カテゴリ:伊勢( 30 )

伊雑宮へ〈10〉ダビデの神面

伊勢神宮で神嘗祭が始まったようだ。

ということは、興玉神祭は……いまでしょ!! と、
ようやく昨日になって、気がついた。

伊勢神宮では、三節(6月、12月の月次祭と10月の神嘗祭)
の前日、神職が内宮の興玉神(おきたまのかみ、猿田彦神)
を祀る興玉神祭をするのだと、
一昨日、このブログに書いたばかりだった。

神嘗祭(かんなめさい)とは、その年の新穀を大御神に奉り、
ご神徳に報謝申し上げ、皇室の弥栄を祈るもっとも由緒深いお祭り。
(伊勢神宮のwebサイトの説明)

興玉神祭と、御卜 (みうら)についても、
神宮のお祭りと行事の項に記されている。

10月15日 興玉神祭
月次祭奉仕にあたり、内宮御垣内西北隅にご鎮座の地主の神、興玉神をお祭りする。
10月15日 御卜
奉仕する神職が、奉仕直前に神の御心にかなうかどうかを、おうかがいする儀式。


こちら内宮の月次祭・由貴大御饌(ゆきのおおみけ)。
正装した神職による厳粛なる参進の様子。伊勢神宮webサイトから拝借。
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神嘗祭、興玉神祭に思いを馳せていると、
御卜(みうら)のことがしきりと気になった。
「お祭りの前に、神職がそのお許しを得る」…?
どこかで聞いたことのある儀式だなと考えてみると…。

それは、琉球の始祖アマミキヨが祀られるミントングスク(南城市)
の当主・知念幸徳氏が、久高島の古祭・イザイホーを語ったくだり(要約)。

〜イザイホーの時も、ヌルさん以下、久高島の人々は
秘かにやって来られ「イザイホーをしますから」と拝み、アマミキヨの
神様からの許可を得られた場合だけできるということになっていた。
極秘扱いにされていましたが、米や藁をこちらから持ち帰って、
秘かにイザイホーをやっていたものです〜
(『沖縄県 久高島資料』('79年、「古典と民俗学の会」編著、白帝社刊)

アマミキヨ神と興玉神は、どうも共通点が多いようだ。
上古の時代、大陸から東方をめざして来訪したと伝わる渡来神。
稲作を担う太陽神でもあり、神祭りの許可を与える地主神。
そして…その形相は、天狗にそっくり。



ミントン家に伝わっていたアマミキヨの神面。
鎌倉芳太郎氏のスケッチを元に、仮面研究家ら有志が復元した。
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伊雑宮・猿田彦神社の神楽で使われていたという天狗面。
『伊雑宮の御師たち』('02年、志摩市磯部郷土資料館刊)より拝借。
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面影が洋風で「ダビデの神面」と似ているのも共通。
秦河勝が弓月国から持ってきたという兵庫県赤穂市の大避神社に保存される舞楽面。
『みのもんたの日本ミステリー! 』(テレビ東京)で、オンエアされた('07年)
とき、神職は「1300年前の面、ユダヤの神様です」とコメントしていた。
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秦氏。
『日本書紀』に、応神の時代に百済より渡来して帰化したと記される。
倭姫命が伊勢国に入ったとき、案内をした大若子命の別名は、大幡主命。
「大幡」は「八幡」などと同じく秦氏の名。外宮の神官・渡会氏の祖も秦氏である。  

久高島にも秦氏が渡来したと思われる痕跡がいくつかある。
ひょっとすると…猿田彦はアマミキヨなのか。

by utoutou | 2014-10-16 21:15 | 伊勢 | Trackback | Comments(0)

伊雑宮へ〈9〉伊勢に沈む古代

皇大神宮の内宮に鎮座する「興玉神(おきたまのかみ)」。
またの名を猿田彦大神。現在、その姿は玉垣の中にあって窺い知れないが…。

場所は、北西の奥。
参拝順路でいえば、内宮を出て、玉垣の外周を荒祭宮に向うときに出会う
↓御稲御倉(みしねのみくら)の、小径を挟んで向かい側といったところ。
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興玉神を「非常に大切な神様」と著したのは、上山春平氏。
(『上山春平著作集 第五巻 神と国家』'94年、法蔵館刊)

