カテゴリ:瀬織津姫( 113 )

六甲山と瀬織津姫 114 アメノヒボコ

青谷上寺地遺跡(鳥取市)と御領遺跡(福山市神辺町)。
ふたつの遺跡からは弥生時代の船の線刻画が出土している。
その共通点は、準構造船に描かれた「旗」ではないだろうか。
学説があるわけではないが、青谷上寺地遺跡展示館で、
↓ 船団の線刻画を目にしたとき、中央の船の船尾に立っている
のは「旗を立てる柱なのでは?」と、胸が騒いだものだった。
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いっぽう、御領遺跡の線刻画にも旗とおぼしきものが
描かれていた。この地域は、古代にはまだ瀬戸内海沿いで、
ゆえに交易港であり、そのため奈良時代には国府も置かれた。
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'14年末に、御領遺跡から弥生土器の壺に描かれた線刻画が
発見されたとき、「国内最古の屋形船」と大きく報道された
が、残念ながら描かれた「旗」が注目されることはなかった。
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話は戻って、青谷上寺地遺跡展示館。
青谷出土のものと似た線刻画として、御領遺跡(写真右)の
他に、袴狭遣跡(はかざいせき、兵庫県出石郡)も挙げられて
いるのを見たときも、「旗」を思わずにいられなかった。
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↓こちら、袴狭遺跡から出土した木片の線刻画アッブ。
ひょうごの遺跡』サイトから拝借。但馬地方の中央を日本海
に向かって流れる円山川の支流・袴狭川の流域にある
その遺跡理線刻画木片には、大小16の船が描かれていた。
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ところで、袴狭遣跡は、出石神社に至近という立地から、
これまで、その祭神・天日槍命との関係を示唆されてきた。

垂仁天皇の時代に新羅から渡来した王子として記紀に登場、
また、神功皇后の数代前の祖先と言われる天日槍命。
その一族の渡来の様子を船団の線刻画は描いているのでは…と。

天日槍命が持参して、出石神社の祭神・出石八前大神
と言われるのが、『八種の神宝(やくさのかんだから)』だ。
その内容は、珠二貫(玉を緒に貫いたもの)2本、
領布(ヒレ)4本、鏡2枚、合わせて八種ということだが、
4枚のヒレとは、海神に航海安全を祈る祭具としての「旗」?

ヒレには名前が付いている。
「浪振るヒレ」「浪切るヒレ」「風振るヒレ」「風切るヒレ」。
これが線刻画の船に描かれた「旗」だったのではないか…。



一昨日、梅雨明けの那覇空港に降り立ったので、
アメノヒボコの神宝について、語り部の意見を聞いてみよう。
ヒボコの五代孫に神功皇后がいるが、亦名は、息長垂姫命。
その名にある「垂(たらし)」は、垂れる頒布の意味なのかも。
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by utoutou | 2017-06-24 13:12 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 113 海を支配する王

吉備津彦に首を跳ねられた温羅(うら)と、浦島太郎。
ふたつの名が含む「うら」とは、「浦」を意味すると思う。

もちろん、浦島太郎の「浦」は、文字通り「浦」である。
「浦島の子」と読まれたのは中世以降だそうで、「浦の島子」
と読むのが正しいとする水野祐氏の説があるが、卓見だ。
浦々を取り締まり交易権を掌握する長としての「島子」、
あるいは「嶼子」は、『魏志東夷伝』に見える伊都国の官名
「泄蟆觚(しまこ)」に通じるというのが、水野説の根拠。

丹後の浦島神社は「宇良神社」とも表記するが、さて。
語り部の言った沖縄県国頭村宇良も、東シナ海に面する
集落で「ウラは浦の意」だと、『国頭村史』は記している。

ちなみに、沖縄で「浦」の地名の代表格といえば「浦添」。
 語源は「浦襲い」で、「海を支配する所」という意味があり、
浦添城は舜天・英祖・察度といった琉球王の居城だった。

また時代は下って、琉球王家の居城・首里城の正殿は
「百浦襲(もんだすい)」と呼ばれた。
百浦…つまり「数知れぬ浦々を支配する王の居処」である。


さて、吉備の「鬼」と呼ばれた温羅(うら)は、どうか。
こちらの名も「浦」の意味と取るのが自然ではないか…。
その実在性が疑問視されたり、個人でなく渡来人の集団を指す
のではないかという説もあったりで、本名か否かも不明。

つまり、温羅も「渡来して海を支配した王」なのだ。
鬼退治の舞台・吉備津は、神奈備山・中山の周辺に拓けた。
現在は瀬戸内海の湾岸線から10㎞以上奥まっているものの、
吉備津彦の時代には、海岸線はその南麓に迫っていたという。



JR吉備津駅から南へ進むとすぐに現れる吉備津神社一の鳥居。
写真の中央に写る緑色の物体は旧山陽道を走行中のトラック。
旧山陽道は古代、海岸のごく近くを通っていた。
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つまり、4世紀頃に築城されたという吉備津彦の御陵こと
中山茶臼岳古墳も瀬戸内の「浦」を見下ろす最高の立地に
あった。その場所は当然のこと「鬼」を征服した側よりも、
征服された側、吉備王家を築いた一族の墓にふさわしい。



