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沖縄の天女伝説 ㉑ 天御中主神と七人の日巫女

首里末吉のノロ殿内御神屋に参った。
天女伝説の地・南風原宮城を訪れた日のこと
だったので、もう2週間近く前のことになる。
ノロ殿内(どぅんち)とは、ノロの
火の神(ひぬかん)のある家の敬称である。

その日、会うなり語り部が言った。
「聞得大君殿内にあったという掛軸について、
思い出しましたよ。同じ弁財天の掛軸が拝める
場所が、いまでもあるんです。首里の末吉町に」

昭和2年、聞得大君殿内を訪れた鎌倉芳太郎氏が、
掛軸に関するメモとスケッチを残していたことは
書いたが、(「鎌倉ノート」はこちらの過去ログに)
当主である男爵の話を図示しただけのものらしく、
琉球王朝最後の聞得大君が崇めていた神の絵図は、
結局、はっきりとは分からなかった…。



幸運にも拝観できたのが、↓こちらの掛軸。
建て替えて間もない神屋の神壇に掛かっていた。
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御挨拶し見上げていると、後ろで語り部が言う。
「弁財天…ですが、蛇になり龍になって見えます。
妙見菩薩にも感じられますね…そして…」
「そして?」
「その奥に、天御中主神の姿が控えています」
「アメノミナカヌシノカミ…ですか…」
「日月北辰信仰では、北極星、天帝、太一。   
ここ末吉は首里城の北に位置するので、
守護神として特にお祀りしていたのでしょうね」
「はあ、なるほど…」


なぜ天御中主神に見えるのか。
「見えない」私にはすぐには理解できなかったが、
何日かして、そうかもしれないと気がついた。
絵の最上に描かれているのは、太陽と月。
太陽と月は、神の島・久高島でも最高神として
祀られ、崇められてきたのだった。
その自然最高神のもと、神格化され描かれている
のが、天の真ん中に在って動かぬ北極星こと
天御中主神だろうことは、疑いようがない。

弁財天に見える中央の美しい神女こそ、
古代琉球より代々神に仕えてきた日巫女。
その名は…「玉依姫」と語り部。

魂が依り憑く姫、あるいは神の子を宿す姫、
そして、男兄弟を守護する妹である「オナリ神」。
国王と祭政一致を司る、聞得大君の元型である。



↓ 掛軸の上部分をズーム。
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掛軸の下部分には「七ぬウミナイ」が描かれている。
北斗七星に例えられる日巫女、玉(魂)依姫たち。
久高島の秘祀イザイホーで神女になる女性たちが
七つ橋を渡って七つ屋に籠るのも「七ぬウミナイ」
になるための儀式だったのだろう。
神女たちに神酒を注ぐ神職は「にぶとぅい」。
北斗七星のかたちをしたクバ柄杓のことである。
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右の位牌(とーとーめ)には、三神が祀られる。
右から天帝子、奴留(ヌル)大神、辺土野主。
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玉依姫と言えば…、
天久のある古老が語っていたという伝承がある。
〜天久には、中世玉依姫(なかゆたまよりひめ)
という神女がいて、機織りをしていたそうだよ。〜

神女は神名を一生涯隠さなければいけないのに、
なぜそれが伝わっているのだろうか?

語り部の意見はこうだ。
「それが、天女と言われた娘の後世の姿なのでは。
婚家と別れる理由として、名乗る必要があった?
“神の子”を生み継ぐために娶られた旧家の娘と
いうのが、伝説にいう天女の現実かもしれません」

元伊勢・籠神社の先代宮司は、天御中主神は
豊受大神のことであり倉稲魂(ウカノミタマ)
のことであると記した。琉球の神女たちは、
ウカノミタマのことを「七つの首の蛇」と呼ぶ。
古代琉球に渡来した天孫氏の異称である。



琉球八社のひとつ、末吉宮を末吉公園側から。
そう言えば、末吉町に屋号・大東(うふあがり)
という旧家があったという。『琉球祖先宝鑑』には、
「アマミキヨは(大陸の)大東から来た」とある。
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by utoutou | 2015-10-28 18:29 | 天女伝説 | Trackback | Comments(2)

沖縄の天女伝説 ⑳ 大国家と三保の浜

天女降臨の舞台は、銘苅川や森の川だけではない。
本島南部・南風原町宮城(みやぐすく)にある
御宿川(うすくがー)もそのひとつで、
大国家(でーこくやー)という旧家の近くにある
川泉に、羽衣伝説が残っている。

大国家は、ぜひ一度、訪れたいところだった。
そもそも大国家という屋号を冠したこの旧家は、
大国主の末裔であるという伝承があり、その当主は、
大国大主(うふくにうふすー)と呼ばれたという。

それを語り部に聞いたとき、沖縄=出雲だと思った。


ところが、いまは屋敷の跡形もなく、
↓拝所(写真右)は、鉄扉が錆び付いていて開かない。
語り部曰く、神壇には「大国さま」が祀られている。
覗くと、確かにそのような立ち姿が暗闇に浮かんでいた。
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さて、大国家の大国子(でーこくしー)が、
この地の天女伝説の主人公である。今から300年前、
大国子は御宿川で髪を洗う女性に出会った。
そこで、木枝に掛かっていた衣を高倉に隠し…やがて結婚。
子宝に恵まれ暮らしていたが…家族別離のときが訪れる。
おおむね天女は飛衣を得て昇天するストーリーだが、
この地に伝わる天女伝説は結末が違う。
東へ山ひとつ越した与那原で姿を消したというのだ。
(但し、『琉球国由来記』では、
「昇天せず死ぬ。御嶽内に葬る」となっている)