〜外の垣を一つ入った裏手の西北の隅に非常に大事な神様が祀られています。
(中略)三節といって、年に三回、大事なお祭りがあります。
こうした大事なお祭りのときには、最初にお供物を捧げます。
お祭りの前夜に興玉神に神饌を捧げるという儀式があるのです。〜


興玉神は、江戸時代には玉垣の外に坐していた。  
『伊勢参宮名所図会』に載る「内宮宮中図」を見ると一目瞭然。
その大切な神様に手に届くような、大らかな参拝風景も見える。
赤い囲み(筆者による)の右が正殿、真ん中が「興玉神」。左が「御稲御倉」。
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(国会図書館デジタルアーカイブ「伊勢参宮名所図会 5巻」より拝借)


図会の次ページは、内宮の北門を出てから荒祭宮までの周辺が描かれているが、
こちら昨年の遷宮を経て東側に鎮座した荒祭宮と、駆け足で撮影した古殿地。
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荒祭宮を参拝後、振り返ると、正面に正宮の玉垣(黄金色)が見える。
つまり、興玉神(猿田彦大神)と荒祭宮(瀬織津姫)は向き合っている。
石段の数は、正宮の玉垣からこっちへ56段下りて、15段上がる。
差し引き40段下ったところに荒祭宮がある。
現在は枯れているが中間に川の跡が横たわる。
水神・滝神・龍神であり、日巫女であった瀬織津姫。
その神祀りを確信させる祭祀空間である。
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猿田彦と瀬織津姫という向き合う一対神が、
皇祖アマテラスが鎮座する以前から、ここ伊勢の祖神。

そして、興玉神とは、太陽神そのものだった。
『内宮宮中図』の目録は「興玉神」を次のように表している。
「興玉拝所石壇」……太陽神を拝して捉える神壇。

その石檀は太陽の昇る東を向いているという。
伊勢の古代祭祀は、古代琉球と同じで、ことごとく東方を重視する。
まるで同じ神々が沈んでいるように思えるほどだ。

伊雑宮の鳥居は、東に向いている。
御田植祭をする御田(おみた)の鳥居と忌柱も、東に向き、
現在の佐美長神社にあった猿田彦神社も、東向きである。
また猿田彦神社には、明治時代以前、熊野神社への遥拝所があった。
東西軸である。

現在の佐美長神社。江戸時代までここにあった猿田彦神社も東向き。
スマホには、画像の撮影時刻が9月23日14:00と。
日は西方向の空から射していた。
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by utoutou | 2014-10-14 23:21 | 伊勢 | Trackback | Comments(0)

伊雑宮へ〈8〉消えた猿田彦神

猿田彦(天照大神)と罔象女大神(みずはのめ、瀬織津姫)は、
伊勢志摩で崇められていた一対神だった…と書いたのは一昨日のこと。

そう言えば、今回、瀬織津姫の祀られる神宮内宮の荒祭宮
にも駆け足で参ったのだったと、今朝、画像を探した。


内宮では、まず正殿にお参りしてから、北側に位置する荒祭宮へと
移動しつつ、なぜかいつもこの場所でカメラを構える。
警備員の方が左へと誘導する隙に、内宮方向を撮影した。
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内宮の奥にあたるこの北門(写真右)から見える建物は何だろう?
天岩戸に祀られる一対神が猿田彦大神と罔象女大神(瀬織津姫)ならば、
ひょっとすると、このあたりに猿田彦神が合祀されていても
不思議ではない。というわけで、帰ってから調べてみた。


伊勢神宮HPに掲載されている ↓ 伊勢(皇大)神宮・内宮配置図
図の上部に位置するのが、写真に写る北門。建物は北宿衛屋だった。

荒祭宮はさらに北にある石段を下りて、また上がる。
神宮の正殿の玉垣内がどのような配置なのか、
こうして調べるのは初めてだが、猿田彦神にまつわる殿はない。
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ところが、だ。
下手な考え休むに似たり…と自戒したのも束の間、驚くべき発見。
ある本で「興玉神」の神名を見つけた(赤の囲みは著者)のだった。
『アマテラスの誕生』(筑紫申真氏著、'02年、講談社学術文庫刊)。
(※昨年の遷宮を経て、現在の正殿は、図の左の古殿地に祀られている)
北門の内側に、まるで荒祭宮と向き合うように「興玉神」の名が見える。
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興玉神こそは、ご来光で有名な二見興玉神社の祭神・猿田彦大神である。
伊勢参りの前には二見興玉神社に参るのがよいとされるが、内宮にも!?

