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神武の来た道 (了) 神武の北上

神武東征の仕上げは、紀伊半島の「北上」
だったが、それはどんな理由によるものか?

鉄や金に加えて、神武が狙ったらしい熊野・吉野の
 主たる鉱物資源が水銀(朱、丹)だったと考える
と、紀伊半島を東から西へと横切る中央構造線沿い
を、東にまっすぐ進めばよさそうなものを、
くどいようだが、なぜ熊野灘を廻って南から北へ?



↓神武が即位したという橿原神宮(奈良県橿原市)
「神武天皇崩御2600年」の来春、大祭が催される。
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『日本書紀』は、神武が長髄彦の抵抗で半島横断
が果たせないと分かったとき、次の台詞を記した。
〜「いま自分は日神の子孫であるのに、日に
向って敵を撃つのは、天道に逆らっている。
一度退去して弱そうに見せ、天神地祇をお祀りし、
背中に太陽を負い、日神の威光を借りて、
敵に襲いかかるのがよいだろう」〜

その戦略も分からないではないが…。

〜日神の威光を借りた神武軍は12月、皇軍は
ついに長脛彦を討つことになった。〜
同盟を結んだ饒速日命が長髄彦を斬った。〜辛酉
の年春一月一日、天皇は橿原宮にご即位になった。〜
東征に就いてから、6年が経っていた。

古代とはいえ、
もっと効率のよい時短ルートはなかったものか…。


↓中央構造線はこのように走っている。
三峯川総合開発工事事務所のサイトから拝借)
紀伊半島を横切る構造線の東端に、伊勢神宮が
あり、西端に日前・国懸神社がある。
また構造線に沿って、丹生の地名や丹生神社が
多く、古来、水銀鉱山も多かったという。
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橿原神宮の拝殿と、畝傍山(うねびやま)の裾野。
最後に立ち寄った宇陀水銀鉱山は右(東)方向。
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私は、最近こう思うようになった。
神武(か神武なる人)の不自然な「迂回」は、
地理的な「天(北)」へと駆け上がる、
記紀編纂者の苦肉の演出だったのではないかと。

もし、本当に
神武が中央構造線沿いに進んでいたとしても、
記紀が、大和朝廷にとって中央集権を強化する
ツールとして位置づけていたことは、確かだろう。

記紀が強調したかったのは、皇祖神である
女神・天照大御神の煌めく誕生と、
天(高天原)という概念の導入と、さらには、
十二支に基づいて「子(北)」を王位の方向と
する、新しい王権神話の創設ではなかったか。



その意味で、神武が玉置神社のある十津川村
をはじめ、熊野の険しい山脈を北上する物語は、
豊富な鉱脈を含む紀伊半島そのものを手中にした
とする強引な勝利宣言だったのではないだろうか。

そうでなければ、記紀編纂の8世紀になってなお、
おそらく古神道と修験道が息づいていた
「反逆の聖地・熊野」を、「神武東征ルート」
として、たやすく位置づけることはできなかった。



朝7時半、那智山から見る、熊野本宮方面(東)。
縄文から続いた東西軸を崇拝するヨコ志向は、
記紀から、タテ志向の信仰観に変更されたと思う。
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琉球の信仰にも、ヨコ志向とタテ志向があった。
太陽の昇る東方を崇拝する「ニライカナイ」
と、ひとえに天を崇拝する「オボツカグラ」
という、相対する宗教観・自然観だ。

「オボツカグラ」は時代がかなり下った
1713年に出た『琉球国由来記』に登場するが、
その大和的な概念はすぐに廃れてしまったようだ。











by utoutou | 2016-03-14 18:22 | 神社 | Trackback | Comments(0)

神武の来た道 ㉓ 神武が出会ったクズの祖

クスという地名は、どこにありますか?」
そう語り部が聞いてきた。
「熊野櫲樟日命」を読んでから気になっていると。

樟(クス)と同音の、クスがつく地名か…。
考えたこともなかったが、思いつきで答える。
「久須志神社が、富士山に九合目にありますね」
「そうです」
「はい?」
「先住民のいた所が、クスと呼ばれたと思います」

久須志神社については、こちらの記事に。
富士山には、大和朝廷が成立するはるか以前から
この列島に先住した人々の大神が祀られていると、
私が富士山本宮浅間大社に参ったとき、
語り部は視た。

クスに似た地名は「神武の来た道」にもある。
「クスだけでなく、国栖(クズ)もそうですかね?」
聞くと、語り部は言った。
「だと思います。吉野川の上流にいましたね」

神武は橿原神宮に入る前、井戸の中から出て来た
井氷鹿(いひか)と名乗る尻尾のある男や、
「吉野の国巣の祖」である石押分之神
(いしおしわけのかみ)という、やはり尻尾の
ある男に出迎えられたと、『古事記』に。

