カテゴリ:伊勢( 30 )

伊雑宮と猿田彦〈12〉猿田彦と「日巫女の鏡」

どうして「鏡楠」というのか。
頭の隅に引っかかっていた疑問が解けてスッキリした。
伊雑宮に立つ、樹齢不詳でオブジェのように巨大な楠のこと。

神宮創建以前の伊勢の信仰を書いた『アマテラスの誕生』
(筑紫申真氏、講談社学術文庫)に「木と鏡」との項があったと
思い出して、広げてみると、やはり…。

筑紫氏は皇祖アマテラスは天武・持統時代に
創作された神で、それ以前の伊勢地方で
信仰されていたのは、太陽の魂(スピリット)を持つ
天照大神と猿田彦という男性神だという論を展開、
一時、伊雑宮の祭神とされた玉柱屋姫は日巫女だったという。
つまり「鏡楠」は、神の依り代としても機能していたと。

以下、引用。

〜皇大神宮の別宮の伊雑宮の森には、
巨大なクスノキがそびえ立っています。
この木は、カガミクスノキ(鏡楠)と呼ばれています。
むかしはこの一本の樹木に、ほんとうに鏡をかけて
アマテラスのカミまつりをしていたのかもしれません。
あるいは、カミのよりつくこの木は、
鏡のかけられている木とおなじ意味のもの、
という意識でもって、鏡を実際はかけずにでも、
カガミクスノキとよんだのかもしれません。〜

筑紫氏によれば、
天照大神(男)と猿田彦は同一の神で、
冬至の頃、真冬に祀られたのがアマテラス、
夏至の頃に祀られたのが猿田彦だったという。

いっぽう、日巫女は玉柱姫であり、天の岩戸に祀られた
泣沢女神であり、美都波女神であり、瀬降津姫であった。
また神衣を織る棚機女(たなばたつめ)でもあった。
そんな古代の司祭者であった日巫女たちの祭具は、
鏡であり機織り機だった。

そこで思い出すのは、
沖縄・斎場御嶽の奥宮ナーワンダーグスク。
かつてイナグ(女)ナーワンダーの古墓からは、
人骨とともに機織り機が発掘されたといい、
また頂上には、いまも鏡が安置されている。

「日巫女の時代」を共有する伊勢と沖縄。
海人族がもたらした古代信仰の親和性は、
土地土地に染みついている気がする。


伊雑宮の鏡楠。最近は「バワーツリー」として有名。
伊雑宮近くの「倭姫旧跡地」にある楠もまた「鏡楠」と呼ばれる。
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伊勢古道の途中、伊雑宮を眼下に見下ろす鸚鵡岩からの眺め。
青峰山を遠望。山頂の正福寺は十一面観音を安置。
神仏混淆時代の瀬降津姫、水(滝)の巫女である。
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鸚鵡岩は和合山に抱かれるようにあり、玉依姫を祀るお宮がある。
玉依姫とは「玉(霊魂)の依りつく巫女」のことだそうだ。
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by utoutou | 2014-12-18 21:05 | 伊勢 | Trackback | Comments(0)

伊雑宮と猿田彦〈11〉猿田彦の正体、倭姫の旅

的矢の港で、トンビが大きな弧を描いて飛んでいた。
トンビに油揚げか…と、ふと思ったのだったが、
後で、近隣のMAPを見て笑った。
的矢の中央に赤の鳥居マーク、そして「お稲荷」とある。
偶然のシンクロ? 散歩したときには気がつかなかった。


近くのホテルで餌付けしているらしいトンビ。
スマホ撮影だと分かりにくいが、肉眼でははっきりと。
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的矢には八幡山もあり、お稲荷さんに縁が深いようだ。
↓ 相差(おうさつ)の三吉稲荷大明神、
そして、神宮外宮の横の豊川茜稲荷など、
伊勢志摩地方には、実に秦氏の痕跡が点々としている。
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点と点をつなぐキーが、猿田彦。
↑ 三吉稲荷大明神を末社に置く神明神社も、
明治以前は、猿田彦大神を祭神としていたが、
明治に入って急速に進められた神社合祀により、
あえなくその姿をかき消された。