吉備津神社の拝殿の天井には、菊の御紋の提灯。また、
注連縄の上の扁額には「平賊安民」とあって何やら意味深?
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中山茶臼岳古墳が吉備津彦御陵として宮内庁管轄となった
のは明治時代のこと。その考古学的根拠は乏しいと言われ、
被葬者は「海を支配した王」とする声もあるという。
つまり、その王とは「浦の嶼子」だったとも言えるか…。
なんだか浦島太郎と桃太郎が脳内で混乱してきた。
↓写真は、吉備津神社境内の「桃太郎みくじ」。
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ところで、吉備国は「真金吹く吉備」と呼ばれた。
〜真金吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ〜
と言う歌が「古今集」に。「真金吹く」は吉備の枕詞なのだ。
吉備王家が繁栄した源泉は、吉備で産出する鉄であり、大和
朝廷が吉備に屯倉を置いたのも、鉄を狙ってのことだった。


と、こうして美作〜因幡〜吉備と駆け足で廻った旅を
振り返るのも、そろそろお仕舞いかと思ういっぽう、
それにしても、この旅がアマミキヨとどう関係するのかと、
やや疲弊気味になっていた数日前、語り部が言った。

「もう、因幡のことは終わりですか?」
「はい、ネタが尽きたようで…」
「因幡と吉備に渡来したのは、同じ一族だと思います。
琉球にも関係があるかと。共通点は何かありませんか?」

うむ…と悩むこと三日三晩。今朝ようやく気がついた。
弥生時代の船である。鳥取の青谷上寺地遺跡と、
吉備から分かれた備後の御領遺跡(福山市神辺町)に
遺る船の線刻画は酷似している。沖縄のハーリー船とも…。




by utoutou | 2017-06-16 16:20 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 112 吉備の瀬織津姫

壱岐諸島を離れて因幡・八上郡を根拠にした菟狭族
は、さらに、山陽・北九州・東九州へも発展して、
古の菟狭国は大いに繁栄したという。そして…。
『古伝が語る古代史』(宇佐公康著)は、その所領地
についても記している。(以下要約)

☆所領地だった筑豊・日向・肥後・肥前のうち、最たる
ものは備前で、古の菟狭国の神都は備前なり。
☆ことに吉備の高島(現・岡山市)は古代日本の中心だった。
☆神武も東征の途中で、そこに高島宮を置いた。

つまり崇神天皇の時代、四道将軍のひとり彦五十狭芹彦命
(後の吉備津彦命)が平定(鬼退治)のため派遣された
とき、吉備には既に菟狭族がいたということになる。


思えば、1ヶ月半前、「因幡の白兎」の舞台・因幡から
美作へJRで南下、さらに岡山から空路東京へ帰る旅の最後
に、ふと足が向いたのが吉備津神社(岡山市北区)だった。




吉備津彦命を祀る吉備津神社・拝殿。
吉備を平定した吉備津彦命とその一族を祖神として祀った
 のは、命から五代目の加夜臣奈留美命(かやおみなるみ)。
一説には、吉備海部直の娘を娶った仁徳天皇による創建とも。
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鬼退治の桃太郎のモデルになった大吉備彦命は、第七代
孝霊天皇の皇子という。仁徳天皇にしろ、いずれにしろ、
創建が王権と関わり深い一族に依るためか、境内はどこも
かしこも豪華絢爛。社号の扁額は黄金色に輝き、国宝である
比翼入母屋造の本殿・拝殿は、出雲大社の2倍以上の大きさ。
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JR吉備津駅から数百m続いた松林の参道も立派だったが、
境内を貫く廻廊は、これも400mあるというスケール。

↓ 境内図の左下(北東)から鳥居を潜ると拝殿への石段がある。
この境内摂社の配置は、吉備津彦に討たれた怨霊を鎮魂している
(封じている)…。と、気がついたのは参拝後のことだったが。
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「怨霊」として、神社の由緒に登場するはずもないが、
吉備津彦命が「退治」したという鬼神とは、温羅(うら)。
伝承では百済から渡来した王子ということになっており、
性格は極めて凶暴、悪事を働き人々を困らせていたという。


その居城だった鬼ノ城は、神社の北西(写真左方向)に
15㎞離れた国新山(総社市)にいまも残り、また、北東に
(写真右方向)に鎮座する本殿のその先2.5㎞には、やはり
温羅の霊を祀る艮御崎(うしとらおんさき)神社が鎮座する。

本殿内部の北東方角の隅にも、同神社の小祠が鎮座する
というから、おそらく内外の艮御御崎神社は相対しており、
艮→乾の方角へ、吉備津彦神社の本殿を貫いて鬼ノ城を遥拝
する祭祀空間設計になっているのではないかと思われる。
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↑ 上の写真は、吉備の地主神・建日方別神を祀る若山宮 ↓
を背にして撮ったものだが、長く真っ直ぐな階段を
降りた先に位置する御釜殿のその地下に、吉備津彦に
跳ねられた温羅の「鬼の首」が埋められているという。
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若山宮から、御釜殿の方向を見下ろす。階段の両脇は
紫陽花の花壇ということで、ちょうど今は見頃だろうか。

御釜殿では、現在も吉兆を占う鳴釜神事が行われている
というが、小廻廊が、メインの廻廊から枝分かれして、
建物の前まで続いているのは、多くの境内社でも御釜殿のみ。
その点からしても、温羅のタタリを怖れ、鎮魂の勤めが休み
なく続けられてきた長い歴史が窺われるようだ。
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ところで、廻廊を真っ直ぐに進んだ先、境内のもっとも
北西に本山宮があり、その脇に西門の鳥居があった。
小道を隔てた先は、境外の御嶽となっているようだった。

