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六甲山と瀬織津姫 138 聖徳太子〈その8〉

10/13(金)夜、NHK『歴史秘話ヒストリア』で放送
 の『聖徳太子の棺 伝説のその先へ』を偶然観て驚いた。

数日前に訪れた叡福寺(大阪府南河内郡太子町)を映す
VTRに井上あさひアナがいた。(↓テレビ画面を撮影)
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私が訪れた日の叡福寺(聖徳皇太子磯長御廟)。
晴天だったが、町の循環バスから降り立ったのは唯一人。
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山号でもある磯長山(しながさん)に太子の墓がある。
直径50m余の丸い古墳だと↓オンエアで全貌を知った。
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叡福寺境内から石段を登り、二天門を通ると太子廟がある。
宮内庁による案内板(推古天皇皇太子聖徳太子 磯長墓)も。
左に菊紋、手前に賽銭箱とお香立て。お線香は200円だった。
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墳丘の高さは19mとか。地形に沿うように御廟が立つ。
二重の結界石が聖域を取り巻いている。内側は空海作とか。
御廟正面の扉から10m石段を上がると横穴式石室とか。
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御廟の正面に「三骨一廟」を表す彫刻が掲げられていた。
聖徳太子、妃、母である皇后、3人が葬られている。
622年に相次いで逝去。死因は伝染病か暗殺かと言われる。
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↓番組でCG再現された玄室。室内に3つの棺が並ぶ。
一番奥に見えるのは、母・穴穂部間人皇后の石棺、
前列左には妃の膳大郎女を、右に聖徳太子の棺を安置。
太子と妃の棺は絹を貼合した乾漆で作られたが、制作には
1年かかかったので、「太子は2度葬られた」ことになる。
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その謎解きを、猪熊兼勝氏が語っておられた。
  没後、太子を見直す動きが生まれ、棺は作られたのだと。  
その後も蘇我入鹿暗殺に始まる大化の改新、そして
壬申の乱と混乱は続き、多くの人命が失われたとき、
「聖徳太子」の名が生まれ、国を再生するシンボルとなったと。

棺の材質である乾漆は最高級の絹だったという。いっぽう
斉明天皇と藤原鎌足のは麻製で、その違いが太子信仰を
物語っている…など、まさに秘話満載のヒストリアだった。


ところで、太子妃4人のうち
この膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)だけが、なぜ
こうして太子と母との三骨で同葬されることになったのか?
 再生のシンボルなら、太子だけのほうが相応しいのでは? 

番組を観終えて、そんな素朴な疑問が湧いたとき、
思い至ったのは「磯長(しなが)の里」という地名だ。

ここ河内国磯長は渡来氏族・息長氏の支配地だったようだ。
膳大郎女は膳(かしわで)氏の姫だが、もしや息長氏系か。

ともあれ、磯長=息長。
また、同町に鎮座する科長(しなが)神社の「科長」も
同様で、すべて「息を長く吹き続ける」という意味という。
科長神社には、息長垂比売(神功皇后)の生誕伝承もある。

また、龍田大社(奈良県生駒郡)の祭神・志那都比古神
志那都比命の「志那」も、「息が長い」との意味という。
風神や「息が長い」神徳から連想されるのは古代産鉄だ。

「聖徳太子」には、息長氏が隠れているのではないか。
 さらに息長氏には、沖縄が隠されているかもしれない。
 「息長と沖縄は同義」とする説があり、発音も似ている。
















by utoutou | 2017-10-16 15:46 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 137 聖徳太子〈その7〉

四天王寺に呼ばれているのか、機会あって再び大阪へ。
四天王寺の西側に立つ石鳥居の前に立ってみた。
昨日10月10日、大阪の日の出は5時59分だった。
その10分前、五重塔の東南方向から太陽が昇ってきた。
 秋分の日の朝日は石鳥居のど真ん中から昇ったはずだ。


秋分と夏至、二至の日の出を表す東西軸と、
写真左から右への南北軸が、金堂の前でクロスする。
南北軸とは、例えば六甲山では天御中主神ラインと思う。
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先日、四天王寺七宮を巡って「北斗七星」を見たが、
それは同時に、「北極星(天御中主神、琉球では、
にぬふぁー星と呼ぶ)信仰を示していると感じられた。

