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事代主「天の逆手」と久高島

兵庫県西宮市・長田神社に参拝したのは、桜舞い散る間際だった2週間前。
祭神は、宮中御巫(みかんなぎ)八神の一座・事代主(ことしろぬし)の神。

三韓遠征後、新羅からの帰還中に、船が進行不能に陥った神功皇后に、
「吾を長田国に祀れ」と神託下ったのを機に創祀されたというのが、御由緒。
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拝殿で、昨年参った出雲・美保神社の「青柴垣の神事」を思い出していた。
「天の逆手(あまのさかて)」。事代主の編み出した呪いの手打ちである。

父・大国主神から国譲りの相談を受けた事代主命は、
国の譲渡を勧めると、海に消えた(入水自殺した)。『古事記』によれば、
事代主は「その船を踏み傾けて、天の逆手を青柴垣に打ち成して」隠れたと。

「天の逆手」の解明には、いくつかの説があるようだが、私は、
「手の甲を逆にして柏手を打ち、海に身を投げた」との呪詛説を支持する。
事代主は自死に価する屈辱を逆手に「出雲を祀らねば死ぬ」との言代を遺した。

長田神社の境内には蛭子社、大黒社、出雲大社の摂社が並ぶ。恵比寿様も超笑顔。
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長田神社・参集殿。
さて時間だ…と、鳥居まで来て振り返り、青空に雲を見た。
あたかも出雲と大和は繫がっていると言いたげな、天高く伸びる一条の。
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長田神社から東京に戻ってからの沖縄入り。初日の久高島で暴風雨に遭い、
旅に早くも暗雲たれ込めたが、ひとつ耳寄りな口伝に遭遇した。
曰く「昔、フボー御嶽では、クバの葉を逆さにして供えていたそうだよ」。

事代主の言霊がここに生きていると直感した。「逆手」は「榊」の語源か。
私たちは神社参拝のとき榊を逆さに回して供えるが、その原型を観る思い。
逆さのクバの葉(龍蛇)は生き返らない。が、勝者は敗者を永遠に崇め続ける。
それこそ逆手中の逆手、「天の逆手」ではないか。

沖縄前半は3日目まで曇天。浮かない気分で那覇のスタバでPC遊びを。
写真を整理していると、斎場御嶽に近いスクナムイの1枚が出て来た。
須久名森といい、現在は守礼カントリークラブがあるが、地元では、
「少彦名」にちなむ名前だと伝わる。沖縄で日本神話の神名とは不思議だ。
ともあれこの空にも飛行機雲。久高島から安座真港に船が着いたときの1枚。
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こちら昨秋に訪れた人生初の出雲大社。早朝の鳥居に飛行機雲が流れていた。
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その少し前に訪れた籠神社帰りの車内より。田舎の風景には出雲と地続きの感あり。
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龍神は死なずと、なぜかそう薄暮の空に想った、月光そそぐ久高島・徳仁港。
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by utoutou | 2014-04-26 09:42 | 出雲 | Trackback | Comments(1)

出雲の龍蛇神に会いに行く〈4〉佐太神社

そろそろ出雲の神在祭も終わり。
昨夜は佐太神社で神等去祭(からさでさい)があり、
今夜26日の万九千神社(まんくせんじんじゃ)での神等去祭が済むと、
八百万の神々は、国々へとお還りになるという。

私が佐太神社に参拝したのは、出雲大社の神在祭が始まったところ。
こちらの境内は閑散としていた。

社務所で禰宜さんに聞いた話では、
「20日から25日の神在祭には、例年5万から7万の人が集る」
ということだったが、さて今年は? すると、禰宜さん快心の笑み。
「龍蛇神は、年に1回この5日間にし拝観できませんからね」。

そこで、しばし「龍蛇さん」談義をさせていただいた。どちらから
ともなく話が「古代、龍蛇神は男性器の象徴」と相成り、意見が一致。
ただ最近の龍蛇神は、トグロは巻いても鎌首は立っていないそうだ。
理由は、剥製師が不足してしまったことによる。

社務所に並んだセグロウミヘビに、ちょっと親しみが湧く。
私が買い求めたため、一区画空いた。熨斗付きの箱に入れていただいた。
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談義は続き、沖縄の蒲葵(クバ)が、
木肌や立ち姿の相似から龍蛇に例えられることを伝えると、こう仰る。
「出雲と沖縄は時代の古層では近いと思いますよ。
潮によっては、この出雲の海まで3日で辿り着きます」