その御嶽に滝祭神社が鎮座し、瀬織津姫が祀られていると
知ったのも、迂闊にも帰路についてからのことだったが、
その女神が菟狭族の崇めた太陽神と知ったいまでは、納得。
(写真は、吉備津神社HPより拝借しました)
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↓ 境内地図を拡大して見て、西の端(赤丸を付けた)に
滝祭宮があるのを知ったのだったが、後の祭りだった。
ちなみに地図上部、緑色のエリアは吉備津彦命の御稜である
中山茶臼岳古墳。まさしく祓戸の神・瀬織津姫が寄り添う…。
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きょう、語り部に電話で意見を求めたいことがあった。
温羅のウラは、浦島太郎のウラと同義だろうか?
単なる直感だが、私にはそうとしか思えなかった。
浦島太郎は元来、「浦の島子」「浦の長だった嶼子」
という意味だったはず。

もし「ウラ」が古代海人族とか、津々浦々に住んだ
原住民族を指す言葉だとしたら、どうだろう?

聞くと、語り部は言った。
「ようやく気がつきましたね。そうだと思います」
「丹後の浦島神社は正式には宇良神社といいますし、
温羅も、宇佐族と関係のある人物かもしれませんしね」
「沖縄の国頭村には、宇良という地名がありますよ。
宇良さんていう名字も。語源は琉球にあると思います」
そうだったのか…。









by utoutou | 2017-06-11 12:09 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 111 ウサ族の瀬織津姫

弥生遺跡の出た青谷(鳥取市)から、長尾鼻の岬を左に
見ながら東に車を走らせると、↓ 展望台(魚見台)に着く。
そこからは鳥取砂丘と、白兎神社のある海岸が正面に見える。


案内板の上部にご当地民謡「貝殻節」の歌詞が1行あるが、
その「何」の先あたりに見える海岸線が鳥取砂丘。また
「の」の先あたりに白兎海岸が見える。対岸までの距離は、
海沿いの国道9号線で12〜3㎞。車で15分とかからない。
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いっぽう、青谷上寺地遺跡を位置は↓こちら(左の赤丸)。
長尾鼻の付け根の西側から1㎞内陸にあるこの弥生遺跡こそ、
『因幡の白兎』神話の舞台ではないかとの異説が、最近ある。

確かに、ここ気高郡(旧地名)と神話の舞台「気多の岬」
という地名の類似や、大国主の時代と遺跡年代の符合、また
朝鮮半島や出雲からの海流がぶつかる良港としての地勢や、戦乱
を物語る遺物(殺傷痕のある人骨)など、頷ける材料は少なくない。
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さらに、白兎とワニの神話とは、ウサ族とワニ族の部族間抗争
の例えなのではないか…との新説を唱える向きもある。

青谷上寺地遺跡から出た遺物(銅剣、木製品、土器)に、
まったくワニを思わせる線刻画が多数描かれているためだ。
魚説、イルカ説があるなか、確かに背ビレが2つある絵がある。 
↓展示館発行の資料にも、「サメを神聖視する思想が広まって
いたかのかも」と、和邇族の存在を思わせる解説が載っている。
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日本列島に先着渡来して古代豪族となった和邇族。
そのトーテムは、文字通り鰐鮫だと古くから言われている。
この国に鰐は生息していないが、東南アジアや中国南部にはいる。
和邇族が大陸にいた当時に出会っていた爬虫類の鰐、あるいは、
海のフカや鮫に対する畏怖の念は、龍蛇信仰とも通底する。

思えば、白兎神社の社務所で見た由緒板も、ワニを漢字で
「和邇族」と記していた(写真右の赤丸部分)。次のように。
〜白兎海岸  神社の北方150メートルの海岸で、
白兎神と和邇族との古戦場である。〜 

このリアルな表現は何ゆえかと調べると、そもそも『古事記』
の原文は、ワニは「和邇」、ウサギは「菟」と表記していた。
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では、ウサ族の裔・宇佐神宮宮司家の口伝ではどうかと、
宇佐国造五十七世である宇佐公康氏の著書で確認してみると…。
『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』('90年、木耳社)に、
菟狭族の来歴と、「稲羽白兎の伝説〜」と題した項があった。
(以下要約)

☆菟狭族は9千年前の早期縄文時代から山城国の稲荷山を
根拠地として原始生活を営んでいたが、8500年前に
猿田彦族が進入してきたので、分裂して集団で各地に移った。
☆移動先は古の吉備国、隠岐諸島、北陸、関東、国東半島など。
☆そのうち、吉備の高島は、古代日本の政治文化の中心になった。

☆古の因幡は隣国の伯耆とともに古くから豪族の出雲が統治
しており、その統治下に菟狭族や和邇族がいた。
☆和邇族の祖神はワニ神、菟狭族の祖神はウサ神だった。
ウサ神とは動物の白ウサギではなく、月神のことである。