七宮では「鎮宅さん」とか「豊受大神」など、
神名は違えど、天御中主神が祀られていたからだった。

ところで、「七」という整数は、聖徳太子が編纂した
という先代旧事本紀に見える「六家+天皇家=七家」を
示していると語り部は言った。(※関連記事は

その六家とは「甲羅を持つ6匹の亀」と確信したのは、
やはり先日、四天王寺で、何度もの亀に遭遇したからだ。



昨日10月10日、
日の出の時刻(5時59分)の四天王寺・六時礼讃堂。
五重塔や金堂のある中心伽藍の北に位置している。
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六時礼讃堂前にある亀池。昨日の朝の水面はとても静かだったが。
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同じ亀池を、先日は午後2時にやはり石橋の上から覗いていた。
おびただしい数の亀が鯉(?)と一緒に戯れて泳いでいた。
外来種のカメが繁殖してしまい寺側は困惑しているらしいが、
古来、亀池という名だったからには「亀」は暗号だろうか。
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こちらも、亀。
四天王寺でも人気のスポットという亀井不動尊(左)。
亀井堂(右)には次々と「お経木流し」する人が訪れる。
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そして、こちらも亀。
四天王寺の鬼門方向(境内北東)に位置する大弁財天
の池にも、たくさんの亀が群れているのを見て驚いた。
亦名も亀遊嶋弁財天。亀が遊ぶ嶋、何やら意味シンだ。
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思えば、あの日の午前に、元四天王寺と言われる
玉造稲荷神社(大阪市中央区)にも参った(記事は後日)。
境内摂社の厳島神社にも亀池があり、亀が休んでいた。
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なぜ亀なのか…?
そこで思い当たったのは、明日香村のキトラ古墳である。
石室の北壁(玄武)に描かれていたのは、亀蛇だった。
「亀と蛇」は、渡来海人族の北極星=天御中主神を表すか。
それはまた、聖徳太子の出自を暗示しているかもしれない。

by utoutou | 2017-10-11 12:37 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 136 聖徳太子〈その6〉

四天王寺を守護鎮守するという七宮を巡り歩いた。
四天王寺七宮が、七寺でなく、なぜ神社かについては
諸説あるようだが、ともかく聖徳太子による建立で、
四天王寺と共に創建されたと神社の由緒が伝えている。

七宮を巡り終えて登ったあべのハルカス展望台からは、
こう見えた(上が北、中央が四天王寺、赤線は加工)。
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地図上では北斗七星に見えなくもないが、はたして…?
七宮のうち③⑥⑦は、明治時代①大江神社に合祀された。

①大江神社 ②堀越神社 ③土塔神社 ④河堀稲生神社
⑤久保神社 ⑥小儀神社 ⑦上之宮神社
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①大江神社(天王寺区夕陽丘町)
祭神/豊受大神 素戔嗚尊 欽明天皇 大己貴命 少彦名命

由緒要約〜かつての天王寺北村の産土神であり主祭神
として豊受大神(稲荷神と同一神)を祀る。
明治期に合祀した祭神は、(小儀と土塔の素戔嗚尊、
上之宮の欽明天皇、大己貴命、少彦名命)〜
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旧鳥居。私が立っている背後(南)には柵があり通行不可
だが、かつてはこちらからの参拝が正式だったのかも。
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②堀越神社(天王寺区茶臼山町)
祭神/崇峻天皇 小手姫皇后 峰子皇子 錦代皇女

由緒要約 〜 時の摂政・聖徳太子が叔父の崇峻天皇を
偲び、風光明媚な茶臼山に四天王寺と同時に建立した 〜
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由緒にもあるように茶臼山古墳と天王寺公園に隣接、
四天王寺南交差点にも至近。境内を横切る通行人多し。


大上神仙鎮宅霊符尊神(通称・ちんたくさん)。
神木の威容と、四天王寺を拝む配置に度肝を抜かれた。

由緒要約 〜 霊符の元祖の神。前漢時代に始まった節分
や七夕などの星祭りはこの神のお祭り。旧暦の七夕には、
星霊の力で復活再生を願う。「鎮宅さん」はまさに家宅を
鎮め、玄武を神の依代にする 〜 つまり天御中主神が祭神? 
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③河堀稲生神社(天王寺区大道)
祭神/宇賀魂大神 崇峻天皇 素戔嗚尊

由緒要約 〜 景行天皇の時代、夏目入穂の孫である
逆輪井が神地を賜り稲生の神を奉斎。後に聖徳太子が、
四天王寺創建のとき社殿を建て、崇峻天皇を祀った 〜
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本殿の南に摂社(八幡宮、桜樹大神)が並んでいる。
祭神に天皇を祀り、「四天王寺七宮一の宮」だった。
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④久保神社(天王寺区勝山)
祭神/天照皇大神 速素戔男尊 伊邪那岐尊
伊邪那美尊 宇賀御霊尊

