲んだという井戸があった。

武内宿禰の母は、日前宮を祀る紀伊国造
・宇治彦の娘・山下影姫と、また父は孝元天皇
の三世孫にあたる方と言われている。

また、
武内宿禰の生誕地、あるいは紀氏のルーツには
九州説もあるが、この安原八幡宮の祭神を知り、
少なくとも朝鮮半島との強い関連が感じられた。

安原八幡宮の祭神は誉田別尊(応神天皇)、
そして、気長足姫尊(神功皇后)、武内宿禰。

由緒は…(平成祭礼データより、要約)
〜神功皇后が三韓より凱旋の際、忍熊王の難を避け、
難波から紀水門(ここ安原)に船を着けた。
誉田別を武内宿禰に護らせ、自らは迂回路を取り、
後に戻って合流、この地に頓宮を建てた〜

武内宿禰生誕の地、一族が勢力を張った地、
というのが、応神天皇が身を寄せた理由だったか。

明治末の時代まで安原は「名草郡」にあった。
名草山の麓に位置し、古代産鉄地だったようだ。



↓日前宮。その御神体は、日前神宮は日像鏡、
国懸神宮は日矛の鏡という2鏡である。
神宮皇后の先祖で、新羅から渡来したという
天日矛命との関係が、にわかに気になってくる。
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by utoutou | 2016-09-11 22:03 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)