カテゴリ:瀬織津姫( 125 )

六甲山と瀬織津姫 126 久高島のマリア

中の御嶽。別名・中森の御嶽(ななかむいのうたき)。
同じ名前の御嶽は、本島の玉城にも2ヶ所ある。
ひとつは玉城垣花に、もうひとつは玉城玉城に。

国之根ウラワシナデルワノ御イベ(琉球国由来記)。
その意味は、「国の根であり、
浦々を襲う(支配する)王の霊力が宿る御嶽」。
古代天孫氏王朝と英祖王統の痕跡を残す聖地である。

先日、沖縄タイムスに「CIA、復帰前にアジア拠点
の記事があり、キャンプ知念当時の玉城台地の写真
が載っていたが、その中にも中森の御嶽は見て取れる。
※過去のブログ記事は→「CIAが封印した垣花の御嶽

以前から、語り部は言っていた。
「玉城と久高島にある中森の御嶽は繋がっている。
どちらも琉球王朝以前からあった御嶽でしょう」
久高島の中森一帯はフボー御嶽のある祭祀的中心地
だが、御先(古層)の御嶽は未だ謎に包まれている。

「近くには、他にも隠された御嶽があります」
「やはり龍宮や天孫氏に関係する御嶽なんですか?」
改めて聞くまでもないが、語り部は答えた。
「もちろん、龍宮にも龍宮の珠にも関係があります。
豊玉姫にも神功皇后にも関係すると思います」
そのとき、ちょっとひらめくものがあり、聞いた。
「マリア像が祀られていた御嶽のことでは?」
「……」
語り部からの回答はなかった。



ある島の神人は伊敷浜に漂着したマリア像を拾い、
フボー御嶽に近い名もない御嶽に祀った。話を
聞いた人々はその像を「久高島のマリア」と呼んだ。
※過去のブログ記事は→「御嶽のマリア
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さて、3回目に龍宮に入ったのは今年5月。
滴り落ちた水で地面が滑って手足が泥だらけになり、
拝所である突き当たりの岩に辿り着く直前で力尽きた。

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疲労困憊、「もう来られないかもしれません」と
挨拶したそのとき、画面の右上に白い珠が出現した。
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その後、珠がゆらゆら現れる現象は40回に及んだ。
ときには二手に分かれたり棒状になったり、さながら
♪龍宮城に来てみれば、絵にも描けない美しさ♪

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このあたりまでの画像を見て、語り部は言った。
「珠の周りは、夜光貝の輝きに似ていますね」

しかし、↓次の画像では色彩こそ貝に見えるものの、
形は、もはや珠には見えず、その意見は一転した。
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「これは、もう珠というより卵のようですね。
イラブーつまり龍神の産卵でしょう」と…。
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私はもしや、龍神誕生のドラマを見せられたのか。
生物進化をざっくり言えば、人類の祖先は魚類だ。
その次段階に鰐・蛇・亀らの両生類・爬虫類がいる。

豊玉姫は海神の住む海神の宮で、八尋鰐(古事記、
日本書紀では龍)となりウガヤフキアエズを生んだ。
神話上では、龍宮こそがヤマト王権の根源である。
それを思うと、「琉球は龍宮」と語り伝えたという
神女おばあのウメさんのことが、しきりと偲ばれる。

実はいま「久高島のマリア」は他所で祀られている。
居るべき場所が見つかったような、自然の流れで。

では本来、島の古層に沈む御嶽に坐す女神とは?
昨秋、語り部は「龍神は龍宮の奥で眠っている」と、
 また「綺麗な女の方が待っている」と語っていたが…。


by utoutou | 2017-08-19 14:35 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 125 龍宮に通う

久高島には、龍神の住む「龍宮」があるという。
 1周8㎞という薩摩芋のような形の島。北部は幅狭く、 
東から西海岸までの距離は約500mあるかないかだ
が、地下空間がトンネル状に貫かれており、実際に
昔、歩いた人もいると聞いたことがある。ともかく
神の島は文字通り奥深く、歴史的にも謎めいている。

確かに古くからあるという御嶽はガマを伴っている。
古代に比べると空間は狭まっていると思われるが、
ガマは単体ではなく、連結していたという話もある。

実は、イラブーは島の内陸で何度も目撃されている。
地表にはガマに通じる穴がいくつもあり、そこから
出て来るというから、現実的にもまさに「龍の島」。



久高島・徳仁港から見るイラブーガマ付近。
ここに泳ぎ着くが、さらに「龍脈」があるらしい。
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さて、昨年('16年)の10月末、
島で最大の「龍宮」と密かに語られるガマに潜った。
その経緯は「豊玉姫たちの船」に書いた(↓写真も再掲)
が、ガマの行き止まりの岩の奥から煙のようなものが
流れ出て来て、その姿はあたかも龍神のように見えた。
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2回目に潜ったのは、その約1ヶ月後の11月のことだ。
外部からそうとは見えない地面の穴から、ほぼ直角に
降りていき、最奥部に向かって珊瑚礁の岩岩を登っては
降り降りては登り、懐中電灯の明かりと勘を頼りに進む。

