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沖縄の天女伝説 ⑨ 天久宮(あめくぐう)はアマミキヨ宮

「天久(あめく)の由来はアマミキヨ」
という言い伝えが気になったので、探ってみた。

古代この島に着き、
本島南東部のミントングスクに住居を構えたという
沖縄の始祖アマミキヨの痕跡が、
なぜこの西海岸の近くに残っているのか?

まず、地形からひも解いてみようと思う。
現在の天久宮は泊港に近く、沖縄県庁前から約1㎞。

国道58号線から入ってすぐ、都会のど真ん中だが、
巨大な石灰岩の磐座があったであろう古の地形を
偲ぶ手がかりは、まさに天久宮由緒のなかにあった。

〜 往古、銘苅村にいた銘苅の翁子が、
夕陽の没する頃、天久野で、法師と気高い女人が、
山上から下ってくるのに出会った 〜

「天久野」で、銘苅の翁が、「山の上」から下りてきた
女人と会った…のだから、女人は天久の隣村(北側)
の銘苅(=野原)に向って下りたと、推理できる。


天久宮の拝殿。現在は泊という住所だが、元は天久。
こちら拝殿の奥にある本殿は千木のある流造。
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また、
琉球王朝の地誌『琉球国由来記』(1713年)は、
真和志間切(間切=行政区としての村)の
天久村の項に、4つの御嶽があったと記すが、
御嶽の神名が、この天久の地形を言い当てている。

天久之嶽 神名 オシアゲ森之御イベ
潮花ツカサ 神名 ヨリアゲ之御イベ
天久寺御嶽 神名 オダシ森之御イベ
天久之子小嶽 神名 コバノ森御イベ 

神名にはすべて森が付き、オシアゲ
やヨリアゲの意味から、海山の豊穣が集まる様を示す。

語り部に聞くと、4つの御嶽のうち3つは、
現在の天久宮の地から、その北の副都心(おもろまち)
近くまでの広範囲にわたって点在していたという。

いっぽう上記のうちの御嶽名・潮花ツカサは、
沖縄の始祖アマミキヨの着いた南部の聖地
ヤハラヅカサの海岸上にそびえ立つ御嶽名と同じだ。

潮花とは、波が大岩に当たって弾け飛ぶ様を言う。
つまり、少なくとも300年前は、
天久村は、銘苅の隣町にあり、巨大な岩山が海ぎりぎり
まで迫っていた大きな村だったことになる。



天久宮の本殿は、このように岩山に超接近。
階段の上がいわば岩山の頂きで、龍宮神の拝所がある。
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沖縄中の神事に関する口伝を集めた『琉球祖先宝鑑』を開く
と、阿摩弥姑(アマミキヨ)志仁礼久(シロミキヨ)
三世として、天久大神の神名が載っていた。

そして、この地に眠るのだとも…。
〜天久大神 玉骨は真和志天久村の白浜の前の
高岩の穴に埋葬せらる。居所は、同村の志利川と云ふ家也〜

『琉球祖先宝鑑』は巷間伝わる口伝をまとめた
に過ぎないと言われるが、この地にアマミキヨ三世が
埋葬されたという伝承と、地名の由来が
一致するという情報は、相当にリアルだ…。 



天久宮の境内にある権現堂。写真右の赤いお宮が弁財天。
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by utoutou | 2015-09-10 22:24 | 天女伝説 | Trackback | Comments(0)

沖縄の天女伝説 ⑧ 天久宮の天女は弁財天

那覇港に近い泊高校の北に隣接して、
琉球八社のひとつ「天久宮」がある。
那覇市泊3丁目。旧地名が天久だったらしい。
「天久にも天女が舞い降りた伝説がある」と
語り部に聞いて、参ってきた。

鳥居前に立つマンションの引っ越しで、
トラックが停車しており、1回切り返して
レンタカーを鳥居の中へと滑り込ませた。
そこは清らかな神域…のはずだったが、駐車場。