さすが「みちひらき」の大神様。猿田彦神にヒラメキをいただいたのか。

現在、伊勢神宮近く(宇治浦田)にある猿田彦神社は、
これも調べてみると、社殿を造営したのは明治11年。それまでは、
宇治土公家の地主神として、延宝5(1677)年から祀られていた。


そして、これまた驚くことに、猿田彦神社は伊雑宮にあったのである。
『伊勢参宮名所図会』(1797年刊行)。「伊雑宮 其 二」のページ。
現在の佐美長神社の境内に堂々と鎮座していた。

右の社殿が「猿田彦神社」(赤い囲み)。左に大歳社とある。
まさか。猿田彦大神は伊雑宮からいつ消えたのだろうか…。つづく。
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          (画像は三重県のwebサイト「テーマでみる三重」から拝借)
by utoutou | 2014-10-12 21:35 | 伊勢 | Trackback | Comments(0)

伊雑宮へ〈7〉天岩戸と猿田彦

伊雑宮のある磯部は、古来、半農半漁の海人族の居住地だった。
この風土が沖縄開闢の地に似ていて、大いに興味をそそられる。

琉球の海人族は塩田もつくった。
沖縄南部の玉城には、マース(=塩)御嶽があるが、
伊雑ノ浦の飯浜(いいはま、いばま)にも製塩遺跡があり、
塩を平城京に納めていたことが、発掘された木簡から分かるという。

「飯浜」の由来は、倭姫一行に昼食を饗したという倭姫伝説による。
倭姫は巡行の最終地である磯部へ、海路を使って移動したらしい。

そんな磯部の産土(うぶすな)の神は、竜蛇だったに違いない。
倭姫一行を「奉迎して」伊雑宮を創建したとされるのは、
先住族の首長・伊佐波登美命(いざわとみのみこと)。
登美とは富族のこと。富族が崇めたのは龍蛇神である。

先祖代々祀る龍蛇神を放逐し、新たな神を歓迎するわけはない。
奉迎というより、朝廷に帰順して土地を明け渡したのが真実かもしれない。


さて、かつては伊雑の森まで流れていた神路川の源流に天岩戸がある。
天岩戸は、沖縄のクマヤー洞窟がそう呼ばれたように各地にあるが、
天岩戸とは水神信仰、龍神信仰の霊場である。

神路川の源流の天岩戸には、滝祭窟があり「水神さん」がいた。
伊勢志摩に先住した民が崇めた龍神、「滝祭大神」である。
また、泣沢女神・美都波女神・猿田彦神の三神が祀られていたとも。
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天岩戸は、現在の伊勢道路から山道を2㎞ほど歩くが、その分岐点に、
「罔象女大神(美都波女神)水神」と彫られた石の道標があったという。
みずはのめ。泣沢女神と同神である。
つまり天岩戸(鳥居の奥)は、瀬織津姫の坐す水穴だった。
「滝祭大神」の石柱は天岩戸の右に立っている。
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その女神が伊雑宮の元神であることは、御師・西岡家に残る文書にも。
(以下、菊池典明氏著『エミシの国の女神』'00年、風琳堂刊より引用)

〜(西岡家文書には)伊雑宮の祭神として登場していた
「玉柱屋姫命」は瀬織津姫と同神であることが記されている。
その一対神である「大歳神」は猿田彦と同神であり、つまりは、
男神の太陽神=天照大神との二神が、伊雑宮の元々の神であった。〜
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瀬織津姫は、伊勢神宮内宮の後ろに坐す荒祭宮であるとも言われる。
つまり、伊勢神宮のある宇治山田の産土神も、天照大神と瀬織津姫だった。
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ところで、天岩戸は伊勢神宮から伊雑宮への参詣道にあった。
全長約16㎞。険しい山道で車でも40分かかる。  

