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六甲山と瀬織津姫 ⑮ 波上宮なんみん祭で須佐之男を思う

日下部やら日田の話の途中だが…
東京を早朝に出て9時半に那覇空港に着いたので、
波上宮(那覇市若狭)へ直行してみた。

伊邪那美、速玉男尊、事解男尊を祀る沖縄総鎮守。
きょう15日(日)まで「なんみん祭り」開催中。
13日の宵宮祭からの3日間、最終日で神輿行列がある。


10時半に本殿で祈祷後、県庁前のぱれっと前広場に
向けて御神輿が出る。初めての、なんみん祭見物。
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梅雨入り前最後?の晴天に恵まれて、カンカン照り。
祈祷後の11時近く、いよいよ神輿行列が街へ。
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波上宮の神輿をはじめ、10グループほどいただろうか。
若狭の波上宮から、波の上通り〜旭橋〜県庁前まで
30分ほどの行進。境内は内外の観光客で溢れていた。
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子どもたちの神輿も…。天妃小?のグループ。
行進では中学生らしき鼓笛隊も頑張っていた。
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ジュリ馬スネー(舞踊行列)も初めて見た。
かつて地元・辻町にあった辻遊郭の祭りの再現。
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エーサー(旧盆の祭りの踊り)のグルーブもいて、
イキのいい掛け声というかリズムが本土と違う。
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旭橋駅近くで国道58号線を渡る。
道々で獅子が子どもたちの人気を集めて絶好調。
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県庁北口、国際通りの入り口交差点がゴール。
追いついて分かったが、先導役はなんと猿田彦神。
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ちょいとお願いしてカメラ目線になっていただく。
高下駄は履いていないが、どう見ても猿田彦神。
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道ひらきの神、八衢の神として、
ヤマト各地の祭りでも、神行祭りの先導役でお馴染み。
出雲的に言うならば、クナト大神の子神。
綿津見神(海神)の子神との見方もあり、そうすると、
海を統べる神・須佐之男の神格を持った産土神である。

そして思えば、波上宮の由緒に関係が深いのだった。
波上宮の鎮座伝説によれば、往古、南風原にいた
崎山の里主がこの海で魚釣りをしていると、
不思議な「ものを言う石」を得て豊漁を得た。
すると、光を放つ霊石はのたまった。
「吾は熊野権現なり。この地に社を建てて祀れ」と。
里之子がこれを奏上し、王府が社殿を建て祀った。

熊野大神とは、熊野本宮大社に祀られる家都御子、 
 つまり、須佐之男ではないか。

そのとき、唐突にあることを思い出した。
丹後・真名井神社の神体山である真名井原(禁足地)。
鳥居のすぐ横に、いまはない石碑が建っていたという。
そこには「熊野大神(須佐之男)」の刻字があった。
秘した主祭神であるかのように、主磐座のかたわらに。

里主が得た光る霊石は、浦島太郎と関係がある。
玉手箱に入っていた如意宝珠のようなものでは?
妄想的に、いや、かなり真面目にそう思った。








by utoutou | 2016-05-15 23:02 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 ⑭ 本当の日向(ひむか)

「卑弥呼の鏡か!?」と言われた金銀錯嵌朱龍紋鉄鏡
 (きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)。
 縁取りの渦巻き模様は、蕨手文(わらびてもん)という。
 あの「隼人の盾」の渦巻文も、そう呼ばれる。

そして、
 蕨手文とは、日下部氏の信仰を描いた文様だった。
「隼人の盾」の渦巻き文は当初、海洋性を表す鉤型と
思ったが、縄文時代に興った古代氏族ならではの
「死と再生を願う呪術文様」でもあると気がついた

縄文土偶に見られる渦巻き模様も、蕨手文だ。
 龍蛇のトグロにも似て、生命の輪廻を連想させる。
いっぽう、ワニの歯に見えた「隼人の盾」の鋸歯紋は
 龍蛇の断面形を表し、龍蛇神の象徴として崇拝された。

 さて、日田にいたという日下部一族について…。
昭和8(1933)年にあの「女王の鏡」が出土した
  場所は、大分県日田市日高町のダンワラ古墳だった。

その隣の三芳字刃連(ゆき)町に日下部がいて、
町名の由来となっているという(日田古代祭りHP)。
欽明天皇の頃(539〜571年)、日下部君の祖先
あたる邑阿部(むらあじ)という人が、都で
靫部(ともべ)として仕えていたので、移転した
この地を靫負村(ゆぎおいのむら)と名付けた。後に、
 靫編郷(ゆぎあみのさと)とも呼ばれるようになった。