由緒要約 〜 旧久保村の産土神であり、また四天王寺の
守護鎮守の神として創建された天王寺七宮のひとつ 〜
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伊勢神宮遥拝所。神社創建より後世に築かれたか?
四天王寺の東大門にも伊勢神宮遥拝所があった。
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摂社・願成就宮。傍に説明板が立っていた。
〜 聖徳太子の深く信仰あらせ給い御願の成就を遂げ給う
により願成就宮と称え、今に庶民の信仰たえず霊験
あらたかなりと伝えられております 〜
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なんと、ここにも…と、お宮の前で思わず佇んだ。
四天王寺境内にある「守屋祠」の別名も願成就宮である。
「守屋の霊が願いを成就してくれるご利益スポット」と
同じ社名を持つこちらも「守屋祠」ならば、当然のこと
祭祀するのは、物部守屋の末裔ということになろうか。

そして、七宮に祀られる聖徳太子の叔父・崇峻天皇、
欽明天皇、天御中主神、豊受大神、素戔男尊など、
記紀成立以前から崇められた神々は、何を物語るのか…?
あるいは、聖徳太子は誰かという問いに答えてくれるか…?


七宮巡って16時33分、あべのハルカス展望台からの西、
淡路島(左)、明石大橋(中央)、六甲山(右)を遠望。
六甲山が、まるで対岸に横たわっているように見える。
甲羅を持つ6亀+1=7。ピンと何かが閃いた。
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by utoutou | 2017-10-06 21:39 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 135 聖徳太子〈その5〉

四天王寺境内の東端に置かれた謎めいた小祠を
休憩所で頂戴した境内地図プリントで見ているとき、
ロビー中央に祀られている聖徳太子摂政像が光った。


午後1時。光源は太子像の上にあった。光を注がれ、
お香の煙が身体を包むベールのようにたゆたう。
四天王寺は文字通り寺だが、聖徳太子が神に見えた。
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四天王寺は、物部守屋と蘇我馬子の抗争で
蘇我氏についた聖徳太子が、戦勝を機に、
四天王を安置するため建立したというのが由緒だが、
平安時代からは救世観音菩薩を本尊としている。

 救世観音菩薩は聖徳太子の写し身と言われる。実際、
 境内の随所で太子信仰のメッカらしい煌めきを感じた。
  何かを覆い隠すための煌めきに感じられなくもないが。
   

さて、謎めいた祠が何であるかは、すぐに分かった。
それは知る人ぞ知る、守屋祠(もりやのほこら)。

祠に近い境内南東に立つ唐門にその↓案内図はあった。
(※画像はレイアウトして、赤丸を加筆しています)
聖霊殿(太子殿)奥殿の奥=真東の端に守屋祠はある。
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毎月22日には参拝できると、公式サイト内の記事
あったが、残念ながら普段は立ち入り禁止とのこと。
↓左端の八角の屋根が奥殿で、その右に位置している。
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太子殿奥殿の前に、左甚五郎が彫刻を施したという
「太子殿猫の門」があるが、これまた意味シンな印象。
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眠り猫のように眠れと鎮魂しているのか…と思う
いっぽう、眠りから覚めるなよと封印するようにも?
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太子殿の右側の施錠された弊越しに守屋祠を探す。
しだれ柳の奥に、朱塗りの小祠がチラリと見えた。
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 ところで、四天王寺の山号は荒稜山(あらはかさん)。
旧地名は荒墓邑で、近くに茶臼山古墳(被葬者不明)
があるところから、この地も古墳だったと思われる。

語り部に意見を聞くと、こうアドバイスされた。
「元々は、ここに磐座があったように見えますね。
四天王寺の近くには、神社が7つありませんか?」

調べると、寺を北斗七星の形に取り巻く七宮がある。
そこに、四天王寺建立の真相を知る手掛かりがある?