こうして猿田彦神のひもろぎを思うと、
天照大神の御杖代・倭姫命の巡幸コースが気になった。


天照大神を祀る土地を探して、伊勢国に到着するまで、
倭姫命は16ヶ所を歩いたと『倭姫命世紀』に。
籠神社HPから拝借した地図 ↓の7〜25がそれ。
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もしや倭姫命は、猿田彦が治めた土地を歩いたのか。
倭姫命が古代豪族・和邇氏の系譜であることは既述した。
ならば、倭姫命と猿田彦は同族なのか。

和邇氏は天足彦国押人命を祖とするが、
後裔には、春日臣・大宅臣・粟田臣・小野臣・柿本臣
などに加え、伊勢飯高君・壱師君がいると『古事記』に。

伊勢飯高君、壱師君とは…倭姫命の巡幸地の主である。
飯高宮の神山神社、壱師の阿射加神社、
いずれも祭神は猿田彦。よってやはり、
猿田彦は、和邇氏の祖神の一柱であると考えられる。

倭姫命の巡幸コースも、海部氏、息長氏、尾張氏
と、和邇氏と関係の深い豪族の地にあった。また
美濃、三河は、和邇氏の勢力が強かった土地と言われる。


「猿田彦命は綿津見神の子・
宇都志日金析命(うつしひがなさくのみこと)、
穂高見命とも同神である」と、新説を著したのは宝賀寿男氏。
『和珥氏 中国江南から来た海神族の流れ』(12年、青垣出版)にて。

海神族、和邇氏の系譜には
海部氏、安曇氏もいる。アマミキヨの語源である。
私はミントングスクの神面に残るアマミキヨを
猿田彦と同一視してきたが、どうも当たっていたようだ。

和邇は沖縄玉城の「和名」を本拠地としていた。
その古代天孫氏王朝から、黒潮に乗って伊勢へ
東遷した初代の首長が猿田彦だったと思う。
磯部(海部)の本拠として建てた神祀りの宮は、伊雑宮。

北上して、尾張、近江、美濃、丹後を治めたのが、
いわば先着の王、国津神の猿田彦。
猿田彦はやがて日神として祀られた。
当然、新たなる皇祖神・天照大神の御杖代という重責は、
その末裔にあたる皇女が担わなくてはならなかった。

すべての巡幸地は東経135〜6度の子午線ゾーンにある。
現在の日本標準時をも示す、いわばヤマトのヘソ。
その嶽々を廻り、祖霊を祀り、鎮魂の祈りを捧げて、
新しき皇祖神・天照大神を奉った。
それが「倭姫命、巡幸の物語」の真実だったと思う。

by utoutou | 2014-12-16 20:28 | 伊勢 | Trackback | Comments(0)

伊雑宮と猿田彦〈10〉五芒星

伊勢志摩はワールドワイドな古代譚の多い土地だ。
磯部神社に六芒星の石灯籠があるいっぽう、
的矢湾の隣り、鳥羽市相差(おうさつ)の神明神社
では、ドーマンセーマンと呼ばれるお守りが人気。

摂社の石神さん(玉依姫)も、
女性の願いをひとつ叶えてくれるということで、
全国から参詣客がやって来て、
祈願のうえ、お守りを買い求めて行く。

護摩符としての五芒星の詳細は、
こちら鳥羽観光協会HPで。
セーマンと呼ばれる五芒星は陰陽師・安倍清明の印、
ドーマンと呼ばれる九字は、芦屋道満の印という。


神明神社の境内は細長い。お宮の配置は、
奥から本殿、鎮魂社、石神さん、そして鳥居に近いこちら↓
摂社の三吉稲荷大明神。この地も秦氏に所縁が深いことを窺わせる。
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写真は9月末に参ったときのもので、神明神社本殿は改築中だった。
左の石神さん。祈願には願いを紙に書いて奉拝。右が三吉稲荷。
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神明神社の鳥居や石神さ、いたるところにセーマンがキラリ。
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南志摩の海女さんたちは、
古くからセーマンの魔除け印を縫い付けて海に出た。
かぶりもの、手拭いにも(志摩市歴史民族資料館にて)。
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ところで、五芒星とは何か…

語り部によれば、
古琉球人たちは、その真ん中に光る星を見ていた。
天御中主、救世主としての妙見、
あるいは一等星である天王星を。

紀元前3千年のシュメール文明を源とする、
人間エネルギーを象徴する図形だったのとではという。
いっぽう六芒星は、宇宙エネルギーの象徴だったと。

では、五芒星と六芒星は、どのようにして、
この地にもたらされたのか。
今回の志摩旅で、私は
それは猿田彦によってだろうと確信するに至った。
猿田彦を秦氏の始祖とみてのことである。