☆白ウサギがワニに皮を剥がれて赤裸になったという
伝説は、菟狭族が和邇族との経済上の取引に失敗して資産
を押さえられ、赤裸になってしまったことを物語っている。
☆伝説中、ウサギがいたのは現在の鳥取市ではなく、島根県
の壱岐諸島で、菟狭族は、この本土と朝鮮半島との交通の要地
にも住み、石器時代から自給自足の農漁業を営んでいた。
☆壱岐諸島の領有権と全財産を和邇族に奪われた菟狭族は、
大国主命の仲裁で、因幡国八上の地に移住することになったが、
そこには八上姫と女性いうシャーマンがいた。大国主命は、
八上姫と夫婦の契りを結んで、八上地方の統治権を獲得した。
☆九州の宇沙に移動するまで、縄文時代から長い年月を要した。


ところで、宇佐公康氏の著した伝承の書には続編があった。
『宇佐家伝承 続・古伝が語る古代史』('90年、木耳社)。
購入から何年か経っていたのを初めて読んでみて、驚いた。
宇佐神宮の奥宮・御許岳山頂の禁足地について記されていた。

☆御許山頂に三女神が降臨する以前から祀られていた宇佐明神
とは、天御中主神に直属の撞賢厳之御魂という原始太陽神で、
天疎向津比売命(あまざかるむかつひめのみこと)、
天照大日貴命(あまてらすおおひるめむちのみこと)とも呼ばれた。
☆その聖地は天地根元の神を祀った日少宮(ひのわかみや)
であり、神籬山・神奈備山であり、古代菟狭族の墳墓である。
☆宇佐一円には古墳時代の墳墓も多いが、ほぼすべて御許山を
 向いて築かれ、遺体も頭を御許山に向けて埋葬した形跡がある。


菟狭族が崇めたのは、撞賢厳之御魂 天疎向津比売命
(つきさかきいつのみたま あまさかるむかつひめのみこと)。
後に瀬織津姫と呼ばれる女神だった。

菟狭族の八上郡への移住こそが、一帯に白兎神(ウサ神)
と瀬織津姫とを祀る神社が多くある理由だったのだろう。

「ウサ神は月神」というのも、考えさせられる伝承だ。
琉球で瀬織津姫(弁財天)にあたる神とされる御天母親加那志
とは、御天父親加那志(天御中主神)の伴侶であり、月神であり、
星々を生む根元の母神。菟狭族が祀った女神とよく似ている。


白兎おみくじに見る恋愛成就の神徳とは、やや趣が異なる?
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by utoutou | 2017-06-07 15:08 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 110 隼人の盾

青谷上寺地遺跡(あおやかみじちいせき、鳥取市青谷町)
で見た弥生時代(BC3世紀〜)の遺物には、この地に
南方からの民が渡来したと思わせるに十分な見応えがあった。


白兎神社から海岸沿いの国道9号線を西へ15分走ると、
長尾鼻という、まさに猿田彦の鼻のような形をした岬に着く。
 全長1㎞という岬の付け根あたり(写真左)に、弥生遺跡はある。
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語り部が、「古代琉球に関係があるようだ」と霊視した
「サムハラ神社奥の院(岡山県美作町)の北にある岬の周辺」
はこの日本海沿いと思われるが、岬の南西部(↓青谷交差点)
から見ると、長尾鼻(写真右)はそう長くは見えなかった。
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近くにあった青谷上寺地遺跡展示館を訪れた。
弥生時代の青谷地域を示すCGを撮影して赤丸を付けてみた。
上の赤丸は、現在の海岸線に位置する↑青谷交差点あたり。
下の大きな赤丸が、遺跡中心地(集落)のだいたいの位置。
西に勝部川、東に日置川という2本の川が流れる。現在、
河口部は平野だが、昔は見た通り、潟湖(内湾↓)の際だった。
1991(平成3)年、道路建設予定地の調査で発見された。
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日置川河畔の北側にも、青谷上寺地遺跡より規模は
小さいが、青谷横木遺跡という遺跡がある。
日置川流域の旧地名は、文字通り、気高郡日置郷という。

日置(ひおき)…久々に見たその名は、八頭郡中心部の
春分・冬至のレイライン沿いに白兎神ゆかりの寺社が並ぶ
理由を、ようやく解いてくれた気がする。因幡の地に、後に
朝廷の日置部(太陽と火を祀る部民)となる人々がいた証か。

日置部については、「日置部のレイライン」などにも
 書いてきたが、遺跡でそれを目の当たりにするのは初めて。
天穂日命を始祖となる「ホとヒの人々は沖縄・久高島にいた」
と、語り部はかねがね言っていた。土師氏はその末裔だとも。

天穂日神社は、9世紀頃まで因幡一宮より上位だったという
が、この地で繁栄した最古の一族が祀ったとも考えられる。

さて、
青谷寺地遺跡の展示でまず目を見張った遺物は ↓ 盾。
武器のコーナーにあったそれは、水銀朱で赤く塗られ、
左右一対の渦巻き紋と、三角形の文様が描かれている。
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「弥生時代中期後葉」との説明なので、AD1世紀頃のものか。
まさに「隼人の盾」のシンボルマークと同じ文様に息を飲んだ。
が、後に朝廷に服属して隼人と呼ばれ、日下部と名乗ることに
なる熊襲は、縄文時代から大海を渡り交易していたらしい。
その象徴だった渦巻き紋の付いた遺物は、大いに有り得る?



