カテゴリ:ヤマトタケル( 29 )

ブログ開設2周年♡ありがとうございます

あらもう…と、昨日の朝、気がついた。
ブログを開設したのは7月末だった。2周年である。
いつも訪問してくださり、ありがとうございます。

昨日は玉城の「山の茶屋 楽水」に電話して、
その旨をご報告。ありがとうございます。

御嶽めぐりの拠点は、いつも玉城。
沖縄はじまりの地で、
歴史時間への旅の準備を整える。
終わっては珈琲とともに振り返る。

ということで、8月に「アマミキヨ感謝祭〜
私が好きな御嶽を語ろう」(仮)と題して、
2回目となる「宮里聡さんを囲む会」を
「天空の茶屋」にて開催することになりました。
詳細は改めてご案内します。
よろしくお願いします。


さて前回、大黒様は『日本書記』の天地開闢
に登場する国狭槌尊(クニサツチノミコト)
の仮の姿だという語り部の説を書いたが、
その神名は古伝『ホツマツタエ』に見える。

タケヒト(神武)より古いアマキミ(天皇)の第2代。
ちなみにホツマ(関東の意味)ツタエによれば、
神武以前のアマキミは、
初代クニトコタチから12代いたという。


私たちがよく知る大黒様のいでたちとは…
稲俵に足をかけ、右手に打手の小槌、左手に布袋。
この意味について、語り部は常々こう言っていた。

「右手の小槌は産鉄を意味するハンマー。
そして布袋には西方から運んだ御宝が入っている。
後に七福神のひとりとなった大黒様の本来の姿は、
渡来した産鉄・稲作集団の首長だったと思います。
また上古代のアマミキヨとも、繋がりがある」


2年前には、日本神話の神と琉球の神々に
強い関連があるとは、思いもよらなかった。
新しい1年も追跡(追っかけ)は止まらない予感。
よろしくおつきあいのほど…。



2年前の夏至に、沖縄久高島・伊敷浜の朝日。
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1年前の7月、沖縄久高島・伊敷浜の朝日。
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1年前の沖縄久高島・カベール岬(島の北端)。
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1年前、お話し会を終えた後、天空の茶屋から。
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東京〜沖縄1600㎞、古代の航路を夢想しつつの往来。
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by utoutou | 2015-07-26 11:05 | ヤマトタケル | Trackback | Comments(14)

ヤマトタケル ㉗ 大国主と天日槍 〜 大国魂神社

大国魂神社(東京都府中市)に参拝した。
目的はまず↓隋神門を守る大黒天に会うこと。
数年前に改築なった新門が、陽に映えていた。
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隋神門の表側には、右に隋神の豊磐間戸命、
左に櫛磐間戸命が奉納されている。

その裏(本殿側)の向って左に、大黒天が立つ。
右は事代主で、東西を出雲の神様が固めている。
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語り部曰く、大黒天には隠れた神がいる。
またの名は、国堅大神(くにかためしおおかみ)。
どこかで聞いた名だと思ったら、
酒折宮についての話に出てきた神様だった。

酒折宮の御神体はヤマトタケルの火打袋(石)。
彼は草薙剣と同様に霊験あらたかなその神石を、
返歌の上手だった「火焚きの翁」に授けた。

「返歌が上手いからといって、なぜ火打石を?」
聞くと、語り部は言った。
「翁が、国堅大神の子孫だからでしょう」
「国堅大神? どなたですか?」
「大国主、大物主、大巳貴神、猿田彦、そして…」
「そして…?」
『日本書紀』の最初の天地開闢に出てくる
国狭槌尊(くにさつちのみこと)、さらに…」
「さらに…?」

あのときは、私の理解が追いつかず、
後半の神名については書けなかったが、
語り部はこうも言ったのである。
「国堅大神とは、天日槍(あめのひぼこ)
の祖先にあたる神様かもしれません」

天日槍とは、垂仁の時代に渡来した新羅の王子。
その渡来神の祖先が国堅大神ならば、
大国主もまた渡来神ということになる。

天日槍は、製鉄などの技術を伝えたと言われ、
出石神社(但馬国一の宮)に祀られている。

いっぽう、国堅大神は、
『播磨風土記』に見える大国主の別名という。
その播磨国と但馬国は、南北に隣接していた。

ならば、国堅大神が天日槍の先祖
にあたる物理的な必然はありそうだ。

思えば、ヤマトタケルの母(景行天皇の妃)は、
播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)。
ヤマトタケルも、国堅大神の血を引いているのか? 