南風原町宮城の御宿川(うすくがー)。
看板の左下が天女の川泉。水は湧いてはいない模様。
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天女の消えた場所が、与那原与原の久場塘(くばどう)。
宮城から東へ車で10分、与那原交差点を西原方面に500m。
住宅街の駐車場内にひっそりと、しかし堂々と。
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「なぜ、天女はここで消えたとなっているのですか?」
語り部に聞くと、理由はあっさりと判明した。
「昔は、大国家がこの与那原にあったからですよ」
「あらら、南風原の天女伝説は、この与那原が元で?」
「一山越えて、移住したと伝わっています。ほら…」


語り部が指差した先、
拝所の小祠の左半分に、次のように刻まれていた。
〜南風原村宮城区拝所
一九五五年四月五日建立〜
この久場塘拝所は宮城のものであると明記されている。
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では、大国家が移住したのは、いつ頃だろうか。
南風原の天女伝説は300年前の話だというが、
『琉球国由来記』にも、大里間切宮城の項に、
「一ツ瀬アマオレヅカサ」という天女由来の御嶽が見えるので、
『〜由来記』成立(1713年)以前には、大国家は宮城にいた?

いっぽう、これまた驚いたことには、
察度王(1321〜95年)の息子である崎山里主が
南風原の大国家へ養子に入ったとの伝承がある。

逆に言えば、
天女一族と王族との縁組みは琉球王朝時代の
はるか以前から行われていたということになる。

察度は、奥間大親と森の川の天女から生まれたので、
崎山里主は、天女の孫にあたる。
  その王子が、大国主の末裔家に養子に入った…
  つまり、大国家はどれほど大きい家だったか。
   いまは寂れてしまったが、過去の栄華が偲ばれる。  
大国家も銘苅家と同様、古代海人族の流れだった。


ところで、
この地の天女も後の聞得大君と深く関わる。
天女が消えたのは久場塘だが、舞い降りたのは、
歩いて10分ほどの距離にある「浜の御殿」(うどぅん)。
後に琉球王朝の王族が順拝する東御廻りの拝所となった。



天女が出産したときに、↓ 親川(うぇーがー)の
湧水を産湯に使ったという古伝承があることから、
聞得大君は、就任式「お新下り」のときは、
この親川の泉で水撫で(うびなでぃ)をしたという。
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親川には、聖なる神名が付いている。
「与那原よなわしのあまおれ川、
君がおべい主がおべい、川御すじがなし」
(琉球王府編纂『お新下日記』による)

意訳すると、次のような意味になろうか。
「世直し(豊穣)のため天女が舞い降りた川泉、
 聞得大君のための、霊力(しじ)高い水の神」
聞得大君はこの霊力により国王のオナリ神となった。

この川御すじ加那志(神)こそ、各地の天女伝説で見た
弁財天であり、ヤマトの信仰で言えば瀬織津姫であり、
市杵島姫命であり、語り部によれば菊理姫でもあり、
そして、三穂津姫である。

この与那原は近年、再開発が進んでいるが、
往古は、御殿山や親川の側を通る国道329号線まで海岸
が迫り「与那古浜」「三保の浜」と呼ばれたという。
「そして、立派な松林があったそうです」と、語り部。

大国家と三保の浜と松原と羽衣伝説。この地の
天女伝説を辿ると、出雲神話の原風景とそっくりに
感じられる「いにしえの与那原」に行き着いた。
なんとも不思議…。



埋め立てが進み現在の海岸線は、西原きらきらビーチ。
地域には野外コンサート場や観光施設建設の予定もある。
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宮城観光地図のサイトはこちら
by utoutou | 2015-10-24 19:53 | 天女伝説 | Trackback | Comments(2)

沖縄の天女伝説 ⑲ 銘苅御殿は語る

天女と結婚した銘苅子が祀られている
銘苅御殿(めかるうどぅん)は、米軍からの
土地返還(1987年)後に開発された新都心の一角にある。
神屋も真新しく、銘苅子とおぼしき肖像画 も新作のようだ。
案内してくれた語り部は、描いたのは
沖縄出身の日本画家・故 柳光観氏ではないかと言う。
(※御殿(うどぅん)とは、一般に王族の建物を指す)


ただ、神壇に香炉と位牌がないため、
各地の元家にある神壇とは、決定的に印象が違う。
この家の御元祖(うぐわんす)を示す位牌を祀らないという
ことは、銘苅家が断絶してしまったということだろう。
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上に掛かる扁額には「凌雲堂」と。
左(上座)には火の神が祀られ、右に天女の絵が掛かっていた。
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↓ 昇天する天女を描いた日本画も、柳画伯の作品か。
絵の下に描かれるのは、長じて尚真王夫人
となった銘苅子の長女と、まだ小さかった弟か?
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神屋の外には、古い香炉が並び祀られている。
香炉は、右から(天女と銘苅子の出会った)シグルクガー、
(天女が降りた)アマオレガー、御嶽。そして、
ヤマトと唐に当てられた御香炉だと語り部は言う。


