カテゴリ:龍蛇神( 11 )

7つの首の蛇 ⑪ 永田町の稲荷

連休直前の金曜日、永田町を歩いていた。
外堀通りを、溜池山王から赤阪見附へ。
すると、そびえる鳥居で足が止まった。


山王の日枝神社。鳥居の上が山型。
地名の通り、標高30m近くある神の社。
周囲のビル群のなかにあって、
ひときわ神気を放っていた…気がする。
ともあれ、久しぶりに雲ひとつない空を見た。
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ご祭神は大山咋神。
末社に山王稲荷神社、八坂神社・猿田彦神社。

本殿参拝もそこそこに末社へと急いだ。
何しろ、ウカノミタマを祀る稲荷神社参りが
続いている折から、素通りはできない。


末社祈願所から、ガラス戸を開けて進むと、
左が山王稲荷神社。右が八坂神社・猿田彦神社。
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鮮やかな朱の稲荷神社には、白狐も描かれて。
参道には奉納された赤鳥居、赤幟が並んでいた。
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山王稲荷社に参拝。
本社の山王権現が、萬治2年、麹町より
移遷された際、境内末社になったものという。
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八坂神社・猿田彦神社に参拝。
猿田彦神社は、萬治2年に、
八坂神社は明治19年に奉斎され、相殿神となった。
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思いがけず、立ち去りがたい気になったのは、
ご祭神の並び方のせいだ。
左からウカノミタマ、猿田彦大神・須佐之男命。


そして、神社の屋根部分にそれぞれ
あしらわれた色に、目が釘付けになった。
右の八坂神社・猿田彦神社が、白。
左の稲荷神社が、赤。
   
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それは沖縄稲作の聖地・受水走水
に伝わる色そのものだったのである。

「祖神の名は色を表している」と口伝に。
シロミキヨ(稲魂神)は、白。
アマミキヨ(太陽神)は、赤。

玉城の地では、
「白一族、赤一族の順に渡来(降臨)した」
と、語り継がれていたとも聞いた。
もちろん、どちらの一族も稲を携えて。

ヤマト的な表現に変えれば、
スサノオ・猿田彦(祖神は高皇産霊命)は、白。
ウカノミタマは、赤。

「白の次に赤。それが日の丸の意味なんだよ」
と、語り部は
神女のおばあたちに聞いたという。
「日の丸がヤマトの国旗になる前から、
琉球の海人は船に
白地の赤丸の旗を掲げていた」のだと。


「7つの首の蛇」は、ウカノミタマ(赤)。
7つの龍蛇族を束ねたのは、高皇産霊命(白)。
その神格を継いだのは、スサノオと猿田彦。


そう気づいたのも、龍蛇神の導きだったか
と、よりによって永田町のお稲荷さんで思った。
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by utoutou | 2015-05-04 04:50 | 龍蛇神 | Trackback | Comments(0)

7つの首の蛇 9⃣ 熊楠のウカノミタマ

海洋生物研究家・倉谷うらら氏は「熊楠のウガ」
(朝日新聞デジタル '12年1/11〜3回連載)
に、南方熊楠が「玉(フジツボ)を抱く龍」
と形容した海蛇を、死んで標本にする前に、
海水を張った桶に入れ息子と観察したと記した。

熊楠日記によれば、
漁師がこの海蛇を持ち込んだのは、
大正13年6月27日。昭和天皇へのご進講で
「玉を抱く龍」の標本をご覧にいれたのは、
5年後の昭和4年6月1日だったという。


何回見てもリアルで見入ってしまう
南方熊楠が描いた「ウガの尾についたフジツボ」
(再掲。南方熊楠顕彰館蔵。
朝日新聞デジタルより拝借)
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熊楠は、フジツボの蔓脚(まんきゃく)が尾に
付着したウガの姿を「宝珠が線毛状の光明を放ち
ながら回転するがごとし」と、日記に書いた。

その姿から、倉谷氏は、
伏見稲荷大社のウカノミタマ神や
出雲の龍蛇神を連想した。


曰く、
紀州や出雲では海蛇を「ウカ」「ウガ」と呼ぶ。
いっぽう、尾に付いたフジツボは「ミタマ」。
日本書紀の「神(あや)しき光海を照らして」とは、
この「ウカノミタマ」のことではなかったかと。