地面は決して平たくはなく、天井と同じ形状のためか、
時折、浮遊感に襲われて失神しそうになるが、ガマの
内部は人の立てる高さがあることは、既に知っている。


身長164㎝の私が立ち、見上げるほどの三角岩が拝所。
今回はスマホのカメラを構えると、白い珠が写り込んだ。
肉眼では見えず、次元の割れ目から何かが漏れ出す印象。
ロウソクには点火しておらず、スマホのフラッシュのみで。
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約10分の滞在中、白い珠は14回も「出現」した。
出るからシャッターを切るのか、その逆なのか…。
後者という気もするが、一体どんな現象なのだろう。
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語り部には那覇で会い、その様子を聞いてもらう。
1回目の後は、「奥で龍神が眠っている」との感想だった。
2回目の後は、「何かを知らせたがっています」と言う。
「私にですか? 誰が?」と聞くと、「綺麗な女の方」と。


そしてまた、1回目と同じニュアンスを繰り返した。
「龍宮の奥に隠された場所がある。中の御嶽でしょう」
通称が「中の御嶽」で、「中森(なかむい)」とも。
『琉球国由来記』には、「中森ノ御嶽」と記されている。



なんとそこに、私は「龍宮」を出た足で訪れていた。
「龍宮」から約3㎞、この地下が「龍神」の住処なのか。
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by utoutou | 2017-08-15 16:48 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 124 神功皇后の珠

廣田神社の霊宝「劔珠」については、参拝のときに社務所で
由緒を頂戴していた(イラストも拝借)が、 HPにも詳しい。

曰く、
これは『日本書紀』仲哀天皇2年条の事績にちなむ、と。
天皇が豊浦(とゆら)の海で得られた水晶の如意珠には、
玉の中に剣の形が現れており、この宝珠を得てからの神功
皇后は遠征で連勝。珠には勝利をもたらす神通力があったと。
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↑イラストの下には、右から「日本第壱如意宝珠」と銘記。
劔珠は廣田神社の摂社・浜南宮(西宮神社境内)に祀られ
ていたが、実際に盗難事件と返還が繰り返されたためか、
社殿下には非常の災難から護るための井戸があったという。
宝珠は、しばしば狙われた…?



西宮神社の境内。
浜南宮はこの先の左にある。西宮神社本殿は南面しているが、
浜南宮は北面し…、つまり廣田神社に向いて鎮座している。
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さて、この劔珠こそが「琉球の珠だ」と、
久高島の始祖・ファガナシーは言外に告げたのだったが、
その神託に至るまでに、思えばいくつかの伏線があった。

ひとつは今年、九州へ行き志賀海神社にいたときのこと。
境内をブラついていると、語り部から電話があった。

「若い頃に受けたあるメッセージを、いま思い出しました。
神功皇后が安曇磯良から授かった珠は3つあったのです」
「へえ、そうですか。潮満玉・潮干玉の一対ではなく…?」
「はい、神功皇后は残るひとつの珠を持ち帰ったと思います」
「で、3つの珠は、元々どこにあったのですか?」
「琉球、ミントングスクにです」
「つまり、宝珠は天孫氏王朝が持っていたものだったと…?」

ちなみに、『琉球国由来記』など古伝に登場する
「稲作の祖・天祖(アマス)のアマミツとは安曇磯良のこと」
と、語り部はかねてから言っていることは以前にも書いた。
つまり、屋号の天祖とは綿津見神を祖とする安曇族である。

あのとき、私は安曇磯良にゆかりの↓亀石遥拝所にいた。
三韓遠征の折、正面の打昇浜から亀に乗った志賀大明神
が現れて、干珠・満珠を授けたという、神功皇后伝承の地。


私は旅の細かな計画を語り部に話したことはないが、まるで
 居場所を見透かすように伝えてくるのが、神通力のすごさ…。
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ふたつ目に思い出すのは、
ファガナシーの実家・ミントン家の伝承だ。古来、
アマミキヨ直系・ミントン家に嫁ぐのは「天祖の女」と
言われているという。天祖は天孫氏王朝の末裔とされる。

その天祖の神事を継いだ明治生まれの神女・ウメさんは、
生前、まだ少年だった語り部にこんなことを言ったそうだ。
「久高島には天祖・人祖・皇祖がいて、ヤマトへ上って行った」