ヤマトと唐に関連する香炉がある…。銘苅家はやはり
水運と貿易に従事した古代海人族の末裔なのだろうと思う。
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香炉の佇まいが語るように、銘苅御殿の歴史はとても古い。
天久宮が創祀された成化年間(1464〜1487年)、
この銘苅の地に天久宮を創祀した「銘苅の翁」がいた。

シグルクガーで天女と出会って娶った
「銘苅子」は、翁の次代の銘苅家当主だったか。
伝説に残る銘苅家代々の当主が、
神壇の肖像画に集約されて描かれているようだ。

繰り返すが、位牌はない。
そこには一体どんな意味が? 語り部は言う。

「権力によって封じられた家なのだと思います。
銘苅子の墓も戦前はこの地にあったそうですが、
返還後の再開発で(那覇市)識名に移されています」

その「銘苅子の墓」一帯は、
考古調査により銘苅北地区古墓群遺跡と命名された。
古墓からは、向姓湧川家代々の骨壺が発掘されたと、
『銘苅古墓群』報告書(1998年、那覇市教委刊)は記す。

〜この墓から出土した蔵骨器の銘書き(みがち)と、
那覇市企画部市史編集室が発行した『家譜資料(首里系)』
に掲載されている「向姓家譜湧川家」の家譜とが一致した。
この墓は銘苅子の墓と言われている。〜(以上引用)
(※蔵骨器(じーし)は骨壺。銘書きは壷表に墨書された名のこと)

銘書きを家譜とを照らし合わせた結果、
次のような埋葬者と判明したという。

・(九世)越来(親方)朝盛/室
・(十二世)朝喬湧川親方/室
・(十三世)朝興湧川親方
・(十三世)朝興湧川親方/継室
・(十六世)朝愛/五女真加戸


さて、
「銘苅子の墓」に湧川家代々の人々が眠る理由は、
銘苅子の孫・佐司笠按司が湧川家に嫁いだからだった。
    父・尚真王の叔父で二代王・尚宣威の二世
である、里美王子朝易と結婚した。

相続の話は、王府の正史『球陽』(1743年)にある。
〜羽衣を見つけた天女が飛び去った後、男子ふたりは夭死し、
長女は尚真王夫人となる。茗苅子(=銘苅子)には
跡継ぎになる子がなく、その采地(さいち=領地)
を譲って外孫の女佐司笠按司加那志に伝えた。〜(※意訳)


そのことは、語り部も神女おばあから伝え聞いていた。
「尚真王から佐司笠按司への遺言があったそうです。
あんたが男だったら家督を継がせたかったが、
女だから、婿との間にできた子から継がせなさいと。
ところが、生まれた子がまた女だった。
そのため、湧川家が銘苅家の家督を継いだ、と…」

語り部は常々言っていた。
「それほど、銘苅は大地主だったと伝わっています。
銘苅口説の文句にもあると言いましたね。
〜国のはじまり銘苅国、川のはじまり銘苅川〜
国とは真和志のこと、古代から陸地だった地域を指します」

  
銘苅御殿を出てから、天女は誰かという話になった。
「そろそろ天女は誰か、分かってきましたね?」
「銘苅家の女ですね。
そして、御先世(上古代)からこの地に住んだ海神族
が崇めた女神の霊力を継ぐ日巫女だったのだと思います。
銘苅子と天女は、古代の習俗のまま同族婚だった。
それを隠す必要があって、天女として語り継いだのでは…」

天女伝説が語られる『球陽』や
『琉球国由来記』は、1700年代前半の編纂。
薩摩による琉球侵攻(1609年)の百年後である。
琉球の古代信仰は隠さざるを得なかったのか。
  


銘苅御殿は、現在のおもろまちにある。
周囲には真新しいマンションや病院など各種施設が立ち並ぶ。
右手前、赤瓦の屋根の建物が銘苅御殿。
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by utoutou | 2015-10-20 13:54 | 天女伝説 | Trackback | Comments(0)

沖縄の天女伝説 ⑰ 弁財天は聞得大君の先祖

久米島の君南風(きみはえ、方言では「ちんべー」)は、
琉球王朝の三十三君(高級神女)の公職名
だが、その始まりは往古まで遡るとの伝承がある。

通称『君南風由来記』(1700年頃)によれば、
〜神代に三姉妹の神女が降臨した。
長女は首里の弁が岳に降り、
次女は久米島の東嶽に降りたが、
やがて八重山の於茂登岳に移り住んだ。
三女は久米島の西嶽に住んで、君南風になった。〜