さらに曰く、
↓ 熊楠が見たフジツボ(スジエボシ貝)
の蔓脚は、一般的なフジツボと違って
「一つ一つがツブツブとしていて茶褐色。
よく実った“稲穂”に酷似している」
「豊穣の神ウカノミタマの原初形態
であったといえなくもない」と。
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なるほどなあと思う。
ウカノミタマの原初形態は、稲魂を抱いた蛇か。

熊楠は沖縄稲作の聖地・玉城に行っていない。
が、玉城そして対岸の久高島が
「7つの首の蛇」に例えられたという古伝に、
「稲穂を抱いた蛇」を重ね合わせると、私は
「7つの稲作渡来族」を見る思いがした。


↓ 熊楠が昭和天皇への天覧に供した標本。
(南方熊楠記念館蔵)。展示解説は、
「尾端にエボシ貝を寄生させた珍しい海蛇」。
ご進講の冒頭に解説したのが「ウガ」の話だった。
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出雲大社境内に立つ
幸魂奇魂(さきたま・くしみたま)像。
('13年秋に撮影)
「海を照らして依り来る神あり。
大國主大神はこの幸魂奇魂の“おかげ”を
いただいて神性を養われた」と、石碑に。
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ところで、「熊楠のウカノミタマ」
の話をすると、語り部は言った。
「元々沖縄に皇祖が降臨していたとしたら、
7つの首の蛇は、何になりますか?」
「8つの首の蛇、ですか?」
「そうですね、ヤマタのオロチです」






by utoutou | 2015-05-03 12:44 | 龍蛇神 | Trackback | Comments(0)

7つの首の蛇 ⑩ 高尾山へ行く

玉(稲穂)を抱いたウガ=7つの首の蛇。
そこに、1が加わるとヤマタノオロチに。
「8つの首の大蛇」になると、語り部は言う。

記紀神話で、スサノオが退治する八俣大蛇。
その「ヤマタノオロチ退治」と似た祭りが、
久高島の10km北に浮かぶ津堅島にあるとも。

祭りの名前は「マータンクー」。
いまでも毎年旧11月、久高島の
古祭イザイホーがあった冬至の頃に行われる。

そうすると…と、私は聞いた。
「7つの首は、渡来した古代海人7支族。
では、そこに加わった8つ目の支族とは?」
「遅れて渡来して、ウガ(海神)の姫をめとった天孫」
「天孫ニニギ? 
大山祇神の娘・木花咲耶姫を妻とした」  
「はい。やがて神武へと繫がる系譜になりますね」

ちょっと頭のなかを整理する…。
ニニギと木花咲耶姫は山幸彦・海幸彦を生み、
山幸彦こと彦火火出見命は豊玉姫を妻として、
神武天皇の父にあたる神・ウガヤフキアエズを生む。
日向(ひゅうが)三代と呼ばれる神々。

受水走水が「高千穂の峯」「高天原」と
呼ばれたのは、そういう訳があったのか…。


ところで。
ウカノミタマ(倉稲魂)を祀る稲荷神社は、
伏見稲荷大社を本宮として最多の3万社あるという。
ウカノミタマは、いわばこの国の母体とも言える神。


というわけで、昨日、家から近い高尾山へ行った。
薬王院の飯綱権現堂(東京都有形文化財)。
この境内にも、稲荷社がある。
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飯綱権現堂のすぐ左に鎮座する福徳稲荷社。
祀るのが僧侶(後ろ姿の男性)でも、神社?
参詣客もまばらな、午前10時の境内風景。
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高尾山・福徳稲荷社。祭神はダキ二天。
ウカノミタマ(倉稲魂)は、一説に飯綱大権現の母神。
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お稲荷さんの眷属(けんぞく)は白狐。
福徳稲荷神社にも、たくさんの白狐がこのように。
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左隣りは報國稲荷稲荷大明神。
目力の強い狐さんばかり。
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by utoutou | 2015-05-01 11:08 | 龍蛇神 | Trackback | Comments(0)

7つの首の蛇 8⃣ 南方熊楠が描いた蛇

久高島七川(なながー)巡りを終え、
本島に戻って港から車を走らせた先が、
大前の殿(うふめーのとぅん)こと
南城市玉城にある五穀豊穣の宮だった。


そして、
いつもは何げなく見ていた稲穂の絵に、
どうしてだか目が釘付けになった。
誰が描いたのかも知らなかったが、ふと思う。
これは特別な意図をもって祀られたのではと。
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語り部の言っていた「7つの首の蛇」
と同じ意味なのかもしれない。そして、
あの絵とも同じ意味なのかもしれない。
南方熊楠が描いた(南方熊楠顕彰館蔵)
↓「玉(フジツボ)を抱く竜(ウガ)」と。
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私が熊楠のスケッチを知ったのは、3年前。
出雲出身の知人が「面白いよ」とコピーをくれた
新聞記事(朝日新聞デジタル、'12年1月11日)
「海洋生物・ながぐつ日誌 熊楠の「ウガ」」
(海洋生物研究家・倉谷うらら氏による連載)
に、この絵が掲載されていた。