天祖・人祖・皇祖とは久高島の三・元家(むーとぅやー)
にあたると私は考えるが、その三元家を象徴するのが、
イザイホーで重用される聖樹・アザカ(長実ボチョウジ)。
実が赤・白・黄色で、久高島では「イザイ花」と呼ばれる。


イザイホーの終盤、神女就任の儀式を終えたナンチュ(神女)
たちは、赤・白・黄でできた紙のイザイ花を髪に飾った。
それは「太陽・月・星」の色。そしてまた、
「三」を崇めるアマミキヨ族(海人族)の一員となった証。
「3色は各元家が持つ宝珠の色」だと、島の古老から聞いた。
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3つ目の伏線は、最近、「久高島の珠」に出会ったことだ。
六甲山との同時進行で、島の洞穴(ガマ)に密かに通っていた。
潜ったのは3回。そこは古来、「竜宮」と呼ばれた洞窟で、
龍神ことイラブーが寄り来る洞穴と繋がっていたと思われる。

その試みは、「珠は龍より出る」ことを知るための探検。
久高島の龍宮で見た珠は白かった。


ところで、神功にもたらされた宝珠が3つあるとして…。
それがなぜ、一対と1個に分離されてしまったのだろうか?
その背景には、記紀が成立する前夜の7世紀末、瀬戸内海
の支配権を巡る「ヤマトvs.海人族」の対立があったと思う。
「三珠を揃える」ことが、勝戦の鍵を握っていたのではないか。


by utoutou | 2017-08-10 15:14 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 123 琉球の珠

西宮神社(西宮市社家町)に参ったのは5月末のことだ。

2ヶ月以上も前になるが、足を運んだ理由は、アマミキヨ
の末裔にしてミントン家の一人娘・ファガナシーからの
託宣がなんと突然、語り部に舞い降りてきたからだ。
語り部を通して、私への伝言というかたちだった。
※ファガナシーに関する以前の記事は、こちら

久高島の始祖(中興の祖というほうがふさわしいが…)
と言われるファガナシーは、英祖王統時代(13世紀)の神女。
玉城から従兄弟であったシラタルとふたりで久高島に渡り、
その霊力によりイザイホーの祭りを再興したとの伝承がある。

西宮へ飛ぶ前日、私は那覇で語り部と会っていた。
もともと、旅は東京〜那覇〜関西〜東京の予定だったが、
関西では六甲山のどこを歩こうかとは、考えていなかった。

それもお見通しなのか、ファガナシーは語り部に告げた。
「私はミントンのイナグング(一人娘)。彼女にこれを伝えて。
六甲山をいくら探しても琉球の珠は見つからない。
いままで行ったことのない場所へ行くと見つかるでしょう」

いや、本当に驚いた。神秘現象に、私はあまり縁がない。
そんな私にも不思議とひらめくときがある。あのときも、
「それなら西宮神社に行ってみようか…」と、すぐに思った。


西宮神社へは、阪急西宮駅南口から5分ほど歩いて行った。
那覇空港から神戸空港に着き、そのまま直行して、午後1時。
海側の南門から、いわば六甲山に向かうようにして境内に入る。
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夏を思わせる日照りの中、境内の広々とした松林を歩く。
西宮港の御前浜公園あたりまでは、1.5㎞の距離があるというが、
神功皇后の時代(4C末)もしかり、中世までここは浜辺だった。
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まず、直進して左手に鎮座していたのは、沖恵比酒神社。
通称「あらえびすさん」で明治初期に荒戎町から遷座したという。
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しばし境内を歩き、参道を左に折れると、南宮神社が鎮座。
社殿前の階段、社を囲む玉垣など、立派なたたずまい。
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そうだったのか…と、説明板を読んでうなづいた。
南宮神社は西宮神社の摂社ではなく、廣田神社の摂社。 
廣田神社の境外摂社が、西宮神社の境内に鎮座しているのだ。

〜南宮神社
祭神 豊玉姫神 市杵島姫神 大山咋神 葉山姫神
当社は西宮市大社町に鎮座する廣田神社摂社で、
「浜南宮」とも称されました。平安時代には都の貴族が参詣し、
「梁塵秘抄」には「濱の南宮は、如意や宝珠の玉を持ち」と
歌われています。神功皇后が豊浦沖で得られたという廣田
神社の宝物「剣珠」は、もと南宮に納められていました。〜
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これだ…と、日照りのなかで日傘もなく、しばし佇んだ。
廣田神社の霊宝が神功皇后の得た「剣珠」だとは知っていた。
が、本来この浜南宮に納められていたとは知らなかった。

神託、そして参拝から時を経たいま、これが「琉球の珠」
だという確信めいたものが、私にもようやく芽生えてきた…。




by utoutou | 2017-08-07 14:18 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 122 猿田彦の子午線