祭神は、天龍大御神(先樋川)、 
天久臣之姫大神、泊龍宮神、弁天負泰彦大神、弁財天。
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駐車場の左手、狛犬ならぬシーサーに迎え入れられ、
地下1階にあたるらしい境内に降りて行く…。
正面に見えるのが、沖縄県立泊高校。
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シーサーの傍らには「天久宮由緒」書き。
この地にも「銘苅」の翁が登場する。
時代は舞踊『銘苅子(めかるしー)』と同じ、
尚真王のいた琉球第二尚氏王朝、15世紀中頃のこと

以下、由緒の抜粋(一部、現代語訳)。

 〜 お宮の創建は成化年間と伝えられる。
尚圓、尚宣威、尚真王時代、西暦1465〜1487年)

往古、銘苅村にいた銘苅の翁子が、
夕陽の没する頃、天久野で、法師と気高い女人が、
山上から下ってくるのに出会った。


中腹には小洞窟があり、井戸から水が湧き出ている。
翁子が「女人が何人なるか」を尋ねると、法師は、
「自分は山の中腹に住んでいるが、女人は山上に住む人で、
名前は分からない」と、答えた。

あるとき、女人が洞窟に入る途中で消えるのを見た
翁子は驚き、事の次第を王の臣に伝えた。
伝え聞いた時の王は、真偽を試そうと、役人に命じ、
洞窟に向って香を供えさせたところ、
それが自然に燃えたので、外に社殿を造営して祀った。

そこで、神託があった。
「我は熊野権現なり、衆生の利益の為に現れたり。
かの女人は国家の守護神なり、弁財天である」と。

銘苅の翁子は、
神徳を重んじ国家安全、万民豊楽の基のため、
社殿を建立して祭ったという。〜(後略)



階段下の境内に、
「由緒」に登場した弁財天のお宮がある。
天女橋?のかかる川が流れている。
こちらの建立時期は、社務所が無人のため聞けなかった。
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↓ 弁財天のある、地下1階部分(境内)。
右手前が拝殿、奥の建物が権現堂。
これは巨大な磐座の中途に渡された足場なのだと、
階段でさらに地下2階部分に降りてから分かった。
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右が本殿のようだ。
拝殿と磐座の間に隠れてるように祀られている。
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地下2階に降りて行くと、磐座の基層部分に出た。
左の尖った石に「泊之ユイヤギ御嶽」と刻されている。
こちらが、御由緒にある弁財天のいた洞窟か。

この石天井が、上の境内の地面となっている。

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こちら地下1階部分(境内)の上にある御嶽。
右から、泊龍宮神、筒男神・弁天負泰彦大神
という神名が見える。

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もともとの社殿は昭和19年の空襲で消失したため、
戦後はいったん御嶽形式で奉祀することにしたが、
本土復帰後の昭和47年に宗教法人となり、
同日神社本庁に包括されて社殿が復活したという。

本来の御嶽は、巨大な磐座だったのか…。

そして、なぜこの地に、
熊野権現と弁財天が祀られたのか?
それをゆっくりと語り部に尋ねてみたいと思う。








by utoutou | 2015-09-05 21:26 | 天女伝説 | Trackback | Comments(4)

沖縄の天女伝説 ⑦ 琉球王の守護神

察度王の母となった天女が、銘苅(めかる)の女?
父の奥間大親(おくまうふやー)がアマミキヨ子孫(天孫氏)
ならば、銘苅家とは、それ相応の家柄と思われる。

そこで思い出すのは、『銘苅子(めかるしー)』。
子(しー)とは元服後、叙位するまでの士族の称号
なので、「銘苅村の青年」といったところか。

銘苅村の銘苅子と天女の話は、
琉球王朝の踊奉行・玉城朝薫の組踊『銘苅子』で有名。
こちらの天女伝説でも、天女は一男一女をもうけるが、
やがて羽衣を見つけて昇天。残された娘は尚真王の夫人となり、
後に高級神女・佐司笠(さすかさ)按司加那志になった。
そのストーリーは、『中山世譜』『球陽』などの文献にも見える。

