2017年 11月 16日 ( 2 )

六甲山と瀬織津姫 144 女神たちの難波

玉造稲荷神社の祭神・下照姫(したてるひめ)命。
『古事記』では、大国主神と田紀理毘売命の娘。
『日本書紀』では、大国主神の娘。いっぽう、
新羅から来た天之日矛の妻・アカル姫(阿加流比売神)
は、「難波の比売碁曽社に坐す」と、紀にはある。
記では男は都怒我阿羅斯等だが、内容は同じだ。

よって、アカル姫=比売碁曽神だが、そこになぜ
=下照姫という亦の名がつくのか…が分からない。

そこで、『摂津名所図會』(1798年)を開き
玉造稲荷神社の旧名・豊津稲荷社のページを見ると、
意外な神名が出てきた。いきなり話は脱線するが、
社名にある「豊」とは豊受大神の略だと記されている。

  『摂津名所図會』豊津稲生大明神。(以下要約)
☆垂仁天皇の世、下照姫命を祀り「姫の社」とした。
☆同座に倉稲魂命を祀った。この神は、外宮御神体の
豊御食津神と同神異名なので、「豊津社」と名づけた。

玉造稲荷神社は元四天王寺であり、元伊勢だったか…。


東から見た社殿。並ぶ紅白の鳥居は摂社・厳島神社。
ちなみに、この場所に聖徳太子作の十一面観音像
と多聞天不動像を祀る観音堂があったが、焼失した。
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『摂津名所図會』豊津稲荷社。社殿左上に描かれるお堂
が、聖徳太子が十一面観音像を祀った長楽寺観音堂。
いま南面する社殿は西面し、日の出方向を崇めていた。
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さて、難波にある比売古曽神社。その一社目は、
玉造稲荷神社から車で10分ほどの近距離にある
高津宮神社(大阪市中央区高津)の摂社として鎮座。

『摂津名所図會』高津社(以下要約)
☆祭神・仁徳天皇。往古は下照姫命を祀る「比売社」。
☆高津社の旧地は大阪城辺りにあったが、天正年間に
この地に遷座したため、下照姫命を境内の別社に祀った。


現在も高津宮神社・比売古曽神社の祭神は下照姫命
だが、小祠すぎて『摂津名所図會』では見つからない。
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地主神というのに摂社に追いやられた下照姫命だが、
高津社の項には、その神名の由来が記されていた。
「そもそも高津宮は…」と一文は始まる。(以下要約)
☆神代には、下照姫の住まい給う土地だった。
☆高津は大江の岸(上町台地の西崖)の最も高い所で、
北は淀川、東は大和川、西は海浜。その中で押し出て
いるような地形ゆえ、和歌では「おしてる」と詠まれる。


そうだったのか…。「おしてる」という難波の枕詞
があるが、まさに難波の台地は「海に押し出た土地」。
そこで祭司した下照姫とは、日の巫女だったのだろう。

琉球には「おしあげ(押し上げ)」を含む御嶽名がある。
「夜のトバリを押し上げるような朝日」との意味だが、
それで解しても、下照姫とは「昇る太陽神を祀る巫女」。
下照姫を祀る比売社こと玉造稲荷神社(豊津稲荷社)が
創祀当初は東西軸に建っていた理由も、これで納得だ。


また、下照姫は宝珠を持った日巫女でもあった。
もう一社の比売許曽神社(東成区東小橋)にほど近い
「磐船旧跡」にその伝承があったと、古書は記している。

『摂津名所図會』比売許曽神社。(以下要約)
☆祭神・下照姫命は大己貴命の娘、天雅彦の妻、
味耜高彦の妹。神代、天磐船に乗りこの地に天降りた。
☆垂仁記には、都怒我阿羅斯等が追った童女が難波の
 比売許曽神社に祀られたと記されている。
☆『朝野群載(※1116年)』に曰く、下照姫が天降りた
磐船は縦70m、横35m。中に如意宝珠が一粒あった。
東北方向を向いた磐船の上に祠を建て、石霊を祀った。



比売許曽神社は絵の右下、左端の木の立つ山が磐船山。
上の小高い山が、現在の産湯稲荷神社(天王寺区)。
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アカル姫(比売古曽神)=下照姫の旧跡が点々とする
 古代の難波は、つくづくと「女神たちの聖地」だった。

   そして、驚いたことに、上町台地の最南端に鎮座する    
住吉大社にも、アカル姫は祀られていた。つづく…。








by utoutou | 2017-11-16 21:18 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 105 天穂日命の末裔