大国魂神社は、大国魂神(大国主)が主祭神。
左右の相殿に、武蔵国の著名六社が合祀されている。
別名・六所宮とも呼ばれる大国魂神社の本殿。
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本殿奥にぐるりと鎮座する
摂社の佇まいとパワー感が素晴らしい。
ことに拝殿の右横(西)に位置する
こちら……住吉神社・大鷲神社。
15時過ぎの太陽を背に、どこか凛々しい姿。
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鳥居横の説明板によれば、
祭神は、表筒筒男命、中筒男命、底筒男命、
そして、大鷲大神。

住吉神社は、大阪府の住吉神社からの勧請、 
大鷲神社は、大阪府の大鳥神社からの勧請。


住吉神社本社の祭神には神功皇后もいる。
神功皇后の出た息長氏の始祖は、
他でもない天日槍。
大鷲大神とは、ヤマトタケルのことである。
こうして合祀された神社には、
出雲というよりも、海を股にかけた
古代海神族の神威が漂っている。



右の赤い建物が、拝殿横の祈祷受付所。
住吉神社・大鷲神社は本殿エリアの北西にある。
北西=玄武が表すのは、冬そして夜。
ここにも隠れた海の神がいるように感じる…。
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by utoutou | 2015-07-19 21:44 | ヤマトタケル | Trackback | Comments(2)

ヤマトタケル ㉖ 沖縄の鍛冶神 〜 久高島・外間殿

沖縄半島西海岸の恩納村に泊まったので、
1時間あまり北へ車を走らせ、国頭郡の
奥間(おくま)村へ行ったのは2ヶ月前。

関東や関西でヤマトタケル神話の伝承地
(=古代産鉄地)を訪ねていたので、
沖縄でも…と思った。
県内に古代産鉄地と伝わる土地はないが、
「御先(うさち)カニマン」の言葉はある。
御先は上古、カニマンとは鍛冶屋のことだ。

「そう呼ばれる御嶽がある以上、
上古の時代にもカニマンはいたと思っています」
と、語り部は言う。

ともあれ、奥間村は「カニマン」と呼ばれる。
第二尚氏王朝の初代王・尚円が、
まだ金丸と名乗っていた時代、
故郷の伊是名島を追われて身を寄せた先は、
奥間鍛冶屋(うくまかんじゃー)のインキツ屋。
その屋敷跡が、現在の金満神社だという。


そんなわけで、奥間村に向かったが、
レンタカーとの相性が悪かったらしく、
奥間村のなかで道に迷ってしまった。
ちょうど梅雨入りで、
突然のスコールにも見舞われた。
目指すインキツ屋に着けずに諦めかけ、
奥間公民館の裏山の御嶽から帰ろうとしたとき、
公民館の外壁が、目に飛び込んできた。


鍵と万…カニマン。公民館に堂々と。
「王を生んだ鍛冶屋の村」の伝統を垣間見た思い…。
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この奥間鍛冶屋は、久高島とも縁が深い。
久高島の根家・外間家では、
鍛冶神・カニマンガナシーを司る神職が、
奥間鍛冶屋に定期的に参拝していたという。

以下、比嘉康雄著『神々の原郷 久高島』より引用。

〜ハニマンガナシー
ハ二とは鉄の意で、この神は
フーチガッタイ(ふいご)をシンボルにする
鍛冶屋の神と言われている。
…ほとんどのシマレベルの祭りに
白衣で参列する。十一月には独自に
フーチガミのお願をする。三年に一度、
国頭郡奥間の「ウクマカンジャー」に参拝する。〜