なぜなら五芒星の神明神社、六芒星の磯部神社、
ともに明治時代まで、祭神は猿田彦神だった。

こちら神明神社は、明治42年、
八幡宮、白鬚明神、熊野権現、牛頭天王社
などと合祀となり、以下26柱もの祭神となった。

天照大神、天忍穂耳命、天穂日命、天菩日命、
活津日子根命、熊野久須日命、多紀理比売命、
市杵嶋比売命、多岐津比売命、大已貴命、
手摩乳命、脚摩乳命、素戔嗚命、菅原道真、蛭子、
綿津見命、伊弉諾尊、伊弉冉命、誉田別命、
天児屋根命、鵜草葺不合命、玉依比売命、猿田比古命
倉稲魂命、崇徳天皇

不思議なのは、磯部神社、神明神社いずれも、
過去の祭神が猿田彦神であることは、
一見しては分からない。まるで、
履歴を故意に消去されたかのような印象すらある。

さらに調べると、
地主神・猿田彦の守備範囲の広範さに度肝を抜かれた。

皇祖神・天照大神の御杖代として
倭姫が巡幸したルートには、
各地に猿田彦にまつわる共通点があり、
その足跡は、出雲へ、沖縄へ、
そしてシュメールへと、遡ってしまうのである。

by utoutou | 2014-12-13 21:55 | 伊勢 | Trackback | Comments(0)

伊雑宮と猿田彦〈9〉またもや六芒星

六芒星、または籠目紋。
籠神社と伊雑宮の裏社紋だと囁かれて久しい。
その源流を辿れば、ユダヤの神紋、ダビデの星だと。

六芒星の神紋を彫った石灯籠は、伊雑宮から、
内宮・外宮へと三宮を繫ぐ通りに、いまも並ぶ。

神宮側では関与を否定しているようだが、
かつて籠神社の真名井神社の石碑に刻印されるも、1年後に
三つ巴紋に変更された経緯を思い出すたび、深き故ありと思う。

その六芒星の石灯籠が、伊雑宮に近い磯部神社にも。
伊雑宮から佐美長神社への「御神道」から鳥居が見える。


皇大神宮別宮の伊雑宮、その所管社である佐美長神社、
格式の高い両社に比べると地味な印象だが、参詣して驚いた。
鳥居前の左右、堂々たる石門に六芒星がくっきりと浮き彫り。
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「産土の神 磯部神社」とあるが、まさに磯部の総社の趣き。
ご祭神なんと49柱、境内の荘厳さは伊雑宮に引けを取らない。
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さて『磯部郷土史』(昭和38年)に見る、その祭神とは…。

正哉我勝々速日天忍穂耳尊、天穂日命、天津彦根命、
活津彦根命、熊野櫲樟日命、田心姫命、端津姫命、
市杵嶋姫命、素戔嗚尊、大幡主命、
少名彦命、大山祇命、猿田彦命、神倭磐余彦命、
誉田別尊、玉依姫命、速秋津姫命、石凝姥命、櫛玉命、
天目一箇神、大田命、天太玉命、天鈿女命、
彦火瓊々杵命、手刀雄命、木花開耶姫命、鵜草葺不合命、
伊弉諾尊、速玉大神、家都御子大神、
(不詳が、12座ある)


神明造りの本殿。
伊雑神戸の郷の総社として、神宮との関係も深いのだろう。
そう言えば、この土地は佐美長神社の正月殿跡だと聞いた。
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三重県神社庁HPにも…
〜郷内四十余社も伊雑宮の摂末社のような
関係を保って奉祀が続けられてきたが、
明治の末年頃神社合祀の気運が高まり、
村内の坂崎を除く10大字の各神社を
正月殿社跡の現在地に移転合祀し
磯辺神社と単称した〜



水中の赤い鳥居は住吉三女神の銘か。
ここにも六芒星の石灯籠。
境内の少なくとも数カ所に立っている。
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赤い鳥居の右に「神武天皇遥拝所」の石碑。2基の鳥居がある。
神様のオールスター。そして縄文的な調和が感じられる。
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語り部の「六芒星」の話を思った。
六芒星は六家。天皇家が統って「七匹の鮫」の説話になったと。
祭神には天目一箇神、天太玉命など
忌部の祖神も含まれる。
猿田彦神、素戔嗚尊、櫛玉命も。
六芒星が六家の象徴なら、その民は
オリエントを発した渡来族だったか?