また記紀は、時代下って応神天皇が吉野宮に
行幸した折り、国栖人が醴酒(こさけ)や
 土毛(くにつもの、特産品)を献上し、
歌舞を奏して天皇を慰めたと記している。



国栖奏(くずそう)は、天武天皇を祀る国栖の
浄見原神社ほか 、近年では神武が即位した
↓橿原神宮の神武祭(4月3日)でも奉奏される。
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また、語り部はこんな突飛な質問をした。
「吉野には、お餅も古くからありますか?」
「そうですね、葛餅なら有名ですけど」
話しながら検索すると、吉野葛の老舗「天極堂」
のサイトに「葛の呼び名の由来」が載っていた。

〜国栖人は主に岩穴に住んでおり、非稲作民で〜
国栖人はつる草の根から澱粉をとり、里に出て売る
ことがあったので、いつしかその澱粉を
「クズ」と呼ぶようになり〜

なるほど、国栖と葛は同義だったのだ。

では、そもそもなぜ神武は国栖を通ったのか。
吉野・熊野は修験道にもなる急峻な山渓。
決して小規模ではなかったろう神武一行の兵站基地
を置けるような平地がなかったのは一目瞭然。
ということは、やはり、国栖あるいは
その次に訪れた宇陀で採れる鉱物が狙いだったか。



私は五條駅(奈良県)から熊野へと南下する
バスで、国道168号線を走った。
神武の行った道は、その東の国道169号線沿いか。
↓途中休憩した日本一長い十津川村の
「谷瀬の吊り橋」。長さ約300m、高さ54m。
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山の民・穴師だった国栖の人が採掘していた
のは、水銀(丹)だったはずだ。
神武が名草邑からあえて南下して、荒坂津へと
迂回したのも、そこに丹敷戸畔の率いる採丹族が
いたからだろう。さらに熊野川を北上すれば、
いま丹生神社の点在する水銀産地へと辿り着く。

そんな折り、語り部が言った。
「国栖と言えば、今度は九頭龍が気になります。
その語源は楠、船玉。それは龍蛇に繫がると思います」

九頭龍。
沖縄ではそれを古来、「7つの首の蛇」と呼んだ。
玉城、久高島、津堅島に、その口伝が残っている。
ことに、久高島は龍宮と呼ばれた。
7つの古代海神族が存在したという意味である。

建国の礎となり大和朝廷で重用されながらも、
やがて、蔑まれていく国津神・龍蛇族。
国栖の人を「尻尾のある男」などと
揶揄したのは、神武や天武ではない。
天武・持統の裏で記紀を創作した藤原不比等だろう。


谷瀬の吊り橋の側で会ったお地蔵さん。
地主神か丹生津姫か、一点の紅が鮮やかだった。
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by utoutou | 2016-03-11 20:43 | 神社 | Trackback | Comments(0)

神武の来た道 ㉒ 神武は殺さなかった

『名草戸畔(なぐさとべ) 古代紀国の女王伝説』
(なかひらまい・著)に、名草戸畔の末裔で、
宇賀部神社(海南市)の宮司家出身である
小野田寛郎氏の聞き書きが載っている。
それを読んで驚いたのは、口伝の内容が、
『日本書紀』の記述と相反することだった。

『日本書記』には、次のようにある。
〜旧暦6月23日、神武軍が名草邑に着いた。
そこで名草戸畔という女賊を誅された。〜

いっぽう、小野田口伝によれば、
名草戸畔は神武に殺されてはいない。
〜「ナグサトベは合戦で戦死しているんです」
「神武軍は(名草軍に)撃退されたから、
しようがないから(迂回して=紀ノ川をのぼら
ないで)熊野に入ったんです」〜

従わない豪族を誅伐して、熊野から大和への道
を駆け上がったと信じられてきた神武東征だが、
ご当地では異説が語り継がれてきたのだった。



↓橿原神宮で見た神武東遷図(最後半のみ)。
地図中(4)は長髄彦との戦いで後退した草香邑。
南下して名草邑へ着くが、以降わざわざ迂回して
海路で再上陸を試みたのは、名草戸畔軍に撃退された
からだというのが、初公開された小野田家の秘伝だ。
ちなみに、(5)は熊野灘(6)神倉山(7)玉置山
(8)宇陀 (9)吉野(10)丹生(11)國見丘。
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勝浦から熊野古道(国道42号線)を新宮方面へ
車を走らせると、「神武東征上陸地」の看板に
遭遇した。「荒坂の津」(現・三輪崎)。
『日本書記』はこの地で、神武はもうひとり女首長
「丹敷戸畔(にしきとべ)を誅した」と記す。
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熊野古道から見渡す、神武が航行した熊野灘。
「荒坂の津」付近に車を停めて撮影(正午すぎ)。
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丹敷戸畔は那智の浜(勝浦)近くの
↓熊野三所権現に地主神として祀られている。
奥の石祠にひっそりと、ということのようだが、
この女首長も神武の逆賊として殺されたのなら、
そもそも祭神として崇めることはできなかったのでは?
振り向くと、逆光に立つ鳥居の横に大楠が見えた…。
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さて、
名草戸畔について、猟奇的な逸話が残っている。
『名草戸畔』で、なかひら氏は次のように記す。