鍛冶神・ハニマンガナシーが祀られている
久高島第一の祭祀場・外間殿。
正月をはじめとして年中行事が行われる。
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外間殿の神壇。香炉は左から、
ムンパー、ムンプシー(外間家の開祖)、
そして、ハニマンガナシーと、比嘉氏は記録した。
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ハニマンガナシーは、同じ南城市にある
大里・西原集落の根家「新垣がじゅまる屋
にも祀られている。ここへは今年3月に再訪した。
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Yahoo!地図に加筆した赤丸。左が大里西原の位置。
ちなみに赤丸の右が斎場御嶽の位置。
大里西原、斎場御嶽、久高島は、ほぼ東西に一直線
に並ぶ。上古にあった祭祀場の大掛かりな配置か。
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アマミキヨの神紋(写真右上)を掲げる
新垣がじゅまる屋の神壇。香炉は、
左から(写真には写らなかったが)ヒヌカン、
火の神、水の神、真ん中の壁の陰に女の神様、
そして、カニマン。
「女の神様は、屋敷内に御骨玉が祀られ、
カニマンの香炉は、カニマン御嶽
当てられている」と、語り部は言う。
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ヤマトタケルを各地で祀ったのは、
大和豪族の和邇氏に繫がる人々では
なかったかと何度か書いたが、
カニマン御嶽のあるこの大里西原も、
「沖縄の“和名”こと和邇氏が渡来して最初に
住み着いた場所では」と、語り部は言う。
いっぽう、和邇氏は渡来する前、朝鮮半島と
中国の国境地帯にあった産鉄地にいたと
『契丹古伝』に記されている。


大里西原で祀られるカニマンは、はたして
御先の鍛冶神か、もっと下った時代の鍛冶神か。
御先の神なら、代々祀り継がれてきたことになる。
また集落内のヌル殿内(どぅんち)にも、
カニマン御嶽に当てられた香炉が祀られている。


語り部が稲作起源の地・受水走水で白鳥や鷲を
霊視してきたというのは、そんな歴史の投影か。
和邇氏とカニマンとヤマトタケルというキーで、
沖縄と日本の歴史は繫がっているのではないか…。

by utoutou | 2015-07-16 13:20 | ヤマトタケル | Trackback | Comments(1)

ヤマトタケル ㉕ 舟が乗る埴輪 〜 日本武尊白鳥稜古墳

大田田根子の出自は和邇氏だった…
という考えは以前、琉球の和邇氏に書いた
が、記紀に見える大田田根子が、
大物主を祀って三輪山の神主になる経緯は、
おおむね次のようなものだった。

〜崇神の時代に疫病が流行って人民が死に絶えよう
というとき、天皇の夢に大物主が現れて宣った。
「汝、オオタタネコを呼んで祀れば天下は平安になる」
そこで、茅渟県の陶邑(ちぬのあがたのすえむら)に
いたタタネコを探し出し「お前は誰の子か」と尋ねると、
「父の大物主、母は活玉依姫」と答えたので、
祭主とした。すると疫病は止み、五穀が実った〜


大田田根子は埴輪製作に携わる土師氏。
茅渟県は河内(正確には和泉市)にあった。
南河内一帯は、鍛冶と埴輪製作のメッカだった。


河内と同様に、大物主の三輪山も産鉄地だった。
亦の名・大巳貴は産鉄神(タタラ神)である。
「祟り神」の語源は、封殺されたタタラ神だろう。
(古代製鉄の民は、神武によって封じられた…)


やっぱり、大田田根子は和爾氏だな
…と、日本武尊稜から向った
誉田白鳥埴輪製作所遺跡で思った。


埴輪窯跡に出土埴輪の写真が掲示されていた。
そのなかに、↓こちらの家型埴輪の写真が。
切妻の先が左右に伸びる「舟形屋根」の家。
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その家屋は、和邇氏の本拠から出土
した「謎の鉄刀」の還頭と、かなり似ている。
舟形の屋根が家に乗った形なのである。



奈良県天理市の和爾下神社は東大寺古墳の上
にあるが、そこから出土した青銅製還頭太刀。
和邇氏の首長が所持していたもので、4世紀の大陸製。
頭部に、家屋型の飾りを付け改造してある。
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※『よみがえるヤマトの王墓
〜東大寺古墳と謎の鉄刀』
('10年、天理大学付属天理参考館刊)より拝借。



その飾りこそ、上古代の和邇氏が、
西は大陸から東は琉球・日本列島まで
広大な海を制した海神族だった証ではないか。


鳥越憲三郎氏や吉野裕子氏といった
沖縄に注目していた民族学者が指摘している
ことだが、「舟形屋根」とはインドネシア
にいたトラジャ族の慣習でもあった。


そんなわけで、ヤマトタケルは、
上古代の海を制した海神族・和邇氏
の末裔だったのだろうと、改めて思う。


『倭族トラジャ』を著した鳥越憲三郎氏
は、大著『琉球宗教史の研究』も残し、
イザイホーの研究でも知られるが、
「倭」が、実は琉球を中心にした大海洋王国
だったと、薄々感じていたのではないか…。
そして、後の和邇氏となっていったことも。