美保神社にある糸満サバニの話もされて。セグロとイラブー、
種類は違えど海蛇が結ぶ御縁ゆえか、出雲の人々は沖縄シンパらしい。

そういえば、谷川健一氏は『蛇〜不死と再生の民俗』(2012年)で、
佐太神社の古い木版に印された龍蛇神はセグロウミヘビというより、
沖縄のイラブーウミヘビに酷似していたという目撃談を紹介していた。

現在、出雲地方で龍蛇神が祀られるのは、佐太神社、
出雲大社、日御崎神社だが、かつては、他の多くの神社へも奉納され、
龍蛇信仰はかなり広域に渡っていたという。

さて1泊2日出雲弾丸ひとり旅の最後は、松江市の八重垣神社へ。

アッと息を呑み、足が止まったのは、境内末社・山神神社。
狛犬ならぬ木彫りの男根が屹立。巨大。成人女性の平均身長ぐらいある。
神社に詳しい人には旧知の話らしいが、私は知らなかったわ。
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この山神神社、祭神は大山祇命、石長姫命。
看板には、おおむね次のような説明があった。

古来、金武の旧街道沿いに祀られ「山の神さん」と親しまれていたが、
明治の頃にここ八重垣神社の境内に遷された。
授児・子宝・下半身の病いに霊験あらたかとして、
地元はもちろん遠方より祈願や御礼に参拝され、
手作りの男根などを供える風習が現在も続いている。


写真には収まらなかったが、
社の右手にも石製の男根が立ち、左右対称をなしている。

また軒下には奉納されたらしい木製の男根がタライに山盛り、というか林立。
龍蛇神信仰のバリエーションを見る思い。
子孫繁栄を龍蛇神に託した縄文的信仰は、弥生時代以降、擬きを脱却。
五穀豊穣を約束する「種」へと、そして「生命の源」へと、祈りの対象を変えたか。
境内には、木根の股を祠に、木製や石製の男根を奉納する拝所が何ヶ所も。

八重垣神社の「夫婦椿」ならぬ、美保神社の近くには「夫婦岩」が。
こちらは男根の岩(右)と、女陰の岩(左、裏側が洞穴)の一対。
中央に遠く見えるのは鳥取県の大山。
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出雲大社の神楽殿。左縒り=逆さ飾りの注連縄は、長さ13m、重さ5t。
出雲は神社も何もかもが大きく謎の遺跡も多い。秘せられた歴史もまた?
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by utoutou | 2013-11-26 15:47 | 出雲 | Trackback | Comments(4)

出雲の龍蛇神に会いに行く〈3〉美保神社

出雲大社の次は、島根半島の東端・美保神社へ。
実は美保神社を思わせる伝承が、南城市玉城に残っている。

沖縄最古8千年前の土器が確認されたニュースで湧く南城市。
琉球の稲作発祥の地・受水走水(うきんじゅはいんじゅ)
のある「薮薩の浦原(やぶさつのうらばる)」。
その高台にあるイリハンタというところに、戦前まで
「美保の松原」に例えられる、松並木があったという。

その名もズバリ、琉球の「ミホの松原」。
百名の海を一望し、「ミホの御嶽」もあったと伝わる。
現在は南城市老人福祉センターのある静かな場所だ。

語り部の宮里聡さんが、神女おばあたちに聞いた話では、
薮薩の浦原には米地(めーじ)という古代米発祥地があり、
神女たちは春になると、そこに重箱を供えて祈願した。
米地の別名は、「うさち(上古の)三穂田(みーふーだ)」。

語り部と親交も深かった故仲村ミエさん(玉城王殿内を司祭した神女)
は、雨が降っても、風が吹いても、ここでの拝みを欠かさなかった。
その日とは、旧暦の3月3日。
沖縄では、女性たちが海で禊ぎをする年中行事・浜下りの日。
そして古来、美保神社で事代主にまつわる国譲りの故事を再現する、
「青柴垣(あおふしがき)」神事の行われた日であった。
(現在は4月7日に変更されている)

「青柴垣神事」を描いた絵馬。
えびす様こと事代主は大国主の長男。神話では、国譲りのとき、
父に命じられて神意を伺い、その託宣で出雲支配権の譲渡を決意。
呪術を使い自らの船を踏み傾けて青柴垣に変え、そこに隠れ去った。
船上の白天幕の四隅に飾り付けた、榊の青い枝葉の束を青柴垣という。
二艘の神船は神社前から沖合へと往来した後、神前に参拝する。
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事代主の母である三穂津姫命は、
高天原から稲穂を持ち降りた農業と子孫繁栄の守り神。
稲作にまつわる神話といい、三穂田の名称といい、
3月3日という祭りの日取りといい、出雲と沖縄をつなぐ「ミホ」は、
潮流に乗り海を渡った古代海人族をリアルに感じさせる。
出雲族は古代アマミキヨ族だったのか?