なぜなら、物部氏が奉斎したのは日月星の三位一体。
それは記紀において抹殺された、いわゆる星信仰。
つまり、四天王寺の真の建立者は物部なのか?
あるいは、聖徳太子自身が物部だったのか…?


by utoutou | 2017-10-03 13:38 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 134 聖徳太子〈その4〉

聖徳太子御本地救世観音菩薩。
黄金の坐像は眩しく、吸い込まれるように近づいた。
大阪市営地下鉄の四天王寺前夕陽ヶ丘駅。ホームに
滑り込んだ電車のドアは、なんとその正面でバンと開いた。

駅ホームの電飾広告、四天王寺への道案内板である。
背後から光が当たっている、まさに神々しい演出。
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引いて撮ったのが↓こちら。見切れた左に五重塔。
道に迷ったと思われたらしく、「出口はこっちよ→」
と、通りがかりのおばちゃんがご親切に教えてくれた。
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その御本尊・救世観音が祀られる四天王寺を再訪した。
前回、伽藍回廊の東重門と西重門を繋ぐ「東西軸」に
興味を抱いたが、その間に「転法輪石」があると知り
やって来た。転法輪石とは「釈迦が法を説く処」の意味。

その極めて仏教的な配置と、神道的な東西軸とが、
いわば十字に交わっているところに、新たな興味が湧く。


五重塔(右・南)と金堂(左・北)の間に転法輪石はある。
  階段下の地面に、四角い玉垣に囲まれて置かれている。   
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転法輪石を、五重塔側から見る。
私もそうだったが、それを覗いてみる人はいない。
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今回は転法輪石を上から拝する。南側が日陰になっている。
聖徳太子が埋めた本物が、この下に埋まっているという。
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さて、転法輪石から左(西側)の方向に極楽門がある。
回廊内から見えないが、その先には西門の石鳥居が。
二至の日没時に、沈む夕陽を西方浄土として拝する。
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まさしく東西軸とは、二至に通る「太陽の道」のこと。
四天王寺をはじめとして、聖徳太子関連の神社仏閣は、
その線上に並んでいる。例えば生誕地・橘寺(明日香村)
御陵の叡福寺(大阪)、斑鳩寺(大阪と兵庫の太子町)。

北緯34度の「太陽の道」を書いたとき、語り部は言った。
「その東西軸を西へ西へ伸ばすと、どこに着きますか?」
地図を見ながら、私は言った。
「いやぁ、これと言って目立った場所はないですけど」

話はそれで終わったが、聖徳太子を通してなら分かる。
中国の西安。別名では長安、隋の首都・大興。
「太陽の道」そして四天王寺の東西軸は、聖徳太子が
「日の没する処」と記した天子の居処に続いている。



そこで改めて気になるのが、四天王寺の伽藍配置。
「日の出る処」=東には聖徳太子を祀る太子殿があるが、
その奥つまり境内のもっとも東に名のない建造物がある。
それはいったい、何なのだろうか…?  
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※境内地図は休憩所の配布プリント。赤矢印は加工です。










by utoutou | 2017-09-30 14:43 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 133 聖徳太子〈その3〉

『日本書紀』に記されず、『随書』倭国伝に「倭王」
とある阿毎多利思比孤(アメノタリシヒコ)とは誰? 
について諸説紛々とするなか、断然に多いのが、
用明天皇、その皇子・聖徳太子、蘇我馬子、の三説。

私も推古天皇の摂政だった聖徳太子だろうと考える。
語り部も「聖徳太子の名は、阿毎多利思比孤から四文字
頂いた」(天降りした皇子の意味)と言うので同意見か。

私がそう思う理由は、改めて読んだ「十七条憲法」だ。
冒頭の「和なるを以て尊しとし」や「篤く三宝を敬え」
は、仏教的平和憲法というより君主の訓示のように骨太。
むしろ、なぜ天皇にならなかったかを不思議に思う。

さて、聖徳太子は法隆寺など七寺の建立に関わった。
四天王寺(大阪府天王寺区)は推古天皇元(593)年、
 聖徳太子が摂政となったのと同時期に着工された。



高さ39mの五重の塔。最上階からの眺めは絶景らしい。
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その絶景の西側に国際港・難波津があった。建立の目的
は物部守屋討伐の戦勝祈願と言われ、結果勝利したが、
東南アジアに国威を示すのが最大の目的だったのでは。

難波津のの丘の上のお寺…。外交使節船が出入するには
最適の立地だったわけで、建立は国家的な事業だった。
当時は中国大陸が統一され隋(518〜618年)が成立する
     いっぽう、半島も新羅・百済・高句麗が覇権争い中だった。    
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そんななか、『隋書』倭国伝に阿毎多利思比孤が現れる。
その倭王が600年に遺使し、607年には国書を出したと。
このときはまだ日本という国号はなく、外交というより
朝貢・冊封だったわけだが、国書の内容は超強気だった。
「日出処の天子、日没処天子に致す。つつが無しや」と。