伊勢志摩の境界にある逢阪峠付近には「家立の茶屋跡」があり、
猿田彦大神が家を建てたと伝説はいう。
「猿田彦の森」「高天原」という地名も残っている。

また逢阪峠は神路川(東)と、神宮の五十鈴川に合流する島路川(西)の分水嶺。
地形からも猿田彦(=天照大神)と罔象女大神(瀬織津姫)は、
伊勢志摩一円で崇められた一対神だったと分かる。

by utoutou | 2014-10-10 18:25 | 伊勢 | Trackback | Comments(2)

伊雑宮へ〈6〉倭姫と鮫

♪ 磯部伊雑宮は龍宮様よ 八重の汐路を鮫が来る〜
伊雑宮で行われる、お田植祭の唄の一節。
八重の汐路とは、志摩のリアス式海岸を流れる水路。
そこから的矢湾に入り、7匹の鮫が白波を立て遡って来ると。

駅に至近の現在の位置からは想像もつかないが、
創祀されたと「しおり」にある2000年の昔、
伊雑宮は、鮫が遡る河口に建てられた。

そのことは、伊雑宮御鎮座の由来でも確認できる。

倭姫命が天照大神の鎮座地を求めて巡行していると、神託があった。
「明朝、7本の鮫が沖を通る。その後について行けばよい場所がある」
その通り、鮫たちの後をついて入江の奥まで行き、
天照大御神をお祀りしたのが、伊雑宮だという。

さて、伊雑宮の南800mに佐美長(さみなが)神社がある。
交差点の歩道脇に立つ鳥居から石段を上がると、もう境内。
参道もないシンプルな立地だが(鮫が遡る)川沿いだったなら頷ける。


佐美長神社は伊雑宮の所管社。その授与品も伊雑宮の社務所で扱う。
ディスプレイの色彩に、なぜか御杖代だった倭姫の旅を思った。
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佐美長神社は、旧名「大歳社」「穂落社(ほおとしやしろ)」。
「伊雑宮のしおり」によると、倭姫命が志摩国巡業の際、
鳥の鳴く声が聞こえるので、見に行かせると、
葦原に一株の稲が生え、穂が千穂に分かれて茂っていた。
一羽の真名鶴がその穂をくわえて飛びながら鳴くので、
この鶴を大歳神(五穀の神)と崇めて、この地にお祀りした。


大歳社は、明治時代に入ってから佐美長神社と名が変わった。
鳥居に、これはまた神技か…墨絵で描いたような一羽の鶴がいた。
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「稲穂をくわえた鶴」の伝説は各地にあるが、沖縄もしかり。
稲作発祥の地・受水走水(うきんじゅはいんじゅ)に似た伝承がある。
そして、受水走水もまた、古代は葦の茂る湿地帯だった。

いずれも稲を携えた海人族が渡来して、葦原を拓いたことを示している。
沖縄の稲作の祖は「アマスのアマミツ」。アマスを天祖とも書く。
天祖は言い換えれば「五穀の神」。沖縄版の大歳神である。


ここ佐美長神社もまた、訪れた9月22日、遷宮の準備中だった。
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佐美長神社の境内には、知る人ぞ知る可愛らしいお宮が並ぶ。
佐美長御前神社四社。こちらも伊雑宮の所管社。

四社が佐美長神社に移されたのは、これも明治時代になってからという。
大規模な治水工事があるまでは、四社は川添いに点々と祀られていた。

神の使者である鮫たちが伊雑宮へと遡った川を、神路川といった。
伊雑宮の森の裾野を流れる、別名「御裳濯川(みもすそかわ)」。
人々は祓戸の社に参り、見守られ、伊雑宮参りの禊ぎをした。
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高台の名所・おうむ岩から磯部の町(※位置的には東)を望む。
真ん中のこんもりとした森が、伊雑宮。
その先に伊雑ノ浦、的矢湾が横たわって見える。

写真からちょうど外れた右方に、佐美長神社がある。
明治の治水工事以前は、おうむ岩(カメラ地点)から赤い矢印に添って
神路川が流れ、佐美長神社の前から、伊雑ノ浦〜的矢湾に注がれていた。

現在の神路川は磯部川と名を変え、写真右の道路に添って流れる。
川の流れは変わっても、倭姫と鮫の伝説だけは唄に残った…。
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by utoutou | 2014-10-08 20:50 | 伊勢 | Trackback | Comments(0)

