2016年 10月 05日 ( 1 )

六甲山と瀬織津姫 57 おなり神の滅亡

丹後半島の神社巡り。竹野(斎宮)神社の
次は熊野神社(京丹後市久美浜町)へと急いだ。
 国道178号を小1時間、西へ走り、久美浜湾を目指す。
  伊邪那美命を祀る熊野神社が兜山の頂上に鎮座する。


ところが、直近で右折する交差点を逃し、結局、
日本海側へ抜ける周回道路に入ってしまったらしい。
やがてどんどん下るので車を止め、振り向くと↓兜山。
標高約191.7m、熊野神社の御神体山とされる。
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古くは甲山、神山と呼ばれたらしい。
山名が同じなら、その姿も六甲山の東端に建つ
神呪寺の神体山・甲山とそっくりなので驚いた。
↓こちら鷲林寺方面から遠望した六甲山の甲山。
その相似は何か謎を秘めているように感じる…。
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残念ながら熊野神社参拝は断念したが、
熊野神社の由緒は次の通り(要約)。
(※京丹後市教育委員会)
☆社名は熊野郡の名称の由来になった。
☆『日本三代実録』の「868年」に記事がある。
☆甲山は神山が転じたもの。もとは山全体が信仰
の対称になっており、祭祀遺跡も多い。
☆勧請したのは丹波道主命と川上麻須郎である
と江戸時代の地誌『丹後旧事記』に記録がある。
(丹波道主命は川上麻須郎の娘を娶った)


丹波道主命は開化天皇の孫(=日子坐王の皇子)。
『日本書紀』崇神天皇の条に、四道将軍として
丹波に派遣されたと記される。また垂仁天皇の
皇后・狭穂姫命の亡き後、その遺言に従って、
日葉酢姫ら5人の娘を後宮として喚上した。

 后妃が交替するドラマに、どんな理由があったのか?

記紀は、その前段に、狭穂姫の兄・狭穂彦が
 謀反を起こしたが失敗、兄と妹は絶命したと伝える。

丹波道主命の姫たちが指名された理由について、
川上順子氏は著書『古事記と女性祭祀者伝承』
(JP出版)で、次のように分析している(要約)。
☆崇神・垂仁天皇の時代に、皇后の出自が皇統譜
に繋がる皇孫であることが強調され始めた。
☆しかし、母「族」は問題にされなくなった。
☆狭穂姫の死で、ヒコヒメ制は消滅した。

ヒコヒメ制の消滅とは、「おなり神」の消滅を
 意味すると私は思う。おなり神とは琉球の古い信仰で、
妹(おなり、うない)が、兄(えけり)を
霊的に守護することをいう。


琉球王朝で最高位の神女として、国家安泰と
琉球王を守護した聞得大君も王の姉妹か王女だった。
(↓首里城。台風18号襲来前の10/1に撮影)
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神の島・久高島の↓久高殿で行われた古祭
イザイホーも、おなり神が誕生する儀式だったし、
いまも「おなり神信仰」は生きている(10/1に撮影)
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兄に殉じた垂仁皇后・狭穂姫は「妹なる皇后」
だったと、川上氏は著書で述べている。対して、
後宮の日葉酢姫らは「ポスト妹なる皇后」だったと。

私は思う。
このときヤマトの「おなり神」信仰は滅亡した。
が、琉球では現代まで絶えることなく脈々と続いた。

『日本書紀』では、垂仁天皇の条を境に、
「丹後の姫」に関する事績は次第に消えていく。

王権の成立過程で進んだ「妃選びと祭祀」の変更
は、裏返せば、海人族とその原郷だったろう琉球の
 切り離しに他ならなかったのかもしれないとも思う。




by utoutou | 2016-10-05 08:43 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(4)