つまり、銘苅子は実在の人物だった。
そして、察度と同様、天女は再び王権にからむのである。


『銘苅子』の羽衣伝説の舞台は、現在の那覇市新都心。
銘苅は都会に残された緑地帯といった趣き。
那覇市の新都心銘苅庁舎や佐川急便の近くと聞いて…。
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遊歩道は、左の銘苅川と、右の佐川急便の間。
天女伝説の舞台となった川泉は、すぐに分かった。
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↓ 天女が水浴びをしたという川泉・シグルクヌウカー。
伝説の舞台が、600年経ってもこうして残されている。
天女伝説の舞台、往時の住所は、島尻郡
真和志間切 安謝村 銘苅(まわしまぎり・あじゃそん・めかる)
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銘苅川は、安謝川の支流。河畔に下りたかったが、
原生林?の壁はちょっと厚かった。
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さて、天女の娘が成長して就いた
佐司笠(さすかさ)按司加那志(あじがなし)は、
第一尚氏王統時代には最高神女の位の公職だった。
第二尚氏に入り、その座を聞得大君に譲ったが、それでも
なお佐司笠は、航海神の司祭として崇敬されたという。

この「航海神」というところに、強く感じるものがある。
尚真王が、八重山征討の航海安全祈願をしたところが、
斎場御嶽の寄満(ゆいんち)だったことは既に書いた。

そのとき歌われた「おもろ」もこちらの記事に。
以下、おもろ部分の抜粋。( )内は現代語訳。


斎場嶽 君々しよ 守れ
(斎場御嶽の神女たちよ、王の船を守れ)
(中略)
風直り 煽らちへ
(ノロは鷲の羽の髪飾りを風に揺らして)
赤の御衣(あかのみそ)煽らちへ
(美しい衣を風になびかせて)
(後略)



ここで詠われる「鷲の羽」「赤の御衣」に、
天女の羽を連想するのは、私だけだろうか。
沖縄では、羽衣を飛衣(とびんす)と呼ぶそうだ。

古代、海(あま)は天(あま)と呼ばれた。
天女とは、天翔る、海神の娘ではなかったか。

現在は新都心一部として活況を呈する銘苅。
銘苅村は、大海に注ぐ銘苅川の流域にあった。
銘刈家は、この地を居城とした海人族の家系か?


いま水量は極めて少ない様子だが、
銘苅川が蕩々として流れる川だったことが分かる。
とすれば、主流となる安謝川の古の雄大さはいかに…。
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by utoutou | 2015-09-03 16:41 | 天女伝説 | Trackback | Comments(4)

沖縄の天女伝説 ⑥ 天女は誰?

薄々気になっていたことが、
あるとき、フッと解決することがある。
自分の早合点に気づく反芻機能が働いたか?
あそこは拝所だったのだと、ようやく気がついた。


天女が現れた舞台、森川公園の森の川(むいぬかー)
↓ 傍にあった1枚の絵はこうだった。リアルなよい絵…。
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が、いま絵の左半分を↓ このように、
レイアウト加工してみて分かったのは…。
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絵の左上、
石積みで囲まれた聖地を、私が見過ごしていたことだ。


↓ こちら私が撮った森の川。実際、石積みの
囲いまでは行ったが、拝所とは分からなかった。
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そこで、改めて由緒書きの写真を見返す。
森の川は、真志喜村の産川
(うぶがー=赤ん坊のための産水を汲む川)であり、
正月の若水を汲む重要な川泉だと書いてあった。
(2005年3月 沖縄県教育委員会、宜野湾市教育委員会)
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思えば、村の共同井泉には
水の女神が祀られ、季節の折目になると、
一族の神女(人)の司祭で祈願するのが、沖縄の風習。

誕生した赤ん坊にそうしたように、
知念玉城の聖地を廻る東廻り(あがりうまーい)も、
聞得大君の即位式・御新下り(おあらおり)も、
久高島のイザイホーも、聖水の生命力をいただき、
守護神の霊力(せじ)を新生・再生する
水撫で(うびなでぃ)が、儀式のクライマックスだった。


水の女神、川泉の女神である生命の源泉。
人々は、そこに天女を見たのだろう。
その原型は、斎場御嶽の奥宮・ナーワンダーグスクに
祀られた「天女神加那志」だと、語り部は言った。
ヤマトで言う、縄文の女神・瀬織津姫である。

