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伊雑宮と猿田彦〈3〉道祖神になったサルタヒコ

猿田彦の森を登る、一歩ごとに、
天の岩戸の源流に近づく実感があった。
そして、いくつかの疑問が解けていく。

まず、
日本書紀の垂仁天皇のくだりを思った。
「五十鈴川の川上」が出てくる。

こんな話だ…。
倭姫が巡行の果てに伊勢国に入ったとき、
天照大神は宣った。
「神風が吹き、常世の波が寄せる国、傍国の美し国。
私はここにいようと思う」。
そこで倭姫は、その祠を伊勢に定め、
斎宮を五十鈴川の川上に興した。
そして、これを磯宮と名づけた…。


傍国(かたくに)=片方が海、片方が陸の国。
そして美しい国。それは、伊勢ではなく
この志摩の磯部のことではないか。
だからこそ、磯宮と名付けたのではないか。


真下から見上げた「片枝の杉」
樹齢500年は経っている?
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もうひとつの疑問は、内宮に
祀られている興玉神(猿田彦)のこと。

以前にも書いた
猿田彦と瀬織津姫という一対神は、
アマテラス鎮座の前から伊勢の祖神だった。

ゆえに内宮の中には「興玉神拝所石壇」があり、
それは太陽の昇る東を向いているという。

森を登りつつ、東とは、この猿田彦神社の方向
でもあったのだと、しきりと納得した。


地図左上に加筆した赤の矢印が、伊勢・内宮の方向。
右手の赤丸が天の岩戸。上の逢坂峠との間に、
江戸時代まで猿田彦神社があった。
天の岩戸の下流につけた青丸が伊雑宮。
地図は郷土史より拝借。
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さて、
片枝の杉を見上げた後、足元に目を転じると、
そこには小さな祠があった。
道祖神のように、ひっそりと。東を向いている。
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祠の中に、神名を彫った御札が祀られていた。
容易には見えず、指で詰まった枯葉などを除く。
すると、カタッと小さな音がして、
あろうことか、御札が倒れてきた。


神様が倒れた…
合掌する前に、実はそういう「事件」があった。
動揺して、あたりを見回すが誰もいない。
海の方向から太陽が見つめていた。
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神名は、⚪️⚪️⚪️⚪️⚪️大神。難しい字だ。
しばらくしゃがんだまま、手にした石札を見つめた。

とにかく戻さねばと、祠を覗き込んだとき、
さらに違う神様も祀られていることに気がついた…。



by utoutou | 2014-11-30 23:18 | 伊勢 | Trackback | Comments(0)

伊雑宮と猿田彦〈2〉猿田彦のひもろぎ「片枝の杉」

伊雑宮の元々宮がある? 猿田彦の森。
太古の息吹が感じられる。
天の岩戸(水穴)から300m登ると「風穴」がある。
その岐路から先、高所にあるはずの猿田彦神社を探す。


赤い布を巻いた小杉の左に登り口を見つけた。
これで行こう。
隠された御嶽(聖地)への道程は、何らかのかたちで示される。
誰かがつけた印があったり、植えられた木がモノを言ったり。
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道らしからぬ道は、崖状の尾根の数mほど右にあった。
斎場御嶽の奥宮ナーワンダーグスクへの道と、地形が似ている。
斜度はこちらのほうが急だが、灼熱のジャングルを
掻き分けて登ったのに比べれば、何倍かラク。


↓『伊勢参宮名所図会』にある猿田彦の森。
大杉の前に鳥居。旅姿の男たちが参詣する図。
これも前日、志摩市郷土資料館で改めて見たばかり。
景色はほとんど変わらないが、にぎわっている。
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図会の解説ページにはこうあった。 〜猿田彦森 
合坂より下る所に有 杉のこらず片枝に生えり 故ある事と云〜 

合坂とは逢坂峠のこと。
伊勢(神宮)と志摩(伊雑宮)の境界。
そして、伊勢神宮の五十鈴川、伊雑宮の神路川(旧名)
両方の川へと注ぐ分水嶺でもあった。


それにしてもいったい…
「どんな故」あって、杉が「片枝に」なったのか? 
考えつつ、神籬となった杉を探しながら登る。
地形と時間からみて、太陽を背にしていれば方向は誤らない。