靫部、負とは、矢を背負って警護する兵士のこと。
靫編とは、矢を入れる竹容器を作る部民のこと。
いずれにしても、日下部氏は天皇を守る部民集団だった。


矢を背負った護衛士。そこで、思い出されたのが、
日田と同じ筑後川左岸、うきは市の装飾古墳のこと。

↓珍敷塚古墳(めずらしづかこふん)の壁画だ。
(図は大和岩雄・著『神と人の古代学』より拝借)
中央に3個の「靫」と、複数の矢が描かれている。
真ん中に蕨手文と、左には同心円文(丸い文)もある。
もしや被葬者は、靫部だった日下部一族ではないか?
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この珍敷塚古墳は、うきは市にある屋形古墳群の
1基で、他の4基にも、蕨手文や同心円文や、
特徴あるゴンドラ型の舟と人などが描かれている。

屋形古墳群のある、うきは市の旧名は「浮羽」。
浮羽とは、弓で射る「的」を意味するのだという。
「的」とは当然、太陽あるいは天体のことだろう。
日招き・月読み・星読みは、やはり日下部の職掌だったか。
そう言えば、日下部と同族の日置は弓道の祖である。

装飾古墳に描かれた蕨手文と同心円文は、
日下部氏が司祭した太陽祭祀の呪文様だったと思う。
天皇家の護衛とは、霊的な守護も含むものだったのでは。

さて、
蕨手文と同心円文の共存する古墳の分布はというと、
九州にある約270ヶ所の古墳のうち、9ヶ所あった。

【蕨手文・同心円文のある古墳】
珍敷塚古墳 6世紀後半 うきは市蕨手文/同心円文
日岡古墳 6世紀後半 うきは市蕨手文/同心円文 
塚花塚古墳 6世紀後半 うきは市(蕨手文/同心円文)
王塚古墳 6世紀後半 嘉穂郡桂川町(蕨手文/同心円文
丸山塚古墳 6世紀後半 八女市(蕨手文)

重定古墳 6世紀後半 うきは市蕨手文/同心円文
乗場古墳 6世紀後半 うきは市(蕨手文/同心円文
鹿毛塚古墳 6世紀後半 久留米市(蕨手文/同心円文
田代太田古墳 6世紀後半 佐賀県鳥栖市(蕨手文/同心円文 


なんとすべて、時代は6世紀後半。
場所もほとんどが筑後川の中下流域に位置している。
このエリアこそが、真の瀬織津姫こと
  憧賢木厳之御魂天疎向津媛命のいた日向(ひむか)だったか。

〜日向の国とは、いまの宮崎県を指すのではなく、
現在の日田とその西側の筑後川流域一帯のことだった。
それが分割され、日田郡は豊後に組み入れられ、
残りは、筑前・筑後・肥後に編入された。
同時に、宮崎県が日向と呼ばれるようになった。
6世紀前半の“磐井の乱”の後始末のためだった。〜
※澤田陽太郎・著『天皇家と卑弥呼の系図』より引用。


「日田こそ天の八衢だ」と、澤田氏は記した。 
古代から八方に道が通じていた交通の要衝だった。
レイラインも四方八方に引かれている模様だ。
↓MAPは日田古代史研究会さまHPより拝借。
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久津媛神社(日田市日高)参道の鳥居。
写真はひたインターネット協議会さまHPより拝借。
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by utoutou | 2016-05-12 09:40 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 ⑬ 本当の瀬織津姫!?