古市にある日本武尊稜古墳。羽曳野市の名は
ヤマトタケル亡き後、飛んでいった白鳥が
羽をここに引いたという伝承からというが、
それを後世に残したのも、
舟形埴輪を作った土師氏=和邇氏だったと思う。
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by utoutou | 2015-07-11 21:49 | ヤマトタケル | Trackback | Comments(0)

ヤマトタケル ㉔ ここにある理由 〜 日本武尊白鳥稜古墳

「百舌鳥・古市古墳群を世界文化遺産に」と、
キャンペーンを展開中の河内(大阪府南部)。

百舌鳥(もず、堺市)と
古市(羽曳野市・藤井寺市)のエリアには、
4世紀後半〜6世紀中頃に造られた
巨大な古墳が、現存するだけで99基もある。

といった情報をはじめパンフレットには、
「鉄製品の多量副葬」「倭の五王の奥津城」
「国際色豊かな副葬」といった、古代の国際交流
   を伺わせるスケールの大きいコピーが満載。  

そんな古市にあって、
ヤマトタケルの古陵は、もはや影が薄い?
というのも、古墳は、
その孫・応神の時代から突如巨大化した。

百舌鳥古墳群には、仁徳天皇陵(縦長486m)
があり、古市古墳群には、応神天皇陵(425m)や
履中天皇稜(365m)と、巨大な前方後円墳が目白押し。



ヤマトタケルの白鳥稜(後円部の一部)も、
カメラにほんの端っこしか写らないほど大きいが、
巨大古墳に比べれば、稜の長さは半分の190m。
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古市古墳群MAP。赤矢印を
加筆した、いちばん大きいのが応神稜。
その下、赤で名前を加筆したのが白鳥稜古墳。
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上のMAPで、ヤマトタケル稜の左横、
矢印を加筆した稜は、'92年に発掘され、
「こちらがヤマトタケル稜の本命か」とも
言われた峯ヶ岡古墳。非常に小さい。



↓ 白鳥稜の横幅のごく一部。
左の赤い舗装道路は竹内街道という。
大阪(灘波)と奈良(飛鳥京)を結ぶ最古の官道。
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さて、この地にヤマトタケル稜ができた経緯
について『日本書紀』は、こう記している。

〜ヤマトタケルは伊勢国の能褒野の稜に葬られたが、
白鳥となって、稜から出て倭国をさして飛んで行った。
柩には衣だけで残っているだけだったので、白鳥の行方
を追ってみると、倭の琴弾原(奈良県)にとどまった。
それでそこに稜を造った。白鳥はまた飛んで河内に行き、
古市邑(古市)にとどまった。またそこに稜を造った。〜


これまでに私は「白鳥と名のつくのは産鉄地」
という法則を知ったが、その通りで、
調べて見ると、やはりこの地も産鉄地だった。

いま、近くを走る近鉄線に「土師ノ里」駅
があり、ここが古代の土師氏(土師部)の里
だったと分かるのだが、実は、
その土師氏が奉斎したのは、兵主神。
つまり製鉄神、産鉄族が崇める神だった。


陵墓の造営、埴輪の制作、大王の葬送儀礼
に関わる人々を土師氏(土師部)といい、
主に古墳の周辺に配置されたというが、
彼らは同時に、製鉄にも従事していた。

「その高温技術を利用して、
製鉄・鍛冶に関与していたと考えられる…
古代では、
鍛冶と陶工は同じ穴の狢(むじな)であった」
(浅井壮一郎著『古代製鉄物語』2008年、渓流社) 



白鳥稜のすぐ近く、ここに
「誉田白鳥埴輪製作所遺跡」があった。
そして、埴輪製作に従事する土師氏の
大集落があったという。いわば、埴輪村だ。



「誉田白鳥埴輪製作所遺跡」にあった埴輪の写真。
9基の窯跡から、様々な埴輪が発掘された。
他に、白鳥を思わせる水鳥型の埴輪も。
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「埴輪村」で、思い出すことがあった。


崇神天皇の時代、乞われて
三輪山に大物主を祀ったのは大田田根子。
彼は「茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑から呼ばれた」