あった。森のど真ん中に巨大な「片枝の杉」。
これが猿田彦の神木か。
まるで引き裂かれたように、片枝。
目に見えるほど強烈な神気が放たれる。
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もしかすると、怒りで片枝になったのか。
記紀神話では、アマテラス大神を迎えたのが猿田彦。
出会いの地は、五十鈴川の川上だった。つまり…
この猿田彦の森(逢阪峠)を指しているとも考えられる。
それなら、猿田彦の怒りはもっともなことだ。


巨杉の根本に、石の小祠があった。
天の岩戸でペットボトルに汲んだ水を供え、utoutou(合掌)。
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思えば、きょう11月28日の夜、伊雑宮で遷御の儀がある。
天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)。
最初の遷宮は持統4(690)年、倭から大和へと国号も変わった時代。
遷宮とは、倭の神々を鎮めるためだったという説を思い出した。

by utoutou | 2014-11-28 13:45 | 伊勢 | Trackback | Comments(0)

伊雑宮と猿田彦〈1〉埋もれた旧道



11/23の午前、伊勢市から
紅葉の山を越え、2ヶ所のトンネルを通り、40分。
志摩市磯部の恵利原にある水穴へ。
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通称「天の岩戸」でお祭りがある。「ご案内」は次の通り。

--------------------------------------
天の岩戸 例大祭 のご案内 
恒例であります、天の岩戸「例大祭」を実施いたします。
皆様、お誘い合わせの上、ご参拝していただけますよう
お待ちいたしております。

日時 平成26年11月23日(日)午前中
午前10時30分 〜 祭典
(中略)
天岩戸メモ
○祭神 天照大神
※他に祭られている神 泣沢女神(なきさわめのかみ)
           美都波女神(みずはのめがみ)
             猿田彦神(さるたひこのかみ)  
-------------------------------------------

主催は恵利原老人クラブ。
名だたる名所・天の岩戸だが、産土神様のお祭りの趣き。
泣沢女神と美都波女神は同名異神の「瀧の女神」、
伊勢内宮正宮の奥に祭られる荒祭宮の祭神・瀬織津姫である。
また猿田彦神は、明治以降、
伊雑宮の所管社・佐美長神社の祭神となった大歳神。

推察するに、沖縄を経由して
伊勢の地主神となった遠来の太陽神・猿田彦と、
太古からこの地に坐していた瀧の女神・瀬織津姫。
伊雑宮の祭神の座を、皇祖・天照大神に明け渡した、  
一対の産土神を、地元ではこのようにして祀ってきたのか。


天の岩戸(鳥居の水穴)=滝祭窟。拝殿が右の石段の上にある。
緋の垂れ幕などが施され、お祭りらしい華やぎが感じられた。
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石段を登り合掌。ふと前回は察知できなかった何かが、訴えてくる。
お宮の向きだ。こうして合掌する先は、どっちを指すのかと。
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「猿田彦の森」「猿田彦森の神社」という昔の地名を、
前日、郷土資料館にあった郷土史で垣間見たばかりだった。
〜岩戸さんに詣って急な坂道を伊勢道路に向うと、猿田彦の森〜
伊勢道路とは、いまは山に埋もれた伊勢旧道のこと。


「この上は猿田彦の森ですか?」と古老に聞くと「ああ」と仰った。
「では猿田彦の神社は?」「いまはない」と、山の上を仰ぎ見た。
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「いまはない」なら猿田彦神社の跡地へ行こう。

ぐるり眺めると観光名所の風穴へ向う入口がある。
この鳥居が消えた神社への道標だったかもしれない。

伊勢志摩でも御嶽登り…と苦笑しつつ、
お祭りの賑わいに背を向けた。 
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by utoutou | 2014-11-26 21:00 | 伊勢 | Trackback | Comments(0)