また、語り部が本島玉城の神女おばあから聞いた
ところでは、神女三姉妹はヤマトから来たといい、
なかでも三女の君南風はズバ抜けて霊能力が高かった。

〜尚真王の時代、八重山征伐(オヤケ・アカハチの乱)
のときに御神託があって、ヤマトから三姉妹が来たが、
それがスサノオの御子たちなのか、
豊後海部の日巫女三姉妹なのか、はたまた、
宗像三女神なのかは、はっきりとはしない。
とにかく、長女は弁が岳に降り、
次女は八重山の於茂登岳に、
三女は久米島に降りられた。
そのなかで、いちばん霊力が高かったのは、
久米島の君南風になられた三女。
どれほどの霊力高(しじだが)だったかというと、
海の上を草履を履いて歩き、呪術をよく使った。
君南風が一振りすれば、風が舞い、火が起きた。〜

語り部は「君南風は市杵島姫命のことでしょう」と言う。
そして私は、この海神族のプリンセス三姉妹とは、
神代この琉球諸島に降臨した女神だったのではと思う。
 


石垣島に行ったとき、大浜でアカハチの銅像を見た。
 王府に反旗を翻した島の英雄だったが、オヤケ・アカハチの乱
(1500年)で、君南風の参加した王府軍に誅伐された。
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さて、神女・君南風は
弁財天の霊力で王府軍を戦勝に導いたが、
では、その弁財天と王府の関係はどうだったのか。
実はその女神を聞得大君が崇めていた痕跡が残っている。



1927(昭和2)年、
鎌倉芳太郎氏は、尚侯爵家に野嵩御殿(尚泰王の子の妃)
を尋ね、聞得大君御殿の神壇について聞き書きした。
↓そのスケッチが『鎌倉ノート13 北部神座考』にある。
右ページのいちばん上に「弁財天掛物」と。(※原文は辨財天)
つまり神壇の真正面に弁財天の絵が掛かっていた。
左ページは掛物のスケッチで、真ん中に女神像とメモがある。
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また上の左ページのメモは次のような内容だ。
(原文のカタカナ表記は平仮名に変換)

〜中央掛物図様
これは「ウミナリウシジ」にして風の御神なりと云う。〜

(中央掛物の女神像についてのメモ)
〜これを弁財天と呼ぶも疑問多く、故 尚泰侯爵もこれが
弁財天とは考えられたるも、古来かく伝えられたる
ゆえしか称す。されど不思議なりと、野嵩御殿に御話
ありきとうけたまわる。〜

いっぽう、
これと同じ掛軸を、伊波普猷氏は田島利三郎氏による
スケッチで見たと「火の神考」に記したが、その図柄とは…。
〜ひとりの女神が胡座にかけていて、その
右手(向って左)にお供らしい女が三人立っている。
それに相対して左手には、お供らしい
七人の女性に取り囲まれた弁財天女の立像がある。〜


「7人のお供に囲まれた弁財天像には、
どんな意味がありますか?」
資料を閲覧した国会図書館から、語り部に電話した。
すると、こんな答えが返ってきた。
「弁財天のお供が7人いるのですね。それは、
昔から“七ぬウミナイ”と呼ばれた日巫女たち。
久高島の祭・イザイホーで神女が籠る七つ屋は、
ここから来ているのです」
「すると、弁財天は聞得大君の先祖というわけですか?」
「そういうことになりますね」



とんでもない方向に話が展開してきた。
イザイホーで、七つ屋の近くに建てられていた小祠。
それは、普段は久高島の旧港・君の泊にあるアカララキ
そこに坐す神とはアラハバキだと、昨年の旧正月に書いた。
旧港を上がり、向って左の森にアカララキはある。
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天女=弁財天=アカララキ=アラハバキ=市杵島姫=瀬織津姫。
するとやはり聞得大君とは、琉球王朝に始まった神職
ではないのかもしれない。その発祥は神代に遡る?

かつて、語り部は言っていたものだ。
「聞得大君は、ヤマトで言えば菊裡姫なのです」と。





by utoutou | 2015-10-10 09:59 | 天女伝説 | Trackback | Comments(0)

沖縄の天女伝説 ⑯ 神女・君南風は弁財天(市杵島姫命)

大物主神を大田田根子が祀ると、世の混乱が治まった
という、奈良・大神(おおみわ)神社の御由緒。
それと、弁財天が祀られる天久宮の御由緒が似ている
気がして、一体どこが似ているのか? と思っていたが、
突然、絡まった糸がほぐれるように閃いた。

いや、単純明快な話だった。
大田田根子がそうだったように、
神祀りをするのは、その神の子孫なのである。
よって弁財天を祀った銘苅村の翁とは、
弁財天を祀った一族の子孫だと考えられないか?

天久宮の「由緒」を改めて見る。
銘苅の翁が、洞窟に消えた女人を不思議がって
祀ると、そこに熊野権現が現れて神託を下した。
「かの女人は国家の守護神なり、弁財天である」と。



この夏、訪れた天久宮(那覇市泊)境内駐車場からの眺め。
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トラックのイラストが映ってしまったが、御祭神に弁財天と。
古代は海沿いだったためか、天龍神、龍神といった神名が並ぶ。
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さて…、
熊野権現そして弁財天と言えば、天河大弁財天神社
が思い出されるが(といっても参ったことはない…)
主祭神は市杵島姫神(いちきひめのかみ)という。

その女神はまた、宗像三女神のうちの一柱とも、
海部・安曇・尾張など海人族の祖・火明命
饒速日命)と一対を成す女神とも言われ、
亦の名を、縄文の神・瀬織津姫という。