「事代主命は猿田彦神」と悟ったのは正解だったらしい。
前回の記事を読んだ語り部から、連絡があった。

「やはりそうなりましたね。事代主命は夷(えびす)神で、
猿田彦神で、大綿津見神で、塩土老翁でしょうね。また、
武庫の浦、六甲山(むこのやま)の地主神だったと思います」
「猿田彦神はアマミキヨ、やはり琉球を出た海人族は、
ここ六甲山まで北上していたことになりますかね」

ということは…と、
改めて廣田神社と西宮神社の関係に思いをはせた。
例えば、伊勢において猿田彦神と瀬織津姫が一対神で
あったように、古代、海人族の勢力圏だった六甲の地でも
その神観念は、決して変わることはなかったはずだ。
記紀により、ひとり神としての天照大神が誕生するまでは。

よって、廣田神社に瀬織津姫が祀られるならば、
猿田彦神を陰陽一対神として祀られねばならなかった。
瀬織津姫はヒメ(日女)神、猿田彦はヒコ(日子)神だからだ。



西宮神社(西宮市大社町)本殿 ※'17年5月に参拝。
由緒によれば、第一殿 西宮大神、第二殿 天照大神、
第三殿 須佐之男大神となっている。
西宮大神=夷神=戎神=後のえべッさん=猿田彦神か。
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西宮神社は創祀当時、廣田神社の境外摂社だったという。
廣田神社境内で見た古代地図によると、下の赤丸が西宮神社、
上の赤丸が廣田神社(赤丸は私の加工)、その上が甲山、
西宮神社の旧名は浜南宮。廣田神社の前浜に鎮座していた。
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思えば、廣田神社の神奈備山で神呪寺のある甲山にも、
猿田彦神こと白髭大明神が祀られていた。登山口に
立つ鳥居の横。「なぜここに?」と思ったが、地主神なら当然。
また、神呪寺の鎮守は弁財天(瀬織津姫)である。傍に、
「善女竜王」の小祠があった。こちらは空海に所縁の深い水の神。
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西宮神社に祀られる西宮大神こと夷神が猿田彦神ならば、
オセロゲームのコマが次々と裏返しになるかのように、
かつての気づきの意味も深まっていくようだ。他でもない、
六甲山と瀬織津姫をめぐる「東経135度の子午線」の話。


↓画像は西脇市役所サイトから借用した「日本のへそ」
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向津姫(瀬織津姫)が、北極星(天御中主神)を崇め、
日々昇りくる日神に向かって祭祀したはずの聖地とは、
東経135度の子午線(南北線)と東西軸の交差点で、
そこには6社の神社や磐座があると、私は考えた。

保久良神社(神戸市東灘区)、
芦屋神社(芦屋市東芦屋町)、越木岩神社(西宮市甑岩町)
廣田神社(西宮市大社町)六甲比命神社(神戸市灘区)
本住吉神社(神戸市中央区)、そして、
六甲山系からさらに北へと進めば、籠神社の奥宮
である真名井神社(京都府宮津市)も鎮座している。
祭神は、豊受大神(天御中主神)である。

その神社ごとに一対神としての猿田彦神が隠れている…と
すれば、「女神の子午線」は「猿田彦の子午線」ともなるだろう。
向津姫たちは朝になると、闇夜を割いて東方から、猿の目
のように赤々と賑々しく昇る日神を祀ったのだと思う。

その祭祀構造は、「イザイホーの子午線」とまったく同じだ。
祭場の北に設えた七つ屋で、天御中主神(北ぬ方星)と、
アカララキ(瀬織津姫)の守護のもと夜通し潔斎して、
神からの霊力を受けた島の女性たちは、やがて東の空から
赤々と昇る日神を祀る神女(日巫女)として転生したのだ。

前夕、イザイホーが始まる直前、女性たちはノロ家の
庭に飛び出し、時計まわりに7回回ったという。
「エーファイ、エーファイ」と掛け声を発しながら。
エーファイとは「神の元へ急ごう」の意味だと私は思うが、
その神とは猿田彦神=夷(えびす)神=蛭子(えびす)神。

大和神話では、伊邪那美が右回りに回って生んだ最初の子は、
不具の子「蛭子(ひるこ)」として、葦舟で海に流された。
イザイホーとは、大王としての夷(えびす)神でありながら、
蛭子(ひるこ)として流され消去されてしまった
猿田彦神を復活させる秘祭だったと、いまになって分かる。




by utoutou | 2017-08-02 17:53 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 121 猿田彦が隠れている

神功皇后への託宣により長田神社(神戸市長田)に
祀られた事代主命は「出雲の事代主命」と決まっている
と思ういっぽう、語り部の「長田神社には出雲の事代主命と
 は違う神が視える」との見立てが気になり、咀嚼してみた。