遷宮前の伊雑宮へ〜の前に内宮早朝参り

連休のなか1泊2日で伊勢志摩へ。
内宮には参拝したいが、
車で40分かかる伊雑宮や天の岩戸へも…
というわけで、内宮至近の宿に泊まり、
2日目はまず早朝参拝を試みた。

以下ざざざっと「早朝伊勢内宮参り」メモ。
※時刻はスマホ画像の記録のまま。


【6:47 宇治橋】 宿で予約してあった自転車で急ぐ。
日の出はとうに過ぎたが清々しい鳥居。
集合中?の数十名の参詣団の皆さんを背に。
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【6:48 五十鈴川】朝の参拝客は足はや。ひとり橋から身を乗り出し川面を。
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【6:50  紅葉その1】宇治橋を渡り右折して、紅葉の園に心が和む。
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【6:52 紅葉その2】勝手に霊石と名づけているスポット。五十鈴川沿い。
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【6:55 紅葉その3】正殿参拝には時間が足りず引き返す目にも紅葉の山。
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【7:00 おはらい横町】賑わう日中なら1時間の道のりを、
自転車5分で駆け抜ける。早朝開店も何店か。
モーニングサービス、次回は是非に…。
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【7:20 浦田町バス停】宿を出てバス(三重交通)を待つ。
非常にココロ洗われた朝を満喫したので、
神宮参拝はやはり朝に限ると感じつつ、
天の岩戸への足(レンタカー)を求め、伊勢市駅前へ。
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by utoutou | 2014-11-25 03:30 | 伊勢 | Trackback | Comments(0)

伊雑宮へ〈16〉藤原vs.蘇我

聖徳太子と蘇我馬子の撰録を含む『神代皇代大成経』は、
江戸の識者の間で論争となった挙げ句に禁書となり、
神官ら多くの人が処分された「伊雑宮事件」として語られる。

が、偽書とされるほど興味深々となるのは人の常、
未だに「原本は伊雑宮の神庫にある」とも囁かれる。曰く、
秘伝書にはコピーがあり、太子の没後、推古天皇が伊雑宮のほか、
大阪の四天王寺と大三輪社(大神神社)に秘蔵させたと。
四天王寺…聖徳太子が建立した寺であるところに信憑性が漂う。


さて、その聖徳太子が、後に持統天皇が不開門(あかずのもん)を
建てることになる千田寺に「遊覧」したときの話が郷土資料にある。

(要約)
〜垂仁天皇の時代、天の真名鶴が「大歳の神前」に稲穂を落とした。 
倭姫が池に種を撒くと五穀豊穣に。八百万神に神酒を献じた。
後年、その話を聞いた聖徳太子が来て感歎。
山を無量山、寺を千田寺と名づけて、倭姫の古語を残した〜

持統天皇もこの話を聞食(きこしめして)行幸…と続くが、
持統は聖徳太子の痕跡をも封じようとした。
その胸中にはいったい、どんな怨念が渦巻いていたのだろうか。



伊雑宮の境内の聖なる木立。
その北に素戔男尊や大己貴命など出雲の神々を祀っていた不思議な森。
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持統vs.聖徳太子、その対立の構図は、
藤原氏vs.蘇我氏という政権争いの反映だったと思う。
持統が伊勢行幸した年の半世紀以上前から、その種はあった。
ちょっと歴史をおさらいしてみる。


用明天皇皇子・聖徳太子が十七条の憲法を制定したのは、604年。
    伯父・蘇我馬子との実質的な二頭政治の下だった。
622年に聖徳太子が死去すると、蘇我氏の専横政治となる。

645年、乙巳(いっし)の変、大化の改新。
    中大兄皇子(後の天智天皇)は中臣鎌足(藤原鎌足)らと、
    宮中で蘇我入鹿を暗殺。翌日、入鹿の父・蘇我蝦夷も自害した。