by utoutou | 2014-12-11 09:02 | 伊勢 | Trackback | Comments(0)

伊雑宮と猿田彦〈8〉物部氏と「七匹の鮫」

志摩市磯部町の的矢(まとや)湾。
猿田彦の森から30分かかる的矢牡蠣の本場へと急ぐ。  
レンタカーで走行中、牡蠣〜♪と、喉手が出たが、
恨めしいことに養殖工場を見学する時間はない。

で、的矢氏の地を散歩。
的矢美作守(まとやみまさかのかみ)。
おそらく伊勢地方では最古の港だった的矢を居城として、
鎌倉時代後期(1330年頃)から1531年までの230年、
伊雑神戸(かんべ、神領地)の総検校(監督)として、
部民を率いて、神宮と伊雑宮の財源を賄ったという。
   

的矢湾。正面が太平洋方向。いかだ釣りが盛んで、渡船基地が並ぶ。
入り組んだリアス式海岸が大河のように伊雑ノ浦(右方向)まで続く。
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的矢氏は代々、部民の信望篤く名族として栄えたが、
1551年、九鬼水軍の武将・九鬼隆次に襲われて滅亡、
父母は自害、4人の子息は落ち延びて、的矢を去った。

そのとき持ち出したのが、
伊雑宮のご神体、祭具、宝器、古文書だった。
その後、伊雑宮に返された古文書は、後に
江戸の街を騒がせ幕府から「偽書」とされた
『神代皇代大成経』と『先代旧事本紀大成経』
(釈潮音著)という神書シリーズの原典になった。


そこには伊勢内宮・外宮を怒らせた
「伊勢二社三宮図」も載っていた(再掲)。
伊雑宮は日神(天照)、内宮は星神(ニニギ)、
外宮は月神(月読)を祀ると。
その説くところは、
「伊雑宮の社格は、内宮・外宮より上」。 
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興味を引かれるのは『先代旧事本紀大成経』が、
物部氏の始祖伝承(ニギハヤヒ降臨)を
重視しているということだ。
その秘伝書を伊雑宮から命がけで
持ち出したのは、的矢美作守の遺児。


的矢氏が物部氏であることは
『志摩国神戸御厨記文之内的矢旧事』(1313年)に
「当職者の本姓は物部氏」と書いてあることで分かる。


港を歩きつつ「7匹の鮫」の話を思い出す。 
旧6月24日、太平洋の大海原から的矢湾を通り、
7匹の鮫が列をなして伊雑宮まで上ってくると。
的矢だけでなく、志摩の複数の漁村に残る伝承という。
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なぜ7匹なのか。その答は
『先代旧事本紀大成経』にあると思った。
序文には「大成経序伝」と「神代皇代大成経序」
のふたつがあるが、後者には、
「吾道・物部・忌部・占部・出雲・三輪の六家の
祖先人のことを記した 家蔵の記録を集めさせ……」と。
同族の6家が、黒潮に乗って伊勢に着いたか。

しかし、6。1足りない…。
こういうときは語り部に電話する。
「6+1で7、7匹はその比喩では?」
「そうだと思います」
「で、残りの1とは?」
「天皇家だと思います」
「はあ……」
「その6家が、6芒星になるのです」


by utoutou | 2014-12-09 21:03 | 伊勢 | Trackback | Comments(0)

伊雑宮と猿田彦〈7〉物部氏と秦氏の里

伊雑宮のお白石行事の木遣唄のかけ声。
私には「イェンヤー」と聞こえたが、
ニュースによれば「エンヤー」ということだ。
いずれにしても思い出されるのが、
ヘブライ語だった。

『日本書紀と日本語のユダヤ起源』
(ヨセフ・アイデルバーグ著)
によれば「エンヤー」はヘブライ語で
「(船で)行くぞー」の意味とか。

昔のお白石持ちは「川曳き」だった
というから、当たっている。
沖縄の「立ちグェーナ」の「エイヤ」も、
そうした意味のかけ声だろうか?


