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沖縄の天女伝説 18 天女の孫が見つけた泉

昨日、10月14日(水)朝6時55分。
沖縄南部・新原(みーばる)海岸に昇る朝日。
水平線上、左手に久高島が平たく浮かぶ。
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今回の沖縄旅で初めて迎えた朝。
新原海岸の北、百名海岸へも行った。
↓7時5分。大潮のためヤハラヅカサは水没していた。
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姿が隠れてしまったアマミキヨ渡来の聖碑
ヤハラヅカサに向かい、Gパンを捲り足を浸ける。
そして「天女の羽衣」をつらつら思う。

天女はなぜ羽衣(飛衣)を盗まれるのか…。
素っ裸となって水浴びをしていたからだが、
ではなぜ、どの天女も水浴びをするのか。

沖縄の天女の場合、それは水撫で(うびなでぃ)と
同じ意味が込められていると思う。
聖水の生命力をいただき、霊力を新生させる。

神祀りをする神女に限っての儀礼である。
新たなる霊力は所縁ある人々に授けられる。
それを思うとき、天女は神祀りをする巫女であり、
シャーマンであるということが腑に落ちる。
琉球王朝にとって、弁財天は「国家の守護神」
(天久宮の由緒より)だった。


さて、海を出てからは、天女ゆかりの川泉へ。
那覇市首里に、佐司笠樋川(さしかさひーじゃー)がある。

銘苅子(めかるしー)と天女の間に生まれた
銘苅家の娘は、琉球王朝・尚真王夫人となり、
一女を生んだというが、この王女(天女の孫)が
向氏・見里王子朝易に嫁ぎ、三十三君である
佐司笠按司加那那志(さしかさあんじがなし)になった。



首里の桃原(とーばる)にあるのは首里桃原(とーばる)  
に建つイタリアン・レストラン「ラフォンテ」。
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桃原通りを車で走行中、
何度か綺麗なグリーン色のエントランスを見ていた。
それが、佐司笠按司加那志の御殿跡だったとは驚いた。

近代に入ってからは、松山御殿が建っていたという。
琉球王朝最後の王・尚泰王の第四王子だった尚順男爵邸で、
その築造による桃原農園もあったと、サイトに記されている。


レストランの庭園奥に現存する佐司笠樋川
(さしかさひーじゃー)の別称は鷺泉(けいせん)。
佐司笠按司がフクギの木に白鷺が止まっているのを見て、
探り当てたのでその名が付いたのだとか。
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華やかで洗練された首里城の城下町、いまは
お洒落なレストランとなった御殿後に、
昼なお暗い石囲いの下、500年枯れない川泉はあった。


天女の孫・佐司笠按司加那志が見つけ日々祈った
佐司笠樋川の隣りには、対となった川泉もある。
世果報樋川(ゆがふひーじゃー)と呼ばれてきたという。
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佐司笠按司加那志は、水の神、龍宮神、航海を司る神女。
そして、天女の孫であり、銘苅子の孫。

ふと、この地は誰のものだったかと思った。
天女は天から来て帰ったのだから。
銘苅家のものだったはずである。
「銘苅子は大地主」と語り部は言ったが、
この首里までもその領地だったのだろうか…。

  




by utoutou | 2015-10-20 10:43 | Trackback | Comments(2)

沖縄の天女伝説 ⑮ 大物主(蛇神)と玉依姫

語り部が銘刈港川原で霊視したという大物主大神。
思えば、当ブログでは案外と頻繁に登場している。

崇神の時代に、大神神社(奈良県)の祭主として
大物主大神を祀った大田田根子の出自は和邇氏だった
という系譜は、『琉球の和邇氏』の記事で見た。

この大田田根子は、天皇に「親は誰か?」と聞かれて 
「父は大物主、母は活玉依姫」と答えたと記紀に
あるが、母の活玉依姫については、『古事記』に、
名も知らぬ若者の子を身籠った姫として登場する。

妊娠に驚いた両親に、男の身許を調べるよう言われ、
男の着物の裾に、針に通した麻糸を付け、
それをたぐって行ってみると三輪山に辿り着いた。
若者は三輪山の大物主大神、つまり蛇神だった…。

それとまったく同じストーリーの神話が、宮古島
最高の聖地・漲水御嶽(はりみずうたき)にもある。
美しい娘を孕ませたのは、漲水の洞穴にいた大蛇だったと…。

大物主神という名の蛇神と、宮古島と、銘苅。
古代、大物主が率いた一族は宮古から移動してきたのか?