672年 壬申の乱。
    天智天皇の大友皇子に対し、弟の大海人皇子(後の天武)が
    海人族を味方に反旗をひるがえし、大海人皇子が勝利した。

686年、持統の夫である天武天皇が崩御。
大津皇子、草壁皇子も薨去して、690年、持統が天皇に即位。
697年 持統天皇、孫の文武に譲位。
文武は藤原不比等の娘を迎え、聖武天皇が生まれる。


持統が他界したのは、703年。
その背後には常に、天皇家の外戚(外祖父)の座を、
そして政治の実権を狙う藤原不比等の闇の目が光っていた…。


ところで、件の「乙巳の変」。
聖徳太子の伯父・蘇我馬子から4代目の入鹿が暗殺され、
結果、蘇我氏が滅亡に追いやられた。

その凄惨な現場に居合わせたのが、古人大兄皇子。
舒明天皇を父にする中大兄皇子と大海人皇子の異母兄で
皇位継承権一位、母は蘇我馬子の娘だった。

実はこの皇子が、中大兄皇子による暗殺の本命
だったのでは?という説がある。

とすれば、追手を逃れて琉球に渡った可能性もある。
玉城で「天武大主」と碑銘のある墓を知ってから5年、
いよいよその謎を解く日がきたと、胸が騒ぐ…。



近鉄上之郷の駅前に立つ観光MAP、集落の右端(北)が倭姫旧跡地。
その上(西)の神森に「素戔男尊を祀れる宮地ありき」と郷土史は語る。
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伊雑宮周辺は、穏やかな集落という趣きだが、
まだまだ日本の歴史を覆すような秘密が隠されているかもれない。
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by utoutou | 2014-11-04 10:59 | 伊勢 | Trackback | Comments(0)

伊雑宮へ〈15〉持統vs.古代倭

倭姫がなぜ持統天皇に疎んじられたのか
について考えてみた。
倭姫が優れた巫女だったことは『倭姫命世記』に見えている。
「伊勢の度会国に入り、神服織社を建てて太神の御服を織らせた」
とか、
「八尋の機屋を建て、天棚機姫の子孫・八千々姫命に、
天照大神の衣装を織らせた」などと、ある。
倭姫は織姫であり、古来の神祀りをする日巫女だった。

また20ヶ所以上ある巡幸の地は、
古代海人族に由縁のある土地ばかり。倭姫は、
自らと出自を同じくする先住民の聖地を巡拝して機を織り、
天照(男)大神と交信するという神事を続けたのだ思う。

そして、伊勢の地に天照(女)大神を鎮座させるという、
新しい世のための「岩戸開き」を果たしたのだろう。
そう考えると、皇大神宮内宮の相殿に祀られるのが、
天万栲幡千千姫命(機織姫)と
岩戸を開いた天手力男神であることが、頷ける。


伝承によれば、倭姫命は↓五十鈴川の水で裳裾の汚れを洗ったという。
そのため、五十鈴川は御裳濯川(みもすそがわ)と呼ばれるようになった。
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さて、倭姫が開いた新しい世とは、他でもない、
天武天皇崩御の後、持統天皇が藤原不比等とともに目指した中央集権国家。
天皇を神格化するには、血脈を代々伝える「天孫降臨神話」が必要だった。
だからこそ先住族の痕跡は、持統によって封印される宿命にあった。

9月に参ったときも参拝客が絶えなかった皇祖神を祀る皇大神宮の内宮。
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その先住族の代表格が、倭姫に繫がる血脈だった。
1992年に発表されて間もなく国宝となった『海部氏勘注系図』
からは、同族とみられる古代豪族をいくつか見ることができる。

安曇氏、伊福部氏、尾張氏、葛城氏、そして和邇氏。
この和邇氏が倭姫に繫がるシャーマンの血脈である。
倭姫から遡って、垂仁天皇、丹波道主王、日子坐王。
崇神天皇の弟であるこの日子坐王は母も妃も和邇氏の娘。
いわば、和邇氏と皇室の交わる要に立つ人物だ。


『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』(籠神社社務所発行)より拝借。
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和邇氏については、以前書いたものを再掲してみる。

