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久高島・みるく(弥勒)の御嶽

この地下に祭祀場があるのでは? 御嶽の中に座り、瞑目しながら思った。
足と腰に柔らかく、しかし強く、地熱のようなものが伝わってくる。
何度か訪れたことがある御嶽だが、ひとりで籠るのは初めてのことだった。
一昨日(12 月23日)の夕方、私は沖縄久高島にあるアグル御嶽(らき)にいた。

前日、那覇で会った語り部から、ひとつの「課題」を与えられての久高島入り。
先日、玉城・垣花の御嶽の「ミルク(弥勒)の墓」の存在について書いたが、
那覇に飛び、さらに話を聞いていると、語り部は言った。

「明日、久高島に行ったら“みるく(弥勒)”の御嶽に行ってみてください。
呼ばれていますよ。“みるく”が何かを捉えれば、(古祭)イザイホーや、
(久高島の始祖)ファガナシーや、英祖王について、もっとよく分かるようになります」

語り部の言うように、何かを捉えようと、私はしているらしかった。
目先わずか1mのところに、地下への入口と思われる小さな岩の隙間がある。
その奥に、アグル御嶽の至聖所“みるく”があると直観した。
しかし、未知の洞穴にひとりで入る勇気はない。

助っ人を頼みに、集落まで自転車を走らせて戻る。途中、伊敷浜に寄った。
「神の浜」とも呼ばれる伊敷浜。五穀の壷が漂着した、琉球五穀発祥伝説の舞台である。
午後4時。前日からぐずついていた空に、ようやく南の方向から晴れ間が出始めていた。
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集落で知人を訪ねて、聞いた。
「あぐる御嶽(らき)にガマ(洞穴)の入口があったけど、一緒に行ってもらえますか?」
「遂に、悟りましたね」
そう言って家の中に消えた知人は、すぐ戻り「それなら、行きますか」と言った。
両手に懐中電灯を持っていた。

アグル御嶽の“みるく”拝所。久高島の北部にある。
600年ほど前に玉城から久高島に渡って島立てしたシラタルとファガナシー夫婦は、この地に
住み、祈り、西海岸のヤグルガー(川泉)で禊ぎをして、五穀の壷を拾ったと、伝説は言う。
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上の石碑をズームアップ。天露之命神の碑銘の右に“みるく”と刻まれている。
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ファガナシーが「五穀豊穣、みるく世果報(ゆがふう)」と祈ったと思われる洞穴を発見。
何不自由のない豊穣で平和な世の中を願って玉城から渡ったファガナシーは、久高島島立ての祖。
そして、英祖王統の時代に途絶えていた古代の祭りを再興した神女。
ミントン家が祭祀を執り行っていた場所が、玉城にある垣花の御嶽だった。
古代祭祀とは、天皇の祭りや、琉球王朝の聞得大君御新下りとも同じ様式の「再生の儀式」である。
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by utoutou | 2013-12-25 19:34 | 久高島 | Trackback | Comments(0)

久高島・男祭りの扇、そしてムカデ旗

「太陽神の祭り」テーラーガーミの扇。
儀式を済ませてテーラーガーミとなった男たちが手にする、まさしく太陽神の依り代である。
赤丸は太陽を表すというが、これはおそらく近年のもので、古くは蒲葵扇(クバオージ)だったのではないだろうか。
沖縄では、神世の時代から蒲葵が神の依り代だったと言われる。


実物を見たくて、知り合いのおじいを訪ねた。
70 歳で大主(ウプシュ)を退役して十数年は経つはずだが、手を伸ばせば開けられる引き出しから、
サッと出して見せてくれた。
見ると、ティルル(神歌)の歌詞が書き込まれてある。
「自分で書いたの?」と聞くと、「1年に1回の祭りだからねえ」と言い、上目遣いで少し笑った。
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そういう訳で、今年の大主の方々も、お祓いの行進を前に扇で歌詞を確認しているようだった。
テーラーガーミの第一祭場・集落の中央にあるハンチャアタイ(神の畑)の横道にて整列中。
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ところで、テーラーガーミまで一連の行事が続いた八月祭り。
その間、ハンチャアタイに隣接する久高ノロ家には旗が掲げられていた。
写真ではよく分からないが、上が黄色地に赤丸の三角旗(太陽を表す)。下が紅白の二色旗(太陽と月を表す)。
この二色旗は、実はごく最近まで「ンカデ旗」と呼ばれる、ムカデをかたどったものだったという。
百足の百にかけてか、ムカデ旗の意味は「子孫繁栄」だと、島のおばあたちは言った。
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ムカデ旗……どこかで見たようなと、調べてみたら、コレ↓
19 世紀中葉の那覇港を描いた『琉球貿易図屏風』(滋賀大学経済学部附属史料館蔵)にその旗はあった。