現代ではもはや調べる手がかりもないと思いきや、
先日、語り部が言った。
「銘苅から安謝川を挟んで北は、浦添ですが、
そのあたりには宮古島出身の家がとても多いのです」
「浦添ですか…」
「その一族と、浦添城は関係があるかもしれません」

浦添城。琉球初代の王・舜天(1187〜1237年)
の時代に創建されたと言われる。
浦添の語源が百浦襲(ももうらそ=浦々を支配する)
であるという考察は、伊波普猷氏が
著書『古琉球』の「浦添考」に記した。
首里城の正殿・百浦襲(もんだすい)の謂れだとも。

その百浦襲(ももうらそ)を思うとき、いつも、
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそ姫)を連想する。
百・浦・襲の3字に通じる浦添の地名が、
ズバリ琉球と百襲姫の関係を物語る…との説もある。



百襲姫の墓陵と言われる箸墓古墳(奈良県桜井市)。
『日本書紀』では、姫は大物主神(蛇神)の妻になったと。
百襲姫を『魏志倭人伝』の卑弥呼に比定する説は根強い。
(写真は'11年の撮影)
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倭迹迹日百襲姫命は、第七代孝霊天皇の皇女。
「大市墓」とも呼ばれる箸墓は3世紀後半の築造とされる。
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墓名の「大市」とは、倭迹迹日百襲姫命の別名である。
京都丹後の籠神社に秘蔵されていた『海部氏勘注系図』に、
「九世孫の妹」に日女命(ヒメノミコト)の名があるが、
その亦の名として、以下の4つの名が載っている。
倭迹迹日百襲姫命、千々速日女命、日神、神大市姫命。

最後に、神大市姫命とある名前が「大市墓」の由来か。
また「日神」が日の巫女=卑弥呼と同一視される理由だ。

では、千々速日女命(ちちはやひみこ)とは誰かというと、
孝霊の妃である春日千々速真若比売(古事記)、
亦の名は、春日千乳早山香媛(日本書記)。
どちらも和邇氏と同族の「春日」の文字を含んでおり、
倭迹迹日百襲姫命の母は和邇氏の女だったと考えられる。
とすれば、倭迹迹日百襲姫命も和邇の血脈にあることになる。

話はグルッと廻って、また和邇氏に戻ってしまった…。
ワニ氏のことは『大陸渡来のワニ氏はアマミキヨ?』に詳しい。



↓那覇市辻から遠望する、泊の港。
天久宮のある泊(旧・天久村)に、伝説の神女がいたという。
名は「中世玉依姫」と呼ばれていたと、語り部に聞いた。
「玉依姫」とは、大田田根子の母・活玉依姫を彷彿とさせる神名。
活玉依姫は和邇の女だった。さらに古代、
神武の天皇の母もまた同名の、和邇の地を引く姫だった。
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何だか今日は、天女を離れて、和邇氏の話ばかり…。
つまり大物主は和邇の祖だと思うのだが、その話はまた。


by utoutou | 2015-10-01 21:10 | Trackback | Comments(2)

沖縄の天女伝説 ⑫ 銘苅川沿いの産鉄遺跡

現在は那覇市銘苅2丁目。
銘苅子と天女が出会った川泉・シグルクガーは
   戦前まで、銘苅直禄原(しぐるくばる)にあった。  
直禄原…何やら意味シンな地名だ。 
 
禄(神様の贈り物)がザクザク生る川原?
何が生るかはさておき、直禄原は川沿いの湿地遺跡だ。

写真手前左にシグルクガー拝所があり、写真正面方向に、
「ふいごの羽口」が出土した銘苅原南遺跡がある。
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※ふいごの羽口についてはこちら
衣川製鎖工業(株)様のサイトがたいへん参考になる。



『銘苅原南遺跡発掘調査報告書』
('02年、那覇市教育委員会)によれば、この地の
地層は1〜12に分類され、もっとも多く出た土器は、
近世(地層の上から1〜3)のものと、
グスク時代(地層4〜6)のものだという。
※グスク時代とは、11世紀〜15世紀前半のこと。