和爾氏が天皇の后を9人も出したとの記述があるのは、岸俊夫氏の
『ワニ氏に関する基礎的考察』という論文だが、縄文時代におけるワニ氏
について詳しいのは、宇佐神宮宮司家嫡男で宇佐国造57世の宇佐公康氏著
『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』(1990年、木耳社)だ。以下まとめ。

・和邇族は、後期石器時代に朝鮮半島から日本列島に渡来した。
・邪馬台国の時代以前から大陸と交流して繁栄していた。
・今から2400年前の縄文時代晩期、すでに大和地方に定着していた。
・奈良県天理市櫟本町和邇を本拠とし、部族による村から氏族による大集落を
 形成していた。族長は孝昭天皇。山城・近江・尾張へと次々に進出した。
・和邇一族の墓所である東大寺山古墳群から、後漢・霊帝時代の大刀が出た。
・海洋民族で、カヌーのようなワニ舟で海岸から上陸。土地を開拓した。
・古代の漁労や海運を業とした「海氏」「海部」のもっとも古い祖先で、その
 祖神はワニ神という海神で水の神である。
・紀元前3世紀から、数千年続けてきた漁労・採集を稲作・農耕に転換。
 農具・武器・刀をつくり、神に捧げる神酒を盛る土器をつくった。


和邇氏とは海人族でもっとも古い時代に渡来した「古代倭」。
この血脈を、持統と藤原不比等は根絶したかったのだ。


by utoutou | 2014-11-01 20:36 | 伊勢 | Trackback | Comments(0)

伊雑宮へ〈14〉倭姫の真実

持統天皇が伊勢行幸(持統6年、692年)の際に下賜した
勅賜門は、不開門(あかずのもん)と呼ばれた。
伊勢神宮は、2年前に完成していたが、
皇祖・天照大御神の御杖代として、その創祀に功績篤い
倭姫命を、讃えるどころか、ゆかりの地を封印してしまった持統。
その不可思議な情熱とは、いったいどのようなものだったのか。

しかも、1ヶ月近くをかけた行幸で、多気・渡会といった
伊勢神宮の傍を通過しているのに、参拝したという記録はない。
亡き天武天皇の創祀した伊勢神宮への思いも、持統の心の闇なのか。


伊雑宮の境内にある古井戸。終着地で倭姫もこの井戸を使った?
倭姫にとって御杖代としての長い巡行、その重責は計り知れない。
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不開門(あかずのもん)の謎を解く鍵は、倭姫の出自にある。
第11代垂仁天皇の第4皇女だった倭姫命。
母は日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)。
遡れば、丹後一宮・籠神社の『海部氏系図』に行き着く。
「元伊勢」である。
祖父は、丹波道主王(たんばみちぬしのおう)。
曾祖父は日子坐王(ひこいますおう)、
曾祖母は息長水依比売娘(おきながのみずよりひめ)。
さらに一代上には、天之御影神(あめのみかげのかみ)がいる。

大和朝廷が国づくりを始める以前にあった古代丹波国の王族。
海部氏の祖神は、国宝『海部氏勘注系図』によれば、天火明命。
またの名は、天照國照彦天火明櫛玉饒速日命
(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)。  

磯部で「アマテルさん」と呼ばれる男神の天照大神。
尾張氏の始祖でもある。
そして、ヤマトに一番乗りして「虚空見日本国」
(そらみつやまとのくに)と命名した王。

ちなみに…『海部氏勘中系図』には、海部氏の
同族・和邇氏の武振熊宿禰(たけふるくまのすくね)の名も見える。
『倭姫と鮫』のワニ伝承は、和邇族など古代海神族の絆を窺わせる。


伊雑宮所管の佐美長神社。伊雑宮から800m西の小高い丘にある。
伊雑宮〜佐美長神社の道「御幸道」とは「持統天皇が歩いた道」の意味。
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↓ こちらは伊勢(皇大)神宮別宮・倭姫宮。大正12年秋の鎮座。
崇敬者の請願によって創立したという、伊勢神宮でもっとも新しい宮。
遷宮は内宮外宮の1年遅れの今年、12月10日に。伊雑宮の約1週間後。
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さて、皇祖アマテラスを祀る初代斎宮となった倭姫。
驚くべきことに、
父・垂仁天皇に複数いた妃は、母・日葉酢姫の姉妹だった。
つまり丹波道主の娘たちは、すべて垂仁天皇に嫁いだのである。
古代天皇の系譜が一夫多妻の婿入り婚だったとはいえ、
このことはいったい何を物語るのか。