櫂(かい)にも、渦巻き紋が描かれていた。
こちらは、弥生時代後期初頭から古墳初頭のものという。
イラスト化された蕨手紋に九州の珍塚古墳の壁画を思った。
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弥生時代かそれ以前、この青谷に渡来した人々が
乗っていたらしい丸木船の模型やイラストも展示されていた。
その全長は縄文時代最大級の丸木船よりも長く、7.9mという。

構造も少し違い、縄文時代のように船尾は尖っていない。
四角に整形された板を貼り、大きく反り上がった設計だった。
その構造船の周りを、小中型の丸木舟が囲んで進む船団を
描いた線刻画は、沖縄の爬竜船競争(ハーリー)を思わせた。
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沖縄にいた先週は、ハーリー(海神祭)のある旧5月4日
の直前だったこともあり、ランチを兼ねて奥武島に寄った。
ハーリー船の保管庫に、お祭りを前に島所有の船を整備
する海人がいたので、写真を撮らせてもらいつつ聞いた。

「船の長さはどれぐらいありますか?」
「うーん、7mから8mぐらいあるね」
「古代船と似てるけど、あっちは船尾が反り上がってました」
「これは競技用だから。本物の爬竜船は船尾が反り上がってる」
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古代人は、まさにこの規模の船で東シナ海を航海した?
青谷上寺地遺跡からは、朝鮮半島や中国(新、漢)との
交流を窺わせる遺物がいくつも発見されている。


by utoutou | 2017-06-01 12:46 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 109 白兎神話は南方から

内陸にもあった、「白兎神話ゆかりの里」。
古来、村々の鎮守として白兎大明神を祀り、崇め、
古墳の数も因幡随一。その中心だったと言われる土師郷は、
現在の八頭郡八頭町にあたるが、そのまさに霊石山山麓に
 流れているのが、千代川の支流・私都川(きさいちがわ)。

この川の流域が八上姫の里だとの説があるいっぽう、
瀬織津姫を祀る神社も多く、なんと4社に祀られている。
(旧八上郡へ範囲を広げると、16社になる)

その理由は不明だが、もしや白兎大明神にあるのではないか。
「白兎大明神は猿田彦」という語り部の仮説が正しければ、
その太陽神・猿田彦の一対神とは、瀬織津姫という名の月神。

伊勢・伊雑宮の奥宮には、猿田彦神(伊勢大神、天照大神)
と瀬織津姫(罔象女神、泣沢女神)が、一対神として
秘祭されていたものだった(記事はこちら → )。

ともあれ、ここ因幡は、朝廷に「まつろわぬ民」の土地
だったのは確かだ。伊雑宮の鎮座する志摩・磯部しかり、
因幡にも、天照大神という記紀によってつくられた皇祖神
を、決して受け入れなかった琉球民族と同じ匂いを感じる。




新たに知った「白兎神話ゆかりの里」はさておき…
『古事記』によって知られる白兎神話の伝承地、
いわば、本家本元の白兎神社(鳥取市白兎)へも参詣した。
出雲大社を思わせる注連縄には、「立派〜」の一言。
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国道9号線沿いの駐車場に車を置き、神社までわずか数分。
鳥居からゆるい上り坂となる参道で振り返ると、水平線が。
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白兎伝承地のハイライトは、こちら淤岐ノ島(おきのしま)。
白兎海岸の沖合150mに浮かぶ小島から、兎はワニの背中を
踏み、対岸の「気多ヶ崎(けたのさき)」まで渡ったとされる。
島の上には鳥居が立っている。また遠目からは分からなかったが、
ワニに見立てられた岩礁は、いまも点々と連って見えるという。
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淤岐ノ島ばかりでなく、
周辺には白兎伝説の場面ごとの伝承地があって楽しめる。
神社の内外には、素裸の兎が体を洗った「不像不滅の池」が、
兎が泣いていた「高尾山」、兎が体を干した「身干山」がある。

ところが、この白兎神話伝承地の歴史は、
江戸時代より遡ることはないと、前出の石破洋教授は、
著書『イナバノシロウサギの総合研究』で述べている。

大国主命が八十神と共に八上姫に求婚する旅に出て、
兎と出会う場面は、必ずしも必要ではなかったのだと。
もし白兎の場面が挿入されるとしても、その海岸は出雲
でも因幡でもよく、淤岐ノ島の名も古代にはなかったと。

では、白兎神話はどのように生まれたのか?
(以下は石破氏の著書より引用)
(兎とワニの)〜場面は南方系の渡来説話が『古事記』
の作者に利用されて挿入されたものと思ってよい。〜

そういう考え方もあるのかと、目からウロコが落ちた。
確かに、小動物がワニに騙される神話は、東南アジア各地
に残ると言われるが、それが「渡来した」と推理するならば、
 いきおい海人族の渡来をリアルに想定することができる。
  神話は、ひとりで海を渡ることはできないのだから。  



実は、白兎海岸から東方を見ると、但馬(兵庫県)の岬
まで見通すことができ、その距離の近さに驚いていた。
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また、神社の駐車場には、こんな立看板があった。
怪しい車、人、船への注意を観光客に喚起している。
いかにも怪しいイラストに、かの半島からの海流を思う。
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何日か前、語り部は言った。
「近くの海岸に、大きく突き出た岬はありませんか?」
「そこが、本当の白兎神話の伝承地とか…?」
「南方から上がってきたらしい古代の船団が見えますね」










by utoutou | 2017-05-23 11:15 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 108 八上姫の里

大国主命妃となった八上姫を祀る売沼(めぬま)神社
(鳥取市河原町曳田)に、謎めいたことが二つあった。
まず、その呼称。社頭の由緒書きにもあったように、
中世まで、「西日天王(にしびのてんのう)」と呼ばれた
というが、詳しいことは明らかになっていない。