伊雑宮へ〈5〉六芒星の行方

伊雑宮には、六芒星(ダビデの星)の付いた灯籠がある。
よって同じく六芒星を裏社紋とする籠神社とは、
阿吽の関係だ…と、言われて久しいが、
聖書と似た風習の多い沖縄の古代を追いかけるには重要な鍵。

ということで探してみると…あった。
ただし、境内ではなく、鳥居の斜向いの建物に。
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神武参剣道場(じんむさんけんどうじょう)という。
神武とはこれまた意味深。昭和36年の設立。
門に立つ石灯籠に、十六菊と六芒星がくっきりと刻印されている。
石柱の下部には「伊勢参宮奉賛献燈会」と、鮮やかに、左右に。
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道場主は、小泉太子命(こいずみたいしめい)氏という剣の達人だった。
御師の家の森さんによると、小泉氏は平成元年に他界されたが、
生前、多くの政治家や財界人が訪れていたという。

「伊雑宮の神紋は花菱と六芒星である」が持論で、
惟神(かんながら)思想の平和主義者。
そして、際立った霊能者だった。また…
神宮の内宮と外宮をつなぐ御幸道路(みゆきどうろ、5.5㎞)に、
隙間なく六芒星の灯籠を設置するため、寄付者探しに尽力。
自らの道場にも立てたのが、「伊雑宮に六芒星あり」の真相だった。


こちら御幸道路に立っている石灯籠。
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六芒星は、伊勢三宮奉賛献燈会のシンボルだった。
伊雑宮、内宮、外宮を「太陽、星、月」と崇めるのが、
「三宮」と付けた団体名の由来…
と、知ったところで、思わずのけぞった。
「日月星」信仰は、沖縄ナーワンダーグスクに見る古代祭祀のかたち。

伊勢三宮を六芒星でつないだ伊勢三宮奉賛献燈会は、
神宮が古代ユダヤかシュメール由来であることを暗示していた

財団法人であったその献燈会は既に
解散しているが、設立当時('53年)の総裁には、
北白川宮能久(よしひさ)親王家に所縁の方が就かれたと聞く。

実はなんと、北白川宮能久親王は
沖縄開闢の地・
知念玉城をご訪問になったことがある。
まさか御嶽の視察ではないだろうが、気になる一致だ。

『玉城村史』('77年)に「北白川宮能久親王御台臨」の記事が見える。

〜明治26年の夏、北白川宮第六師団長殿下は島尻郡を御視察になり、
正午、玉城村に御立寄りになり、御昼食を召し上がられました。〜
また(知念)佐敷村役場にも、当時の記録が残っている。
〜北白川宮能久親王殿下御馬にて村東入口より御来村遊ばされ、
村民学童村入口にて御迎え申候〜
佐敷では村役場に1泊され、翌日、佐敷小学校で歓迎運動会をご覧になった。

その3ヶ月後、親王殿下は大日本帝国陸軍第四師団長
として台湾出兵。2年後、マラリアのため薨去された。

ともあれ、御幸道路(県道、市道)に立つ石灯籠(700基余り)は
老朽化して危険なものから撤去となることが決まっている。
三重県では、昨年の遷宮前に425基のうち9基を撤去した


伊雑宮から車で20分ほど。
海沿いの町・相差(おうさつ、鳥羽市)では、
海女さんが「五芒星(セーマン)九字(ドーマン)」の魔除けを磯着に付ける。
そのお守りを授ける神明神社近くの海産物販売所には、こんな張り紙も。
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くだんの籠神社の海部宮司が、この相差で
海女さんが五芒星の魔除けを付ける風習に
関心を寄せておられたのを思い出す。

by utoutou | 2014-10-07 11:49 | 伊勢 | Trackback | Comments(2)

伊雑宮へ〈4〉さらに元宮


伊雑宮(いざわのみや)を地元では「いぞうぐう」と呼ぶ。
三重県志摩市磯部町上之郷。
町名の由来は、古来この地に居住した磯部氏による。

磯部氏とは、「日本書紀」応神天皇の条に
「諸国に令して海人(あま)及び山守部を定む」や
「古事記」に「海部、山守部、伊勢部を定め」とある、
伊勢部(磯部)という職能集団として組織された海洋民(海人)をいう。