倉田氏はフジツボの研究家で、
『フジツボ 魅惑の足まねき』(岩波書店、
'09年)という“魅惑の”専門書の著者だが、
博物学者の南方熊楠が、昭和4年、昭和天皇に
ご進講した際に冒頭で解説したのが
「玉を(フジツボ)を抱く竜(ウガ)」
についてだったと、連載の前編にある。


(以下引用)
〜天子(天皇・皇帝など)の顔を表す言葉に
「龍顔(りょうがん」がある。(中略)
ご進講の日、熊楠の竜=「ウガ」を真っ先に
見せたのは天皇への敬意を込めた挨拶
でもあったと思う。〜

フジツボは蔓のような脚
(蔓脚、まんきゃく)を動かして
プランクトンを食べる付着生物だそうで、
倉田氏は、熊楠が天覧に供した
海蛇の尾に付着したフジツボを
「勾玉のような形をした生物」と表現したが、
私には、勾玉というより稲穂に見えたものだ。


こちらも熊楠によるスケッチ(記事より拝借)。
ご進講後、熊楠は「ウガ」の写真を撮り、何枚も
焼増しし「天覧・ウガ」と自ら書き入れして、
知人たちに送ったと、倉田氏は記している。
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そんなこんなで「大前の殿」で思った。
もしかすると「7つの首の蛇」とは、
この地に渡来した7つの龍蛇族のことでは?
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by utoutou | 2015-04-25 19:30 | 龍蛇神 | Trackback | Comments(0)

7つの首の蛇 7⃣ ヤグルガー

久高島の七川(なながー)巡りをしたのは、
3月21日(土)春分の日のこと。
日の出は6時47分、新月・大潮。

6時に宿を出るときの気温は、19度。
七川を巡りを開始した8時半で、23度。
1ヶ月遅れて、きょう4月23日、東京も
日中はようやくその陽気に追いついた。


3月21日の6時50分、日の出直後の伊敷浜。
太陽は雲に阻まれていたが、春の曙を十分に堪能。
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そして、
ヤグルガーに参ってみようかと思った。
七川のうち最北に位置する川泉である。

ヤグルガーと伊敷浜を、一対の聖地
として語るのは王府時代の説話集
の『遺老説伝』や『久高島由来記』。

玉城から渡島した
シラタルとファガナシー夫婦は、
伊敷浜に流れ着いた白い壷を拾えなかったが、
ファガナシーがヤグルガーで沐浴すると、
壷は袂に懸かり、中に七穀の種が入っていた。


ヤグルガー(屋久留川)入口。ひらがなでは
違和感があるのは、この看板に慣れ親しんだせい?
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ところで、
「久高島穀物伝説」には続きがある。
白い壷にあった種を植えて五穀豊穣に恵まれた
夫婦は、一男二女をもうけた(これには諸説あり)。
長男は外間神人に、長女は祝女(のろ)になった。

巫女となった次女・思樽(おみたる)は、
王の寵愛を受け玉城王夫人となるも、
側室の妬みを受け、失意のまま
久高島に戻り、ひとり男子を生んだ。
英祖王統最後の王となる西威である。
その産屋は現在も外間殿に残っている。


ヤグルガーは
久高島に限った聖地では終わらなかった。
後に王府から「コバウノ森(フボー御嶽)
四御前」のひとつとして、奉斎を受けた。
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崖下の川泉までの距離は長いが、
下りてみると湧水口は土砂で埋まっていた。
どうも昨年秋の台風でやられたらしい。
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西の聖泉・ヤグルガーと、
東にあるニライカナイ遥拝の聖地・伊敷浜。
それは、たとえばヤマトにおける
西の出雲と東の伊勢を彷彿とさせる。