左が琉球国の進貢船。中央のマスト上に黄色地に赤丸の三角旗。その下に吹き流しのようなムカデ旗が。
漢字で書かれた旗は進貢船を表す旗(行きは「進貢」、帰りは「奉旨帰国」)だという。


「進貢」旗以外の旗は、航海安全に関わる呪術的な意味が込められた装飾物であり、
当時における海洋信仰を知る素材となるものである。
(豊見山和行氏著「「琉球貿易図屏風」を読む」2004年 『沖縄タイムス』より参照)

琉球王朝の海人は、黄色旗やムカデ旗を掲げて航海の無事を太陽神に祈った。
そして、ここ神の島・久高島からの祈りは、時代が変わり、人が減り、祭りが半減しても、
なお基本を変えることなく、古儀に新儀を融合させることで維持されてきたのだと思う。
もしかすると琉球王朝より、かなり以前の古代海洋王国の時代から。

右の写真は同じ屏風に描かれた薩摩藩の船。船旗は島津家家紋の「丸に十字」。
私たちが知っている日章旗はまだ使われていない。
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実は八月祭りのなかに、もうひとつ男の祭りがある。
『ナーリキー』(命名の儀式)。島の青年たちが自分の名前を神様に報告する神事だ。
これは、イザイホーと同じ12年ごとの午年に行われるもので、15歳から26歳の男性が神前に自分の姓を申し出る。
これをもって男子は正人(しょうにん、一人前の社会人)となり、一地(チュジー、約360坪)の耕地が与えられた。
または海人として唐船(トーシン、中国往復船)や楷船(テージン、薩摩往復船)に乗り込んだ。
そして神の島の祭りを経済面で支えた。

久高島では今なお、伝統の土地共有制を貫く。それは英祖王の時代から始まったという。
英祖王とは、こちらにも書いたように「今来のアマミキヨ」と目される人物である。
琉球王朝よりも古いその王統は「玉城天孫氏(たまぐすくてんそんし)」と呼ばれる。
わが語り部である宮里聡さんが出会った玉城のウメおばあとは、玉城天孫氏を祀る神女だった。
ウメおばあについては、こちら。
by utoutou | 2013-09-26 07:01 | 久高島 | Trackback | Comments(0)

久高島が「神の島」である理由

城(グスク、琉球列島全域に推定200〜300ヶ所)とは、「一般に小高い丘の上に形成され、
城壁や石囲いを有するが、それがないものもある」(『沖縄大百科事典』)。
が、1960年以降に展開された「グスク論争」を経てもなお結論には至っていない。

代表的な説は3つある。

聖域脱 
グスクの本質を聖域におき,そこを中心に一部のグスクが城塞として発展したとする考え。
たとえば、勝運グスクは城塞があるからグスクとよぱれるのでなく,
そのなかに聖域をもっているからグスクとよぱれるのであり,主体はあくまでも聖域の存在にある。
(民俗学的視点…仲松弥秀による説)

集落説 
グスクを三つのタイプに分類。
A式が政治的権力者の居城・支所
B式が原始社会から古代社会へ移行する時期の防御された集落
C式が発生当初からの集落の拝所や墓地で、A式はB式から発展したとする考え。
(考古学的視点…嵩元政秀による説)

グスク展開説 
グスクの共同体論に,歴史的な視点を加えるなら、
聖域説も集落説もグスク展開の一面としてとらえることがてき、矛盾しない。
その意味で、城塞化したグスクのうち最後にのこったのが首里グスクとする考え。
(歴史学的視点・‥高良倉吉による説)以上『高等学校 琉球・沖縄史』(東陽企画)より


城の「東西軸」に注目する私としては、仲松の「聖域説」に共鳴。
ただ三説とも、原始〜古代社会で「聖地(グスク)は動かなかった」という点で共通している。

故・仲松弥秀氏の著『神と村』(1990年、梟社)によれば、
氏も当初は「グスクすなわち城」と考えていたという。
ところが、各地のグスクを踏破した結果、
「古代に祖先たちの共同葬所(風葬所)だった場所ということがわかった」。
さらに時代が進み「グスク=聖所」を保護していた豪族が、
隣に居館を建て、その両方を石で囲み拡大した結果、外観上も城(しろ)となったのだと。