伊雑宮には、くだんの六芒星が裏神紋だ
という伝承もあり、古代ユダヤとの関連が
どうしても気になるところ。
『沖縄ルーツ紀行 聖書でひも解く沖縄の風習』
('10年、球陽出版)という本を出したときに、
沖縄に残る新旧聖書と類似の風習を調べたことがあり
耳にする神歌の掛け声ひとつにも、
日頃からやや敏感になっている。


伊雑宮のある上之郷まで、鳥羽から
近鉄志摩線に乗ったときは駅名が気になった。
駅は上之郷。もしや神之郷のことか、などと
思い車内でチラチラと路線図を見ていたが…
(撮影は伊勢市に戻る夕方)
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近づくにつれ、気になる駅名が続いた。加茂、松尾、そして白木…。
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京都の賀茂神社、松尾大社は秦氏が創建に関わる神社である。
白木は…新羅を連想すれば、新羅経由で渡来した秦氏に行き着く。
実際、三井寺HPで、こちらの白木には新羅神社があると知った。
伊雑宮のある志摩磯部は、秦氏の里なのだった。


この日も語り部の霊力は冴えていた。
郷土資料館で、
志摩磯部は古来、物部の地であったと知ったとき、
語り部に電話をかけたのだったが…。

ちょっと伝えたいことがあった。
「伊雑宮の神領をまとめていたのは物部氏の裔です」
「なるほど…沖縄との関連は深まりますね」
そんな話をした数分後、返信があった。

「志摩に、的矢湾という所がありますか?」
「はい、伊雑宮の神領地の範囲でした」
「いいですか?」
「はい…?」
「ま・と・や を言い換えてみてください」
「や・と・ま…違うか。や・・・・。ヤマト?」
「的矢はヤウマト・レビ族の渡来地でしょうね」
「秦氏…!」

ヤウマトという土地のあるユーラシア大陸を渡り、
朝鮮半島の新羅を通り、日本に渡来した
と言われる原始キリスト教の民・秦氏が、
この物部氏の里に辿り着いたというのか…。
では、沖縄との関連は? 
図らずも新たな魔境に突入してしまったか。


資料館で見た、昔の的矢湾。
「待ちの帆船でにぎわう的矢湾 明治時代」と説明があった。
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by utoutou | 2014-12-05 22:28 | 伊勢 | Trackback | Comments(0)

伊雑宮と猿田彦〈6〉伊勢の浦田、沖縄の浦田原

「伊勢の猿田彦神社があるところは、浦田ですよね」
 朝8時、語り部から電話があった。
「はい、内宮に近い宇治浦田というところです」
 昨日のブログに載せた猿田彦神社の
 御神田の写真に、ひらめくものがあったらしい。


伊勢市宇治浦田にある猿田彦神社。
本殿の右側を奥まで進むと御神田。
お田植え行事「御田祭(おみた)」は5月5日に行われる。
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語り部は言う。
「猿田彦神社があるのは浦田、沖縄の浦田原と同じですよ」
「あ、確かに……」
「猿田彦は渡り神。
やはり沖縄にも渡来して行ったのです」

沖縄の浦田原は「うらたばる」と読む。
南城市、沖縄開闢の地・百名。
稲作が発祥した受水走水(うきんじゅはいんじゅ)
を含めた一帯が「薮札の浦原(やぶさつのうらばる)」。
そのなかで、とくに、稲作が始まった
親田(うぇーだ)周辺は「浦田原」と呼ばれた。



浦田原あたり。
田植え祭「親田御願(うえーだのうがん)」は2月に。
「四方拝、三十三拝」という珍しい拝礼をするのが習わし。
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伊勢の浦田と、沖縄の浦田原。
いずれも古代には、海際の湿地帯だったであろう米どころ。
「浦の田」という意味では、各地にある名前かもしれない。
が、次の話を聞いて完璧に目が覚めた。


 20年ほど前の話だという。
「受水走水の田んぼに柱のようなものが立って
いるのを、私が霊視したとき、
 百名玉城のおばあに聞いたことがあるんです。
 おばあ、この田んぼには竿が立っていたの?って。
そうしたら、おばあは
あたんど(そうだよ)、わったー(私が)
 わらびそーいに(子どものときはね)と言ったんですよ」

 そんな最近…およそ100年前まで柱が立っていたとは。

「猿田彦=太陽神はその忌柱に降臨したと?」
「はい、そして…」
「そして?」
「浦田原で私が見たのは、天の白鳥。
夜明け鷲と呼ばれる鳥」
「だから、高千穂の峰と呼ばれたんですね」
「そうです」