本地垂迹の時代には、弁財天と習合して祀られた。
そして…この弁財天と一対になるのは大黒天。
神道では大物主と呼ばれる神である。

その男女神を天久宮に祀ったのは、銘苅の翁。
つまりアマミキヨ、天孫氏の末裔だったと思われる。

ところで、
創建時期について、天久宮由緒は次のように記す。
〜お宮の創建は成化年間と伝えられる。
(尚圓、尚宣威、尚真王時代、1465年〜1487年)〜

成化年間とは、当時の琉球が冊封した明の第九代
皇帝・憲宗(成化帝)の在位期で、1464〜1487年。
この間が、尚円・尚宣威・尚真の時代と一致する。

その琉球国王、第三代までの在位年はというと
初代・尚円王は、1470〜1476年、
尚宣威王の在位は、1477年(在位は半年)、
尚真王の在位は、1477〜1526年。

その尚真王は、当時14、5だったと言われる実妹の
聞得大君・音智殿茂金(おとちとのもかね)とともに、
八重山征伐(1500年)に出立する前の戦勝祈願を、
斎場御嶽の再奥の拝所である寄満(ゆいんち)で行った。

結果、八重山征伐(オヤケ・アカハチの乱)に戦勝したが、
戦いを勝利に導いたと言われるのは軍尼・君南風(チンべー)。
彼女に依り憑いた霊力(しじ)とは、宗像三女神の三女
・市杵島姫命に比定される女神・弁財天だった。

このことを考えてもやはり、
銘柄家は古代海神族(天孫氏)の末裔に違いない。



宗像大社(福岡県)にある古代祭祀場(高宮祭場)。
宗像三女神が降臨した聖地と伝えられる。
全国でも数少ない古代聖地跡とも言われるが、
その空気感は沖縄の御嶽と、よく似ていた。'13年12月撮影。
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by utoutou | 2015-10-06 09:19 | 天女伝説 | Trackback | Comments(0)

沖縄の天女伝説 ⑭ 大物主神と君真物(きんまむん)と大国家(でーこくや)

何日か前、沖縄の鍛冶神
ハ二マンガナシー(=カニマンガナシー)に
ついて書いた後、ふと思い出すことがあった。
それは首里城正殿の2階南東の神壇に、
聞得大君が祀った香炉(3柱の祭神)のこと…。
(過去の記事はこちら

『女官御双紙』(1710年頃)によれば、
その聞得大君が司祭する「おせんみこちゃ」
と呼ばれる部屋に祀った神は、
1. 御筋の御前(みすじのおまえ)
2. 御火鉢の御前(おひばちのおまえ)
3. 金之美御筋の御前(きんぬぬびうすじのおまえ)

それは、どのような神だったのか…。

かつて伊波普猷氏は〈1.〉祖先の霊〈2.〉火の神、
〈3.〉金属の神と説いた。また、
折口信夫氏は〈3.〉のみ伊波普猷氏とは意見が異なり、
「金之美御筋の御前」は「穀物の神」と解いた。なぜなら、
「かね」とは『おもろ』で穀物の堅実を祝福する常套語だからと。

私などはいまこう思うのだ。その神は…両氏の見立てを
合体させたようなかたちだが、金属の神であり穀物の神。
つまり、聞得大君の崇めた「金之美御筋の御前」とは、
稲荷大神と同じ神格の神様ではなかったか…。

稲荷大神とは、日本各地の稲荷神社に
祀られておなじみの倉稲魂(ウカノミタマ)のこと。
亦の名は豊受大神(伊勢神宮外宮に祀られる)
といい、元伊勢のある丹後でその神を古代に祀ったのは
天女と呼ばれた豊受姫であることは、最近も書いた。
その天女とは、産鉄の母神であったとも。

聞得大君が崇めた神は、その古代日本の母神と
同じ神格を内包した神だと、考えられるのである。

もちろん、久高島の「君の泊(港)」に坐す
アカララキ(アラハバキ)も同じ神格の女神だと思う。


↓ こちら首里城・円鑑池にある弁天堂と天女橋。
建造は1502年。
朝鮮王からっ送られたお経を納めるお堂だったが、
1609年の薩摩侵攻で崩落。1621年に再建された
とき、新たに祀られたのが弁財天象だったという
ことから、弁天堂と命名された。
これも沖縄戦で破壊されたが、1965年に復元された。
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さて、前置きが長くなったが、大物主大神の話である。
大物主を祀る神社といえば、日本最古の大神神社(奈良県)
で、大己貴神=大牟遅神=金穴神(産鉄神)だと前回書いた。

大物主という神名の由来の核心は「物」にある。
物部氏の「物」であり、『もののけ姫』の「物」
であり、武器兵器を作る「物」という意味もあるが、
そのすべてに、大きな霊力(=物)が秘められている。

霊力の部分を端的に表すのが、沖縄に残る
「物(むん)」の一字である。

君真物(きんまむん)とは、聞得大君に依り憑く神
であり、海底の宮を住処とする琉球古神道の最高神。
国王は君真物の守護なくして、真の国王たりえなかった。

その深意は「大物主大神にある」と、語り部は言う。

「大物主は、上古代、沖縄からヤマトへ上ったと思います。
銘苅港川原や、大里の拝所・天代大世にその神影を見ます。
つまり、大物主とは、渡来した古代産鉄族の首長であり、
大国主を束ねていた大王(おおきみ)だったのでしょう」