↓ イザイホーの主祭場・久高殿の東西軸。
左が北、正面(東)方向に外間殿、伊敷浜。
手前は「西方川(かー)群方向」と呼ばれ、
「川神遊び(はーかみあしび)」のとき、
神女たちの登場口となったという。
川神とは龍蛇神のことだろうと、ここに
イラブー(海蛇)の燻製場を置いた
祭場の構図に思う。
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by utoutou | 2015-04-23 18:45 | 龍蛇神 | Trackback | Comments(0)

7つの首の蛇 6⃣ グスク跡

久高島七川巡り、
6川目は「みーがー(新川)」。
イザイガーに、ほとんど隣接している。
5川目まで、川と川の間隔は70〜100歩
だったが、ここではその半分あるかないか。
ひとつのユニットといった印象がある。

比嘉康雄氏(『神々の原郷 久高島』)によれば
みーがーは集落の最上位(北)に位置することから、
現集落の発生とともにできたと考えられるという。

そのため、この川は産川(うぶがー)とされ、
赤ちゃんの産湯は、こちらの水を使ったという。


みーがーの入口。
島の北へ進むに従い、川へと降りる斜面も急峻になる。
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みーがーには、比較的新しい看板が立っていた。
階段の補修もされており、安心して降りられる。
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石段の途中から見上げると、岩を削って道が造られた
のが分かる。それほど真水の水源は貴重なものだった。
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ところで、みーがー(新川)は、
男性神役の禊ぎの川として使われた。
名称の意味は「新しくできた川」ではなく、
「(人が)新しく生まれ変わる川」だという。
イザイガー(禊ぎの意味)で考えたように、
「禊ぎ」と「脱皮」は同義と考えられていた。

また、神人がここで禊ぎをするのは「みずのえ」
の日だったそうで、ならば「み」は「巳」の可能性も?


みーがーの川泉。拝所らしく、
川泉の上部には、石香炉の設えがあった。
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みーがーを出て舗道に戻り、北へ進むと、やがて
墓地(後生、ぐっしょう)の前に出る。
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墓地を抜けると、
左に石積みの残るエリアがある。
謎の城跡・ティミグスク(←南城市のHP)だ。
断崖の上にあるため遠見台という説もあるが、
それにしては規模が大きく(端から端まで約450歩)
何より、禊ぎ用の川と川に挟まれているのが謎。
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ティミグスクについての記事にも書いたが、
グスク跡のもっとも北には拝所があり、その
すぐ先が、やぐるがー(屋久留川)。
久高島で至聖のフボー御嶽まであとわずか。
グスク跡と川と御嶽が、一体となっている。

by utoutou | 2015-04-22 01:55 | 龍蛇神 | Trackback | Comments(0)

7つの首の蛇 5⃣ 禊ぎの意味

久高島七川(なながー)巡り〈その5〉。
西海岸を南から歩いて5川目は、イザイガー。
36年前に途絶えた古祭・イザイホーで
神女となる島の女性たちは、
三晩イザイ山に籠る前に、ここで禊ぎをした。

4川目までは生活用水用の川泉だったが、
イザイガーから北の3川は禊ぎ専用の川泉となる。


イザイガーへの入口(北側から撮影)。
写真右下の角を海側(右)へ進む。神女たちは、
島の南にある集落から裸足で歩いて来た。
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朝、イザイガーで禊ぎをした神女たちは、
洗い髪のままイザイホーへの準備を整えたという。
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さて、そのイザイホーの3日目。
神女の就任式である
「花さし遊び」と「朱りきぃー遊び」
を終えた神女たちは、次に、
「川神遊び(はーがみあしび)」に臨んだ。

川の神に感謝する儀式。
いったん主催場から退場した新神女たちと
ハタ神(先輩神女)たちは、七川の
方向から登場し直して、円舞を披露した。

「川神遊び(はーがみあしび)」のティルル(神歌)
の内容は、次のような内容だった。
※右側が標準語訳。
(『神々の古層 主婦が神になる刻
 イザイホー』比嘉康雄氏著より引用)


ヒーウスマーヤ 久しかった
ナマイガーヤ 今日のよき日
ムトゥマール 十二年ごとに
ティントゥマール めぐってくる
イザイホーよ イザイホーよ
ナンチュホーよ ナンチュホーよ

イティカワヌ 五ツの井泉の
ナナカワヌ 七ツの井泉の
カワヌウシジ 井泉の神様
ミディヌウビー 水の神様
ウサギノーチ 祈願をして

ヌキバナン さしたイザイ花
サシバナン さしたイザイ花の
ダキズゥラサ さした様の美しさよ(後略)