 
さて、旧正月の初午の日に行われる田植え祭り。
神歌『天親田のクェーナ』の歌詞はこうだ。

阿摩美津(あまみつ)の始みぬ〜
浦田原(うらたばる)巡(み)ぐやい〜
泉口(いずんくち)悟(さとう)やい〜
湧(わく)ぬ口悟(さとう)やい〜
縦溝(たてんず)割い開きてぃ〜
枡(まし)ぬ型(がた)据(い)してぃ〜(後略)

以上はほんの一部で、全47行ある長いクェーナ。
座って歌う「坐グェーナ」と「立グェーナ」がある。
立って歌うほうの合いの手は「ヨーイ エイヤ」。
驚くほど似たテイストの合いの手を最近聞いた。
伊雑宮の「お白石持」行事。
木遣歌の合いの手は「エンヤー」だった。


猿田彦神社(9月末に撮影)。
「平成の御造営」の看板が立っていたが、
11月に車で通りかかったときには、現れた本殿が見えた。
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by utoutou | 2014-12-04 21:33 | 伊勢 | Trackback | Comments(0)

伊雑宮と猿田彦〈5〉猿田彦は沖縄から来た太陽神

「猿田彦神はテーラーガーミだと」と、語り部は言う。
過去にそういう神託があり、
また神女の人たちも言っていたと。

テーラーガーミ(太陽神)。
沖縄久高島で旧暦8月に行われる「太陽の祭り」
久高島では珍しい男の祭りである。

伊雑宮のもともとの祭神は男の天照大神であり
伊勢志摩の地主神・猿田彦だと何度か書いてきたが、
猿田彦は南方から来た「日神」「渡り神」だったか。


一昨年の久高島・テーラーガーミ。
大主(ウプシュ、50〜70歳の男)たちが集落を祓いながら歩く。



テーラーガーミの主祭場・ハンチャアタイ(神の畑)。
右端にある石積みの山は、拝所「天の門」(てぃんぬじょう)。
「天と地をつなぐ石」あるいは「天へのかけ橋」である。
男たちは祭りの始まりとともに、集落中央のこの地で、
正座したまま東にある「天の門」に向き、合掌礼拝。
テーラーガーミの霊威を受け取る。



語り部は言った。
「テーラーガーミが猿田彦だということは
隠されてきたのだと思います」

久高島では8月を“ハティナリキ(悪い月)”という。
ゆえに健康祈願の祭りをするのだと伝わる。
しかし、実は、太陽神が男であってはならないという
ヤマトか琉球王朝の圧力があったのではないか。

「宮古(島)の狩俣という集落に祖神祭(うやがんまつり)
という冬祭りにも、サダル神がいる」という。

神女たちが列になって歩く祭りの、
その先頭に立って歩く神女が、サダル神。
“道ひらきの神”としての原型は沖縄の島々にあったのだ。


思えば「天の門」は、伊雑宮の御神田の柱と同じ機能を持つ。
↓あぜの中央に1本(いまは2本)の柱が立ち、
御田植え祭りでは、そこにゴンバ団扇を挿すのだが、
これは、天と地とを結び神が昇降する「天のかけ橋」だ。
伊雑宮の祭神が「玉柱屋姫」だった時代もあるが、
それは「柱」を祀る日巫女という意味か。


伊勢内宮に近い宇治浦田にある猿田彦神社
の北側にある御神田にもまた「天のかけ橋」があった。


語り部の話は続く。
「猿とは申とも書きます。田んぼに挿した柱だから、申。
久高島の“天の門”も、太陽神が依りつく忌柱なのです」
私も言った。
「京都の賀茂神社にある御蔭木(みあれぎ)の原型?
ならば、物部(もののべ)の神祀りと同じですね」
「琉球は、物部氏ら海人族が黒潮に乗って渡来して、
去っていった島ですから」と、語り部。

by utoutou | 2014-12-03 22:47 | 伊勢 | Trackback | Comments(0)