ひとつは、古来、海神族が握っていた絶大なる権力。
もうひとつは、その女たちのシャーマン資質にあると思う。
太陽神を祀る日巫女。その血脈は倭姫にも受け継がれた。


by utoutou | 2014-11-01 01:51 | 伊勢 | Trackback | Comments(0)

伊雑宮へ〈13〉持統が建てた不開門(あかずのもん)

伊雑宮から北へ徒歩5分、
磯部の千田寺(ちだじ)跡にできた「倭姫旧蹟地」。
真新しく整備されていて史蹟との印象薄く、撮った画像は2枚。


うち1枚がこちら、公園の隅にあった「庚申堂」。
「伊佐波登美命」と真新しい立て看板が立っていた。
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このあたり(千田寺跡)に、古来3つの鳥居が立っていた。
『郷土史・天の岩戸いそべ史話』('84年)によれば、祭神は…
中央の鳥居に大己貴(おおなむち)大神、右の鳥居に少彦名大神、
左の鳥居には、國貴社・久延彦大神が祀られていた。


江戸時代刊行の『先代旧事大成経』に載った
↓「二社三宮図」にも、実は「二社」の記述がある。
(下のイラストは後年の作画)
二社とは伊雑宮を間に、磯部大歳社(佐美長神社)と杵築大社(千田寺)。
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千田寺は、古くは、なんと杵築大社と呼ばれた。
正式名は「杵築宮御光大神宮」。
皇大神宮別宮・伊雑宮にゆかり深い
「倭姫旧蹟地」に「出雲」とは、驚くばかり。
明治に入るまで出雲大社は
杵築大社と呼ばれたが、この伊勢にも同名の社が…。


さて、昨年来行われた、千田寺跡=杵築大社跡の整備。
ならば、出雲の痕跡か遺物がザクザクと出土したかと思いきや、
そもそも遺物発掘計画はなく、一気に重機を入れての着工だったと聞く。
「鏡楠」旧跡も大正12年以来90年ぶりの発掘もできたろうに重機で地ならし。
これは新たな弾圧ともいうべき「事件」かと思うのは、私だけではないだろう。

ところで…。
杵築大社の祭神・大己貴=大国主大神。
出雲大社の奥宮・素鷲社(そがのやしろ)の祭神は、
その父である素鷲鳴尊(スサノオ)。

ということは、この旧蹟地のどこかにスサノオが祀られている?
資料を探すと
『磯部村上之郷古蹟取調書』(大正13年)に、その名があった。

(筆者の現代語訳)
〜この地は古来、倭姫旧蹟地と称せられる旧蹟で、
続く(西の方上)地陣を「神森」と呼び、
素戔男尊を祀る宮地がある。
明治改正の際、当時の村役人が前後の考えもなく
全部伐採、現在は畑地に変更してしまった。〜

スサノオの痕跡も失われていたとは…。

ついでに、調べると、
千田寺にはすこぶるビッグな由来がある。
曰く、寺に聖徳太子も来たと。
『志摩磯部 千田寺勅賜門再建勧進帳』(文政3年)。
要約すると…。

1)倭姫が、真鶴が稲穂を落とした故事に基づき
五穀成就の御神楽を奏じた。

2)用明天皇の皇子・聖徳太子が来て、
神池に感歎し、殿堂を数多く建立した。
  この山全体を無量山と号し、
寺を千田寺と名づけ、倭姫の古事を残し、
  太子自ら三歳の御姿を彫刻して、
別殿に納めた。