これには隋の煬帝が激怒したというが、「日出る処」と
 「天子」とでは、後者が許せなかったのだとの学説がある。 
 天子の称号を、倭王ごときが名乗るとは何事かと。

加えて思うに、国書に寛大だったのには、煬帝が案外
「日出る処」を認知していた可能性があるのではないか。

聖徳太子がその名で呼ばれるのは後世で、『日本書紀』
では、「厩戸皇子」「厩戸豊聡耳皇子」の名で記される。

 馬小屋で生まれたイエス・キリストを彷彿とさせるが、
皇后の実家・蘇我氏が景教徒だったからとも考えられる。
 叔父の蘇我馬子は、「我は蘇る馬小屋の子」と読める。 

いっぽう、隋が成った6世紀、東回りのキリスト教である
 景教の聖書は、隋の都・大興(後に長安)に届いていた。
とすれば、煬帝がそれを知っていた可能性は大いにある。
「景」とは、中国語で「日の光の信仰」という意味という。

聖徳太子と景教の関係について、語り部の意見は明快だ。

「古代ユダヤ12支族の光の民は、イスラエルを脱出し、
東へ東へと進んで、この大陸の東の島々へやって来た。
その末裔である聖徳太子は、太陽の王として崇められた。
 聖徳太子に赤い琥珀でできたマニ宝珠がついて回るのも、
太陽の王に例えられたからだと思いますし、救世主である
  イエスの再臨を告げたベツレヘムの赤い星を思わせます」 


聖徳太子は仏教の奥に景教を秘していたのだったか…。
四天王寺西門で見た転法輪(てんほうりん)を思い出す。
これを回してお釈迦様の教えを後世に伝えるというが、
何だかベツレヘムの赤い星(八芒星)にも見えてきた。
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ちょうど今日22日は、聖徳太子の月命日という。
またお彼岸の明日、9月23日(土)の日没の頃、
この西門から日の沈む西方浄土に向かって礼拝する
「日想観(にっそうかん)」という行事が行われる。
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by utoutou | 2017-09-22 16:23 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 132 聖徳太子〈その2〉

6月末、那覇に行っていたときのことだった。
着いたのが梅雨明けの日で、翌日は慰霊の日だった。
語り部とは、私が春に旅した因幡の「白兎とワニ」の神話
や ↓ 白兎神社や遺跡から出土したサメの線刻画の話をした。
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そのときの話を元に、翌朝から、「アメノヒボコ
琉球の玉」「アカル姫の御嶽」と何本か記事を書いた
が、書きたくても理解不能だったのが、きょうの話だ。

あのとき、語り部は、サメの線刻画や
古代船団の話の流れから、何かを霊視するかのように、
「アメノタラシヒコって誰ですか?」と、聞いた。
「アメノタラシヒコクニ…オシヒトノミコトですか?」
私は〈天足彦国〉 とメモしつつ、そう聞き返したが、
YESともNOとも言わず、語り部は無言のまま首を傾げた。


天足彦国押人命。日本書紀によれば、
孝昭天皇の子で和珥臣の祖。和珥(和邇)族は琉球にも
 渡来したと考える我々の会話には、頻繁に上がる神名。
「ウサギとワニ」神話の主役・ワニとも同一視している。

ともかく、以下は語り部が一気に話した内容のメモ。


「アメノタラシヒコのときからワニの船団が大きくなった。
 船の中央に、土偶で見るような立派な屋形船が見えます。
白兎はワニに騙されたのではなく、宇佐に来た一族です。
人々が半島からワニ船団で海を渡り、琉球にも入った。
その新しい皇子は、朝廷に養子に入って血を継いだ。
一族は、後に和邇氏と息長氏に別れることになります」


その中にアカル姫がいたらしいとも言った。そして…
「(久高島の太陽神の祭り ↓テーラーガーミで歌われる)
ソウルから下たる赤椀・黒椀とは、琉球の玉のことです。
また、赤椀の世直しとは、赤い琥珀でできた宝珠のこと。
赤と黒ではなく、赤く黒く、太陽のように輝いている」
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あのときまで長年の謎だった神歌のフレーズ
「ソウルから下たる赤椀の世直し」とは、赤い宝珠のこと
だという発見に歓喜して、話の前半部分を分からないまま
にしてしまったが、腑に落ちない気持ちは残っていた。

 なぜならソウル(半島の主都)から渡来人が増えるのは
3世紀以降で、孝昭天皇の欠史八代という古代ではない。

そんな折、「聖徳太子とマニ宝珠」の話をきっかけに
自分の誤解というか、早合点にようやく気がついた。

アメノタラシヒコ(天足彦国押人命)のときではない。
アメノタリシヒコ(阿毎多利思比孤)のとき、
船団を組んだ人々が、宇佐や琉球に渡って来たのだ。


アメノタリシヒコ(阿毎多利思比孤)。
日本書紀には登場しないが、『隋書』倭国伝が記す倭王。
阿毎多利思比孤は、600年と607年に遺使(朝貢)した。
その大王を用明天皇(皇子は聖徳太子)とする説は強い。
あるいはアメノタリシヒコが聖徳太子なのかもしれない。


そう言えば、語り部は何度か言っていた。
「琉球の歴史には、聖徳太子が隠されています」と。
逆に琉球の歴史は、聖徳太子に隠されているのかも?