玉城城付近に住む人から聞いた話を思い出す。
「玉城城にはこの戦前でも頭蓋骨が見つかることがあったそうだ」と。葬所ならそれも頷ける。

玉城城は敷地が5千平方mで、複郭を持つ。
グスク研究の第一人者である安里進琉球大教授は、
2千平方m以上のグスクを「大規模グスク」と呼ぶ。

安里教授によれば、大規模グスクはすべて複郭構造で、正殿、御庭、聖域、倉庫がある。
なかでも、4万平方mを越える浦添城、首里城(他に今帰仁城がある)は、
周辺に寺院、王陵、豪族の住居といった施設が配置された「王都」としての性格が強い。
また、その王宮には「冬至の朝日が久高島の方向から昇る」。
浦添ようどれ(陵墓)はニライカナイ信仰や太陽子思想にもとづいて設計されたという。


図・写真とも『琉球の王権とグスク』(安里進著、2006年、山川出版社)より借用
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太陽と城の位置関係。
浦添城と首里城から見て冬至の日の出方向である久高島からは、夏至の日の入りが見える。
玉城城からは久高島が夏至の日の出方向だが、冬至の日の出方向には肉眼で見える島はない。
(図は『玉城城跡整備実施計画報告書』より。赤青線(字)は筆者)a0300530_18323399.jpg


















夏至の日の入り。久高島から浦添、首里方向を望む(2013年6月23日の撮影)。
左側の稜線は知念半島、斎場御嶽(せーふぁうたき)。
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1年でもっとも太陽が小さくなる「冬至」の日の出。
1年でもっとも太陽が大きくなる「夏至」の日の入り。
二至の太陽は、古代の人々にとって「神の死と再生」そのものに見えたと思う。
世界の冬至祭とは、神の再生を祝う祭りだった。
そういえば、東京でも大国魂神社や八幡神社などでは冬至祭をやっている。
by utoutou | 2013-08-12 20:15 | 久高島 | Trackback | Comments(0)

久高島に昇る朝日

沖縄県南城市にある久高島。知念岬の東方5.3kmに浮かぶ珊瑚礁の島。
琉球王朝時代よりの至聖地である斎場御嶽(せいふぁーうたき)からは、島影を望みつつ遥拝できる。
安座真港から船で20分で着く「離島」である。周囲約8㎞、標高の最高は17m。
細長く平たい島で、夏至の日の出の方向、東北東に伸びている。
古に王城の地であった浦添と首里からも、太陽が昇る東に位置する。



琉球の始祖アマミキヨによる国づくり神話を伝え「神の島」として知られ、
年に30回近くあった祭祀が、ついこの数年前まで続いていた。

先史時代やグスク時代の遺跡も数多く点在。一説には日本の神々の原郷であると。
地層に古代を幾重にも秘めたまま、その全貌は未だ明らかでないという、まことに謎めいた島だ。

a0300530_83489.jpg今から1ヶ月前の6月24日、久高島で夏至の3日後の朝日を見た。

とうに50回は通ったこの島で、いつも伊敷浜に出て日の出を待つ。
琉球国王が聞得大君を伴い行幸した聖なる浜。
ニライカナイからの来訪神が寄り着くこの海で。

ところが、日の出時刻が5:38だったこの日、うっかり寝過ごして、伊敷浜に着く前に夜が明けた。

それがむしろ幸運だったかもしれない。
東北東、島の先端に位置するカベール岬の方向から、朝日が昇る瞬間に遭遇した。

「神の島」を貫いて光る夏至の朝日。1年のうち最大の太陽。とてつもなく眩しく力強い。
対岸の本島、南城市玉城にある玉城城(たまぐすくぐすく)の一の郭は、この朝日を射通す設計になっている。
レイライン。太陽の道。太陽信仰の痕跡である。


「イシキ浜」の看板で右に曲がり、防風林の小径を駆け下りて、砂浜で海に向って立った。
ここでは太陽は左端に照り輝いていた。
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いっぽう、冬至の朝日はというと、下の写真のように伊敷浜の真正面から昇る。
※2009年撮影。単行本『おきなわルーツ紀行 聖書でひも解く沖縄の風習』
(小林ゆうこ、与儀喜美江共著、2010年、球陽出版)のカバー写真になった。

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夏至の季節と違って、金色の輝きは優しいエネルギーが満々。
太陽が最小になる冬至を、世界各地の古代人は「太陽の誕生日」として祝った。
沖縄には今も「トゥンジジューシー」(冬至の炊き込み御飯)を、神壇に備える風習がある。

私が育った北海道では「冬至かぼちゃ」と呼ぶ、かぼちゃ入りぜんざいを食べる風習がある。
極寒の冬に向う支度だが、幼い頃はなんだか晴れがましい気持ちで食べたものだ。

久高島の二至に昇る朝日は、太陽の神性を存分に気づかせてくれた。
というより、思い出させてくれたというべきか。
by utoutou | 2013-07-25 21:31 | 久高島 | Trackback | Comments(0)