3)持統天皇がこの話を聞いて、この地に行幸※
数日にわたり御輿を止め、新たに勅賜門を建立した。
その跡は現存している。
  毎年元朝より7日まではこの門が開くので、
多くの庶民は参詣して神池の
  霊水を戴いて太子を拝する。
(※持統天皇6年の伊勢行幸を指す)


持統天皇から下賜された豪壮な勅使門。
大正時代の撮影。
6本の柱があったが写真に門扉は写っておらず、
門自体もやがて焼失した。
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豪壮な勅賜門に、村人たちがつけた別称は
「不開門(あかずのもん)」という。
このブログを読み、
磯部在住の方(匿名)が送ってくれた手紙に
そう書いてある。
「正月7日しか門が開かないので、
磯部では不開門(あかずのもん)と呼ぶ」と。

持統天皇による千田寺封印。
磯部に建てた開かずの門は、
持統天皇による出雲潰しだったと、私は思う。

by utoutou | 2014-10-24 23:07 | 伊勢 | Trackback | Comments(2)

伊雑宮へ〈12〉倭姫の石棺

話は2年前の冬にさかのぼるが、
よみうりランド(東京都稲城市)の中にある聖地公園に行った。

ここには、釈迦の聖髪を納めるという釈迦如来殿やら、
高野山本願寺の本尊・十一面観音像を祀る多宝塔やら、
元読売新聞社主・正力松太郎氏の蒐集による超ド級のお宝が並ぶ。


お目当ては妙見堂。ちょうど月次祭で妙見菩薩像が開帳されていた。
京王線よみうりランド駅からゴンドラに乗ると、八角の妙見堂が見えてくる。
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数ある妙見菩薩で重要文化財はこちらだけ。鎌倉時代後期の作。
伊勢の外宮神官だった度会氏の菩提寺・常明寺に祀られていたが、
明治時代の廃仏毀釈で廃寺となり、やがてよみうりランドに安置された。
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その常明寺門前町が、現在の伊勢市倭町。 
宮内省が「倭姫命御陵墓参考地」と指定した前方後円墳がある。
渡会氏(旧磯部氏)、妙見菩薩(天御中主命、北辰信仰)、倭姫。
3つの点を結ぶ線上に、渡来豪族・秦氏が存在すると感じられた。
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さて、倭姫の陵墓に近い伊勢市楠部町に、皇大神宮別宮
の倭姫宮が創立されたのは割と最近で、大正12年のこと。


その大正12年、伊雑宮から200m北の千田寺跡から、
三種の神器が入った石棺が発掘された。
豊川稲荷から楠の提供依頼を受け、根元を掘り返した結果という。


その地が、昨年来の三重県観光キャンペーン
の一環として整備された「倭姫命の旧跡地」である。
天照大神の御杖代・倭姫がここで稲穂をくわえた真鶴を見て、
苗代をつくったという「千田のみ池」があったが、このたび
天井石と鏡楠の表示板が立ち、四阿も庚申堂もある公園になった。
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石棺には勾玉、矛、2面の鏡が入っていた。
村ではそう語り継がれてきたと、
今回の旅でお世話になった御師の家の森さんは言う。
当時「これは倭姫の遺跡か」と大騒ぎになったが、
すぐさま官憲がやって来て持ち去ったと。

白銅鏡だけは、
志摩市歴史民族資料館に保管されたが、
倭姫伝承とは時代を異にする「室町時代」のものとされ、
矛と勾玉は行方知れずに。それら神器を
納めたのが石棺状だったことを知る村人も、もはやいない。


「しかし」と、町役場に長く勤めたという森さんは言った。
底石は役場に長く保管され、
平成2年、御神田(おみた)広場の記念碑として甦ったと。
「重要無形民俗文化材 磯部の御神田」と刻されている。
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底石は秘かに表出したが、
石棺が発掘されたのは、倭姫宮が創立した翌年の
大正13年だと『磯部町史』('97年、磯部町史編纂委員会刊)は記す。
発掘の事実を1年ずらす操作がなされたのか。
だとすれば、そこにはどんな理由があったのか。