〜神武に殺されたナグサトベの遺体を頭・胴体
・足の三つに分けて、頭を「宇賀部神社」、
胴体を「杉尾神社」、足を「千種神社」に
埋めたという伝承だった。〜

しかしだ。殺さなかったのだから、
神武軍が遺体を切断することはなかった。
それは、この地の祖霊信仰の習俗だったことが、
なかひら氏の取材と考察によって明らかになる。

神武は先住族を殺していない。私もそう思った。
なぜなら、名草戸畔も丹敷戸畔も楠を信仰した。
「船玉の神」である楠を信仰したのは古代海神族。
神武の母・玉依姫は綿津見神(海神)の娘。  
神武と先住族は、実のところ同祖だったからだ。


ちなみに、
和歌山観光情報さんのサイト
名草戸畔の遺体を祀るという三社
(宇賀部神社、杉尾神社、千種神社)情報が見られる。








by utoutou | 2016-03-08 10:08 | 神社 | Trackback | Comments(2)

神武の来た道 ㉑ 古代紀の国の楠信仰

熊野には古くから楠信仰があり、
楠の字を入れて命名された人が多いという。
和歌山出身の博物学者・南方熊楠もその一人。

藤白神社(海南市)饒速日命を祭神とするが、
併せて熊野櫲樟日命も祀っている。
熊野の神(=熊野櫲樟日命)が楠に籠る(子守る)
と伝わる摂社は、その名も「子守楠神社」。
熊楠は両親が楠神に願かけして生まれたという。

そんな謂れからか、熊楠は神木の楠を大切にした。
明治時代、神社合祀反対運動の先頭に立った熊楠は、
当時、内務官僚だった柳田国男に働きかけ、
引作(ひきづくり)神社(三重)の楠の伐採を阻止した。



那智大社の大楠(樟霊社)も熊野櫲樟日命が籠る?
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↓大楠がそびえる藤白神社の摂社・巳神社。
(こちらの写真は、藤白神社HPから拝借)
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楠の神、熊野神であった熊野櫲樟日命
は、子孫繁栄の神であると同時に、
海の人々が崇めた船玉の神でもあった。

『名草戸畔 古代紀国の女王伝説』(スタジオ
・エム・オー・ジー刊)の著者・なかひらまい氏は、
神武が誅したと伝わる紀伊先住族の女首長
・名草戸畔(なぐさとべ)は、楠をトーテムと
して信仰していたのではないかと記している。

理由として、和歌山
市内には、楠を神木とする神社が藤白神社
はじめ十五社もあること。また、
『南海道紀伊国神名帳』の「地祇三十坐」に、
「従四位楠本大明神 従四位名草戸姫大神」
と、列記されていることなどを挙げている。

極めつけは、名草戸畔の末裔という
小野田寛郎氏のコメント(手紙)だ。
〜いつも母から、楠は大樹に成長するので、
大きな船を作るのに適しているため
神聖視されていたと聞いている。〜
(ちなみに小野田氏は、ルバング島から
帰還したあの「小野田さん」である)

スサノオが託宣した造船材・楠への信仰は、
この地で現代まで引き継がれていたのだった。



私が詣でた神社では、伊雑宮が記憶に新しい。
海人性の強い土地柄、倭姫旧跡にも楠があった。
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事代主を祀る長田神社(神戸市)の摂社は、
その名も楠宮稲荷神社。倉稲魂神を祀る。
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そう言えば、
海の神(底筒男命、中筒男命、表筒男、神功皇后)
を祀る住吉大社(大阪市)でも、大楠を見上げた。

熱田神宮(名古屋市)にも空海お手植えの大楠が鎮座。
根元の祠には、鶏卵が供えられていたが、
神の化身の蛇が住み着いているといわれるため。
「龍蛇神は卵好き」といった口伝は沖縄にもある。

船となる神木・楠は、熊野櫲樟日命であり、
各地でも船玉神として崇められた。

なお、名草戸畔が率いた一族は、紀元前、
九州から紀伊半島に渡来してきたという。
〜宮崎から大分の、リアス式海岸のあたり〜
(『名草戸畔〜』)からやって来たという口伝
が、小野田家に残っているそうだが、
船玉信仰はさらに南の島々から起こったと思う。















by utoutou | 2016-03-04 21:07 | 神社 | Trackback | Comments(0)

神武の来た道 ⑳ 熊野櫲樟日命(くまのくすびのみこと)

天照大御神と素戔男尊の誓約で生まれた神の
一柱・熊野櫲樟日命(くまのくすびのみこと)。

熊野速玉大社の新宮には「熊野樟日神」とあるが、
『日本書記』の訳では「熊野櫲樟日命」と表記が異なる。
語尾の「神」と「命」は同義として分かるが、
」と「樟」がわざわざ重複するのは何故か?