「イザイホーは神女たちが、
人間の身でありながら蛇に昇格する儀式」
と書いたのは、『蛇』の著者・吉野裕子氏。
「禊ぎとは脱皮(身殺ぎ)のことだ」とも。

神女たちが霊力(しじ)を更新
して生まれ変わる(=脱皮する)のが、
イザイホーの本質なのだと思う。

「川神遊び」のとき、神女たちが七川
の方向から再登場する演出は「脱皮」の証。
その聖所としてふさわしいのは、
川の神=龍蛇神が住まうイザイガーだった。


イザイホーが途絶えてから36年。神女たちが
禊ぎのために使用した石段の劣化は激しく、
これ以上は、ちょっと降りて行けそうになかった。
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七川巡りをした3月21日の朝でも、
降りて行くと、ひんやりとした冷気が走った。
イザイホーのあった旧11月は、さぞ寒かったのでは。
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by utoutou | 2015-04-20 22:20 | 龍蛇神 | Trackback | Comments(0)

7つの首の蛇 4⃣ 久高島始祖の墓

久高島の七川(なながー)巡り。
そうした観光コースがあるわけではない。
七つの川が並ぶ久高島を、いまき亡き神女たちは
「7つの首の蛇」と呼んだというので、歩いてみた。

蛇とは龍蛇、あるいは龍蛇神。
古来、龍宮と呼ばれた久高島のことである。

「7」は久高島では聖数。祭祀でも重んじられた。
かつて神女になる女たちは、イザイホーの祭りで
七つ橋を7回往復してから、七つ家に籠った。

あるいは、久高島の島立ての祖と呼ばれる
夫婦・シラタルとファガナシーが、
伊敷浜で拾った白い壷には、七穀が入っていた。


そのシラタルとファガナシーに由縁の深い川が、
〈その4〉「やまがー(山川)」。 
川への降口前に、秘伝によれば夫婦のお墓がある。
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お墓は、写真正面の樹々に隠れた崖下にある。
ファガナシーはミントングスクの一人娘。
そして、シラタルはミントン門中である屋号・本部
(姓は百名)の息子であったため、久高島の神人は、
玉城参りを欠かなかった。そのことは
アマミキヨ末裔の里帰り…」に書いたが、
逆に、玉城からの「久高御願」と呼ぶ
参拝も続いていた。


戦前は8月14日に、戦後は不定期に。
ミントン家など元家の代表らが
こちらのお墓とフボー御嶽に参拝して、
米と酒を供えたものだという。
そして一行は、この地で昼食をとった。
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さて、シラタルを祀る宮は、現在
イザイホーの主祭場だった
御前庭(うどぅんみゃー)にあるが、
'70年代までは、イラブー(海蛇)
の燻製場(ばいかんやー)内にあった。



シラタルは龍蛇神の再来だったのではないか
と思う。写真は、やまがー入口から見る本島。
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やまがー内部。久高島では昔、
こうした川々に住むの神を
「川神(はーがみ)」と呼び、崇めていた。
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そして、イザイホーの3日目、神女たちは
「川神遊び(はーがみあしび)」の円舞を踊った。

by utoutou | 2015-04-19 23:22 | 龍蛇神 | Trackback | Comments(0)

7つの首の蛇 3⃣ 久高島「七川巡り」

玉城で「7つの首の蛇」伝説を思ったのは、
その前日、久高島で川巡りをしていたからだ。


↓写真は、久高島西海岸。
漁港の上のベンチのある木陰。
約5km離れた対岸の知念玉城と久高島は、
なながー(七川)と呼ばれる地下水脈で繫がっている。
語り部は、神女のおばあさん方からそう聞いたという。
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久高島フェリーが発着する安座真港に立つMAP板。
約5㎞離れた東方に久高島が浮かんでいる。
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周囲8㎞。細長い形をした島。
南側に集落があり、北側には聖地と畑がある。
島は東北に傾斜しており、川(水源)は西側に集中。
うち南の川は生活用水、北の川は禊ぎ用だった。


漁港(王府時代の主港)の近く(赤矢印)から、
うぷしがー(大石川)、とぅぎゃんでぃがー(潮川)、
はしがー(橋川)、やまがー(山川)、いざいがー、
みーがー(新川)、やぐるがー。7つの川口が並ぶ。
※地図は『久高島資料』('79年、古典と民俗学の会発行)