そう考えると、渡会氏の妙見菩薩がしきりと思い出された。

by utoutou | 2014-10-20 17:33 | 伊勢 | Trackback | Comments(3)

伊雑宮へ〈11〉弾圧の果てに

伊雑宮の神庫には、いまだに秘伝の書が隠されているらしい。
そこには「伊雑宮は伊勢神宮の本宮」「伊勢神宮は日月星を祀る」
という「三宮信仰」が記されていると、水面下で脈々と伝わる。

沖縄ナーワンダーグスクで「三宮信仰」に気づいてから2ヶ月。
この伊勢でようやく「日月星を祀る神社」にたどり着いた思い。

伊雑宮から車で5分。
磯部町下之郷に、御師(神職)中村兵大夫の墓がある。
江戸時代に「伊勢三宮」説を唱えた「神訴事件」の首謀者とされ、  
1682(天和2)年に、密命を帯びた何者かに毒殺されたという。

江戸の書店から、『神代皇代大成経』(潮音著)
が刊行されたのは、兵大夫が憤死する3年前のこと。
72巻からなるという長大な書だが、ポイントはズバリ「伊勢三宮」説。
〜倭姫命は猿田彦神の神示で、天照大神の神霊を伊雑宮に遷した。
伊雑宮は日神アマテラスを、外宮は月神ツキヨミを、内宮は星神ニニギを祀る〜

聖徳太子と蘇我馬子の編纂という話題性もあってか、
江戸の町では、知識人を巻き込んでの大論争が勃発。
結果、幕府の裁定により「偽書」「禁書」との烙印が押された。

版元の責任者は追放、編著した永野采女と潮音は流罪に。
朝廷は「伊雑宮は内宮の別宮。祭神は伊射波富美命」と裁決したが、
それでもなお、鳥羽藩による兵大夫への制裁の追手は止まなかった。


兵大夫を追善供養する観音石像。下之郷にある中村家の墓地に建つ。
目を閉じて憂いを含んだ表情に、無念の思いがにじんでいるようだ。
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「三宮」説をめぐる一連の動きは、江戸時代に始まったものではない。
源平から戦国時代にかけての戦乱の末、
伊雑宮の社領地が志摩の水軍・九鬼氏に奪われたのが、1531年。
伊雑宮は経済的基盤を失って凋落。兵大夫毒殺事件に至るまで、
150年の長きにわたる、伊雑宮崇敬者たちによる復古運動があった。

江戸時代になってからも事件は続いた(『磯部町史』等から抜粋)。


 1625年 伊雑宮の神人・役人が幕府に直訴して、数10人が流罪に。
 1646年 神人(御師)らが「伊勢三宮」を主張。朝廷や鳥羽藩への請願活動が続く。
 1658年 「伊雑は内宮の本宮である」と、さらに主張。
 1663年 将軍家綱に直訴。40人が国外追放に。
 1679年  江戸の版元が『神代皇代大成経』を出版。
 1681年 幕府は『大成経』を「偽書」として禁書処分に。
      版元の戸嶋惣兵衛は追放、企画者の永野采女と潮音道海は流罪に。
      朝廷は「伊雑宮は内宮の別宮。祭神は伊射波富美命」と裁決。
 1682年 中村兵太夫が毒殺される。


中村兵大夫を悼む観音石像は、近隣に他に2ヶ所もあるが、
中村家の墓にある観音様の左手は、毒饅頭を持っている(↓中央右)。
伊雑宮の本宮説を口伝で守る磯部の人々の、筋の通った弔い方を感じる。
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お墓にお参りしたのは、1ヶ月前のちょうどお彼岸の日。
墓地の中央にそのお墓はあり、花が手向けられていた。
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11月末の遷宮を待つ伊雑宮の新宮。『伊雑宮旧記』曰く、伊雑宮は
もともと竜宮で、的矢湾の海底に石の鳥居があると信じられていたと。
様々な古伝が潜む伊雑宮に、実は今年、新たな事件が勃発した。つづく…。
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by utoutou | 2014-10-18 14:39 | 伊勢 | Trackback | Comments(6)