大国主の大王…。すかさず、私は聞いた。
「ということは、クナト大神ではないですか?」
「そうです。大物主は出雲神族の大王、つまり、
龍蛇族である富の一族を率いて渡来したクナト大神のこと」
「で、その末裔は残っているんですか?」
「大物主の裔は聞きませんが、大国主の末裔なら、
大国家(でーこくやー)として、天女伝説に出て来ますよ」

そう言えば、与那原・親川にも天女伝説が残っている。
そして、天女と結婚した男は大国家。
さらに、話は続き…。
「あの奥間大親と天女の間にできた察度の子
である崎山子(さきやましー)が、その大国家に養子に
なったという話が語り継がれています」



与那原の親川(うぇーがー)の拝所。
聞得大君が順はイした東御廻りの参詣場所のひとつ。
ここにも天女伝説と大国家の名が残っている。
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与那原出身の画家・故野津唯市氏による『天女』。
玉城・山の茶屋 楽水のキャラリーに展示されている。
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大国家の名が残るのは、与那原だけではない。
南風原の宮城(みやぐすく)に伝わる
もうひとつの天女物語の主人公(男)も、
大国子(でーこくしー)と呼ばれていたという話だ。

大物主、大国家、羽衣、古代産鉄、龍蛇族…。
これまで沖縄では謎とされていたモチーフのすべて
が、どうやら「天女」で繫がっている。

やはり、大物主神は、
古代琉球からヤマト各地へと東遷したのだったか…。




by utoutou | 2015-09-26 20:43 | 天女伝説 | Trackback | Comments(2)

沖縄の天女伝説 ⑬ 鍛冶神ハニマンガナシーと大物主大神

おもろまち駅に近い銘苅の遺跡から、
グスク時代(11、12〜15世紀)の「ふいごの羽口」
や、炉跡(鍛冶遺構)が出土したという記録を、
国会図書館で閲覧したときは、かなり萌えた。

ズバリ古代産鉄地であるとの確証は得られないものの、
縄文時代後期の時代にも遡る遺跡群の、
一部に鍛冶炉(カンジャー)や鍛冶(カニマン)の
遺物が認められたことは、逆に、
もっと深い地層に埋もれたかもしれない
「御先(うさち=上古代)カニマン」の痕跡を彷彿とさせる。

久高島の主祭殿・外間殿にも、また、
アマミキヨの神紋を掲げる大里西原の拝所にも、
鍛冶神・カニマンガナシーがいまでも祀られている
ことは「沖縄の鍛冶神」という記事に書いたが、ならば、
その神こそが渡来のアマミキヨではないかという
考えがおのずと湧いて、しばらく脳裏から消えなかった。

ヤマトにあって、鍛冶神とは大物主のことだと
『古代の鉄と神々』に著したのは真弓常忠氏だ。

日本最古の神社と言われる奈良県の大神神社。
そのご神体である三輪山に祀られる大物主大神、
    すなわちオオナムチ神(大穴牟遅神、大穴持神)    
とは、大穴=鉄穴(鍛冶穴)に坐す神であると。
その表現がまさに、沖縄各地にいまも
残る古の鍛冶屋洞穴(カンジャーガマ)とダブった。

いっぽう、語り部から聞いた古代琉球王朝の存在、
そして、その民族はヤマトへと北進したという口伝
を思い出せば、ハニマンガナシーがヤマトに達して
大物主と呼ばれたという連想も、我ながら不自然とも思えない。

そんな折、語り部から電話が来た。
「大物主神とは、どんな神ですか? ブログで
銘苅港川原遺跡の話を読んでから、気になっています」
大物主大神とは、はたしてハニマンガナシーと同神なのか!?

長くなったので、次回につづく…。
銘苅遺跡の写真を持ち合わせないので、
古の那覇(真和志)を偲ぶための写真などを以下に…。



↓ 現在の那覇市牧志2丁目。
左手方向に数分行けば、ゆいれーる見栄橋駅、
      右に行けば国際通りの市場本通りアーケード入口。 
書店・ジュンク堂の向かい側にあたる一帯は、
王朝時代から十貫瀬(じゅっくんし)と呼ばれる海だった。

現在はホテル、飲食店、レンタカー営業所などが並ぶ。
ちょうど銘苅川を訪れた日の夜に通りがかると、
↓人気の九州ラーメン店・暖暮(だんぼ)に長い行列が。
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那覇は古来、浮き島で、琉球王朝第一尚氏時代
・尚金福王の時代(1452年)、中国から来る冊封使
港から首里方面へ迅速に迎え入れるべく、長虹堤
( ちょうこうてい という全長1㎞の海中道路が設けられた。

葛飾北斎『琉球八景 長虹秋霽』(1832、天保2年頃)
にも、このように長虹堤が描かれているが、
ラーメン店・暖暮の位置は、ちょうど長虹堤のふもとあたりか?
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以下は『沖縄大百科事典』から拝借した那覇の古地図。
現在は前島にある夫婦岩公園のあたりは海だと分かる。