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〈その1〉うぷしがー入口。久高島郵便局の近く。
もっとも水量が多く、昔は簡易水道の水源だったという。
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'70年代までは川の水が生活用水だった。
映画「イザイホウ」にも、'66年の久高島で、
女性や子どもたちが頭上に水桶を乗せて歩くシーンが。
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〈その2〉とぅぎゃんでぃがー入口。
集落の通りから左に折れるとすぐ。ここは、
飲用ではなく洗濯や水浴び用の川だったという。
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とぅぎゃんでぃがー。漢字で潮川とも書く。
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同じく、とぅぎゃんでぃがー。降りた右側が水源。
北側の禊ぎ用の川とは、かなり趣きが違う。
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〈その3〉はしがー入口。白い看板には
消えかけているが「知念村」と筆書きが見える。
市町村合併で南城市になる前は観光名所だったのか。
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はしがー。
久高島の川はいずれも珊瑚岩から染み出るほど
の水量だったようで、夏の日照りの強い日には水が枯れる
ため、早朝から水汲みする人の列ができたという。
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本島を見やりつつ、南から歩いた「七川巡り」。
3川目までは、昭和時代までの生活が偲ばれたが、
4川目「やまがー」からは古伝の残る史跡となる…。

by utoutou | 2015-04-18 11:40 | 龍蛇神 | Trackback | Comments(0)

7つの首の蛇 2⃣ 鷲が運んだ稲

大前の殿(うふめーのとぅん)。
受水走水(うきんじゅはいんじゅ)から
徒歩10分ほどの高所(南城市玉城百名)にある。
かつては「五穀豊穣の宮」と呼ばれた。


戦後、安里家の神女が建造したという。
安里とは、稲作の祖・アマスのアマミツと
共に稲作を成功させた功労者。
もう一人の功労者が大前(うふめー)である。
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「大前の殿」内部。五穀神を祀る。
「大穂米之屯」で「うふめーのとぅん」。
鳥居が建てられたのは戦後のことで、
「親田御願」の祈願経路には入っていない。
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さて、沖縄の稲作は約700年前に始まったという。
アマミツを含む3名が稲作に成功したきっかけは、
中国へ渡った伊波按司(現・石川市)。
稲穂を持ち出そうとして果たせず、
鶴にくわえさせて飛ばしたところ、
嵐(あまべー)に遭い、この地に落下したと。

ただし、どうにも解せないのが時代だ。
この鶴伝説は、本当に
稲作の伝来と発祥を伝えているのだろうか。

シロミキヨの高天原」を書いて以来、
どうにも釈然としなかった。この地に残る
「高天原」「高皇産霊命」「御稲御倉」などの
神話的な言い伝えを思えば、稲作の伝来が
わずか700年前というのは、
どうも時代混同の感が否めないと思う。

神女おばあたちの言い残した話が甦る。
「稲穂の最初は鷲、後から鶴が飛んで来た」

鷲がくわえた稲穂という、
もうひとつの伝来伝説があった…。

鷲の伝説はミントングスクにも伝わっており、
紅型で人間国宝となった鎌倉芳太郎氏が記録している。
(『鎌倉芳太郎ノート』大正15(1926)年) 

〜『ミフーダ』ト称シ往昔アマンチュ、シルミチュ
の神初めて『ワシ』ノ持チ来リタル/稲穂ヲマキテ
作リアゲタル所ナリト云フ〜
〜「ワシ」ノ稲穂ヲ持チ来タリテ死シタル
オカー(ルビ:サチバルヌオカー)アリ〜

柳田國男氏の『海上の道』にも。
〜それでアマミキョは天に祷(いの)って、
鷲をニライカナイに遣って求めさせたところ、
三百日目に三穂をくわえて戻って来た。
初めてその種子を蒔いた田を三穂田と謂う〜

その鷲を、神女たちは「ゆがき鷲」と呼んだ。
夜明け鷲。琉球の夜明けは鷲から始まったと。


「7つの首の蛇」の伝説を思い出したのは、
 「大前の殿」に祀られた↓この絵を見たときのこと。

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その前日、私は久高島で川巡りをしていた。
島の西海岸には7つの川泉がある。そして、古来、
玉城と同じ「7つの首の蛇」伝説があったという。

そして、「大前の殿」へ。
頭を垂れる稲穂は以前も見ていたが、
稲穂を数えると、1、2、3…7本ある。
ふと思った。「7つの首」とは、
稲作を営んだ古代(龍神)族のことでは…?

by utoutou | 2015-04-16 17:11 | 龍蛇神 | Trackback | Comments(0)