辞典で調べたところ、
櫲樟(よしょう)とは常緑高木の名、楠」
「関東以南、台湾、中国の揚子江以南に分布」とある。

また大和神話で、イザナミ・イザナギが
生んだ蛭子(ひるこ)が3年経っても歩かない
ので流されるくだりに出てくる「天鳥磐櫲樟船」
(この場合の読みは、あめのとりいわくすぶね)
とは、「鳥のように早く走り、磐の
ように堅い楠で作った船」の意味だという。

そう言えば、時代はぐっと下るが、
琉球王朝の『おもろそうし』十三巻に
「くすぬき」(方言で楠のこと)という歌があり、
〜楠の御船、行く末を祝福された御船、
国王様の御船であることよ〜と謳われている。
沖縄でも、楠は造船材として利用された。



楠(樟)はまた、神木である。
那智大社の拝殿横には、樹齢800年という
平重盛の手植えによる大楠がそびえている。
高さ27m、幹の周囲8.3m、枝張り25m。
青岸渡寺側の神門から空を覆う枝振りが見えた。
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クスノキには朝日、いや太陽がよく似合う、と思う。

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さて、
熊野櫲樟日命の神名に含まれる」と「樟」
は、同じクスノキ科の木。いずれも樟脳の材料
になるほどの芳香、消毒、防虫が特徴という。
頑丈さ、堅さと、朽ちにくい性質が、古来、
造船材として使われた最大の理由だったようだ。

ただし、決定的な違いがある。
楠(樟)は高さ10m以上ある常緑高木だが、
いっぽうの櫲(よ)は、落葉低木なのである。

『学研漢和辞典』の櫲の項が、参考になった。
〜木の名。クスノキ科の落葉低木。芳香がある。
クロモジ。予樟。〜(後略)

櫲とは、爪楊枝にもなった黒文字という木。
「天鳥磐櫲樟船」が、櫲(よ)と樟(くす)
の二文字をあえて連ねているのは、それが
黒い楠の船だったことを言わんとしたためか。

そこで改めて熊野櫲樟日命の意味を考えると、
熊野+磐+黒い楠+太陽+船。
「堅く黒い楠で作った神船に乗る太陽神」となる。
(熊野を「神の」という解釈で読んだ)

かつて語り部に聞いた話が思い出された。
「粟国島で神女をしている方と、
電話話していたときのことです。
六月祭りの確か1週間ほど前でしたけど、
月のない夜に走る黒い船を霊視したんです。
それを言うと、おばさんは“なんで分かるの”と、
“こっちの島では、神様は黒い神船(かみぶに)
乗ってケラマから来て、島の北のヤガン御嶽
船くんじ(繋ぎ)石に船を着けると言われてるよ
と、教えてくれたんです。神様の乗った船とは、
蛭子の神話とよく似た話だなと、思いました

では、
熊野櫲樟日命を思わせる蛭子とは、どんな神か? 
語り部は言った。
「出雲神族の海神・クナト大神ではないか。
五十猛と同じ神様なのかもしれませんよ」



那智大社の大楠は「楠霊社」とも呼ばれる。
裏の人が入れるほどの空洞があり、
「胎内くぐり」で無病息災が祈願できる。
いまとなっては、重大なお社に感じられる。
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by utoutou | 2016-02-29 17:44 | 神社 | Trackback | Comments(0)

神武の来た道 ⑲ 熊野樟日神(くまのくすびのかみ)

結局、熊野シリーズは終われなかった。
「これで熊野編は終了」と、私は3回言い、
その都度「そうですか」と、語り部は言い、
「名残り惜しいですけど」と、私も言った。
「追跡アマミキヨ」としては読み説き足りない
が、一度の熊野旅では万策尽きた感がある。

そこで、
先週末には兵庫・六甲山の磐座に登り、
天穂日命(あめのほひのみこと)の足跡を
追ったので、そのことを書こうとしていた。
が、今朝、閃くものがあって覚醒した。

鍵は熊野樟日神(くまのくすびのかみ)だ!