まず、「そう言えば…」と思い当たったのが、長田神社
境内の西側に鎮座する蛭子社(左)と出雲大社(右)。
出雲「国譲り物語」の事代主命が七福神の一神として祀られる。
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二社の間に立つ大楠を背景に、満面の笑みを浮かべる
福神としての大黒さまと恵比寿さま。蛭子社の案内板に
以下の説明があった。
〜御神徳 開運招福・商売繁盛長田大神で
大黒さんの第一子の神「えびす・ひるこの神」と称え、
釣竿を持ち釣竿を持ち鯛を抱えた姿で福を招き授ける神。
七福神の一神と仰がれる 〜 ※'14年4月に撮影。
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確かに語り部の言うように、出雲の事代主命が恵比寿さま
として祀られているのだから、長田神社の本殿に祀られる
事代主命には別の神像…もっと本来的で、秘された神像が
ありそうだと悶々とすること数日、「そうだった…」と、改めて
思い出したのが、昨年の当ブログ記事「三輪山は古代の大和」。
出雲は出雲でも、大和地方にあった出雲の話である。

大神神社(奈良県桜井市)の摂社・狭井神社の北(
三輪山の東部)には、古来、出雲という名の地域があり、
出雲神族の神々・サイノカミ三神(クナト神・猿田彦大神
・幸姫命)が祀られていたという伝承を紹介したところ、
語り部はこう言ったのだった。
「サイノカミや狭井神社のサイとは、斉のことである」

そんな経緯で、私は書いた。
〜古代出雲とは、島根県の出雲だけを指すのではない。
その領土は、中国雲南省、タイ・ベトナムとの国境
から朝鮮半島・日本列島を含む広大なものだったと。
それが斉、言い換えれば「倭」である。〜と。

「倭」をさらに言い換えると、「夷(えびす)」である。
中華思想の視点から大陸の辺境に住む夷狄(いてき、異民族)
と蔑称で呼ばれた東夷、北狄、四戎、南蛮といった人々。
その「夷」の国の頂点に立っていた大王とは、猿田彦神だった。

『日本書紀』には、三輪山の事代主命についての一書がある。
〜事代主命が八尋熊鰐となって、勢夜陀多良比売に通って
できた娘が、神武天皇の妃になった媛踏鞴五十鈴姫 〜だと。

その神の亦の名こそは、後に我が国で「えびすさん」へ
と呼称が変化していくことになる事代主神こと猿田彦大神。
沖縄久高島では、「ニライ大主」と呼ばれた龍神。
そしてまた、大綿津見神でありアマミキヨである。


そしていま、ようやく思いがけない気づきに至った。
廣田神社(西宮市大社町)の摂社だった ↓ 西宮神社が
「えびす宮」と呼ばれる理由は、
猿田彦神こと事代主命が隠れているからなのではないか。
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by utoutou | 2017-07-30 12:40 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 120 神功皇后の新羅遠征

契丹古伝』は、新羅は熊襲が興した国だと記している。
それで分かったのが、記紀にある神功皇后の新羅遠征の段。
香椎宮にいて、熊襲征伐についての神意を仰ぐ仲哀天皇に、
神がかった神功皇后の伝えた内容が、これまで腑に落ちなかった。

『古事記』では、天皇が熊襲征伐について是非を問うた
その意図を、まるで無視するかのように唐突な神託が下る。
「西の方に国がある。金銀をはじめとして目を輝かせるような
数々の珍しい宝物がある。私はいま、おまえにその国を与え
       ようと思う」などと、新羅への遠征を進言するのである。       

それに比べると、『日本書紀』はもう少し筋が通っている。
神は「熊襲の国は戦うには足りない」と神は告げ、新羅には
金銀財宝が豊富にあることを伝え、自身の手厚い祭祀を要求し、
「ならば熊襲も新羅も血を流すことなく服従するだろう」と宣った。

(九州にある)熊襲の国か、(半島にある)新羅の国か…。
あたかも二択問題の答えのような神託を不自然に思っていた
のだったが、新羅が熊襲の興した国ならば納得はできる。
三韓征伐は史実か否かという点はさて置き、ともかく、
富のあるほうの熊襲(新羅)を撃てと、神は説いたことになる。



『國史畫帖 大和桜』より「三韓征伐の図』。
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神託に従わなかった仲哀天皇に、神は冷酷に告げた。
「汝は国を保てないであろう」(日本書紀)
「おまえはさっさと黄泉の国へ行くがよい」(古事記)


天皇を死に至らしめた神とは、他でもない瀬織津姫。
新羅遠征から凱旋帰還した神功皇后によって、
↓廣田神社(西宮市大社町)に祀られることになった
 撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(天照大御神荒魂)である。
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そんなあれこれを考えると、
天照大御神荒御魂は、国を外難から守護するだけではない、
というか相反する神徳を併せ持っていることが分かる。