四天王寺(大阪市天王寺区)の小さな聖徳太子像。
(色々写り込んでいて見えにくいですが…)
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by utoutou | 2017-09-17 10:47 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 131 聖徳太子

アカララキは、久高島から遠ざかる船からも見える。
アカラ嶽と表記した古書もあるので、アカラ御嶽…
つまりは、「アカル(姫の)御嶽」となり、語り部が
ここにアカル姫を霊視したのは自然な流れのように思う。

アカル姫を追って来た都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)
という神名(日本書紀)も、「角のある人」のことならば、
アマミキヨの特徴とも一致するのだけれども、しかし…。

アカル姫が「琉球の宝珠」「琥珀の赤い玉」を持っていた
と感得したその意味が、私にはいまひとつ分からなかった。
もちろん、記紀にアカル姫と琉球を結びつける記載はない。
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が、そのミッシングリンクが分かるときが来たようだ。
ヒントは、読者の方からいただいたコメントだった。
(※右の「最新のコメント」欄をご参照いただければと)

曰く、マニ宝珠(赤い玉)について書いたブログがあると。
これは大変だとばかり、語り部に宝珠の画像を送ると、
「本物の琉球の珠に違いない」と、返電で言うのだった。

ブログによれば、御神霊(マニ宝珠)は聖徳太子の頃、
シルクロード経由で日本に到来したものであるといい、
現在は島津家に秘蔵されているというが、実は同様の話
は、『古代ユダヤ人と聖徳太子の秘密』(月海千鋒・著)
  という本にも載っていたことを思い出した(以下、要約)。  

・ユダヤの三種の神器は確かに日本にある。
・マニ宝珠はイスラエルから聖徳太子宛てに到来した。
 ・鹿児島の大名家・島津家が代々受け継いだ(証文あり)。
・これが真実なら、島津家が南朝側の天皇家を保護し、
 大政奉還で明治天皇を擁立したとの噂は信憑性が増す。
・島津家は聖徳太子の舎人だった藤原鎌足の子孫である。
・米のロックフェラー財団が5百億円で買い付けに来た。

ざっと該当する部分を読むと、語り部は言った。
「でも琉球の珠が、どうして島津家にあるのでしょうね?」
いや私に聞かれてもと返答に困り、頭をフル回転させる
と、ふと、ある思いつきが口から突いて出た。
「六甲山に隠された琉球の珠は、聖徳太子のものだった?」


語り部が「琉球の珠は隠された」と言ったのは、
私が初めて六甲比命神社に参拝した1年半前のことだ。
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聖徳太子は、
六甲山と瀬織津姫を擁護する信仰的立場にあったようだ。
生誕の地という奈良県明日香村の橘寺で祀られるのは
如意輪観音像だが、空海はその2世紀後、如意輪観音像を
自ら彫り甲山の神呪寺に秘仏として祀った。さらに思えば、
 そもそも、六甲比命神社を奥ノ院とする ↓ 多聞寺は役行者
こと役小角(えんのおづぬ)が、自らの子孫である四鬼家の
人を移住させ、六甲山修験道を管理させたと伝わっている。

役行者と空海は、聖徳太子の後継者のように思われる。
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さて、アカル姫の赤い珠が、なぜ琉球の宝珠なのか。 
そのミッシングリンクの名とは、私が聞き落としていた
阿毎多利思比孤(アメノタリシヒコ)だった。
『隋書』倭国伝には見えるが、日本書紀が隠したその
倭の男王とは、用明天皇か聖徳太子か蘇我馬子のいずれか?