近鉄志摩線で鳥羽駅から23分、上之郷駅下車。
航海安全祈願の霊峰・青峰山までは車で30分。
標識を見上げて伊勢・鳥羽のリアス式海岸を思う。車で約1時間。
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志摩の国には一之宮が二社ある。
理由は諸説あるが、ともあれ二社とは伊雑宮と、伊射波神社。
鳥羽市安楽島町字加布良古という地名から「かぶらこさん」と呼ばれる。
今回は足を伸ばせなかったが、鳥居は風光明媚な浜に建つ。
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※画像はFBページ「志摩一宮伊射波神社」から拝借。


黒潮が流れ込むこの浜に着岸し、
神社を創建したのはどこから渡来した海人か。

それが黒潮の源流たる南の島々であることは
誰もが認めるところだと思う。そのなかに、
沖縄があると考えるのはごく自然なことだと。
この海を見て改めて。


さて、『磯部町史』は、
その地名と神社についての概略をこう記す。
〜粟島神戸と伊雑神戸は『輪庸帳』(※729)に
大神宮神戸、粟島神戸、伊雑神戸とあり、
粟島神戸の方が伊雑神戸より上位の神となっている。〜

つまり、粟島(現在の安楽島)の伊射波神社は
伊雑宮の元宮であると。
『皇田太神宮儀式帳』(804年)には
「粟島坐伊射波神社」と、社名が見える。


「伊雑宮のしおり」の周辺MAP(赤線は筆者による)
伊射波神社のある加布良古岬は右上に、また、
「伊勢神宮のもうひとつの元宮」朝熊神社のある朝熊ヶ岳はその左に。
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伊雑宮・御師の家の森さんの話では、
伊射波神社に近い贄浜(にえはま)は複合遺跡。
弥生式土器、和同開珎、そして金の帯金具が出土した。
「聖徳太子のような貴人が使う装身具だったそうです。
持統天皇の密貿易港だったとも言われています」

また昭和40年代から60年代の発掘調査では、
製塩土器、祭祀用具など縄文の遺物も発掘された。

伊射波神社の社殿は、遺跡を見下ろす岩山の頂上にある。
祭神は「神名帳」に記された二座のうちの一座、伊佐波登美命。


登美…。竜蛇神を崇める、出雲の先住神族・富族。
伊雑宮は「出雲」だったのか。
朝日が昇るこの伊雑宮・鳥居の反対側、800m西に佐美長神社がある。
古来、大歳社と呼ばれた。大歳神とは、男神としての天照大神だろう。
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by utoutou | 2014-10-05 20:56 | 伊勢 | Trackback | Comments(0)

伊雑宮へ〈3〉伊勢の元宮

ゴンバ団扇の模写が置いてあった「御師(おし)の家・森家」
御師とは中世後期から、寺社に所属して信仰を広めた神職のこと。

伊雑宮の御師は、一時は60軒あったというから隆盛のほどが偲ばれる。
森家も先祖代々伊雑宮の御師を務め、廃止となる明治4年まで、
料理処・宿泊処も兼ねて参拝者の接待をしてきたそうだ


こちら伊雑宮(いぞうぐう)の正殿
向って左に、遷宮を待つ新殿が建つ。
「伊雑宮のしおり」によれば、創祀は約2千年前の第11代垂仁天皇の時代。
皇大神宮鎮座の後、垂仁の皇女である倭姫命が御贄地
みにえどころ、皇大神宮へ奉る御供物を採る所)を定めるため、
志摩国をご巡業の際に、伊雑登美命(いざわとみのみこと)が出迎え、
この地に伊雑宮を創建。皇大御神の御魂を祀った。
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参拝の後、通りに出て隣接する御師の家に移動、
ゴンバ団扇について森さんに聞いた
ンバ団扇が「軍配団扇」の転訛であることは、既に調べがついていた。

「太一」について尋ねると「豊穣と安全航海を祈願するもの」という。 
中国の解釈では北極星で、不動のもの、元になる星。
意訳すれば、天照大神とも高皇産霊尊ともいえますが、
信仰上の最高神のことですね」と森さん。