そうすると、中山王・察度の母となった天女は、
水の神の霊力を得て、夫となった奥間大親
(おくまうふやー)を、畑に金銀のなる富豪に押し上げ、
息子を王になる男に育てたことになる。


さて、前回からの続き。驚いたのは、
奥間家拝所に祀られている神々の名前である。


右の位牌から、真志喜大神、真志喜五郎、
そして、奥間大親、天願按司泰期と銘記されていた。
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左の二神は、天女の夫と、察度の異母弟である。
(天女は一男一女しか生まなかった)

そこで、右の神名、真志喜大神と真志喜五郎
の二神について『琉球祖先宝鑑』で調べると…。

真志喜大神は、アマミキヨ(天孫氏)の末裔。
その項には、百名世主の十二男とある。
百名世主の父は、百名大君。祖父は天孫氏也。

天孫氏は、アマミキヨ四世、
天帝氏加那志・天女神加那志の長男である。
 つまり、この伝に従うなら、奥間大親とは、
アマミキヨ八世(十二男)だったのである。

驚いたのは、真志喜五郎で、この人は、
渡来した清和天皇の末裔・源為朝が、
琉球初代王・舜天王の他にもうけた十二男
三女のひとりで、
「御母は宜野湾市真志喜村のノロ也。居所は、
同村の奥間という家也」とあった。

では、奥間大親と結婚した天女は誰か?
勢いに乗って、
語り部に聞くと、意外な逸話が返ってきた。

あるとき、宜野湾の我如古(がねこ)に
あった察度王の流れを汲む新垣という家で、
お爺さんが、少年だった語り部に尋ねた。
「オマエは、天女とは誰のことだと思うか?」
「おじい、天女は天女じゃないの?」
「バカを言うな。人と天女の間に人ができるか」
困り果てた語り部に、お爺さんは言った。
「天女はね、銘苅(めかる)の娘だよ」

銘苅!

有名な天女伝説のひとつに、銘苅子(めかるしー)
という男が天女に会って結婚するというのがあるが、
なんと、森の川の天女も銘苅の娘だったとは。

では、銘苅とはいったい、どんな家?
新たな難題が持ち上がってしまった…。


森川公園の見晴し台から、
米軍普天間基地方向を背にして、東シナ海を望む。
宜野湾市のウォーターフロントが見えるが、
その左手方向に行くと、銘苅村のあった那覇新都心。
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by utoutou | 2015-09-03 15:32 | 天女伝説 | Trackback | Comments(0)

沖縄の天女伝説 ④ 中山王の母は天女

異種婚姻譚としての「羽衣伝説」「天女伝説」
は全国にあるが、沖縄でも「天人女房伝説」
として、古くから語られてきた。

「天女」でなく、なぜ「天人女房」かというと、
たとえば三保の松原の「羽衣伝説」のように、
男はすぐに天女に羽衣を返すのではなく、やがて
結婚して子どもをもうける筋立てになっているからだ。
おおむね以下のように。

男が水浴びをしている天女に出会い、
羽衣を穀倉に隠す。天女を家に連れ帰り、
やがて天女と結婚、一男一女が生まれる。
ところが、天女は、
子どもたちが歌う歌を聞いて羽衣のありかを知り、
それを纏い、子どもたちを残して天に戻って行く…。


沖縄の天女伝説で、まず挙げられるのが、
森の川(宜野湾市真志喜)に伝わるもの。
1372年に、中山王として始めて
中国との外交を開いたと言われる察度(さっと)は、
ここで出会った男と天女の間に生まれたという。



天女が水浴びをしていたと伝わる「森の川」。
いまでも水が湧き、沖縄県指定名勝の公園になっている。
ちょうど台風の合間の晴天で、空の青が水に映えていた。
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さて、察度(1321〜1396年)とは…
  『沖縄大百科事典』を参照すると、
中山王として、1350〜95年の46年間在位。
英祖王統最後の王・西威の世子の替わりに擁された。