熊襲と新羅を服属させたいなら我をよく祀れと宣り、
それに背いた仲哀天皇に祟り、ついに死に至らしめた神、
その託宣神・撞賢木厳御魂天疎向津媛命とは、
熊襲と新羅の民が崇めた女神ということになるのだろう。
もっと言えば、アジアの南原にいた先住民・クマソの崇めた神。

瀬織津姫を私たちはいま、「蝦夷の国の女神」と呼ぶが、
元を正せば、大陸の「夷(えびす)の国の女神」だった。

新羅遠征から凱旋した神功皇后は、その神を手厚く祀った。
あるいは、記紀編纂者は手厚く祀る神話を作り上げた。
なぜなら女神は藤原不比等にとっての祟り神だったからだ。



ところで、新羅遠征をめぐっては、他にも「祟り神」がいた。
『日本書紀』に「祟る所の神」として記されているのは…
「日向国の橘小門の水底にいて、水葉も稚に出で居る神、
名は表筒男、中筒男、底筒男の神…」↓住吉神社の三神である。
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そして、「尾田の吾田節の淡郡に居る神…」。一説には、
生田神社(神戸市中央区)に祀られる稚日女命と言われる。

もう一柱が、「天事代虚事代玉籤入彦厳之事代神」。
長田神社(神戸市長田区)に祀られる出雲の事代主神らしい。

事代主神については、国獲り神話に登場する出雲の神が何故?
と、かねがね思っていたが、語り部は意味深に言った。
「どうも、出雲の事代主とは違う神という気がします。
 そもそも、長田神社の元宮はどこにあったのでしょう?」






by utoutou | 2017-07-22 14:43 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 119 新羅王は琉球で生まれた

400年前に新羅から来たという難破船が接岸したため、
その名がついた奥武島の聖地・御新羅(ミシラギ)。
「難破船はどこへ向かおうとしていたのか?」という問い
に対して、難破船の伝承は答えてくれることはないが、
古来、朝鮮半島と琉球を往来する海路はあったようだ。



奥武島観音堂から至近の距離に、タカラ城(グスク)
という創祀年代がまったく不明の御嶽がある。
語り部によれば、「タカラ=多加羅」。つまり、加羅諸国
の人々が渡来した痕跡ではないかという。※'17年2月撮影。
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集落の一角に埋もれるようにあるタカラ城の御嶽。
威部(いび)の傍の表示には「Takaragusuku Tomb(墓)」
と英字も。それ以上の解説は『奥武島誌』にも記載がないため、
逆に、琉球と新羅の間にあるかもしれない秘史に興味が湧く。
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ところで、「新羅第四代の王・脱解(57〜87年)は琉球
で生まれた」と記したのは『契丹古伝』訳者の浜名寛祐氏。
脱解王の話は、その著の第十八章「五原以前の支那原住種族」
にある「クマソ」を、「脱解」の項の前段として捉えている。

(要約)
☆(大陸の)五原にいた先住民のうち南原のクマソは
 新羅三姓(朴金昔)の祖。卵生神話があり鳥人と呼ばれる。
☆先住民はよく服順したが、クマソは従わなかった。
☆クマソは難波…つまり琉球の那覇を経て、大隈国の
宇豆、筑紫を通り、遂に辰藩(=新羅)に侵入した。

新羅はクマソの興した国であるというのだ。そして、
『三国史記 新羅本紀』を引き、脱解の生誕へと訳文を繋いだ。

〜 脱解は多婆那国の所生なり。
その国は倭国の東北一千里にあり。〜

この一文を解して、脱解王の所生を次のように記した。

(要約)
☆『三国史』に云う脱解の生まれた「多婆那国」を、日本の学者
は、丹波や但馬や肥後の玉名と解しているが、古代を契丹古伝
の如く大観すれば、それは台湾を含めた琉球でなくてはならない。
☆「倭」は我が日本だけでなく、遠く東シナ海にも存在した。
☆「倭の東北一千里」とは、「委の東北一千里」のことである。
「委」は「越」の古名なので、「多婆那国」とは琉球のことである。


「新羅人が九州に渡って熊襲になった」との説はあるが、
  浜名説はその逆で、南原にいた熊襲が新羅入りしたという。
「では、南原とはどこか?」には詳しい言及はないのだが…。