茅渟県(ちぬのあがた)とは、
この河内のこと。大田田根子とは、
陶邑=埴輪村にいた土師氏ではなかったか。

そして、倭姫も、その甥っ子の
ヤマトタケルも同じ系譜にいたと考えられる…。

by utoutou | 2015-07-08 21:51 | ヤマトタケル | Trackback | Comments(0)

ヤマトタケル ㉓ 石灯籠と百済 〜 誉田八幡宮

羽曳野市の白鳥神社と誉田八幡宮に立つ
石灯籠には、太陽と月の文様の火袋がある。


拝殿のすぐ近くにある当宗(まさむね)神社
の脇にも、こうして太陽と月の石灯籠が。祭神は
中部朝鮮の楽浪郡から渡来の当宗忌寸の祖神とか。
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当宗神社から応神天皇陵への散歩道にも灯籠が。
誉田八幡宮に隣接する広大な応神天皇陵。
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白鳥神社と誉田八幡宮、
ヤマトタケルに所縁の深い二社の共通点
としての石灯籠について考えつくのは、
当宗神社の由緒にも伺える朝鮮半島との関係。


古墳群で有名なこの河内には百済系渡来人
が多く住み、安宿(あすか)部郡があった。
地名の由来は百済系渡来人がここを
安住の地「アンスク」と呼んだことといい、
近くの河内飛鳥にある飛鳥戸神社の祭神は、
百済王の昆伎が祀られていた(現在は素戔嗚尊)。



なんと古市駅で飛鳥の車両に遭遇。
安宿(あすか)と飛鳥(あすか)は、
近鉄近鉄南大阪線で繫がっている。
飛鳥戸神社のある上之太子駅へは5分、奈良の
飛鳥へもその先20分で着くほどの「地続き」。
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ふたつの飛鳥を「近つ飛鳥」「遠つ飛鳥」と呼ぶ。
近つ飛鳥博物館HPによれば、
それらは「古事記」に記載があるそうで、
難波に近い河内飛鳥を「近つ飛鳥」、遠い
奈良の飛鳥を「遠つ飛鳥」と名付けたという。


「あすか」の語源について記すのは、
『古代は生きている〜石灯籠と稲荷の謎を解く』
(近江雅和著、1994年、渓流社)。
それがスケールのたいへん大きな話で…。


近江氏「あすか」についてのくだり要約
・河内の安宿は百済系渡来者が多い土地だった
・語源はペルシャの古代帝国「アスカ王朝」
・「アスカ王朝」は中国では「安息国」と呼ばれた
・河内の安宿が大和に移って明日香になり、
 枕詞の「飛ぶ鳥」から飛鳥の地名になった
・ペルシャ由来なので飛鳥汁は牛乳で煮込んだ野菜汁


飛鳥の名はペルシャから。そして、
石灯籠も大陸由来であると、こう近江氏は記す(要約)。

中国で石灯籠が発見されたのは、山西省と松江省で、
いずれも北方遊牧系がいた北辺の地域。よって石灯籠
は非漢文化系の鮮卑族のもので、朝鮮半島を経由した。
また『日本書記』によれば、石灯籠の近畿大和
への伝来は552年(欽明天皇の時代)だったという。

誉田八幡宮などにある石灯籠の年代は不明
だが、半島経由という歴史があるのなら、
同じ文様の石灯籠のあった
酒折宮(山梨県)も気になるところ。

酒折宮は、ヤマトタケルから賜った
という火打袋をご神体として祀る神社。
それは、火守りの翁の返歌に感動しての授与だった
と『日本書紀』は記すが、酒折宮にも、
もしや大陸半島由来の隠された由緒があるのか?


ヤマトタケルが東征の帰りに寄った酒折宮(山梨県)。
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それよりもなぜ、
ヤマトタケルの陵がこの地にあるのか。
ヤマトタケルと大陸、そし百済との関係とは?

「古市の古墳群を歩いてきましたよ」 
 そう伝えたとき、語り部は言ったものだ。
「馬が見えます。
そこには騎馬民族が入っていますね」
「騎馬民族ですか…」(絶句)
 
石灯籠を造ったという鮮卑は、遊牧騎馬民族。
紀元前3〜6世紀にかけて中国北部にいたという。
思えば百済の王家も、騎馬民族から出たと言われる。

by utoutou | 2015-07-04 20:11 | ヤマトタケル | Trackback | Comments(6)