父は、浦添間切謝名村の奥間大親(おくまうふや)
という貧しい男。天女との間に、
察度と姉(名は不明)が生まれた。

伝承によれば、察度の田畑には黄金が満ちていた
 ので、夫婦は黄金宮という楼閣を建てた。
人心を得たのは、その財力で牧港に入る日本商船から
鉄塊を買い、農器を作って農民に与えたためという。


察度の立志伝は、伝承ばかりか歴史でも語られる。
察度が泰期(異母弟か)とともに始めた交易は、
『明史』洪武5(1372)年の項に登場。
「中山王察度、弟の泰期を遣わして入朝」とあるの
をはじめ、『明実録』にも数回登場する。

ここまで史実が判明しているのに、なぜ
母はいつまでも、ただ天女として語り継がれるのか。
隠さなければならない系譜の女なのか。
奥間大親は本当に貧農の男だったのか…。
謎は多い。



森川公園は、現在の宜野湾市真志喜にある。
   那覇市内からカーナビを頼りに行き、30分で着いた。
   門を入ってすぐの駐車場奥に森の川はあった。
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王権との関わりを思わせる城壁?が丘の上に。
その先は広々とした運動公園になっている。
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by utoutou | 2015-08-29 16:14 | 天女伝説 | Trackback | Comments(0)

沖縄の天女伝説 ③ 羽衣は稲倉に隠された

沖縄はきょう旧盆のウンケー(お迎え)。
祖先の霊魂がこの世に帰っていらっしゃる日。


斎場御嶽の上の聖なる巨岩・ナーワンダーグスク
に風葬されたという天女神加那志
(てんじょしんがなし)の神霊も、
故郷に再び舞い降りて来られたか…。


アマミキヨ四世。同じく四世・天帝子加那志の妃。
(古代琉球の神々は兄妹婚だった)
一対の男女神は天孫氏王朝の開祖でもあると、
民間伝承をまとめた『琉球祖先宝鑑』は伝える。


また、語り部が聞いた伝承では、
天帝子と天女神の長男である
明東(ミントン)天孫氏が、初代王となったと。

そう分かったところで、
過去の天孫氏にまつわる記事も若干修正した。

記事に出て来る天孫氏の王墓
(琉球カントリー倶楽部内にある)には、
一昨年の夏に参拝。語り部が知る神女おばあたちは
生前、こちらでの祈願を欠かさなかったという。


ちなみに、天帝氏のお墓は南城市親慶原
(おやけばる)のアマチジョーにあるという。
天女神のナーワンダーグスクとは離れているが、
そもそも斎場御嶽を含む丘陵地帯と
その周辺は、古来、一体化していたと考えられる。


代々のアマミキヨが継いだ天孫氏王朝は、
ミントングスクを中心に大里・玉城・知念・佐敷…
玉城台地の周辺一帯を居城にしていた可能性がある。
※玉城の俯瞰地図は、こちらに掲載。


久高島から斎場御嶽左のナーワンダーグスクを望む(再掲)。
右の岩がイナグ・ナーワンダー=女の守護霊の御嶽。
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1年前の8月27日、あるルートから
イナグ・ナーワンダーの巨岩によじ登った。
地面には「女神」の道標があった。
ナーワンダーは農耕時代以前の風葬墓で、
近代になって人骨と機織機が出土したと言われている。
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さて、斎場御嶽の寄満(ゆいんち)とは、
「豊穣な収穫物が寄り満つる台所」の意味というが、
王府の記録には、必ずしもそうは記されていない。

寄満は、大庫理、三庫理と同様に重要な聖地だった。


3ヶ所の聖地には、等しく「御物壇」なる場…
神女たちが祈願するための基壇があった。
琉球王朝の『女官御双紙』には、寄満の御物壇のサイズが
記されており、その大きさは十六畳。
↓ 現在のサイズ、横7m、奥行き3.6m、高さ1.3mと、ほぼ一致。
しかも、敷石下から金銀の銭貨が出土した、
などなど、祭祀場としか思えない条件が揃っている。
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「寄満は台所じゃなかったのですね」
と確かめると、語り部は言った。
「古代には、五穀の倉はあったと思うのです。
伝説に出てくる天女の羽衣はどこに隠されますか?」
「稲倉です。だから、ここにも天女伝説があったと?」
「はい、天女神は機織り姫でもあったと思います」
「それで、ナーワンダーグスクから機織り機が出土した…」