グスク時代中期にあたる地層(5)から、土製の
ふいごの羽口(形状と色が様々な破片)が16個出土。
また、鉄鏃、鉄釘、刀子などの鉄製品も出土したという。

焼土を多く含む地層ということで、製鉄炉跡も出たのか
と思いきや、残念ながらそれはなかったそうで、
報告書からも同様の無念の思いが感じられる。以下引用…
〜焼土層の広がりや羽口、鉄滓などの遺物が得られたことから、
鍛冶遺構の存在も考えられたが確認されなかった。〜  

ただし、この地にはさらに古い地層(地層7〜9)
があり、本土で言えば、縄文時代晩期に相当。
土器と脊椎動物の遺骸が目立ったという。



↓報告書から拝借した図版。写真左上は、現在は、
新都心公園となった銘苅原南遺跡遠景(東南から)。
右上は、北から撮った地層検出の模様。
下段の左は、縄文時代晩期の土器。
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さて、標高12.8mを頂点とした谷地状地形という
安謝東原南遺跡からは、2基の炉跡が出土。
そこには33個の小穴と、炭化物の堆積があり、
また床面の一部には焼土が広い範囲で認められる
ことから、報告書は「鍛冶関連遺構」だと記している。

遺物も、ふいごの羽口10点、鉄釘1点、鉄片3点が出土。
炉床から採取した炭化物は、放射性炭素年代測定により、
13世紀前半〜14世紀中頃という結果が出たという。

他に貝殻、土器、石器、徳之島カムイ焼きなどが
出ており、全体としては、縄文時代後期・弥生時代
から以降の重層的な遺跡と考えられるという。

近くの安謝東原遺跡とは同遺跡の可能性があるそう
だが、そこは銘苅川下流にあたる多和田川の湿地帯。
ここからも炉跡と、羽口38個が出土しているといい、
地形から見ても、まさに産鉄地の条件に当てはまる。

興味が引かれるのは、炉跡の下層から、
縄文後期、弥生〜平安時代の土器が出土したことだ。
銘柄川はやがて安謝川に合流して東シナ海に注ぐ。
人々はその川辺の立地を活かして暮らしていた。
報告書では言及していないが、縄文後期から代々、
産鉄民がこの地に住み着いていた可能性も
あるのではないだろうか?



↓写真は『安謝東原南遺跡・旧天久原古井戸遺跡』
('02年、那覇市市教委刊)から拝借。
下から2段目右が、鍛冶遺構の炉跡(横辺70cm)
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もう1ヶ所、やはり谷地である銘苅港川遺跡
からも、ふいごの羽口が出土した。
他に出た土器などの遺物の年代も含めると、
貝塚時代後期(弥生〜平安時代)からグスク時代
にかけての遺跡だという。

また焼土層の広がりや、黒色土層が確認された
ものの、具体的な鍛冶関連遺構は検出されなかった。



↓1947年ころの地形と遺跡分布図。
赤い矢印は私が加工したものだが、
南北に流れる銘苅川(青線)に沿って遺跡が密集。
地図上に流れる安謝川(青線)沿いに遺跡はない。
地図のなかで、
上の矢印は、銘苅港川遺跡
真ん中の矢印は、安謝東原南遺跡
下の矢印は、銘苅原南遺跡
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ところで、
米軍から土地返還後は、公団による土地区画整理が
行われ、現在は住宅街に変貌しているが、港川の地名が
示す通り、15世紀の初頭までこの地は入り江だった。

この一帯には「浜下り」という、
いまは途絶えた古来の風習があった。
旧暦3月3日に、女性たちが揃って天久浜に出て、
干潮の海で禊ぎをしてから、海藻を苅る。
銘苅(めかる)の意味は、そこから来ていると思う。

語り部に言うと、やはり同じ意見だった。
「北九州の門司港に、和布刈(めかり)神社
がありますね。銘苅も同じ意味でしょうね。
海の若布(芽)を苅り、スズを苅り、稲を苅る。
銘苅には古代からそんな海人族が住んだと思います」

銘苅家とは、海人族の技術集団だったのか…。



by utoutou | 2015-09-19 18:30 | Trackback | Comments(0)