1週間ほど前、語り部が電話で言った。
「熊野クスビという神様がいますか?
アマテラスとスサノオが誓約したときに化成
した五男のおひとりだと、日本書記にある…」
このとき、
私には質問の意味が分からなかったが、
確かに『日本書紀』に熊野クスビの名はある。

アマテラスとスサノオが誓約したときに、
スサノオの物実(ものざね)に依って生まれた
第一子は、天忍穂耳命。
第二子は、天穂日命。
第三子は、天津彦根命。
第四子は、活津彦根命。
そして、第五子は、熊野豫樟日命


その熊野樟日神が 熊野速玉大社に祀られ
ているのを、今朝、思い出したのだった。
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熊野速玉大社の神門を入って右側に、
摂社・新宮がある。説明板には、
〜明治四十年九月二十日 新宮町内に祀られていた
左記の当た大社末社を境内の金刀比羅神社に
合祀して新宮神社となった〜と、ある。
 神様一覧に、熊野樟日神の名が見える。
旧鎮座地は矢倉町、神社名は高倉神社と。
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高倉神社は矢倉神社とも呼ばれていたらしい。
そして、その祭神こそは熊野樟日神だった。

『紀伊国牟呂郡名所図会』には、こうある。
〜矢倉明神社、新宮村にあり、宇井氏の祖神ト云〜
宇井氏とは、
語り部が沖縄玉城に同族がいたと見る氏族。
その祖神が熊野樟日神だったとは。

下村巳六著『熊野の伝承と謎』は記す。
(要点まとめ)
・矢倉明神は馬町にあり、隣は宇井野地という。
・ヤグラはイワクラの訛ったものか。
・矢倉明神の祭神は熊野樟日神。
・旧い神だろう。熊野大神か。


速玉神社に参ったあの日、
新宮神社に祀られた神名一覧を見ながら、
伊勢神宮内宮の別宮・伊雑宮に近い磯部神社
を思い出していた。あちらも同様の経緯で、
明治期に町内の神々を合祀したという。


磯部神社の灯籠は六芒星だったが、
↓新宮神社は、太陽と月と宝珠の灯籠が一対。
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新宮神社の右隣りは、恵比寿神社。
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早速、語り部に伝え、意見を求めた。
「天穂日命は、沖縄から熊野に渡来した。
沖縄にいた宇井氏の祖神は熊野熊野樟日命。
では、他の三男神も沖縄から渡来したと?」
「はい、五男のすべてはスサノオの子である
五十猛命(いそたける)の投影だと思います。
「イソタケル…」
「最初に熊野に渡来して紀の国を、そして
琉球を含む島々を治めていた大王でしょう」


思えば、磯部神社にも
スサノオの五男神が祀られていた。
天忍穂耳尊、
天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、
そして、熊野樟日命。

古代、熊野から伊勢志摩の一帯は、琉球から
渡来した五十猛命の新たな本拠地だったのか…。





by utoutou | 2016-02-25 23:20 | 神社 | Trackback | Comments(4)

神武の来た道 ⑱ 補陀落僧と英祖王

琉球に初めて漂着した補陀落僧は禅鑑という。
『琉球国由来記』に伝聞として記録がある。

〜英祖王の時代(1265〜74年)、葦造りの
軽舟に乗って、僧禅鑑は小那覇津に漂着した。
名前を語らず「補陀落僧」とのみ答えた。
英祖王は禅鑑の容姿を見て悦び、浦添城の西
に極楽寺を創建して禅鑑を住まわせた。〜



山号は補陀落山。その極楽寺遺跡は、
↓英祖が眠る浦添ようどれ(墓)の崖下に。
(昨年11月に撮影)
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浦添ようどれの上に立ち東シナ海を望むと、
宜野湾市の火力発電所の2本の煙突が見える。
ちょうど、この崖下に極楽寺はあったようだ。
尚円王の時代に再建され龍福寺と改称した。
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その禅鑑は、はたしてどこから来たのか?
熊野、補陀落山寺の境内にある補陀落僧
の一覧にその名は見つからなかったが…。


禅鑑の出自について、沖縄の学者たちの
意見はいくつかに分かれている。
主なものはというと…
(1)熊野から来た補陀落僧である。
(2)東大寺から中国に渡った僧である。
(3)中国南宋から来た補陀落僧である。

南宋説は、浦添城の考古遺跡から、
中国製陶磁器破片や高麗瓦が出土している
のが、その根拠になっているようだ。
ただ遺された史料は限られており、
どの説もあくまで見解の域を出ない。

「てぃだこ(太陽の子)」と呼ばれた
英祖は、その出自が謎めいた古代王だ。
伊祖世主の子で英祖王統五代の初代となったが、
生母が太陽を見て孕んで生んだという。

いっぽう、
アマミキヨ直系のミントン家のある玉城
では、英祖は前身を玉城湧川按司といい、
伊祖世主の養子になったという口伝がある。
(以前の記事は こちらなど「天孫氏編」に)