ナーワンダーグスクの麓の寄満から、三庫理方向。
寄満の反対側の大庫理が王府時代末期には主祭場となった。
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斎場御嶽の御門口から真東に浮かぶ久高島を見る。
  この揺るぎない祭祀空間設計こそ、
天(海)の民だったアマミキヨの痕跡だと思う。
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by utoutou | 2015-08-26 21:28 | 天女伝説 | Trackback | Comments(0)

沖縄の天女伝説 ② 天女神加那志(てんじょしんがなし)

『琉球祖先宝鑑』('33年、琉球史料研究会)
は、歴史研究家・慶留間知徳氏の著。
琉球の歴史上の人物三百数十名を列記して、
その出自・居所・葬所などを克明に記した人名録。
沖縄の神事や門中などを知るひとつの手がかり
として、多くの門中の元家に保管されている。

巻末に載る氏姓集は、首里王府系図座の資料から
編集したもので、系統を尋ねる貴重な書とされる。

戦前まで、各地の門中で「元家はミントン」と
伝えていたという話はよく聞くが、それは
ミントン家の始祖アマミキヨ・シロミキヨの子孫が
各地に発展したのが現在の沖縄だという古伝による。


さて、「天女神加那志、 
玉骨は久手堅村の後方波御嶽の内に埋葬」と
『琉球祖先宝鑑』に記されていることは、
何度か読んだのに気がつかないことだった。
その女神が初代・聞得大君の母神だったとは、
「囲む会」で語り部が偶然、口にするまで…。
(※波御嶽とは、文脈から才波(斎場)御嶽と考えられる)


斎場御嶽の風葬墓とはナーワンダーグスクを指す。
斎場御嶽の奥宮である。昭和以前には
参拝できたといい、さらに遡り、
琉球第二尚氏王朝三代の尚真王の時代までは、
そのナーワンダーが第一の御嶽であったため、その真下に
位置する寄満で王と聞得大君が戦勝祈願したとの記録がある。

語り部が聞いた民間伝承では、当時まで、
聞得大君の即位式はこの寄満で行われたというのだ。
(琉球王朝の記録では、大庫理で行われたとされる)



↓寄満からナーワンダーグスク(右上)を仰ぐ(13時)。
この寄満、そして大庫理、三庫理といった斎場御嶽の
主だった祭場は、ナーワンダーグスクから東へ一直線に
並んでおり、その東方に久高島が浮かぶといった位置関係。
これを見ても、ナーワンダーグスクの重要性が伺われる。
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ナーワンダーグスクに折よく登った1年前の
レポートは、こちらのシリーズで。

天女神加那志は、アマミキヨ四世という。
そこになぜいままで気づかなかったかのか。



↓『琉球祖先宝鑑』の1P目に以下のアマミキヨ系図があるが…。
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私はこれを『中山世鑑』(1650年編纂)の琉球神話……
「安摩美姑(アマミキヨ)・志仁礼久(シロミキヨ)
の間に、三男二女が生まれた。
長男は国王のはじめとなって天孫と称した。
次男は按司のはじめ、
三男は百姓のはじめ、長女は大君のはじめ、
次女はノロのはじめになった」
と、同じ内容なのだろうと思い込んでいた。  


ところが、語り部の話をきっかけに『琉球祖先宝鑑』を
改めて読んでみると、実は上の図は略図で、
一世の阿摩美姑と天帝子の間の
二代がカットされていたことが分かった。

天帝子は上の図から見える二世ではなく
四世で、その妃が天女神加那志だった。
天帝子・天女神加那志の子である三男二女のうち、
長女が初代の聞得大君になったとされているわけだ。

ちなみに、その系図部分を抜粋すると…。

 一世の志礼仁久と安摩美姑には、
13人の子がいた。
二世の天美人加那と巣出美人加那志には、
10名の子がいた。
三世の天太子大神加那志と竜宮女大神加那志には、
20人の子がいた。

