2016年 10月 29日 ( 1 )

六甲山と瀬織津姫 63 饒速日命(ニギハヤヒ)

秘祭だけに、イザイホーの祭神を記した史料はない。

琉球最古の史書『中山世鑑』(1650年)を
編纂した羽地朝秀という人は日琉同祖論者で、
民族独自の信仰や風習には否定的だったという。
よって、いわゆる薩摩侵攻(1609年)以前の
信仰について記された史料は残っていない。

近年では、廃藩置県において、
明治政府は沖縄県に対して独自の研究を禁止。
「琉球」への同化策なのか独自の信仰を封印した。

しかし、
そうした時代の変遷にあっても消えることなく、
英祖王統時代から、琉球王朝をまたいで昭和
の時代まで約400年も続いたイザイホーの祭神は、
琉球王朝の崇めた「日月星辰」だと思われる。
少なくとも皇祖・天照大御神ではなかった。

その祭祀の中心に、物部氏や穂積氏や熊野国造の
祖神と言われる饒速日命の神影がピタリ重なる。



最後となったイザイホー(1978年)には、
千人もの見物客が降り立ったと言う↓徳仁港。
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10月上旬 ↓スベーラの御嶽に足が向いた。
本島からの船が着く際、左手に見えるこの岩礁だ。
イラブーガマ(洞窟)の並びに位置している。
イザイホーとノロの継承が途絶えたいま、
訪れる人も少ないようだが、美しく保存されている。
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港の反対側にあたるスベーラの御嶽の入口。
掃き清められ、往古の神域の佇まいが残る
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スベーラの御嶽は「統べる王の御嶽」を意味する。
どれだけ古い歴史があるかは計り知れない。

しかし、語り部は言う。
「上古、饒速日命は天津国から十種の神宝を携えて
玉城のミントングスクに上がったのだと思います。
後には邇邇芸命も上がり、この御嶽で覇王として
の就任の儀式に臨んだのだと。そして琉球の国土開闢
の後、始祖たちは出雲へ熊野へと移動していった」

同じ説話は、ミントン門中の
屋号・天祖(あます)の神女口伝にもあった。
天祖は、天孫氏王朝の末裔と伝わっているが、
つまり饒速日命を先祖と仰ぐ家系だったわけだ。


ちなみに、『先代旧事本紀』によれば、
饒速日命は天忍穂耳命を父に、
高皇産霊尊の女・萬幡豊秋津姫命を母に持ち、
邇邇芸命の兄となっている。



↓後ろ側からのミントングスク全景(10月5日)。
古老の話では、昔は円錐形の山だったらしい。
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さて、くだんの『先代旧事本紀』には、
饒速日命が天の磐船に乗り河内国(大阪市交野市)
に天降りた際、32人の防衛をはじめとして、
数多くの随伴者を従えていたという。

「琉球王朝時代、三十三君と呼ばれた神女組織が
ありましたが、それは饒速日命と32人の防衛たち‥
饒速日命王朝を守護したオナリ神たちの
名残りだったと思います」と、語り部は言う。

「琉球には33個の金の香炉があった」と言う
秘伝もあったが、今次の戦争で失われたのだと。












by utoutou | 2016-10-29 22:06 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(6)