2017年 03月 27日 ( 1 )

六甲山と瀬織津姫 98 ネコのお告げ

志賀島での最後に、港で猫の写真を撮っていた。
出航まで10分ほど時間があったので、寝顔のアップなど…。
しかし、プイと横を向かれてしまい、仕方なく港を撮った。


フェリー・金印号が停泊中の志賀島渡船場。 写真右が漁港。
波のない内海に、能古島(のこのしま)が浮かんでいる。
猫に嫌われなかったら、多分この写真は撮っていなかった。
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もしや猫のお告げだったのか。ふとその場で振り向くと、
真っ直ぐ先(北)に金印海道沿いに立つ一の鳥居が見えた。
志賀海神社は、神功皇后の時代に現在地に遷った
という神社の由緒を、境内で読んだばかりだった。
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由緒曰く1800年前のこと。つまり三韓遠征の準備として
表津宮は島の北の勝馬から、南の勝山の麓に遷宮したか。
いずれにしても、地名に「勝」がつくのが勇ましい。

遠征の大本営は本土の香椎宮にあったとされるのだから、
船団と志賀島で合流して出立する社地には南が相応しい。

神社の由緒にあった一文を思い出す。
〜神功皇后の三韓遠征に際し舟師を率い御舟を導き
守り給うた安曇磯良丸をして表津宮を当地の勝山の
懐に遷座したと伝えられている。〜


安曇磯良が率いた舟師は、「中西八軒」と呼ばれた。
またしても「8の暗号」…。そもそも八乙女と呼ばれる
 巫女には、その8軒の婦人がなるという習俗があったという。
 『筑前国続風土記付録』には、舟師とは神人だったとも。

〜 八家の漁夫は名草の末にして、浦公とよぶ。
代々漁を業とし、神に仕ふまつるとなん 〜

そして、彼らは名草の末裔だった。
武内宿禰」にも書いたが、安曇族同族の名草族の名は、
『日本書紀』神功皇后・朝鮮出兵の条に見えている。
〜 磯鹿の海人名草を遣わして視しむ 〜

また、『住吉大社神代記』にも以下のような記述がある。
〜然して、新羅国を服え給い、三宅を定め、亦、
大神の社を定めつ奉つる…祝(はふり)は
志加乃奈具佐(しかのなぐさ)なり〜


「志賀の名草」の本拠は、紀の国(現和歌山県)。
日前・国懸神社の摂社に、名草宮がある。また、
神功皇后の功臣・武内宿禰の母方の故郷でもあった。


港近くの鳥居から一直線に伸びる参道と楼門。
この地では影が薄かった武内宿禰が、一気に浮上した。
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さて、冒頭の「猫写真」に話は戻って。
志賀海神社を背にして、カメラ目線を先に伸ばすと、
対岸のどこに行き着くのだろうか?  と思い立ち、
 地図に赤線を引いてみると、なんとそこにもネコがいた。


壱岐神社(福岡市西区生の松原)の祭神は、
壱岐真根子(いきのまねこ)という。
そもそも地名の「生(いき)の松原」とは、神功皇后が
戦勝を占い、逆さに立てた松の枝が育った伝説が由来とか。


姪の浜に坐す住吉神社のHPに壱岐神社の由緒があった。
〜『日本書紀』によれば、都を留守にしている間に反乱の
罪を着せられた武内宿禰を助けるため、壱岐直真根子が、
自分の命を犠牲にして身代わりになった(後略)〜
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壱岐真根子は、父(雷大臣命)に従い三韓へ行ったが、
戦勝後も壱岐に留まり、壱岐氏の始祖となっていた。

いっぽう、真根子の母は武内宿禰の妹だとの説がある。
真根子は叔父の宿禰と容貌が似ていたため身代わりとなり、
内紛決着の策として自害した…させられたとも考えられる。

武内宿禰は名草にいた紀氏のルーツと言われているが、
では、5代の天皇に二百数十年間も仕えたという、
あり得ない伝説の人・武内宿禰とは何の象徴だったのか。
マネコの死には、重要なお告げが隠されていそうだ。

つづく…。
 





by utoutou | 2017-03-27 08:45 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)