  地図の右上、銘苅川の流れる天久台地が、陸としての
「国のはじまり」だったことは、確かに地形からも窺える…。
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by utoutou | 2015-09-23 01:27 | 天女伝説 | Trackback | Comments(0)

沖縄の天女伝説 ⑪ 銘苅は古代産鉄地だった

那覇市・安里八幡宮の境内から、その南に位置する
国際通り方面を振り返る。この安里八幡宮が
往古、河口(海)だったことは、こちらに書いた。
第一尚氏王朝最後の王・尚徳は、この地から喜界島討征に出航、
戦勝して凱旋したことが、八幡宮建立の由来になった。

ゆいれーる牧志駅に隣接するホテルから
朝の散歩に出て安里八幡宮に来たのは2年半前の
ことだったが、かなりの急坂だったのを覚えている。

安里八幡宮の北側、現在は新都心のおもろまち駅
となっているあたりは、かつて天久台地と呼ばれ、
今次の大戦時、シュガーローフの戦いの激戦地となった。
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現代にも語り継がれる天女伝説の舞台
・シグルクガーを含む銘苅地区は、戦後、米軍に接収され、
1953(昭和28)年に全面返還されるまで、
金網に囲まれた軍用地(牧港ハウジング)だった。 

1992(平成4)年以降、那覇新都心整備事業と
天久公園整備事業が開始されたのに伴い実施された
大掛かりな調査により、おもろまちには縄文時代晩期から
グスク時代にかけての、21もの遺跡があることが判明した。


その一部には、銘苅家と天女について推察するのに
重要な手がかりとなる、遺構と遺物が眠っていた。


↓こちらは、戦争前、昭和18年の銘苅地図。
『銘苅古墓群・重要遺跡確認調査報告書』
(2007年、那覇市教育委員会文化財課編)から拝借。

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上の地図を拡大して加工したのが↓こちら。
三ヶ所に青の下線を付けた。
●青線を付けた、いちばん上が、銘苅子の墓
●真ん中が、銘苅子が天女と出会ったシグルクガー
●いちばん下が、伊是名殿内の墓(古墓遺跡、
詳しくは、文化庁データベースを参照)
※下に黒くうねるのが銘苅川、上のうねりは安謝川。
右の線路は、戦前まで走っていたという軽便鉄道。
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上の地図中、さらに那覇市
教育委員会発行の遺跡発掘報告書を参照して、
産鉄地だったことを伺わせる遺構・遺物が出た遺跡
に赤の数字を付けた。上から、
1⃣ 銘苅港川遺跡
 2⃣ 安謝東原南遺跡
3⃣ 銘苅原南遺跡

ちなみに4⃣は、銘苅原古墓群遺跡(北地区)で、
銘苅子の墓のごく近くから湧川家代々の墓が発掘された。
(湧川殿内が銘苅家の家督を継いだ記事は★こちら

天女伝説の舞台シグルクガーを挟んで南北に
3ヶ所もの「鍛冶関連」の遺構・遺物が出たのである。


思えば、ヤマトタケルのシリーズで、久高島の外間殿や
大里西原の元家で鍛冶神(カニマンガナシー)を祀っている
  ことを記し、沖縄でも古代産鉄が盛んだったのではと推察したが、  
天女と産鉄地についての深い関係が、
こうして思わぬところで現われ出るとは…。

ヤマトでは、天女の羽衣伝説のある土地は産鉄地だった。
天女は農耕の女神であると同時に、古代産鉄の母神である。
たとえば籠神社のある京都・丹波の地では、その神名は、
豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)といった。
※『丹後国風土記』逸文より。

銘苅周辺の遺跡三ヶ所から出た鍛冶関連の遺構・遺物とは、
炉跡、ふいごの羽口、そして焼土だった。
詳しくは次回に…。



by utoutou | 2015-09-17 18:49 | 天女伝説 | Trackback | Comments(2)

沖縄の天女伝説 ⑩ 琉球王朝と銘苅家(めかるけ)

琉球第二尚氏王朝時代の初期のころ(1465〜87年)、
天久宮の社殿を建てた「銘苅村の銘苅の翁」を
『天久宮由緒』は、「唯人ならず」と記したが、
どのように「唯人でない」のかは記していない。

が、その意味を知りたいと、
しばし悩ましい日々を送った挙げ句、
とんでもない名門家だということを知った。

まず、ストーリーが似ているため
どうにもややこしい、
沖縄の天女物語を振り返ってみる。

時代の新しい順から、
天女伝説・その1「天久宮」の巻。
「銘苅の翁」は女人(弁財天)と出会い、
社殿を建立した(天久宮由緒)。記事はこちら

天女伝説・その2「銘苅川」の巻。
銘苅子は銘苅川で天女と出会って結婚。
生まれた娘が尚真王夫人となり、
佐司笠按司加那志を生む(『中山世譜』ほか)。記事はこちら

天女伝説・その3(森の川)の巻。
天女と出会って結婚した奥間大親は、
一男一女をもうけるが、その子はやがて察度王になる。
「昇天した天女」とは銘苅家の女である(口伝)。記事はこちら