日下部を考える時間が多くなっていた。
その祖・浦島太郎の物語は単なるお伽話ではない
のだと思えて仕方なく、また、大伴親王が
淳和天皇として即位して間もない825年に、
小野篁に命じて丹後に浦島神社を建立した話にも、
天照大御神に逆らうような月讀命への信仰を感じる。

そもそも月讀命の末裔という日下部族(隼人)が、
やがて日置部として太陽を奉じるのも不自然な話だ。
 太陽神と月神の両方を崇めるならともかく、
まるで月神(月讀命)への信仰を打ち捨てるように。

もしや古い神は破棄するよう強制されたのか…?
ではなぜ、淳和天皇は日下部を擁護したのか?
謎は多い。

「海人族は朝廷に重用され、虐げられた」と言った
籠神社宮司の話が、今、改めて思い出された。


そんな折り、語り部から質問がきた。
「ヒサツヒメというのは、どなたですか?」
またヤブカラボウにと思い、逆に質問する。
「えっと、どこにいたヒメですか?」
「たぶん九州です。宇佐神宮の近くだと思います」
という話を聞きつつ、目の前にあったPCで検索する。

が、私の打ち込みより速く、語り部が言い当てた。
「ヒサツヒメは、ヨソ神社に祀られていますね?」
「あ、あります。大分県に會所(よそ)神社が」
「74番地ですか?」
   「はい、大分県日田市大字日高74番地。會所神社…
当たりですね…祭神は久津媛(比佐津媛)とある。
 熊襲征伐の帰りの景行天皇を、ここ日田で出迎えたと」
   
  神託の裏取りは、いつもこんな調子で進むが、
 語り部の声がいつになく弾んでいる、気がする。
「この方が本当の向津姫(むかつひめ)ですよ」
「はい?」
憧賢木厳之御魂天疎向津媛命
(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)」
「ああ、天の日に向かう姫…」
「本当の瀬織津姫、葛(国栖)神、国津神かと。
天の太陽・月・星に向かう霊(ひ)の巫女です」
「どうして、それが分かるのですか?」
「おそらく、日下部族の日巫女だからです」
「ここにも日下部がいた?」
「そして、とんでもない鏡を持っていた」


調べると、久津媛が持っていたと推測される
のは、↓ 金銀錯嵌朱龍紋鉄鏡
     (きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)。    
昭和8(1933年)、日田市日高町で出土した。 
九州北部を東西に横断する久大本線の建築工事中、
こつ然と現れた鉄の塊は、後に「卑弥呼の鏡?」
と見られたが、アカデミックは一貫して無視したという。
※復元CGの写真は、ネットピア日田様のHPから拝借した。
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復元CGで想像がつくが、すこぶる精巧な細工。
前漢時代の鉄鏡だと分析されているが、驚くことに、
これは周辺諸国の国王クラスに下賜された鏡らしい。
現在は、東京博物館に保存されている。

さて、鏡が出土した場所は、
大分県日田市大字三芳字刀連町と推定された。
鏡と同時に出土したのは、刀、馬具、勾玉、そして、
後に、↓ 金錯鉄帯鉤(きんさくてったいこう)と
命名されることになる漢服用の金のバックル。
※写真は『大分の古代美術』(大分放送出版)より拝借。
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バックルの全面に並んだ、そして鉄鏡の縁に施されて
いた龍紋のような渦巻紋を見て、私は思った。
隼人の盾」に描かれた渦巻紋とそっくりだ…。
私のような素人目には、そうとしか映らなかった。


by utoutou | 2016-05-11 14:27 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 ⑫ アマミキヨのレイライン

六甲山から話が東西南北に飛んでいるが、
そもそも日下部の氏族名に目が止まったのが
六甲比命神社だったこともあり、軸足は変えずに
日下部つながりで、さらに飛んでみる。

前回の続きで、話はまず南九州から。
弥生時代に琉球産ゴホウラ貝の貝輪加工所
があったとされる高橋貝塚(弥生前期〜中期)は、
西海岸の日置郡(現・南さつま市)金峰町にある。

7世紀、この地を本拠に阿多君一族が栄えたという。
 『日本書紀』に「吾田君小橋 火闌降命の子」とある
ので、この一族は日下部であることが分かる。
そうすると、日下部と日置部と隼人は同族で、
縄文時代から貝交易を代々行っていたと考えられる。

さて、ゴホウラの貝輪は、北九州はじめ大和各地
(北限は北海道)における弥生時代の祭祀遺物だが、
木下尚子・著『南島貝文化の研究〜貝の道の考古学』
(法政大出版局)によれば、貝輪には南島型・九州型の
2タイプがある。後者は九州で製品化されたため、
沖縄ではゴホウラ貝を供給するのみだったという。

供給地と考えられる、未製品のゴホウラが出土した遺跡
はそう多くはなく、沖縄・奄美諸島でたった7カ所。
種子島、奄美大島を除けば、沖縄本島の3カ所のみ、
宇堅貝塚、木綿原遺跡、そして垣花遺跡だという。