もうひとつの謎というか、その余韻が長引いたのは、
曳田川の土手ぎりぎりの場所に鎮座するこちらの摂社。
赤く塗られていたらしいので稲荷神社か。はたまた、
曳田川は古来、頻繁に起こる水害で暴れ川と恐れられた
千代川の支流だけに、川の氾濫をなだめる治水の女神か。
あるいは、この小祠から遥拝する聖地があるのだろうか。
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こちらの小祠からは、霊石山を遥拝するのでは? と思ったのは、
隣接する八上姫公園にあった石碑の絵柄を思い出してからだ。
その中央には日本海へと注ぐ千代川が、また右(東)から
合流する私都川(きさいちがわ)が描かれているようだ。
八上姫の傍を流れているのが、曳田川のように思われる。
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天照大神を猿田彦が道案内したという神話が残る
霊石山は、八上姫と同じく往古の八上郡(やがみのこおり)
の象徴として、土地の人々の崇敬を受けていたのだろう。



売沼神社から3㎞北に立つ河原城(別名・若鮎城)は、
千代川を挟んだ西、鳥取市河原町に平成6年に「築城」された。
ふるさと創世事業によって、町の情報発信の拠点として完成。
元々は、豊臣秀吉が因幡平定の際に陣を築いた場所という。
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河原城(全高24m)の天守閣から見る霊石山
と、その南麓に広がる八上郡(現・八頭郡八頭町)。私は
 登城の余裕なく、写真は鳥取市公式ウェブサイトより拝借。
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霊石山に連なる中山の展望台から八頭郡の平野を見下ろす。
写真には写らないが、立ち位置の右方向に霊石山、河原城。
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展望台からの見た目通りの地図なので、南北が逆だが、
白い平野部分が古代の因幡国の中心・八頭郡八頭町。
「白兎伝説の里 八頭町 ゆかりの地」が図示されている。
白兎伝説ゆかりの地は白兎海岸だけではなかったらしい。
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Googleの航空写真に、
「白兎伝説ゆかりの地」の主だった寺社を記してみると、
霊石山一帯の山麓(写真下部)に集中しているのが分かる。
赤いピンを置いたのが霊石山(現・鳥取市)。
その右下の黄丸が中山展望台(八頭町)。
左下のピンク丸が河原城。
赤丸が、右から成田山青龍寺、池田神社。上下にふたつある
のが、土師百井廃寺跡、土師百井神社。左が売沼神社。
日本海岸沿いの赤丸が有名な白兎神社。右端が鳥取砂丘。
ちなみに青丸は、万代寺遺跡(八頭郡八頭町万代寺)。
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八上郡に点在する「白兎伝説ゆかりの地」を繋げると、
「夏至・冬至ライン」になると発見したのは、大江幸久氏。
その著書『天照大神・瀬織津姫の因幡行幸--ホツマで解く
  八上姫・白兎神話の真相』では、そればかりか、鳥取県を
    瀬織津姫を祀る神社が「密度では全国一」とも記している。  
(実数での最多は岩手県、2番目は静岡県という)

語り部が先日言ったように白兎明神が猿田彦神ならば、
伊勢・伊雑宮の奥宮・天岩戸に併祀されていたように、
瀬織津姫が、この地にも祀られているのは不思議ではない。

さて、上の航空写真地図に青丸で記した万代寺遺跡
(八上郡の古代役所跡)や、土師百井廃寺跡のある
旧・八上郡土師郷を「八上姫の郷」と指摘したのは石破洋氏。
    著書『イナバノシロウサギの総合研究』で、概略こう記した。   

〜(因幡の中央に住んだ)白兎は因幡の国の神であった。
因幡国を代表する八上姫も同じ所に住んでいたと考える
のが、神話的な思想であろう〜

すると、その因幡の中心地から見て、売沼神社は
冬至の太陽が沈む方向。まさに「西日大王」に相応しい。

古の沖縄では、朝日を東大主(あがり・うふぬし)、
沈む夕陽を西大主(いり・ぬ・うふぬし)として崇めた。
八上郡には琉球に似た太陽(朝日夕陽)信仰が感じられる。

by utoutou | 2017-05-18 15:20 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(1)

六甲山と瀬織津姫 107 八上姫の恋

「八上姫というのは、誰の娘ですか?」
鳥取で神社巡りをした日、語り部が電話で聞いた。
八上姫を祀る売沼(めぬま)神社(鳥取市河原町)
にも参拝することは、あらかじめ伝えていた。

誰の娘と聞かれても…と返答に困ったが、言った。
「それは謎のままらしいですよ。豪族の娘に違いないと
思いますけど。もしや八上姫のお父さんは因幡の白兎?」

なかば口から出まかせだったが、考えられなくはない。
神話『因幡の素兎(しろうさぎ)』で、大国主命と八上姫
 の結婚を予言したのは、大国主命に助けられた因幡の白兎。
「あなたは八上姫と結婚することになるだろう」という
予言通り、大国主命は八十姫を娶ったのだから、
白兎は予言者か、八上姫の父神か、どちらかの化身だ。

そして前回の「猿田彦の導き」で、因幡の数ヶ所に
 祀られる白兎大明神とは猿田彦命のことだろうと書いた。

いま、語り部は言う。
「白兎に隠れている神は、猿田彦だと思っていました。
沖縄ミントングスクの神面に残るアマミキヨ、そして、
伊勢神宮でも秘祭される興玉神と神像が重なっている」
(「ダビデの神面」「伊勢に沈む古代」に記事あり)