ミエおばあはまた、次のように言い遺した。
「昔、うさち三穂田に男の子とと女の子の兄妹がいた。
親は3月3日に子どもたちを残して船で出て行った。
どこへ行ったのかは分からない。
玉城は、この兄妹から始まったという伝えがあるんだよ」
 
そして、またしても蛇=蒲葵、である。
青柴垣神事で、當屋の二人が手にする祭具は「蝶形の扇」。
これが沖縄の蒲葵扇と形がそっくり。
かつて蛇研究の民俗学者・吉野裕子氏は「蝶形の扇の襞は48本。
蒲葵の葉脈もほぼ48 本」と喝破した。
「蝶形の扇」についてはHP「神々のいるまち美保関」(こちら)に詳しい。

出雲から東京へ帰り、電話で話すと語り部は言った。
「蝶形の扇。久高島の北端にあるカベール岬を、
島では“はびゃーん”と言いますよね。その意味とは、蝶蝶。
これも面白い一致ですね」

久高島の北端・カベール岬(神谷原岬)。方言で「はびゃーん(蝶蝶)」。
2012年の夏に撮影。雲が、龍の落とし子のかたちで浮かんでいた。
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ところで、美保神社の船倉には、
沖縄県糸満市のサバニ(刳り舟)が保存されている。神話や伝説ではなく、
そのサバニは、昭和41年に島根県の有形民俗文化財に指定されている。
戦前、日本海側の海で追い込み漁をしていた糸満海人集団が、
糸満に引き上げるときに置いていった1艘が、奉納されたのだという。 

なんと、そのサバニに運よく遭遇。
美保神社は現在大造営中で、展示館や宝物館(収蔵庫)は閉鎖している。
ところが、参拝の後、そこを通ると人の気配がする。
諸手船(もろたぶね)神事を間近に控えて、船の手入れが行われていた。
覗くと「見ますか?」と大工さんが言う。
「サバニもありますか?」と聞くと「ほらそこに」と。

船倉には、諸手船(右)とサバニ(左)が仲良く並んでいた。
諸手船は古来より原型のまま、樅の木製。墨で塗り椿油でコーティング。
手彫りした神紋は、白を胡粉(貝顔料)で、赤をベンガラで彩色する。
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青柴垣神事と対を成す「諸手船(もろたぶね)神事」は12月3日に
新嘗祭と共に、古くは旧暦11月中の午の日に行われていた。
これもまた記紀に伝える国譲りの故事にちなむ。
絵馬を見て、沖縄で5月に行われる春の風物詩・糸満ハーリーを思い出した。
ハーリーも、海人が海の彼方から神を迎える儀礼が起源と言われる。
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by utoutou | 2013-11-25 10:30 | 出雲 | Trackback | Comments(1)

出雲の龍蛇神に会いに行く〈2〉出雲井社

出雲市駅から始発のバスに乗って詣でた出雲大社。
それはそれは清冽な空気に包まれていた。
朝日が射す境内を、グルッと駆け足で一巡して参拝。
玉砂利を踏む音、鳥の声、4回響く柏手、カメラのシャッター音。
日中のようなざわめきは聞こえない。
参詣客は、思い思いに神々との縁結びを楽しんでいるようだ。


神在祭2日目、朝の拝殿。背後の亀山には雲がたなびいていた。
中央左、白テントが龍蛇神の奉拝所。
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朝7時。八足門で、神座を背に古代本殿の宇豆柱跡を撮影。
図らずもシャッターを切ったのは、神主さんが神拝の一礼をされた瞬間。
巨大宇豆柱は、直径1mの杉×3本をまとめた直径3m。2000年に発掘された。
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八足門。境内を清める竹箒の音が響き、巫女さんや禰宜さんが行き交う。
門の両サイドに配された社紋「二重亀甲に剣花菱」が朝日に輝いている。
亀甲紋は、龍蛇神セグロウミヘビの尾に浮かぶ亀甲模様が原型という。
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さて、境外のそのまた東方にあるはずの聖域へと急ぐ。
前夜のホテルで調べはついていた。
「真名井の清水」の先にあるのは境外摂社の「出雲井社」。