ヤマトタケル ㉒ 孫の応神天皇 〜 誉田八幡宮

ヤマトタケルを祀る白鳥神社のある羽曳野市
(大阪府)には、藤井寺市にかけて世界文化遺産
登録をめざす巨大な古墳群があり、そのひとつが
日本武尊白鳥稜古墳だが、そちらはさておき、
白鳥神社の北500mにある誉田(こんだ)八幡宮へ。

ヤマトタケルの孫・応神天皇がご祭神。
その応神は、仲哀の子、つまりヤマトタケルの孫…
と考えると、どうも年代計算が合わない…と、常々
考えていたことが、誉田八幡宮へと足が向いた理由。

というのも、ヤマトタケルを祀る熱田神宮は、
ついこの間、2013年に創祀1900年祭を迎えた。
皇子亡き後、草薙の剣を祀るための創建だったが、
その2013年から1900年を引くと、西暦113年。
『日本書記』にヤマトタケルは30歳で没したとある
から、ヤマトタケルの生年は、西暦83年以前。

いっぽう、応神の母・神功皇后は362年に出産。
ヤマトタケルと応神の年の差は279年。
そんなに年の離れた祖父と孫は、まずいない。

さらに『書記』は、父・仲哀がヤマトタケルの
死後36年目に生まれたとしていること
から「架空説」もあり、もう訳が分からない…
まさに謎の四世紀だなどと思いつつ、
参拝客のいない境内を進む。



参拝後、賽銭箱に浮かぶ三つ巴紋に目が行く。
琉球王朝の左三つ巴(ふぃじゃいごもん)と同じ。
八幡宮はおしなべてこの神紋だが、久々に拝観した。
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鳥居は東向き。本殿は広い境内を真っ直ぐ進んだ先。
右(北)に国内第2位の規模を誇る応神天皇稜が隣接。
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鎌倉から室町時代には、源氏の氏神を祀る
社として幕府の保護を受けて興隆したという。
耳に心地よく、砂利を箒で掃く音が静かに響く。
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応神稜サイドに、摂社が並んでいるようだと近づくと、
ここにも稲荷神社が鎮座。姫待稲荷神社という。
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そして稲荷の前でも、太陽と月の石灯籠に遭遇。
白鳥神社と揃えたかのような一致は、何を意味する?
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境内には、同じ刳り抜き紋の石灯籠が何基もあった。
誉田八幡宮と応神稜をつなぐ
放生橋(ほうじょうばし)に近くにも…。
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by utoutou | 2015-07-02 18:40 | ヤマトタケル | Trackback | Comments(0)

ヤマトタケル ㉑ 太陽と月の灯籠 〜 白鳥神社

ヤマトタケルの旅を追うと、古代産鉄地に行き着く。
熱田神宮のある名古屋市熱田区にも金山神社
があり、鍛冶神である金山彦命、天一箇目命を祀る。

では、ヤマトタケルが没する前に寄った
最後の地・伊吹山(現・滋賀県米原市)
はどうかというと、
古代にはやはり一大産鉄地だったらしい。

山麓の坂田郡伊吹町は古代豪族・息長氏の拠点。
「伊吹山の息長氏は伊吹山の鉄によって大をなした」
(真弓常忠著『古代の鉄と神々』)という歴史がある。



約1ヶ月前に関西へ行った折りに
訪れた白鳥神社のある古市(大阪府羽曳野市)
も、何やらそんな「産鉄の匂い」のする土地だった。


梅田から電車で40分。
近鉄古市駅に隣接する白鳥神社の境内に入った途端、
本殿の向こうにある稲荷神社に目が釘付けに。
稲荷は「鋳成」。この古市も産鉄地だったのか。
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参拝もそこそこに、稲荷神社へと進む。
鳥居に掲げられた扁額には「白長大明神」とある。
もしや、産鉄長者を祖神として祀ったのだろうか…。
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鳥居をくぐってみれば、なんと…
稲荷神社は「白長」だけではなかった。
白長神社の奥には、さらに二社の稲荷神社があった。
左に「白龍大神」、右に「白玉大明神」が並んでいる。
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なぜこうして稲荷神社が密集しているのか?
宮司さんはおらず、参拝客とも出会えず、聞くこと
もできなかったが、非常にパワフルな神威を感じた。