語り部はその名を、あるときに口にしていたのだった。
「アメノタリシヒコのとき半島から琉球に人々が入った」と。

その名を「アメノタラシヒコクニ(天足彦国)」と、聞き
 間違えた私には、そのメッセージの意味が理解できなかった。



by utoutou | 2017-09-13 21:27 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(4)

六甲山と瀬織津姫 130 角のある人の世

 秋風が吹いてきたが、6月に行った沖縄旅の続きを…。
旅の締めは久高島の御嶽・アカララキへ。島の南西に
 ある漁港の傍、アカラムイ、アカラダキとも呼ばれる。
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この御嶽は「久高島で最古」と、いまのところ言われる
久高第二貝塚(5000年前)の小山の上に立地している。
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「いまのところ最古」と思わせるのは、龍宮の存在だ。
琉球の超古代人はガマ(洞穴)に住んでいたらしく、
考古学的にも「洞人」と呼ばれる。あの古代人たちの
人骨はみな、琉球石灰岩台地の洞穴内から発掘された。

27000年前の竿根田原洞人(石垣市)、
23000年前のサキタリ洞人(南城市)、
そして、32000年前の山下洞人(那覇市)。

22000年前の港川人(南城市)は「洞人」ではないが、
発掘場所が粟石(貝殻の欠片などが固まってできた石)
の採石場だったということで、元は洞穴だった可能性も。

人々は珊瑚礁石灰岩でできた洞穴に定住し、死して
被葬された後も、地質の侵食作用により風化を免れた。
久高島にある龍宮がまさに竜宮城だったなら、未だ
人知れず眠り続ける王族、いや龍神がいるかもしれない。

語り部は、私が龍宮へ入って戻るごとに言った。
 龍神は奥にいる、眠っている、やがて起きるだろうと。



アカララキに生えるアザカの葉。十字に対生する姿は、
万物を創造する「火・水・土・風」の四元素を表している。
日(ひ)と霊(ひ)を崇める「火の一族」の象徴。
  イザイホーで就任した神女は、髪にこの葉を飾り舞った。 
 それは「ヤマトでいう猿田彦神への信仰」と、語り部。 
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ヤマトの各地で、猿田彦は様々な神名で呼ばれている
と考えている。八街の神、綿津見神、佐田大神、
塩土老翁、稲荷神、倉稲魂、大己貴神、興玉神、
久那斗神、白髭明神、事代主神、穂高見神。蛭子神も?

では、琉球の伝承ではどのように称された神なのか…
という素朴な疑問を、神の島から紐解いてみよう。
島の三元家のうち、久高家の始祖とも伝わる、
アナゴノシー・アナゴノファーなる夫婦(兄妹)神。

琉球王国地誌『琉球国旧記』(1731年)では、
「中森嶽」の項に、阿名呉之子・阿名呉之姥と記される。
以下、原田禹雄・訳注『訳注 琉球国旧記』より要約。

・昔、阿名呉之子が久高島に住んだ。ある日、伊敷浜で、
 白い壺が波間に浮かぶのを見たが、掴まえられなかった。
・帰ると女房が「体を清め白い衣を着ればよい」と言った。
・やがて掴まえられた壺には7つの種子(麦・粟・稲・クバ
 インゲン・アザカ・シキョ※ススキの古名)が入っていた。
・種子を蒔くと繁茂して君真物も出現、この地で遊ばれた。
・霊験あらたかなここに壺を埋め、土を盛り御嶽を造った。

中森嶽とは中の御嶽・中森の御嶽のこと。(記事は
語り部が、龍神の眠る龍宮の中心と視た場所である。

そのくだりに、腑に落ちない箇所が一点ある。
伊敷浜に流れ着いた壺を拾って埋めると五穀が実った…
という始祖伝承は、久高島三元家それぞれにあるが、
水の乏しい久高島では稲は育たない。ゆえに五穀発祥の地
とされたわけだが、白い壺に稲が入っていたのは何故か?

聞くと、語り部は言った。
「アナゴノシー・アナゴノファーは、琉球稲作発祥の地
・玉城から行った始祖だと示しているのだと思います」
「つまり、アマミキヨ直系のミントン家から…?
すると、シラタル・ファガナシーの先祖神だと…?」
「天地(あめつち)の大神様の末裔だと思います」
「天孫氏王朝に伝わる代々の神というわけですか…」

さらに語り部曰く、アナゴとは穴子(穴師)であり、
 稲子を携えて渡来したことを表しているという。
稲ならば、龍宮の珠が白いのも頷けるというものだ。

アナゴノシー・アナゴノファー(猿田彦と妃神)は、
天地の大王様(天王ガナシー、スサノオ)の子神…。

「それって、どれぐらい昔の話なんですか?」
「少なくとも洞人の時代=サーカ世(猿の世)より古い
チヌヌミ世(角のある人の世)だと思います」
「すると、3万年前よりももっと古代…」


