2017年 07月 17日 ( 1 )

六甲山と瀬織津姫 119 新羅王は琉球で生まれた

400年前に新羅から来たという難破船が接岸したため、
その名がついた奥武島の聖地・御新羅(ミシラギ)。
「難破船はどこへ向かおうとしていたのか?」という問い
に対して、難破船の伝承は答えてくれることはないが、
古来、朝鮮半島と琉球を往来する海路はあったようだ。



奥武島観音堂から至近の距離に、タカラ城(グスク)
という創祀年代がまったく不明の御嶽がある。
語り部によれば、「タカラ=多加羅」。つまり、加羅諸国
の人々が渡来した痕跡ではないかという。※'17年2月撮影。
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集落の一角に埋もれるようにあるタカラ城の御嶽。
威部(いび)の傍の表示には「Takaragusuku Tomb(墓)」
と英字も。それ以上の解説は『奥武島誌』にも記載がないため、
逆に、琉球と新羅の間にあるかもしれない秘史に興味が湧く。
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ところで、「新羅第四代の王・脱解(57〜87年)は琉球
で生まれた」と記したのは『契丹古伝』訳者の浜名寛祐氏。
脱解王の話は、その著の第十八章「五原以前の支那原住種族」
にある「クマソ」を、「脱解」の項の前段として捉えている。

(要約)
☆(大陸の)五原にいた先住民のうち南原のクマソは
 新羅三姓(朴金昔)の祖。卵生神話があり鳥人と呼ばれる。
☆先住民はよく服順したが、クマソは従わなかった。
☆クマソは難波…つまり琉球の那覇を経て、大隈国の
宇豆、筑紫を通り、遂に辰藩(=新羅)に侵入した。

新羅はクマソの興した国であるというのだ。そして、
『三国史記 新羅本紀』を引き、脱解の生誕へと訳文を繋いだ。

〜 脱解は多婆那国の所生なり。
その国は倭国の東北一千里にあり。〜

この一文を解して、脱解王の所生を次のように記した。

(要約)
☆『三国史』に云う脱解の生まれた「多婆那国」を、日本の学者
は、丹波や但馬や肥後の玉名と解しているが、古代を契丹古伝
の如く大観すれば、それは台湾を含めた琉球でなくてはならない。
☆「倭」は我が日本だけでなく、遠く東シナ海にも存在した。
☆「倭の東北一千里」とは、「委の東北一千里」のことである。
「委」は「越」の古名なので、「多婆那国」とは琉球のことである。


「新羅人が九州に渡って熊襲になった」との説はあるが、
  浜名説はその逆で、南原にいた熊襲が新羅入りしたという。
「では、南原とはどこか?」には詳しい言及はないのだが…。



富山県作成の「逆さ地図」を真似て、Googleマップ
を(アバウトだが)↓ 逆さ地図にしてみると、
大陸と日本列島と琉球列島の位置関係がよく分かる。

繋がった眉毛のような日本列島と奄美・琉球諸島は、
あたかも東シナ海という内海の淵に立地しているようだ。

赤い矢印が沖縄本島。朝鮮半島東南部にあった新羅を、
例えば南方に向け船出すると、常に島々が見えるという。
船乗りの視界から初めて陸地が見えなくなるのが、沖縄本島を
離れてからだそうだ。本島南端の喜屋武岬の近海を離れると、
次に視界に入る宮古諸島までの距離は、約200mile(320㎞)。

南進北進を問わず、船乗りの航海術が試される海域と聞く。
黒潮やその反流や季節風に抗しきれなければ、「内海」から
太平洋へと押し流されて、奥武島や玉城に漂着することになる。
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奥武島の橋にかかるモニュメントのハーリー船。
古代人は、刳り船か葦舟かで大陸と島々とを往来していた。
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by utoutou | 2017-07-17 10:55 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)