そして興味深いこことに、白鳥神社の境内にある
石灯籠にはすべて「太陽と三日月」のくり抜き紋が…。
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石灯籠を見つめていると、アッと
思い出すことがあった。どこかで見た
と思いきや…やはりヤマトタケルの遠征地
↓ 酒折宮(山梨県)境内の石灯籠と酷似している。
三日月と、右奥に太陽らしき丸が彫られていた。
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太陽と月、すなわち「火の神」と「水の神」。
石灯籠にくっきりと浮かぶ神々の意匠は、
沖縄の御嶽でも見た配置だった。

このときほど、ヤマトタケルと沖縄の関係
を確信した瞬間はなかった気がする…。



by utoutou | 2015-07-01 15:13 | ヤマトタケル | Trackback | Comments(2)

ヤマトタケル ⑳ 地下神殿はあった 〜 熱田神宮

「神剣は2本、ミササギに隠されている…」
語り部の見立てでは、草薙の剣は
熱田神宮本宮の奥に祀られているという。
それも1振りならず、2振りも。


そこのところを、私なりに検証…
というか、ちょっと調べてみた。
まず本宮の後ろが丘かどうかは、こちら↓
国土地理院発行の地図「熱田神宮」
(平成10年3月発行)で確認できた。
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稜(みささぎ)らしき丘が、等高線で図示されている。
現在の名鉄神宮駅に面する大津通りからも勾配が。
古来、熱田台地と呼ばれた由縁だろうか。



境内に2ヶ所立つ「こころの小径」の案内板
(これは本宮拝殿西側のもの)では、
セキュリティーのためか、丘は省略されている。
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本宮拝殿の西に建つ車祓いの祈祷殿。
建物の右に案内板があり、いわば奥の院である
一之御前神社へと真っ直ぐに進むことができる。
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さて、語り部が
「2本あった」と言う草薙の剣については、
この4月に発売の人文誌『藝林』(藝林會・刊)
に、参考になりそうな話が載っている。

愛知県在住の太田正弘氏が著した
「研究ノート 草薙剣の御移座」によれば、
草薙の剣が飛騨一宮の水無神社に
移座したのは、実は戦争中ではなく、
終戦直後の昭和20年8月21日から9月19日だ
そうで、進駐軍による接収を怖れてのこと。

草薙の剣を運んだ軍人の回想では、
神剣は木箱に幾重にも納められ大きく重く、
20人でも担げないので、当時の宮内庁
が小さな箱にお遷しすることから始めた…
(動座の際)包みはふたつあった。高級な袱紗の
包みと、祖末な黒木綿の包風呂敷包み。
前者は万が一のダミーだったのでは…と。

ダミーだったのかどうかはともかく、
神剣の包みがふたつあったことは確かなようだ。


さて、記事中、予想外の内容で驚いたのは、
戦争が始まる3年前の昭和13年に、
神宮、宮内省、内務省が協議した結果、
あらゆる空襲を想定して、本宮の奥に
地下神殿の建設を始めたというくだり。

神殿の大きさは約38坪(約78畳)、
東西廊約21坪の計60坪。総檜の社殿形式。
気密鉄扉によって外気を遮断できる構造という。

完成したのは、昭和14年末。
終戦直前になって神剣は地下神殿に安置され、
本殿が炎焼したB29による空襲を免れた。
結局、水無神社から戻されて以来、
戦後復興が進んだ昭和30年まで、
神剣は地下神殿に祀られていたという。

現在の鎮座場所については、記されていない。


ところで、時代は一気にさかのぼり、
686年9月9日に崩御した天武天皇。

「天皇が病気になられた」と『日本書紀』にあるのは、
その1年前。半年後、事態は切迫していたようで、
「天皇の病いを占うと草薙剣の祟りがある
と出た。即日、熱田の社に送って安置させた」と。

即日移座とは、あまりに慌ただしいが、
はたして、剣はそれほど扱いやすい神器なのか?

『古代刀と鉄の科学』(石井昌國氏著、'95年、雄山閣)
によれば、神剣は次のような形状らしい。

・長さ五尺ばかりの木箱の中に石箱があり、箱と箱の間。
 に赤土を詰め、中に黄金を延べ敷き、御神体が鎮座。
・御神体は諸説あるが、長さ一尺八寸〜二尺七、八寸。
(※一尺=38㎝)
・刃先は蒲浦の葉のよう、中程はむくりと厚みがある。
・本のほう(持ち手)六寸ばかりは魚の脊骨のごとし。
・全体が白色をしているので、鉄剣ではなく白銅製か。