ミントングスクで復元されたアマミキヨ面。
思えば、スサノオも猿田彦も角のある形相の神である。
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by utoutou | 2017-09-09 16:21 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 129 話は飛んで、カメジロー

数日前、渋谷でカメジローを観た。
話題の映画『米軍(アメリカ)が最も恐れた男
その名は、カメジロー』(佐古忠彦監督)。

桜坂劇場(那覇市)では連日、大入り続きらしい。
東京でも、監督挨拶のあった初日には行列ができた
というが、平日の昼間だし…と思っていたらほぼ満杯。
予約していなかったら、最前列席に座るところだった。


アメリカ占領下の戦後沖縄で、不屈を貫いた政治家
・瀬長亀次郎。アメリカがカメジローを恐れた理由が、
当の米軍の機密資料「瀬長亀次郎ファイル」に残って
いたというあたり(ここは会場笑い)から、次第に涙腺
が緩み、会場のあちこちからも鼻をすする音がした。
 終了と同時に拍手が起こり、すぐ立つ人は少なかった。
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ウチナーンチュはまつろわぬ民だと、度々感じる。
今回も、カメジローに不屈のおじいたちの姿を重ねた。

スサノオ降臨と天磐船」に書いたが、語り部によれば
ヤマト神話が伝えるスサノオは、沖縄では天王ガナシー、
あるいは、「天地(あめつち)の大神様」と呼ばれた。
記紀で皇祖とされる天照大神の名を聞くことは稀だ。


天王ガナシーと、その妃神である天妃ガナシーを、
アマミキヨ渡来伝承のある↓ヤハラヅカサで、戦中戦後に
わたって祀っていたというおじいも、不屈の御嶽守りだ。
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ヤハラヅカサの浜辺から、浜川御嶽へ登る手前の磐座
に、天王ガナシーと天妃ガナシーの石香炉はあった。
近くに住むおじいは、台風や大波が来る度に駆けつけては、
香炉を抱え、安全な場所に避難させていたという。
祖神の崇拝は、子々孫々までの平和を願ってのことだ。
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磐座の上部までが(写真左の看板に記されるように)
ヤハラヅカサと呼ばれる一帯。『琉球国由来記』
に載る神名は「ヤハラヅカサ潮パナツカサの御イベ」。
その「潮がバーンと当たって砕ける聖地」で、
末裔によっておそらく何千年にもわたって祀られた
天王ガナシーとは、海人族にとって「海を統べる王」。
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一説に、その天王ガナシー・天妃ガナシーの墓は、
CSG(CIA基地)のあった玉城台地にあるという。

戦後まもなく聖地は軍用地とされ、基地建設のために
ブルドーザーが乗り込んだとき、阻止すべく駆けつけた 
のが、玉城王の末裔として御嶽を守っていたミエおばあ

玉城グスクの近くでブルドーザーを捉えると、両手を
広げて立ちはだかり、念力で引っくり返したという
これも不屈のエピソードが、地元で語り継がれている。

いっぽう、玉城天孫氏を祀っていたウメおばあは、
戦後、百名に拝所を構え、一度も旅に出ることなく、
遠来の参拝者を迎え、御嶽廻りの世話をしたという。

さて、
カメジローが衆議院議員に当選したのは1970年。
国会(特別委員会)で、時の佐藤栄作総理に質問する
シーンは、カメジロー映画でもハイライトだったが、
その直後の'72年、いわゆる沖縄返還は果たされた。

'75年、玉城台地の軍用地(CSG)は突如解放され、
村議会の競合を経て、ゴルフ場の建設が決定した。
'77年の開場に向けコース設計にも関わった当時の社長は、
機関誌の創立十周年記念座談会で、こう語っている。

「敷地内の地盤調査をしたら、鍾乳洞がいくつもあった。
またウガンジュ(拝所)を調査したら、今度は玉城王の
お墓などが、3つも出てきた。担当者は苦労したようだ」

かくして、天王ガナシーを始祖とする天孫氏王朝に
まつわる御嶽は、後世に残されることになった。

ゴルフ場には大規模な地主会が存在すると言われる
が、ある地主に聞いた言葉が印象に残っている。
「先祖の残した土地なんだから、絶対に売らないよ」

カメジローの遺言は、
「憑き物(ツキムン=米軍基地)は退治できなかった」
というものだったというが、そのおじいも言っていた。
「フリムン(馬鹿者)と呼ばれても、ツキムンは要らん」


スサノオ(天王ガナシー)と猿田彦の関係について
は、また次回…。












by utoutou | 2017-09-03 12:08 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)