八上姫命を祀る売沼神社
(めぬまじんじゃ、鳥取市河原町曳田)
日本海から遡った千代川の支流・曳田川の北岸に鎮座。
「売沼」は本来は「比売沼」で「比」が脱字したものという。
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創祀年代は不詳。小高い丘になった境内のすぐ下を
曳田川がなだらかに蛇行する様子は、古代を思わせて優美。
川とほぼ平行して建つ売沼神社・本殿は、東面している。 
伊勢の興玉神こと猿田彦とは、東から昇り来る太陽神だった。
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境内にあった由緒書によれば…(以下要約)。

賣沼神社 祭神 八上姫命
☆延喜式神名帳にある式内社である。
☆中世は「西日天王」と呼んだが、元禄より現在の社名。
☆「古事記」の伝えでは、八上姫は白兎の仲介で、
その難を救った大国主神と結婚した。
☆この神話伝説は、漂着した外地の舟人たちが先代川
を遡り、まずこの曳田郷を拓いたことを物語る。
☆対岸山麓の前方後円墳を神跡としている。
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曳田川の対岸・梁瀬山(283m)に嶽古墳(だけこふん)
がある。全長50m、直径は後円部25.8m、前方部24.2m。
5世紀後半から6世紀前半の造営。八上姫の墓と言われるが、
造営年代から一族の末裔の墓とも。ただし石室などは未調査。
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売沼神社、嶽古墳と一帯となった八上姫公園には、
大国主命との恋物語を刻んだ一連の石碑があり、
公園内を歩きながら楽しめるようになっている。
曰く、八上姫は「日本で一番最初の恋物語のヒロイン」
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ところで、大国主命と結ばれた八上姫命は子どもを生む
が、『古事記』はその結末を多くは語らない。  
〜八上姫は自分の生んだ子を連れて出雲に来たが、
正妻の須勢理姫を怖れて、子を木の俣に差し込んだまま
 にして因幡に帰ったので、その子を木俣神(きまたのかみ)、
また、御井神(みいのかみ)という。〜

「木俣神という神名も、猿田彦の亦の名である
八街の神(やちまたのかみ)を思わせますね」
と語り部。確かに、その暗示とも受け取ることができる。
















by utoutou | 2017-05-13 13:05 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 105 天穂日命の末裔

美作加茂へは、前日、空路東京からまず鳥取市へ入り、
1泊してJR因美線で南下したのだったが、その経路を
辿っていなければ、全国出土の7割は美作からという
土師質陶棺に、あれほど強く思いを巡らせなかったと思う。

因幡から美作へと、また逆に美作から北上して因幡へと、
いずれのルートだったとしても、土師氏族の広がりを
思わせる痕跡の極致に、美作加茂で見た土師質陶棺はあった。



鳥取では↓お約束の砂丘を観光。さらに西へ30㎞離れた岬
・長尾鼻の南にある弥生遺跡・青谷上寺地(あおやかみじち)
遺跡展示館を見学。そして、市内に点在する神社巡りをした。
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鳥取市で参ったのは、売沼神社、白兎神社、土師百井神社、
因幡国一宮・宇倍神社などだったが、もっとも印象深かった
のが、天穂日命神社(鳥取市福井)。地図はこちら↓
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日本一大きい淡水池という湖山池の西に位置する。周辺
 には、その御子神を祀る天日名鳥神社があり一族所縁の地?
天穂日命は、出雲臣と土師氏の祖と伝わる神である。
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天穂日命は、神話では天照御大神の次男とされ、出雲国造家
、出雲大社宮司家である千家氏の祖とされるいっぽう、その
国造交代の際の神火相続式をする神魂神社(島根県松江市)
を創建した神とも伝わる。つまり、天穂日命は「火」の神。

そして、先日参った鳥取
の天穂日命神社には、由緒がこのように記されていた。
(以下要約)
☆古代高草郡の豪族因幡国造氏の氏神を祀る。
☆9世紀頃までの因幡では、最上位の格式にあった。
☆因幡の中心的勢力は、因幡国造氏だった。



因幡国造家の祖でもあったのか、天穂日命。神社境内
には、真新しい天穂日命像が白兎をお伴にして立っていた。
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さて、岡山県北最大規模、美作加茂の万燈山古墳に
埋葬されていた土師質亀甲型陶棺の製作者であり被葬者
もまた、天穂日命を祖とする土師氏の人々だったと思う。
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土師質の陶棺は、土師氏が製作して土師氏の長を葬った。
そして↓万燈山古墳は、土師氏一族の墓陵である…
とは、しかし、どの資料にも記されてはいない。
古墳は加茂町の奥地の墓地に隠されるようにしてあり、
いまは地元老人会でも、被葬者を語る人は少ないという。
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古墳と陶棺が造られた6世紀末、美作の地に
白猪屯倉(しらいのみやけ)という朝廷の直轄領ができた。
そこへ派遣された役人は百済の渡来人かと、前回書いた。
屯倉であれば、陶棺も製作できる規模の大型製鉄炉が
あってもおかしくはないという説も紹介した。