富山県作成の「逆さ地図」を真似て、Googleマップ
を(アバウトだが)↓ 逆さ地図にしてみると、
大陸と日本列島と琉球列島の位置関係がよく分かる。

繋がった眉毛のような日本列島と奄美・琉球諸島は、
あたかも東シナ海という内海の淵に立地しているようだ。

赤い矢印が沖縄本島。朝鮮半島東南部にあった新羅を、
例えば南方に向け船出すると、常に島々が見えるという。
船乗りの視界から初めて陸地が見えなくなるのが、沖縄本島を
離れてからだそうだ。本島南端の喜屋武岬の近海を離れると、
次に視界に入る宮古諸島までの距離は、約200mile(320㎞)。

南進北進を問わず、船乗りの航海術が試される海域と聞く。
黒潮やその反流や季節風に抗しきれなければ、「内海」から
太平洋へと押し流されて、奥武島や玉城に漂着することになる。
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奥武島の橋にかかるモニュメントのハーリー船。
古代人は、刳り船か葦舟かで大陸と島々とを往来していた。
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by utoutou | 2017-07-17 10:55 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 118 奥武島の御新羅(ミシラギ)

玉城城とレイラインの話は、思えば4年前に始めた
当ブログの初回に、「太陽の道と貝の道」として書いた。
アマミキヨが築いたという玉城城とレイラインの関係が
分かれば、琉球の歴史の一端は紐解けるか…と考えていた。

先月の沖縄旅でも玉城城に登り、一の郭の前に立って
玉城台地(現在は琉球ゴルフ倶楽部のコース)を見渡した。


カメラ視線の真っ直ぐ先から、夏至の太陽が昇るという。
↓稜線を描く山の麓に、玉城の神女オバアが「琉球最古に近い」
と言った「垣花の御嶽」が、またその1㎞先に垣花城址がある。
夏至の朝日は2点の「垣花」を貫いて玉城城の一の郭に届く。
それはまた、垣花城(照城之嶽)と玉城城という2点の
「アガル御イベ・ツレル御イベ(=東方の御嶽)」を繋ぐ。
語り部は、「アカル姫はアガルイの御嶽にいる」と言った。


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さて、
垣花城跡〜垣花御嶽〜玉城城を通る「アカル姫のレイライン」。
その先(西南の先端)は、奥武島(南城市玉城奥武)である。
奥武島から撮った写真の東北に、5㎞離れた玉城城の城壁が写る。
奥武島(南)と玉城(北)を結ぶ橋(60m)の奥武島側から撮影。
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ミシラギは、漢字で表記すると「御新羅(みしらぎ)」。
標識に 〜観音堂由来の難破船を繋いだ岩〜 と、短い
説明があるように、奥武観音堂ができるきっかけとなった
400年前の難破船伝承の残る地で、以来、拝所となっている。


「新羅から来た船」は、難破して奥武島に辿り着いた後、
↓防波堤の右端近くの岩に船を繋ぎ、避難していたという。
一帯は志堅原(しけんばる)集落。船乗りたちは、滞在中に
使った川泉に「仁川」と命名。現在も「じんがー」と呼ばれる。
集落の人々の協力で船の修復も終わり、やがて帰国した一行は、
その恩に報い、琉球王府を通じて純金の観音像を贈ってきた。
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「新羅」から到来した観音様を安置する奥武島観音堂。
ハーリー(海神祭)前日、航海安全などを祈願するのが恒例。
コンクリート製の鳥居には三日月の彫刻。'17年2月の撮影。
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「新羅」製の観音像は高さ24㎝ほどの大きさだったという。
蓮の上に乗り、左手に糸玉、右手に糸巻きを持っていた。
それが今次の戦乱で失われてしまったため、終戦後、
京都から取り寄せたのが ↓こちら。陶製の楊柳観音という。
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『奥武島誌』('11年、奥武区自治会発行)は、しかし、
「漂着船は新羅から来た」という伝承には、やや懐疑的だ。
その理由とは…。以下、記事を要約。

☆漂着した年代(※1615年頃)は古老たちの推測であり、
漂着船の国籍(中国か韓国か?)を含めて調査研究が必要。
☆ミシラギとの関連が伝わる「新羅」は、西暦356年から
朝鮮半島東部にあった国で、935年に滅亡しているため、
「新羅から来た」にしては、時代的に700年ほどズレがある。


私はこう推理する。難破船に乗っていた一行は、
自ら「新羅人の末裔」と名乗っていたのではないだろうか。
いっぽう、400年前の奥武島の人々は、そもそも、
新羅に対して親しみの感情を抱いていたのではなかったか。

各地のレイラインには日置族の関与があったと言われる。
玉城城のレイラインも然りで、その存在があったと考える。

日置族の本拠は南薩摩。熊襲・隼人と故地を一にする。
『契丹古伝』を和訳した浜名寛祐氏は、こう記している。
「新羅は熊襲が興した国である」。そして、
「新羅第四代の王・脱解(だっかい)は琉球で生まれた」と。