垣花(川原)遺跡については、以前も書いたが、
(記事はこちら)夏至の朝日が城門から入る
玉城城(南城市玉城)から近く、2kmの距離もない。

玉城城は、「アマミキヨが築城した」と言われる。
太陽の道(レイライン)を取り入れた城門。
その設計者とは、もしや阿多族の流れにある人々
ではなかったかと、私は最近、考えるようになった。
阿多・日置氏がアマミキヨならば、
日の出入りを観測してレイラインを引くのは容易だろう。



「一の郭はゴホウラ貝の形」と、長く語られてきた。
地元では、方言でスーフカ(潮吹貝)と呼ばれた。
「玉城城は貝溜まり」と言う人もいるが、詳細は不明。
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確かに城門とゴホウラの貝輪の形状は似ている。
↓ゴホウラ貝輪の復元模型。画像は『南城市史』より拝借。
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↓玉城城跡の内部。
夏至の朝日は、城壁の中央にある城門から差し込み、
左の木の下の御嶽にピタリ当たると言われている。
夏至の朝日を見るイベントが、よく催されている。
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標高180m、玉城城の城門から久高島方向を望む。
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さて、時代は下って12世紀、
くだんの南薩摩の日置郡金峰町を本拠にする
阿多忠景(生没年不詳)という豪族がいたという。
薩摩平氏の一流で、薩摩を直轄統治下に置き、
大隅・日向をも傘下に置いた南九州の覇者だった。

この阿多忠景が、保元の乱で破れた
源為朝に娘を嫁がせたとの伝承が、南九州にある。
 そして、為朝と共に琉球に渡って来たというが、
実は沖縄にも、戦前までは同じ伝承があったようだ。

為朝は大里按司の妹を娶って舜天が生まれ、
この舜天(1187〜1237年)は、琉球初代王になった。
そして、為朝は舜天を残して琉球を去る…。
これ以降の筋書きが、沖縄では途絶えた伝承だ。

〜為朝、琉球を去るに臨み、彼が最も信頼する家人、
阿多権守忠景を残して遺児を託した。〜
(与世里盛春・著『日本のふるさと--琉球--』より)

阿多忠景が琉球に骨を埋めたのかは分かっていない。


舜天のいた浦添城と↓浦添ようどれ(王墓)には、
冬至の日に、久高島の方向から朝日が昇る。
これもアマミキヨのレイラインか?
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by utoutou | 2016-05-05 20:20 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 ⑪ 春日山〜六甲山レイライン

昨夜、日下(くさか)について考えていた。
語り部から、電話で質問があったためだ。
「ヒノモトのクサカって、何ですか?」
いつものように神託があったらしい。
神託は声だけなので、漢字表記は分からないという。

日の下か、日の元か、日の本か、火の元か…?
また、クサカは日下でよいのか、草香なのか…?
そこから日下部を解いてみよと、挑まれている感じだ。


そして朝になり、最初に目についたものがこれ。
中村明蔵氏・著『隼人の実像』(南方新社)。
たぶん、ここにヒントがある。経験上。
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私は表紙にある「隼人の盾」に注目した。
8世紀初頭のものか。1963(昭和38)年に
奈良の平城宮跡から発見された16枚の板である。
1枚の高さは5尺(150cm)。人が隠れるほど大きく、
幅は1尺8寸(54cm)、厚さ1寸(3cm)だという。

奈良文化財研究所HPからも拝借した。
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『隼人の実像』を開き、該当する箇所を読む。
「第二部 朝廷に服属した隼人の諸相」より
「儀式に使用された隼人の盾」の項。

 南薩摩の隼人たちは、律令制度が整っていくなか、
中央に強制移住させられ、隼人司なる役所の所属と
なり、元旦や新嘗祭など朝廷の儀式の警護を担った。
また犬の鳴き声を真似る邪気払いの役割も果たした。

警護の際に掲げ持っていたのが「隼人の盾」で、
『延喜式』の隼人条には、その図柄は
〜「赤白土・墨をもって鉤型を画く〜とあった。
(要約と引用ここまで)

