2017年 11月 03日 ( 1 )

六甲山と瀬織津姫 142 玉造稲荷神社

元四天王寺とされる玉造稲荷神社(大阪市中央区玉造)
へ参ったのは9月28日のこと。2ヶ月余り前だが、
聖徳太子の謎を書いていて後回しになってしまった。

そもそも聖徳太子に所縁の地を訪ねようと関西へ赴き、
いの一番に訪れたのが、この玉造稲荷神社だった。

祭神は、宇迦之御魂大神、下照姫命、稚日女命、
月読命、軻遇突智命。


参拝後に神紋を見上げているうちに、ついつい
スマホカメラをズームアップにして撮っていた。
上から勾玉紋、青色の渦巻き紋、その中央に如意宝珠!
神社の拝殿に宝珠を戴くとは、さすが「玉造の里」だ。
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図らずも旅の初心を確認する。私はアマミキヨを追跡
しているのであり、六甲山に隠されたと語り部が視た
「琉球の宝珠」と聖徳太子との関連を睨んでいるのだ。

創祀時、この神社は「比売社」とも呼ばれたという。
本殿に向かい、祭神として祀られる下照姫命を想う。
大国主の娘。紛うことなき縄文の瀬織津姫である。


神社が創祀されたという2千年前、大阪全域はほぼ海。
ここから約2㎞北の大阪城周辺から、約10㎞南の住吉
まで、東西3㎞ほどの上町台地だけが陸地だったという。
下照姫は水の女神か、勾玉で祭司する日巫女だったか…。
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社殿から後ろに移動すると、北に高層ビルが見える。
北へ10分歩くと大阪人のルーツ・森の宮遺跡があり、
その深層からクジラや魚の骨が見つかっているという。

古墳時代、仁徳天皇はこの上町台地に都城を築いた。
6世紀に入ると、朝廷御用達の専門家集団・玉造部
の住居兼工房の地になったというのが、地名の由来だ。
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さらに南に後進、鳥居から社殿を望むと↓こんな図。
6世紀末、聖徳太子はこの地に布陣した。物部守屋と
仏教導入を巡り争った際、戦勝祈願したとの逸話が残る。

「我に勝を与えるなら、これに枝葉を生ぜしめよ」と、
栗の木の箸を土に植えると、翌朝に木が茂り戦に勝利。
そこで太子は十一面観音像と多聞不動像を造り祀ったと
いうのが、元四天王寺と位置づけされる所以でもある。
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玉造は「玉作岡」とも書くが、やがて太子の埋めた栗の木
にちなんで、「栗岡」とも呼ばれるようになったという。
物部と蘇我の対立は創作と思うが、それはまた別の話…。
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さらに南へ、道に出ると奉納者の名前に目が釘付けに。
玉垣に「栗岡」の銘石が並んでいる。栗岡の栗岡さん?
急ぎググると、太子の栗の木を賜って以来、その名乗り
 となった旧家だといい、神主にも栗岡さんがおられた。
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さて、散策した後は境内にある玉造資料館へ。
実はお目当は勾玉の見学、事前に参観予約していた。





by utoutou | 2017-11-03 18:20 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)