徒歩15分。その社は宇伽山の麓、朝日射す竹薮の西に佇んでいた。
祭神は岐神。クナトの神。背後に回ると巨大な磐座がある。

クナトの神とは、『日本書紀』では、黄泉津平坂(よもつひらさか)
で、イザナミから逃げ去るイザナギが、投げた杖から出た神。
また『古事記』では、イザナギの禊の場面に登場する。
こちらも杖から衝立船戸神(つきたつふなとのかみ)として化生した。
つまり記紀神話においては、イザナギ・イザナミ大神の長男であられる。

出雲井社。説明板にある「由緒」は以下の通り。

 勇武にして地理に明るく、
 大国主神が“国譲り”の際、
 大神の命により経津主神(ふつぬしのかみ)に
 付き添い諸国を平定し
 国土を統一せられた巧神です。
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いっぽう出雲に発つ前、偶然バッグに入れた書『謎の出雲帝国』(吉田大洋氏著、
1980年、徳間書店刊)には、記紀神話とは違う、衝撃の伝承が綴られている。
吉田氏は、古代出雲王朝の末裔という故・富當雄(とみまさお)氏
(当時67歳、サンケイ新聞編集局次長)にインタビューしてこの書を著した。
副題は『天孫一族に抹殺された出雲神族の怒り』。

この本に綴られた富家の伝承をまとめると……。
・富家はこの出雲井社で、代々の口承を語り継いだ。
・クナトの神は出雲王朝の始祖、真の大国主である。
・クナトの大神は五十七代にわたって存在した。
・出雲神族は、紀元前2500年頃(後期縄文時代)シュメールから渡来した。
・出雲神族は、天孫族と長い闘争の末、帝位を奪われ滅亡した。
・“国譲り”物語とは2千年前、天孫族の使者・武甕槌命(たけみかずちのみこと)が
 稲佐の浜で矛を突き立て「否、然(いなさ)」と迫った事件。大国主は降伏し抗議の自殺をした。
・勾玉を王者の証とした出雲神族は、古墳を造らなかった。
・龍蛇神族は、龍神をトーテムとする龍蛇族である。
・出雲神族の紋章「亀甲」は、バビロンの龍蛇神マルドゥクのシンボルと同じ。
・スサノオ率いるスサ族(牛族)は、紀元前2000年にメソポタミアから朝鮮経由で渡来した。
・ヤマタノ大蛇退治は、牛族対龍蛇族の宗教(トーテム)戦争だった。
・元来、出雲神族の紋章は「亀甲に並び矛」。花菱(菊花)は牛族の紋章。
・出雲族は毎年10月、各地の首長(カミ)が出雲に集まり、その年の収穫物の分配について話し合っ
 た。そして祖国を偲び、龍蛇(セグロウミヘビ)を祀るのが習わしだった。

吉田氏の別著『謎の弁才天女』によれば、
富さんが亡くなる数日前に遺した言葉があるという。曰く、
「我々の大祖先はクナトの大首長(おおかみ)、そして女首長はアラハバキ。
体制側によって祖先が抹殺されようとしたとき、
クナトは地蔵に、アラハバキは弁才天に変身した」

弁才天、稲佐浜の弁天島に祀られていた女神だ。
杵築大社(出雲大社)は霊亀2(716)年の建立。
日本書記の完成は養老4(720)年。大和という国の国家、
そして祭祀が大きく変更されていったこの頃、
稲佐の浜に弁才天=アラハバキを祀ったのは、
滅亡を余儀なくされた出雲族の末裔か。
龍宮と呼ばれた沖縄の久高島でも、
古港に面した御嶽にアカララキ(アラハバキ)が祀られている。

出雲大社まで戻ると、本殿が龍蛇の横顔に見えた。
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by utoutou | 2013-11-21 12:43 | 出雲 | Trackback | Comments(10)

出雲の龍蛇神に会いに行く〈1〉出雲大社

きょう11月19日は、出雲大社の神等去出祭(からさでさい)、
神在祭に集った八百万の神々が、佐太神社での神在祭へとお発ちに。
1週間経つというのに、出雲旅の余韻は薄れない。

出雲詣りを敢行した目的は、神在祭に会えるという龍蛇神。
沖縄久高島のイラブー海蛇と出雲の龍蛇神について書いてから(記事はこちら
というもの、一度は龍蛇神にご挨拶をと思っていた。
そこで直前予約。飛行機も宿も「残数1」に滑り込んでの1泊2日。