ただし、おそらく役人は役人である。
陶棺を造る窯業の技術者(工人)ではないし、
被葬された「鉄王」でもあり得ないだろうと思うのだ。

そもそも、土師氏とは、埴輪の制作や祭礼に関する職分を
担当する品部だった。垂仁天皇妃・日葉酢姫命の葬儀に
あたって、それまでの慣習だった殉死に替えて、埴土で人型の
埴輪を作って埋葬することを、土師氏の祖先である野見宿禰
が天皇に奏上したことが始まりだと言われている。

そのとき、百人の職工たちが出雲から都に呼ばれた。
つまり、垂仁の時代、出雲に埴輪作りは行われていた。
美作でも、産鉄や窯業は盛んだったと考えるのが自然だ。

美作という国名の起こりは時代降って和銅6(713)年。
それまでは吉備国だったのが、備前・媚中・備後、美作
という4つの地域に分割された。吉備とは、それだけ
歴史が深く、鉄資源が豊富な強国だったわけで、ヤマト
王権が屯倉を置いたのは、その弱体化を図ったためだろう。

そして、美作に土師質・亀甲型・陶棺が誕生した。
わざわざ「・」を付けて区切ったのは、そこに後に
土師部となる「火の一族」の特性を強く感じるからだ。

埴土は『日本書紀』に曰く、スサノオが出雲に来たとき
に乗った船の材質であり、亀は海人族のトーテムであり、
陶棺は、先史時代の家を模した家型埴輪に由来すると思う。

その陶棺は、南方の島々の家屋と同じく高床式である。
天穂日命とは、「火の神とホとヒ」で書いたように
琉球の祖神だったのだなと、加茂町で再確認したのだった。










by utoutou | 2017-05-04 10:01 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 104 サムハラと渡来人

サムハラ神社・奥の院は、
岡山県津山市加茂町の日詰山の中腹にある。その
山頂に築かれた落合城(亦名は百々城、1581年築城)
に、サムハラと刻まれた石碑があったという。
それ以前の謂れは、いまのところ分かっていない。


城址のある日詰山の山頂から、旧名・美作加茂町を一望。
巨大な階段の展望台があったが、登らなくても眺望はよく、
加茂町の南部にあたるここからは、地勢がよく分かった。
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↓こちらは、加茂町歴史民俗資料館にあったジオラマ。
資料館には町随一の万燈山古墳について知るべく訪れた。
赤の矢印は当方の加工で、下のがサムハラ神社のある
日詰山、上が万燈山古墳のある塔中(たっちゅう)集落。
古墳は、町の東を流れる加茂川と、西を流れる倉見川に
挟まれた丘陵の先端に、6世紀後半に築かれた。
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万燈山古墳。
直径24m、高さ4mの円墳。築造された6世紀後半
から7世紀はじめまで22体もの追葬が行われたといい、
南(写真左)に大型横穴式石室の開口部がある。
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美作最大の規模である玄室は、幅2.2m、奥行き6.6m。
傍の説明板によると、天井には巨大な花崗岩を8個使用。
出土品は、金環、勾玉、直刀、鉄鏃、土師器、須恵器、
高杯、祭具、大甕、そして鉄滓など多数。
近くで農作業していた古老は、「これは王の墓」と言った。
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資料館でしばし見とれた、万燈山古墳から出た馬具。
資料館の天井のライトが写り込んでいるが、馬具の
金張りには1400年の歴史時間を感じさせない色艶があった。
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万燈山古墳に葬られた「王」の経済力を物語る出土品の
極め付けがこちらの土師質亀甲型陶棺(6世紀後半)。
石室内部には、石棺(1)、木棺(7)もあったが、
最大の特徴である陶棺(1)には、3体が合葬されていた。
身と蓋は2分割式。18本の足を持つ姿は、まさしく「亀」。
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土師質亀甲型陶棺は、吉備王家の繁栄した古墳時代、
 吉備の東北部である後の美作だけに集中して作られた。
その特殊な事情について、真壁忠彦氏は著書
『古代吉備王国の謎』で、次のように推理した。以下要約。

☆美作には大和王権の屯倉(みやけ、直轄領)があった。
☆中央に直接従属して鉄生産に関わる人々が多かったか。
☆土師式陶棺は、製鉄のための製鉄炉で焼かれたのでは。


美作国の前身は、『日本書紀』が欽明16(555年)
に置かれたと記す白猪(しらい)の屯倉と言われる。
美作が鉄生産に関わる朝廷の直轄領であったことは、
大量の鉄滓が出土していることからも明らかだという。

資料館で見た古墳とたたらの分布図によれば、加茂にも
古墳は24基、たたら遺跡や遺物散布地は125ケ所ある。
屯倉に役人が派遣された、6世紀後半に陶棺は作られた。



資料館に、こんな一文があった。
〜古来、加茂の原動力は鉄と木材だった。
万灯山古墳の被葬者は、鉄を握った首長だった。〜
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その「鉄を握った首長」とは誰だったか…。
白猪屯倉の管理に携わった人物に、百済系渡来人
の白猪臣がいたという。白猪屯倉は複数ヶ所あったとも。

もし陶棺が作られたこの加茂の地が大和朝廷の直轄領で、
渡来人がいたとするなら、彼らがサムハラの護符を定着
させたとも考えられるのではないだろうか。

古代韓国語で
「サム」は「生きる」、「ハラ」は「しなさい」。
「サムハラ」は「生きなさい」の意味になるという。






















by utoutou | 2017-04-30 20:22 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)