美作加茂へは、前日、空路東京からまず鳥取市へ入り、
1泊してJR因美線で南下したのだったが、その経路を
辿っていなければ、全国出土の7割は美作からという
土師質陶棺に、あれほど強く思いを巡らせなかったと思う。

因幡から美作へと、また逆に美作から北上して因幡へと、
いずれのルートだったとしても、土師氏族の広がりを
思わせる痕跡の極致に、美作加茂で見た土師質陶棺はあった。



鳥取では↓お約束の砂丘を観光。さらに西へ30㎞離れた岬
・長尾鼻の南にある弥生遺跡・青谷上寺地(あおやかみじち)
遺跡展示館を見学。そして、市内に点在する神社巡りをした。
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鳥取市で参ったのは、売沼神社、白兎神社、土師百井神社、
因幡国一宮・宇倍神社などだったが、もっとも印象深かった
のが、天穂日命神社(鳥取市福井)。地図はこちら↓
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日本一大きい淡水池という湖山池の西に位置する。周辺
 には、その御子神を祀る天日名鳥神社があり一族所縁の地?
天穂日命は、出雲臣と土師氏の祖と伝わる神である。
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天穂日命は、神話では天照御大神の次男とされ、出雲国造家
、出雲大社宮司家である千家氏の祖とされるいっぽう、その
国造交代の際の神火相続式をする神魂神社(島根県松江市)
を創建した神とも伝わる。つまり、天穂日命は「火」の神。

そして、先日参った鳥取
の天穂日命神社には、由緒がこのように記されていた。
(以下要約)
☆古代高草郡の豪族因幡国造氏の氏神を祀る。
☆9世紀頃までの因幡では、最上位の格式にあった。
☆因幡の中心的勢力は、因幡国造氏だった。



因幡国造家の祖でもあったのか、天穂日命。神社境内
には、真新しい天穂日命像が白兎をお伴にして立っていた。
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さて、岡山県北最大規模、美作加茂の万燈山古墳に
埋葬されていた土師質亀甲型陶棺の製作者であり被葬者
もまた、天穂日命を祖とする土師氏の人々だったと思う。
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土師質の陶棺は、土師氏が製作して土師氏の長を葬った。
そして↓万燈山古墳は、土師氏一族の墓陵である…
とは、しかし、どの資料にも記されてはいない。
古墳は加茂町の奥地の墓地に隠されるようにしてあり、
いまは地元老人会でも、被葬者を語る人は少ないという。
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古墳と陶棺が造られた6世紀末、美作の地に
白猪屯倉(しらいのみやけ)という朝廷の直轄領ができた。
そこへ派遣された役人は百済の渡来人かと、前回書いた。
屯倉であれば、陶棺も製作できる規模の大型製鉄炉が
あってもおかしくはないという説も紹介した。

ただし、おそらく役人は役人である。
陶棺を造る窯業の技術者(工人)ではないし、
被葬された「鉄王」でもあり得ないだろうと思うのだ。

そもそも、土師氏とは、埴輪の制作や祭礼に関する職分を
担当する品部だった。垂仁天皇妃・日葉酢姫命の葬儀に
あたって、それまでの慣習だった殉死に替えて、埴土で人型の
埴輪を作って埋葬することを、土師氏の祖先である野見宿禰
が天皇に奏上したことが始まりだと言われている。

そのとき、百人の職工たちが出雲から都に呼ばれた。
つまり、垂仁の時代、出雲に埴輪作りは行われていた。
美作でも、産鉄や窯業は盛んだったと考えるのが自然だ。

美作という国名の起こりは時代降って和銅6(713)年。
それまでは吉備国だったのが、備前・備中・備後、美作
という4つの地域に分割された。吉備とは、それだけ
歴史が深く、鉄資源が豊富な強国だったわけで、ヤマト
王権が屯倉を置いたのは、その弱体化を図ったためだろう。

そして、美作に土師質・亀甲型・陶棺が誕生した。
わざわざ「・」を付けて区切ったのは、そこに後に
土師部となる「火の一族」の特性を強く感じるからだ。

埴土は『日本書紀』に曰く、スサノオが出雲に来たとき
に乗った船の材質であり、亀は海人族のトーテムであり、
陶棺は、先史時代の家を模した家型埴輪に由来すると思う。

その陶棺は、南方の島々の家屋と同じく高床式である。
天穂日命とは、「火の神とホとヒ」で書いたように
琉球の祖神だったのだなと、加茂町で再確認したのだった。










by utoutou | 2017-11-16 17:16 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)