神迎祭の翌日13日、
朝いちばんで東京を発ち、出雲大社に着いたのが10時半。
長蛇の列だった祓戸社は諦め、拝殿、本殿、素鷲社、神楽殿と巡拝。

そして下の写真。千木が八雲山に突き刺さるかのような、
勇壮な本殿の大社造りに惚れ惚れする。御神体山の八雲山(標高90m)は、
古くは「蛇山」と呼ばれたという。目線はあくまでも「蛇」狙い。
まずひとつ、古代出雲・龍蛇族の痕跡を見る思いだ。
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1時間待ってようやくお詣りできた龍蛇神・セグロウミヘビ。
体調1m程度。昔は2mのものも稲佐の浜に打ち上げられたという。
南方から黒潮に乗って北上、晩秋の北西風に押されて出雲の浜に漂着する。
海を照らして依り来る姿から「神様の使い」と考えられた。
神迎祭に集った神々の先導から、一夜明けての神々しい立像である。
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龍蛇神の奉拝所(仮テント)は、拝殿の横に設えられていた。
長い列に並び、拝殿の屋根に止まった鳩と日の丸などを撮影しつつ、
古代の高層神殿に思いを馳せる。
古代の本殿は、ちょうどこの拝殿のあたりに建っていたらしい。
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出雲国造第八十三代・出雲大社宮司の故千家尊統氏の著
『出雲大社』を読んで以来、その巨大本殿に南島の匂いを感じていた。
抜粋すると、以下のようなくだり……。

御本殿の構えは水上住居の名称を示すものではなかろうかとも思っている。
元来、出雲民族は海洋系の民族であるから、このことは十分に考えられる。
地勢上から見ても背には八雲山、左右に鶴山、亀山をひかえ、
全面には今は埋まってしまったが海に面した地点で、きわめて住居に適した地である。
言い伝えによれば、ご本殿の位置は昔はもっと前方で、只今の拝殿のあたりであったといい、
実際に数年前に今の拝殿を新築したとき、地下から堀立柱が出土し、
その下が海であった事が立証された。床が非常に高いこともこの想像をうなずかせる。
おそらく今の島根半島が島であった当時、外洋を通航する船は、
日の御崎から杵築の方に入って内海を通ったことであろう。
その入口に、大国主神が住居を構えておられたものと想像される。

a0300530_60882.png夕方訪れた吉兆館でオンエアしていた古代巨大神殿CGより借用。古代本殿は高さ十六丈(48m)あり、西(稲佐の浜)向きに建っていた。急坂状の桟橋の長さは約110m。手前の赤丸部分は私が並んでいた龍蛇神テント付近、海に描いた赤丸は約900m離れた弁天島。

参拝の順番を待つ間、
右手、海と反対側には北島国造館の門(四脚門)が見えた。
紅葉も美しい日本庭園の趣き。
門の一本右から境外に出ると、その先に「社家通り」が伸びている。
そのとき、ふと思った。
稲佐の浜と古代本殿を結ぶ東西軸、社家通り、その先の東方には何がある?
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龍蛇神にめでたく参詣、お神酒をいただいた後、
社家通りを200mほど歩くと命主社(いのちぬしのやしろ)があった。
祭神は神皇産霊神(かみむすびのかみ)。

下の写真は、その後ろにある真名井遺跡。
出雲大社より400年古い時代の遺跡、江戸時代に銅戈(どうか)
と硬玉ヒスイの勾玉が出土した古代の祭祀場。木に縄が巻いてある。

聞けば、毎年11月初旬に地元・真名井地区の人々が稲藁を巻き直すという。
どおりで真新しい稲藁のその巻き方は「蛇巻き(じゃまき)という」そうだ。
出雲では藁を蛇に例えるそうで、これはただならぬ沖縄の習俗との一致。
久高島の古祭イザイホーでも、祭りが終わると、
稲藁で編んだ綱引き神事の綱を「蛇状に巻き」東の山に置いた。
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というところで、1日目は時間切れ。
快晴から一転、雨模様の空の下、日没前の弁天島へと急いだ。
高天原の使者が浜に剣を付き立て大国主大神と国譲りの談判をした、
出雲族にとって屈辱の浜。弁天島の頂上に社がある。
祭神は豊玉姫、古くは弁財天を祀っていたという。
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出雲大社境内と周辺マップ。青い線は筆者。
古代本殿(中央青丸)から西へ行くと稲佐の浜。
東(右)へ行くと命主社、真名井の清水。
もしや、その先にあるのは古代本殿より古い磐座?
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地図上(12)が拝殿(13)本殿(14)楼門(15)八足門(16)十九社(17)
素鷲社(18)神楽殿(19)四脚殿
(『出雲大社周辺まちあるきマップ』より拝借)
by utoutou | 2013-11-19 09:23 | 出雲 | Trackback(1) | Comments(0)