  以上三世は本島開発前の御世也(ママ)

そして、
四世の天帝子加那志と天女神加那志には、
5人の子がいた。
一万七千八百二年(ママ)
         
  いまでは語る人のないアマミキヨ系図伝承。
そして、天孫氏王朝のはじまり。 
  語り部によれば、天女神加那志は、
   琉球の天女伝説の原型になっているという。



     8月18日(火)の朝日。玉城垣の花より久高島を望む。    
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by utoutou | 2015-08-24 15:33 | 天女伝説 | Trackback | Comments(2)

沖縄の天女伝説 ① 斎場御嶽

しばらく更新が滞っていましたが、
ブログ復活します。まずはご報告から。

8月16日(日)に開催しました
語り部を囲む会〜「私の好きな御嶽」を語ろう〜
@沖縄県南城市玉城・天空の茶屋。

定員を越す皆様にお集りいただきました。
ありがとうございます。

御嶽を廻っている人、ルーツ探しをしている人、
琉球の歴史に興味がある人、玉城に惹かれた人、
奥武島の観音様が気になる人、久高島に通う人、
与那国生まれの人、斎場御嶽が気になる人…などなど、
持ち寄った「伝承」や「御嶽で見たもの」や
「夢に見たもの」のお話を、語り部を囲んで共有しました。

語り部もいつになく語り、テーマは玉城から、
離島から、ムー大陸から、もちろん琉球の神々から、
琉球王朝時代から、原初の地球から、宇宙創世から…
時空を縦横無尽に飛ぶように展開しました。

ブログ主が書けなかった話を、直接お聞きいただいた
ことで、皆さんの探求のヒントになれば幸いです。


さて、私自身にも発見がありました。
斎場御嶽のくだりで、語り部が言ったこと。
「寄満(ゆいんち)には、天女神加那志が祀られています」
てんじょしんがなし。初耳の神名に興味を引かれ、
司会役にもかかわらず、割って入ったものです。
「初めて聞く神様、それをどうして、いま…」(笑)

いや、神名を知らなかったことが恨めしいのではなく、
今回の沖縄旅の目的がまさに「天女の御嶽」廻りだったので。
どうやら天女巡りの旅は、既に始まっていたらしい…。



斎場御嶽の寄満(ゆいんち)。囲む会の翌々日に訪問した。
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斎場御嶽の寄満については、何度か訪れ書いてきた。
寄満の真上に位置するナーワンダーグスクへも参り、
(レポートはこちら
また、久高島との位置関係も考察した。こちら


ところが、語り部は言ったのである。
「琉球王朝の初期の頃、聞得大君が即位式をしたのは
寄満で、その理由はここに
天女神加那志が祀られているからです。
風葬墓もあると、神人おばあたちから教わりました」



かつては、この寄満の正面右からも
ナーワンダーグスクへと登れたという。
聞得大君はここで、天女神加那志の霊力を授かったと。
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斎場御嶽の御門口(うじょーぐち)。
写真左の階段上が御門口。左へ登ると大庫理(うふぐーい)へ。
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ほかにも何ヶ所かの御嶽を廻り、数日後、東京へ帰った。
さっそく、天女神加那志の神名を求めて資料を開く。
慶留間知徳著『琉球祖先宝鑑』(昭和8年、琉球史料研究会刊)

阿摩弥姑(アマミキヨ)・志仁礼久(シネリク=シロミキヨ)
の四世として、その女神の名はあった。

四世 天帝子加那志
四世 天女神加那志

そして、二神の下に記された文字に驚いた。

一万七千八百二年

この表記で、二神が古代琉球王朝の始祖だと分かる。
この長い数字は、琉球古代天孫氏王朝(過去ログはこちら
の存続した年数として、琉球王朝『中山世鑑』にも載る。

すでに語る人もいない古代天孫氏王朝の存在は、
少なくとも昭和の時代までは語り継がれていた…。

by utoutou | 2015-08-23 12:19 | 天女伝説 | Trackback | Comments(2)