伊雑宮と猿田彦〈4〉神の名は「瑳婁儺秘祜大神」

伊雑宮から磯部川(旧神路川)を遡ること約3㎞、
天の岩戸の上の逢阪峠近くにあったという猿田彦神社。
いまも神話が残る森で、その痕跡と思われる祠に出会った…。


失われた猿田彦神社は、写真の正面あたりの遠い山中にあった。
お白石持行事(11/22)の日に、伊雑宮の御神田広場から遠望。
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前回の項でも書いたが、猿田彦の森の「片枝の杉」で石祠を発見。
古葉が付着する祠のなかを掃除していると、なんと石神札が倒れ出た。
神名は瑳婁儺秘祜大神。絶句しつつ見つめ、サルタヒコ大神と読んだ。
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ところが、神様の石札を聖地の祠に戻そうとして、2度びっくり。
奥にはさらに神が隠れていた。實國固遠都御祖大神。
こちらは頑丈で動かない。
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何と読むのだろうかと、
旅を終えてからも頭から離れなかったが、
實國固遠都御祖大神(みくにのかためおんずおんそおおかみ)?

同名の神は、山梨県小海町の観光協会のHPで見つかった。
實國固遠都御祖大神をご祭神とする
大成宮(万世太平弥栄神社)。
観光協会に連絡すると
「詳しいことは分からないが、それは
河口湖の近くにある宗教法人のもので、
赤岳に奥宮がある」という。


↓赤岳(2899m)山頂の弥栄神社(左半分)。右半分は赤嶽神社。
写真は「おみやさん.com」に許可をいただいて拝借。感謝。
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その宗教法人には何度電話をかけても、つながらなかった。
猿田彦と八ヶ岳の山岳信仰?との関係を知りたかったのだが…。

そう言えば、猿田彦の森のある磯部恵理原の人が言っていた。
「昔、天の岩戸の近くには、いつも
修験僧が来ていて、何日も滝行をしていたものだよ」
森の石祠は、そうした神人による奉献だったのか。

ともあれ、伊勢には内宮の創祀以前から
伊勢地方の「日の神」として伊勢大神こと
猿田彦が存在していたのだと、改めて思う。

猿田彦から皇祖アマテラスへ。
天武・持統の時代に祭神が変更されたであろう伊勢志摩の国。
が、何もこの地に限ったことではないと思う。なぜなら、
それは大和朝廷の中央集権国家への道程
のなかで起こったことだったからだ。

その時代に、琉球も
大和から関係を断絶されたのだろうか。

などと思っていた日、語り部から電話が来た。
「久高島のテーラーガーミは、猿田彦のことですよ」
いまも久高島で続く、旧暦8月の「太陽神の祭り」。
祭神は、古来、とことん伏せられてきたのだったが。

by utoutou | 2014-12-03 08:53 | 伊勢 | Trackback | Comments(2)

遷宮準備の伊雑宮〜お白石持

ふたたびの伊雑宮。3連休1日目の11月22日。
東京からの新幹線も名古屋からの近鉄志摩線も満々席
だったが、午後2時に伊雑宮のある
上之郷に辿り着くと、
『お白石持(おしらいしもち)行事』の真只中。

伊勢神宮で20年ごとに行われる
『式年遷宮』の一環として、
こちら伊雑宮でも1年遅れて同様に。


新正殿の周囲にお白石を敷き詰める神事
があるのは、
月読宮・瀧原宮・伊雜宮・倭姫宮・月夜見宮。

各宮ゆかりの地元の人たちが、伊勢の宮川上流で拾い集めた
こぶし大の白石を奉曳車(ほうえいしや)に載せ、
木遣唄(きやりうた)を歌いながらお宮まで奉曳。
伊雑宮の場合は、奉曳車は2台。
伊雑宮の鳥居前に到着。
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御神田(おみた)広場で、各団が木遣り唄を披露の後いざ参宮。
午後2時半。それにしてもよい天気。
参加者200人、観光客・マスコミ多数。
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参加者はお祓いを受けた後、新宮にお白石を置いて安寧を祈願。
神域に足を踏み入れ、金色に輝く総檜の新宮を仰ぎ見るのは素敵。
お白石の到着を待つ境内も、すっかりお祭りモード。
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伊勢神宮内宮・外宮のある伊勢市とは一線を画す?
法被の背中の「志摩市」のロゴ。
荘厳にしてワイルドな20年に1度の神事
に相応しい白い法被が粋。

「お、お白石持ち、何回目?」
「初めてだよ」
「そりゃそうだね」「あはは」と、
行き交う人同士が挨拶を
交わしてしていたのが印象的。
伊雑宮の遷宮は28日(金)20時から執り行われる。
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by utoutou | 2014-12-02 20:06 | 伊勢 | Trackback(1) | Comments(0)