  
ゴンバ団扇を見ているうちに
千石船の上に赤い宝珠が描かれているのに気がついた。
祭りで奪い合うのは実はこの宝珠で「青の峰のキンノタマ」という。
青峰山と海上守護の霊峰で、十一面観音が祀られる正福寺がある。
勝ち取った漁師たちが、宝珠を船霊(ふなたま)とする

毎年6月に行われる御田植祭り。
宝船の上に赤い宝珠が見える。
↓画像はwebサイト日本の祭りから拝借。
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宝珠で思い出すのは、伊勢の内宮と、京都丹後の籠神社
おのおの社殿高欄は五色の座玉(すえだま)を戴く。
↓こちらの画像は籠神社のHPより拝借。
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青・黄・赤・白・黒。五色のなかで赤の座玉、そして
太一の船が冠する赤の宝珠は、いずれも「火の神(霊)」なのだろう
太陽神・天照大神である。

同時に、初代琉球の国王・舜天(1166年〜1237年)を思った。
舜天の石墓も、宝珠を拝していた。

アマミキヨに始まる天孫氏王統25代が逆臣によって滅ぼされ、
国が混乱の極みに陥ったとき、天下統一を果たしたのが舜天。
源為朝と大里按司の子と伝わり幼名は尊敬(ソントン)。

「ソントン(ソントノ)」とは「若き太陽王(てだこ)」のこと。
舜天の墓は、アマミキヨにゆかりの大里(南城市)にある。
宝珠は、太陽神・天照大神の象徴だと思う。
沖縄の民間伝承によれば、天照大神とは男神である。

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ここ伊雑宮にも「源」の痕跡が残っている。
1187年、源頼朝が義経追討祈願にと、
白馬と砂金20両を献上したと、森さんは言う。

「ところが、奉献された白馬がいつの間にか内宮へ移されていた
白馬の奉献については『吾妻鏡』にも記されていますが、
磯部では唄も残っています。
♪元は磯部の白い馬や 向こうに嫁いで いつぞや戻る〜ヨイノヨイノ♪」

伊雑宮が伊勢神宮の元宮であるという「元宮説」は、未だ根強い。
それは、伊勢に皇祖神・天照大神が祀られる前、
この伊雑宮には別の神が座していたことを意味する?




by utoutou | 2014-10-03 20:37 | 伊勢 | Trackback | Comments(0)

伊雑宮へ〈2〉「太一」の秘紋

「太一とは北極星、天帝」を神格化した名だと、語り部は言った。
北極星を沖縄では「にぬふぁ星」(北の方の星)と呼び、
沖縄民謡『てぃんさぐぬ花』の歌詞にも登場する。

〜夜走(ゆるは)らす船(ふに)や 「にぬふぁ星」見当(みあ)てぃ
我(わ)ん生(な)ちぇる親(うや)や 我(わ)んどぅ見当(みあ)てぃ〜
(夜、沖に出る舟は 北極星が目当て。 私を生んでくれた親は私を見守る)

いっぽう、北斗七星は「にぶとぅい星」。
形が似ていることから、杓子、船の碇、釣り針にも例えられる。

伊雑宮に行く前、太一を調べていて、まったく驚いた。
北極星(太一)と北斗は、伊勢神宮内宮と外宮の秘紋だという。
それぞれ「屋形文錦(やかたもんのにしき)※中国の廟のような形」
「刺車文錦(さしくるまもんのにしき)※御車の形」と名がついて。

秘紋をあしらった御被(みふすま、夜着)は特別なもので、
遷宮の際、それぞれ御神体を被うためだけに用いられるとのこと。
吉野裕子氏が著書『天皇の祭り』で証しており、次のくだりもある。

〜「太神宮の屋形文錦の御衣は、皇天、常住の本居の義なり。
豊受宮の小車錦の御衣は、宝車に乗り、四天下を廻り、万類に度る由なり。」
『宝基本記』は、鎌倉時代初期に成立したと今日では考えられているが、
この記事は屋形文錦は「太一」、刺車文錦は「北斗七星」の象徴であることを暗に言っている。〜

太一とは、天照大神。
北斗とは、その御饌津神である豊受大神。
「太一=天照大神」の秘紋(秘事)は、やがて神宮の外に洩れ伝わり、
「太一」という御神体として、伊勢地方で祀られるようになった…。