天久宮境内にある弁財天。
銘苅の翁は、女人が弁財天であるとの神託を受けた。
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そして、きょう遂に(笑)合点がいった。
天久宮を建てた「銘苅の翁」と、
銘苅川で天女と出会った銘苅子は、
時代は異なるが、どちらも、
同じ安謝村銘苅の銘苅家の人物だったのである。

『琉球国由来記』「第十二 真和志間切」に、
〜旧跡 銘苅子祠堂 安謝村〜という項目があるが、
本文に、それは「銘苅翁子」旧跡だとある。
意訳すれば、
天久権現勧請由来、聖現寺縁起に見える銘苅翁の家だと。
続いて、あの銘苅子の伝説が綴られるのである。
〜往昔、銘苅原の井川で銘苅子が手足を洗っていると、
天女が現れて…結婚…その娘が尚真王夫人になる〜と。


天久宮の由緒にある通り、
「天久野」で法師と女人に出会った
「銘苅の翁」の足取りを(現代のものではあるが)
那覇市の地図と照らし合わせてみると…。



ルート検索サイト NAVITIME から地図を拝借。
銘苅川の「天女の御嶽」(検索では佐川急便営業所と入力)
が、緑色で示された径路の右端。また緑径路の左端が、
天久宮(検索では泊高校と入力)。
その距離は1.7㎞。タクシー料金は730円と出た。
往時の天久宮は現在から少し北にあったと言われるが、
徒歩数分の違い。銘苅家から天久宮までは、徒歩30 分?
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銘苅の翁は、天久まで歩いて行ったのだろう。
つまり、天久宮を建立した翁が「唯人ならず」と
記されたのは、古来この地の大地主だったからか?


くだんの『琉球国由来記』真和志間切安謝村
の項には、この銘苅子祠堂の祭祀を司るのは、
〜長じて佐司笠按司加那志となった銘苅子の外孫
の嫁ぎ先・向姓美里王子朝易、
湧川親雲上朝略外鼻の祖也〜とある。

いっぽう、銘苅家の祖・向姓美里王子朝易は、
『士族門中家譜』(比嘉朝進著、2005年、球陽出版)
にも、「首里士族 向氏(しょううじ)・湧川殿内」
の項に記されており、『由来記』の記載と合致する。
〜一世・越来王子朝理。
二世・見里王子朝易。〜妻は尚真王の娘。〜と。

尚真王の娘婿が銘苅家の家督を守ったということか。

琉球王朝に深い血縁を持つ銘苅家。
その古代より繫がる系譜とは、いったい…。




天久宮の拝殿内部。
神社としての祭神は熊野三神となっている。
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by utoutou | 2015-09-17 18:25 | 天女伝説 | Trackback | Comments(0)

沖縄の天女伝説 ⑤ 琉球王妃は天女の子孫

天女伝説の舞台・森の川(宜野湾市真志喜)。
公園の東側は、御嶽の森になっている。
石垣の先は、神女の修行の場とも言われる。


石垣の奥に『西森碑記』という石碑がある。
琉球王朝に近い伊江家による建立という。
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以下、碑文解説の抜粋。
〜(前略)森の川で沐浴していた天女と奥間大親が出会い、
一男一女が生まれた。男の子は察度と名付けられ、
後に中山王に就いた。私達の元祖尚宗賢伊江王子朝義の
母は宜野湾間切謝名村の野国掟(うっち)の娘で、名を
城の大按司志良礼(しられ)といい、尚清王夫人である。
私達孫は毎年五月、西森および森の川の泉を拝んでいる
が、野国掟は奥間大親の末裔であるという伝説
があるからであろう(後略)〜

しばし、説明に見入った。
つまり…ふたつの王統が、
天女の血縁で繫がっていることになる?

ともあれ、尚清王(在位1527〜1555年)の第七子を
初代とする伊江家の人々が森の川の石積み工事を
完成させたのは、1725年のことだったという。



森の川の傍らで見つけた往年のスケッチ(石板)。
川泉周辺の石積みを整備しのは、
天女の子孫である伊江家の人々だという。
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中山王・察度(さっと)の母は天女、
琉球王朝の王妃もまた天女(の末裔)。天女とした
ところに政略的な作為を感じるのは、私だけかしらん?
などと思いつつ、森川公園を出ると、近くに
たいへん立派な拝所があるのに気づいた。


公園で見た古絵地図に奥間家が描かれていた
が、ちょうど位置的に一致している。
失礼します…と、無人の神屋に声をかけ、
静かに、しかし、思い切って引き戸を開けた。
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畳間の神屋に上がらせてもらうと、
真っ先に目に飛び込んできたのは、天女の掛け軸。
その下に飾られた絵画もまた、天女の絵!
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やはり、
天女と結婚した奥間(大親)家の神屋だった。
横の壁にも天女の扁額を見つけ、
ここは天女を祀る聖所なのだと納得した。
そして、月夜に舞う天女の姿にutoutou(合掌)。


しかし、驚くのは早かったようだ。なんと、
神壇の位牌には、アマミキヨ直系の神名があった。
すると天女と結婚した奥間大親は、アマミキヨの末裔?
天女周辺の謎がさらに深まってきた…。
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by utoutou | 2015-09-13 05:49 | 天女伝説 | Trackback | Comments(0)