古来、琉球と深い関係があり、もしその伝承が残っていたと
 するなら、「新羅」をめぐる年代のズレは問題にならないし、
 新羅に、わざわざ「御(み)」を冠した拝所名もうなずける。





by utoutou | 2017-07-13 12:57 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 117 アカル姫のレイライン

久高島八月祭り(テーラーガーミ)で男たちが集落をお祓い
しつつ歌う神歌『赤椀の世直し(ゆのーし)』。世直しとは
神に神酒(ウンサク)を供えるための木のお椀を指すというが、
歌詞にあるその世直しの出所が、私には長年の謎だった。
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〜サウルカラクダユル ヘイ(サウルから下った)
アカワンヌユナワシ ヘイ(赤碗の世直し)
ヤマトカラクダユル ヘイ(ヤマトから下った)
クルワンヌユナワシ ヘイ(黒碗の世直し)〜
(※全歌詞と祭りのレポートは こちら に)

さあ、世直し(酒椀)に神酒を注いでお供えしよう…と。
その世直しが下された元とは、久高島に渡来した先祖の故郷
らしいが、「サウル」と「大和」とは一体どこのことか?

祭りで歌った経験のあるオジイは言った。
「ソウルは中国、ヤマトは大和(本土)のことだよ」と。

ところが、この度、語り部が視た世直しは違った。
「いま初めて視ました。赤椀は赤い琥珀でできている。
琥珀だから、光線によって黒椀にも見えたわけですよ」

一瞬、息を飲んだほど、意外な話だ。
「赤椀と黒椀の2種類があるわけじゃなかったのか…」
語り部も、自ら霊視したものに少し興奮しているようだ。
「渡来の歴史を隠して神を祀っていたのでしょうね…」


赤い琥珀で作られた、世直し。
そう聞いて思い出すのは、何年か前に観た
『草原の王朝〜契丹〜美しき3人のブリンセス』展である。
印象に残った遺物に、複数の赤い琥珀の装身具があった。


↓ 図録から11世紀前半の王の首飾り写真を拝借。
解説文によれば、龍や魚や蓮華を浮った珠を繋いだもの。
赤琥珀を好む傾向は「中原」の民、つまり漢民族にはなく、
それを珍重するのは契丹の王族の特徴ということだ。  
また、赤琥珀は契丹領内の産物とも考えられるらしい。
この材質で作られたのが、赤椀の世直しか…。

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世直しがいつ琉球にもたらさせたものかは分からないが、
赤や朱は古代人にとって神聖な色だったという。特に
中原の周縁に住む倭人にとっては。漢民族から東夷など
と呼ばれた、ユーラシア大陸の先住民たちの立てた国は、
契丹古伝によれば東大神族(しうから)。その民は赤を珍重した。

いっぽう、アカル姫は太陽を思わせる赤い瑪瑙玉の化身。
その母は昼寝して陽光にホトを射されて妊み、赤玉を生んだ。

それを思えば、赤椀はアカル姫の象徴として相応しい。
アカル姫が東大神族の流れにいるならば、あの神歌の
「ヤマト」とは、東大神族=倭(やまと)とも受け取れる。

「ところで…」と、語り部は言った。
「アカル姫の霊は東方(あがるい)の御嶽にいるようです。
久高島のアカララキ以外にも、同じ名の御嶽はありますか?」

しばらく考えて、「あーっ」と思いついたのが玉城城である。
玉城城の城内にある「天つぎ雨つぎ」(※由来記では雨粒天次)。
「その神名は、アガル御イベ・ツレル御イベといいます。
地元では、アガルイの御嶽と呼ばれることもある」



という訳で、翌日さっそく玉城城(南城市玉城)に登った。
この日は珍しく一の郭までに2組の見学客とすれ違った。
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一の郭の丸い穴から城跡に入ると火の神(写真右)がある。
夏至の朝日は一の郭を通り、この香炉を射すと伝わる。
石積みの中が「天つぎ雨つぎ」こと「アガルイの御嶽」だ。
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いつものように一の郭から琉球ゴルフ倶楽部を見通す。
夏至の朝日を見ようと登ったときは、あいにくの雨だった
…などと思い出していると、ふと、あることに気がついた。
あの山の先に、垣花城(かきのはなぐすく)の城跡がある。
城内の御嶽も、やはり「アガルイの御嶽」という。
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垣花は、古くは和名垣花と呼ばれたという。
和名とは、大陸から渡来して大和古代豪族となる和邇氏の
根拠地だったろうと、語り部がかねてから言う集落である。

玉城城と垣花城にある同じ神名の「アガルイの御嶽」。
2ヶ所は、まさしく夏至の朝日のレイライン上にある。
つまり「アカル姫のレイライン」なのか…?













by utoutou | 2017-07-09 12:57 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)