『古代刀と鉄の科学』より拝借。
右3振りが「草薙剣想定図」。
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「草薙の剣はどのような形をしているか?」
について意見を聞くと、語り部は言った。

「真っ直ぐではありませんね。
以前言ったように7つの首の蛇のような、
ちょっとイビツな形をしていると思います。
それは、幻の大陸の護り神であり、
超古代に琉球に渡ったものだと思いますが、
剣にまつわる伝承は、
もう津堅島にしか遺っていません」

ちなみに、剣の素材はオリハルコンだという。
古代ギリシャに伝わったといわれ、はたまた
古史古伝『竹内文書』ではヒヒイロカネとも。

もはや私には確かめる術のない領域だが、
古代琉球王朝17802年を思えば、それもありか…。



by utoutou | 2015-06-28 00:27 | ヤマトタケル | Trackback | Comments(2)

ヤマトタケル ⑲ 神剣の祟り 〜 熱田神宮

かれこれ何回目になるのか。
もはや数えきれないほど熱田神宮について
書いた気がするのに、未だに日々疑問が湧き、
モヤモヤした感じが拭えない。


そんなわけで、画像も使い果たしたので、
前回参拝した('12年秋)ときのものを。
社務所で求め、しばらく携帯した折畳式の熱田神宮。
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さて、きょうのモヤモヤは
熱田神宮HP「熱田神宮の歴史」。
次の部分が気になって仕方がない。
ことに、↓ 神剣が遷座などの下から2行。


113年 景行天皇43年 日本武尊、
伊勢の国・能褒野(のぼの)にて薨去(こうきょ)
草薙神剣を熱田の地に祀る
195年 仲哀天皇4年 氷上姉子神社創祀
686年 朱鳥元年 草薙神剣が神宮還座
708年 和銅元年 八剣宮創祀


ちなみに、新羅の僧が草薙の剣を盗んで
逃亡したのは668年というが、
船が難破して失敗。その後は宮中で祀られた。

そして、歴史年表にある686年、
天武天皇が病に倒れる。
原因は「神剣の祟り」であるとの託宣で
剣は熱田神宮に返却されたという。
ところが、同年、天武天皇は薨去された…。

「神剣の事件簿」はひどく謎めいていくが、
『熱田大神鎮座記』(宮庁編『熱田神宮』)
は、次のように記している。


〜朱鳥元年(686)六月に
「天武天皇の勅命」によって草薙剣が返却され、
「このとき改めて大宮や別宮諸神社を
造営して、十二月に新宮に遷宮の儀を行った。〜


熱田神宮に返却された神剣。
けれども、その神剣を祀った「別宮」が
どこであるかは、史料に記録がない。
そして、708年9月9日、
元明天皇が「八剣宮創祀」との勅命を発する。
その日は天武天皇の命日で、結局、天武薨去の年に
造営された「別宮」はミッシングリングとなった。



御神体なのだから草薙の剣を祀るべきは本宮?
天武天皇に「祟った」ので、神剣を祀るお宮は曖昧模糊に。
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明治の本宮改造の際、草薙の剣を祀った土用殿。
こちら今回の撮影。佇まいは2年半前と変わらない。
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こうした神剣にまつわる事件を振り返ると、
天武・持統の時代以降に伊雑宮で起きた、
伊勢神宮の祭祀変更に伴う数々の事件が思い出されるが、
くだんの神剣が祀られた「ミッシングリング」について、
菊池展明氏はその著書『円空と瀬織津姫』
('08年、風琳堂)で、鋭い指摘をしている。


〜天武時代に造営された
「別宮」とは何かとなるが、
大きな可能性のひとつとしては、
(伊勢)の第一別宮・荒祭宮に準じて
同神(天照大神荒魂)を祀る一之御前神社
の元宮の創祀ということが想定されようか。
なぜなら、本来の地主神が新たに祀られた神に
主座を譲って「別宮」扱いとなる事例は、
内宮を先駆としていたし、そこに
関与する最初の天皇こそ天武であったからだ。
同じことが熱田神宮においても
実現しようとしていたのかもしれない。〜


はたして、
一之御前神社は天武による創祀だったのか?
そして、熱田神宮の創建1900年(2013年)記念
として、遂に禁足が解禁されたのはなぜか?

ということで、草薙の剣をめぐる
モヤモヤはしばらく晴れそうにない…。


by utoutou | 2015-06-23 08:44 | ヤマトタケル | Trackback | Comments(2)