伊雑宮の南に隣接する御神田(おみた)。毎年6月24日に
御田植祭りを行う「磯部の御神田」として、国の重要文化財に指定された。
その祭りに先立つ竹取神事で、漁師の男たちがゴンバ団扇を奪い合う。
男たちが持ち帰った団扇は、船霊(ふなたま)として豊漁のお守りに。
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秋のはじまりの空が高い。
御料田の作付面積は1643㎡(「伊雑宮 参拝のしおり」より)という。
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参拝後、資料館へ行こうとして、神社の隣家で足が止まった。
森家 伊雑宮のおもてなし処 御師の家」に、ゴンバ団扇のイラストがあった。
上の団扇には日月と松竹梅、下の扇には千石船に太一。これだ…。
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by utoutou | 2014-10-01 13:36 | 伊勢 | Trackback | Comments(0)

伊雑宮へ〈1〉遷宮まで2ヶ月

9月22日(月)〜23日(祝)、伊勢神宮の別宮・伊雑宮に参拝した。
三重県志摩市磯部町。近鉄志摩線「上之郷」が最寄り駅。
東京から名古屋まで新幹線、JR快速で鳥羽、近鉄に乗り換えて昼に着いた。

目的は主に、御田植祭に立てられる大団扇(うちわ)を見るためだ。
調べると、郷土資料館にそのレプリカが展示されていると分かった。
「太一」と墨書きされた、通称・ゴンバ団扇。
地元では太一が何を意味するのかも、知りたい。

ゴンバ団扇のゴンバとは、軍配のことでは? と、考えた。
琉球舞踊に軍配団扇(ぐんばいうちわ)を手に舞う演目がある。
全体が瓢簞型。上の団扇に日月が、下の扇には北斗七星が描かれている。

その図柄は、上古から、海を縦横無尽に渡った海人族の旗印だった。
戦前生まれだった琉球神女のおばあたちは、そんな話を言い伝えていた。
北斗七星と太一の違いはあれ、「日月星」を掲げて航海した人々は、
沖縄諸島に渡来したアマミキヨと同族ではないか。


ともあれ、伊雑宮に参拝。
正殿に近づくにつれ、境内の光景に目を奪われた。
   聖なる森の際。陽に千木と鰹木が輝いている。茅葺き屋根も黄金色に。
   清々しくも神々しい、まっさらな新殿が建ち上がっていた。
そうだった、こちらの遷宮は神宮より1年遅れて行われるのだ。
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昨年(平成25年)秋、皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)の正宮、
そして内宮の第一別宮・荒祭宮、外宮の第一別宮・多賀宮で、
20年に一度の式年遷宮が斎行されたことは記憶に新しい。
いっぽう出雲大社も60年ぶりで、ダブル式年遷宮と話題になった。

ただし、月読宮など12の別宮については、
遷宮は、今年から来年にかけて行われる。

伊雑宮の主な遷宮スケジュールは…。
11月22日 御白石持(おしらいしもち、新宮の周囲に白石を敷く儀)
11月28日 遷御(せんぎょ、御神体を本殿から新殿へお遷しする儀)
   11月29日 大御饌(おおみけ、新宮で初となる神饌をお供えする儀)   


遷宮まで2ヶ月。
神の社の森は、夏の名残りの日射しと、秋の虫声が混ざり合う。
奥の新舎が、祓戸と御倉、手前が神饌を調理する忌火屋殿(いみびやでん)。
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御祭神は天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)。
創祀された2千年前から「天照大神の遥宮(とおのみや)」と称せられたと、しおりに。
磯部という地名からして海辺の遥拝所の趣き。「遥拝」とはそもそも南島の信仰形態だ。


伊雑宮の鳥居は東面、正殿は南面しており、鳥居を直進すると右に正殿がある。
↓写真は翌朝7時前。正門から朝日が射す。
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↓「伊雑宮参詣のしおり」から拝借した伊雑宮全景。
「真ん中のこんもり茂った森が伊雑宮」と。
左手方向の16㎞先に皇大神宮(内宮)、さらに5.5km先に豊受大神宮(外宮)。


三宮がほぼ一直線に並んでいる…。
沖縄・斎場御嶽の三大拝所、そしてナーワンダーグスクの三香炉を思わせた。
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by utoutou | 2014-09-30 07:58 | 伊勢 | Trackback(1) | Comments(0)