いつも浦添ようどれに行くと目を見張るのは
↓浦添ようどれの石積み(今次の戦争で崩落)。
この墓を造ったのはミントン家にゆかりの人々
だという口伝もある。アマミキヨは石工だった?
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英祖五代の玉城王が居城とした↓玉城城
の石積みもまた、非常に珍しい構造だが、
これを誰が造ったのかは明らかでない。
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さて、熊野参詣の旅でもっとも記憶に残った
のは「穴師」の登場だった。

神武が熊野で出会った穴師たちを、
語り部は「天穂日命の末裔だ」と言った。
彼らは穴に住み、太陽と火を崇める産鉄族だ。
また石を積み、埴輪を造る技術集団でもある。

そしてまた、神武の出会った八咫烏の
末裔と言われる熊野三党の宇井氏とは、
玉城上門(いーじょー)の同族ではないかと。

この熊野編もそろそろいったん、一区切り。
折しも、この最終回を書いているとき、
語り部が連絡してきて、こう言った。

「天穂日命の一族は、熊野から出雲へと、
さらなる鉱脈を求めて移動したと思います。
そして、出雲の熊野大社の元を造ったと。
出雲の旧家に、神門という家がありますね」
調べると確かに、神門(かんど)家はある。

「実はミントングスクの裏は、古くから
神門原(かみじょーばる、上門原とも書く)
と、呼ばれていたのです」

そこには、浦添ようどれを造った石工たち
の墓があるとも言われていたという。
一歩一歩ずつ、英祖王と熊野の距離が縮まって
いると思うのは、私だけだろうか?

語り部はまた、こうも言った。
「天穂日命の一族は、熊野から出雲へ行く
途中で、いまの六甲山にいた時代がある…」

というわけで、「追跡」の舞台を
熊野から六甲へと移すときが来たようだ。




by utoutou | 2016-02-22 23:49 | 神社 | Trackback | Comments(0)

神武の来た道 ⑰ 琉球の熊野三所権現

沖縄県国頭郡金武(きん)にある金武観音寺。
境内の洞窟に鎮座する金武宮は、
補陀落僧・日秀上人が創建したと言われ、
熊野権現が祀られている。

 伊弉冉尊(いざなみのかみ)
速玉男尊(はやたまおのかみ)
  事解男尊(ことさかおのかみ)  


↓「高野山真言宗 金峯山 観音寺」の山号。
熊野の補陀落山寺は天台宗だったが、
こちらを開いた日秀上人は真言宗の行者だった。
思えばこの観音寺が私の熊野参りの始まり。
まずは県内と、この旅で熊野神社巡りをした。
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沖縄には「琉球八社」なる神社がある。
金武宮はそのうちの一宮だが、日秀上人の
存在なくして、八社の創建は始まらなかった。


↓ことに、日秀上人が
波上宮(なみのうえぐう、那覇市若狭)の
再建に貢献したことは、よく知られた歴史。
波上宮は写真右の磐上に、手前は波の上ビーチ。 
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八社のうち、波上宮はじめ
七社は、金武宮と同じ熊野三神と呼ばれる
   伊弉冉尊、速玉男尊、事解男尊を祀る。  
  (八幡菩薩を祀る安里八幡宮を除く)  
 
ただし、盛んな熊野信仰を伝える
『琉球国由来記』などは18世紀になって
からの史料で、日秀上人の来沖から200年
以上が経過している。真言宗とは、主に
王家守護の気運のなか高まった信仰らしい。

王朝時代、熊野三所権現と呼ばれたのは、
識名宮(熊野本宮に見立てられた)、
末吉宮(熊野新宮に見立てられた)、
普天間宮(那智山飛龍権現に見立てられた)。

 境内で見た各社の御由緒書きには、
   文字通り、熊野神と王家との関係が伺える。  


【識名宮(那覇市繁多川)】御由緒
〜尚元王(琉球第二王朝第五代王、
1528〜1572年)が長子の病気回復に霊験
を得て建立した〜国王やノロから一般の方々が
各地より参集し、礼拝を捧げ〜尚堅王より毎年
一・五・九月の吉日に国王の行幸が始まった〜

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【末吉宮(那覇市首里末吉町)】御由緒
〜末吉宮は王朝官社時代の琉球八社
の一社で、俗に「社壇」「首里社壇」など
と称され、史料では尚泰久の時代
(一四五六年頃)天界寺鶴翁和尚が熊野
三所権現を勧請して祀ったという。〜
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【普天間宮(宜野湾市普天間)】御由緒
〜往昔、普天間の洞窟に琉球古神道を祀った
ことに始まり、尚金福王から尚泰久王の頃
(一四五〇〜六〇年)熊野権現を合祀した
と伝えられている〜当宮の縁起には、
首里桃原に女神が出現され、後に普天間
の洞窟に籠られた。さらにその後、土絵窟
より仙人が現れ「我は熊野権現なり」と、
御神威弥高に示された〜
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時の琉球王が勧請していた熊野権現。
実は、琉球の熊野信仰は日秀上人より
もっと以前に始まっていたという説がある。

普天間宮を勧請した琉球第一王朝
・尚泰久王の時代より遡ること200年。

英祖王統初代の王・英祖のとき来訪した
禅鑑という僧がいた。僧は名乗らず、ただ
補陀落僧と言ったと『琉球国由来記』は記す…。


by utoutou | 2016-02-17 21:20 | 神社 | Trackback | Comments(0)

神武の来た道 ⑯ 補陀落山寺

補陀落山寺
(ふだらくさんじ、東牟婁郡那智勝浦町
熊野三山を廻った旅の終わりに寄ってみた。
新宮から海岸線を西へ、車で約20分。
途中、「神武上陸地」なる大看板を見た。

こちらのお寺も、ユネスコの世界遺産に登録
された「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部だ。


熊野三所権現を祀る熊野大神社に隣接。
明治時代の神仏分離により、那智山の仏像仏具
が、この補陀落山寺に移管されたそうだ。
ご本尊は十一面観音。天台宗。
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という来歴より、沖縄では
金武観音寺(きんかんのんじ)を開いた
真言宗の日本人僧侶・日秀上人
(にっしゅうしょうにん、1495〜1575年)
が船出したお寺として、むしろ有名か。

寺号にもなっている
補陀落渡海(ふだらくとかい)とは、
南海の極楽浄土へと船出する捨身修行。
平安〜江戸時代にかけて、
22人余りの僧侶が旅立ったと言われる。


境内にそのレプリカが展示されている。
四方に立つ鳥居に、信仰の極地というより、
生きながらの水葬?を思わずにいられない。
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右手へ廻ると、船内の闇の色に足がすくんだ。
1ヶ月分の食料と飲物と共に乗り込んだという。
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日秀上人は、しかし、沖縄に漂着した。
その先は、本島中部・金武のフナヤ(富花港)。
琉球王朝(尚清王)時代は薪の搬出港だった。
上人は、山で働く若者に助けられたという。


そして↓金武観音寺(きんかんのんじ、
沖縄県国頭郡金武町金武)を建て、自ら
 彫った阿弥陀・薬師・正観音像を安置した。
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『琉球由来記』「金峰山補陀落院観音寺」の
くだりに日秀の言葉が引用されている。
〜誠に補陀落山たることを知れり〜

漂着当時の日秀上人は30代で、
その活躍は、金武村だけにとどまらず、
那覇にあった波上権現護国寺を再建したり、
那覇の若狭町に夷堂を建てたり、
浦添に経塚を建てたりした(地名の由来)。

日秀は十数年間、琉球に滞在したらしいが、
琉球を離れて薩摩に渡ってからは、
正八幡宮(鹿児島神宮)の復興にも関わった。

琉球において熊野信仰や真言宗の普及に
貢献したばかりか、熊野〜琉球〜薩摩を結んだ
 その名声は没後何百年も廃れることがなかった。

ところで、
金武村には、もうひとつの日秀伝がある。
村の美少女をさらう青年が、実は観音寺の洞窟
に住む大蛇だったが、日秀が呪文で封じ込めた
という『大蛇退治』という民話だ。


訪れたとき、「この洞窟か?」と潜入した。
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すると、まさに龍を思わせる白い噴煙が、
洞底から猛スピードで這い上ってきた。
肉眼では見えないが、レンズを通すとこの通り。
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画像を見てもらうと、語り部は言った。
「これは、龍神ですね」
なんでも、この洞窟を辿ると上流の大川に
繫がるそうで、そこには金龍が棲むという
伝説もあるそうだが、だとしても、
その「龍」が現代に現われるとは不思議だ。

「金峰山、金武村、金龍。
まさかここが金鉱という暗示じゃないでしょうね」
訊ねると、語り部は笑った。
「いや、そのまさか、かもしれませんよ」

あれから数ヶ月、真相は謎のままだが、
熊野に行って以来、
あの龍がうごめく光景を何度も思い出した。
「修験僧は呪術で鉱脈を探り当てた」
という、熊野の言い伝えとともに…。

☆☆☆

さて、熊野編に入ってから、
和歌山県在住の方々からの貴重なコメントに
大きなヒントをいただき、感謝しています。
mikumanoさんからは、
スライドショーも頂戴しました。
美しい熊野の風景写真はこちらで見られます。











 





by utoutou | 2016-02-12 20:48 | 神社 | Trackback | Comments(5)

神武の来た道 ⑮ お燈まつりと八咫烏

「山は火の瀧、登り龍」と歌われる
神倉神社の「お燈まつり」が、昨日2月6日
に無事行われたと、新聞で報道されていた。

夜8時、神倉山の頂上から男衆が
(今年は2400人が集まったとか)
各々松明を掲げ、火の粉を散らして麓まで
急な石段を火龍となって駆け下りたという。

男たちが家々に持ち帰った神火は、
旧正月(8日)の煮炊きに使われるそうだ。

「火祭り」の画像は今朝の 読売新聞より拝借。
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「火の神」こと神倉神社から戴いた神火で、
1年の災厄を浄化する熊野の伝統祭祀は、
沖縄久高島の古祭イザイホーの直前に、
新しい火(霊)を神女の香炉に移し替える
魂替え(たまがえー)を彷彿とさせる。


その久高島に、
天穂日命(あめのほひのみこと)の末裔と
語り部の言う穴師のいた形跡が残っている。
「アナゴノシー・アナゴノファーという
久高島の始祖がいますが、この夫婦神は、
漢字で表すと、穴子の子・穴子の婆。
“てぃだが穴”住んだ穴師と考えて
差し支えないと思います」



アナゴノシー・アナゴノファーの住処
と伝わる、久高島りアグル御嶽(らき)。
人ひとり、ようやく身を滑り込ませられる
自然洞窟(ガマ)の中は、子宮のように
温かい四畳半ほどの神々しい空間。
地球の息遣いが聞こえてきそうな…。
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穴師がいたと言っても、古代の琉球列島から
砂鉄など鉱物資源が採れたという伝えはない。

ただし、沖縄の海で干潮のときにできる
「ヒシ」に、鉄という意味もあると
知ってから、視野が広くなった思いがする。

〜ヒシ・ヘシは、『和名妙』によると、
鉄鏃を意味し、竿の先に装着した鉄片。
台湾出身の郭安三氏によると、ヒシ・ヘシ
の語は、南方系海洋族の鉄・鉄斧を意味
する語であるという。台湾・琉球にまで広く
分布し、マライ語のbesiは鉄を意味する〜
(真弓真忠・著『古代の鉄と神々』)


久高島・東海岸にできたヒシ。
干瀬と書く。ヒシと呼ばれた古代鉄文化は、
黒潮に乗って熊野まで北上したのか…。
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ところで、琉球に穴師がいたということは、
熊野と人的交流があったのではないか…。
聞けば、語り部は、熊野三党にその
可能性が大いにあると見ている。

熊野三党とは、古代熊野で勢力を誇った豪族
で、宇井氏・榎本氏・鈴木氏を指し、代々
熊野速玉大社の神職を世襲したという。

語り部は言う。
「沖縄南部の玉城百名に、戦前まで
上門(いーじょー)という旧家がありました。
正しい発音は“うぃじょー”。
宇井も“うぃ”とか、“うじょー”と読めますね。
また上門には、宇迦之御魂神を授かっていた
という話も伝わっています。宇井氏とは、
以前お話した“7つの首の蛇”を率いた首長
なのだと思います。
姓は大城といいますが、和邇と同族かと」

また上門家は、英祖王の生母の実家との
言い伝えが、地元・玉城には残っている。
(過去記事はこちら


さて、『熊野権現縁起』には、宇井氏を含む
熊野三党について次の逸話が残っている。
〜孝昭天皇のとき、熊野神に対して、
長男は十二本の榎を奉り榎本の姓を、
次男は丸い子餅を捧げ丸子(宇井)姓を、
三男は稲穂を奉り穂積(鈴木)姓を賜った〜

古代、和邇は丸子(わに)とも書いた。
各地にある丸子とか新丸子という地名は、
和邇氏の居住地だったと言われる。

その和邇氏を、私は沖縄南部玉城にあった
「和名(わな)」に居た人々と同族と考えている。
その和名あたりにアマミキヨの弟・カニマン
が作ったという、古代製鉄遺跡があった。


いっぽう、神倉神社の祭神・高倉下命を
祖神とする熊野三党は、神武を熊野の
山中で先導した八咫烏でもあるらしい。


熊野本宮大社に、次ような説明板があった。
〜八咫烏(由来)〜
熊野では八咫烏は神の使者と言われています。
三本足とは、熊野三党(宇井・鈴木・榎本)
を表すとも言われ(後略)〜
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古代の海運を担った最古の氏族・和邇氏は、
穴師とも親族の関係だと、語り部は言う。







by utoutou | 2016-02-07 19:11 | 神社 | Trackback | Comments(0)