以下は私見…。
中央の渦巻き紋は鉤(かぎ)型で、隼人(日下部)
の祖(浦島太郎、神話では海幸彦)の海洋性を
表していると思う。また盾の上下に描かれた鋸歯紋は、
隼人はワニ(和邇氏)だという暗号だろうと思った。

日下部氏は、開化天皇の御子・彦坐王の後裔という。
その母(開化の妃)は、和爾氏始祖の妹・意祁都比売命
(おげつひめのみこと)。つまり日下部は和邇氏である。

和邇氏はまた、応神以降七代の天皇にも妃を出した。
天皇家の外戚として勢力を誇ったわけだが、時代が下り、
同族の隼人は都に移住させられて天皇の警護を担う。
大和の先住氏族だったにもかかわらず、
朝廷への服従を絵に描いたような職分は屈辱的だ。

さて、生駒山の西麓(現・東大阪市)に、
古来、草香(くさか)と呼ばれる土地があった。
二ギハヤヒが天降ったのは至近の哮峯(たけるがみね)
こと別名・草香山だったし、あの神武が東征の折り
熊野への迂回路をとった分岐点もここ。そして、
この地に定着していた人々が、日下族だった。



地図は日下雅義著『古代景観の研究』(中央口論社)より拝借。
6〜7世紀の摂津・河内・和泉の地図。
右端の南北は生駒山地、その西麓に草香津(赤線で加工)。
白い部分は海で、草香は港だった。
地図中央に平城京の副都だった難波宮■が見える。
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「日の下の日下」とは、まさにその草香津のこと。
平城京時代、「春の日の春日」と対句で歌われたという。
その意味を、吉村貞司氏は、
『原初の太陽神と固有暦』(六興出版)で解いた。

〜日下の土地は、日の出を見る地点であると同時に、
日没を見る所でもあった。具体的に言うと、
奈良の春日山を真東に、春分・秋分にこの神聖な
日の出を迎え、日は真西の大海の果てに沈みゆく日
を見ることができた。〜

日下とは、古代海人族による太陽祭祀の聖地だった。
そのことを語り部に伝えると、こう返ってきた。
「西の大海に沈む夕陽は、では、どの山にかかりますか?」
私は思わず唸った。
「ああ、六甲山でしょうね」

さっそく調べてみると…。
春日山(奈良市)北緯34度45分13秒
六甲山(神戸市)北緯34度46分40秒
2点は東西に並ぶ、春分・秋分の「太陽の道」だった。

レイラインに沿って日下族は移動したらしい。そんな
測量技術に長けた日下と日置は、やはり同族だったのだろう。






















by utoutou | 2016-04-30 16:40 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 ⑩ 琉球産の宝貝

以前、籠神社参詣した際、ケーブルカーで登り、
↓傘松山公園からこのような天橋立の絶景を見た。

眼下に広がる阿蘇海に天橋立が横たわっている。
半島と半島に挟まれた内海のようになっている。
その名からして、九州との関係が深いという印象がある。


写真の奥、山並みの向こう側は栗田湾といい、そこ
に注ぐ由良川の下流域に、志高(しだか)遺跡がある。
20年ほど前、この遺跡で弥生時代中期の墓、つまり
古墳の前段階の墓が発掘されたというが、
その際、宝貝が詰まった弥生土器の壷が出土した。
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宝貝には多くの品種があるが、キイロタカラガイ。
森浩一氏は著書『京都の歴史を足元からさぐる』
('10年、学生社刊、下の写真も拝借)で、
この土器が、中国式の貯貝器である可能性を示唆。
 豪族の墓の副葬品だったのではと、記している。
        
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キイロタカラガイは、中国では殷(前17〜11世紀)や
周(前11〜8世紀)の時代から、貨幣や贈り物として
用いられ、王墓の副葬品として大量に埋葬する
風習が、明代(14〜17世紀)まで続いたという。
いや現代でも、中国周辺に宝貝を珍重する所があると。

その事情を日本で最初に紹介した江上波夫氏は、
宝貝を子安貝と記したが、古代人が安産のみならず、
生命の永遠を願って、あるいは秘められた呪力を信じて、
女性器の形を崇めたのは、洋の東西を問わなかったようだ。



↓ 中国雲南省の石寨山(せきせいざん)古墳から
出た、漢代の貯貝器と、子安貝。
※写真は江上波夫・著『東アジア文明の源流』
(山川出版社)より拝借。
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こちらは、子安貝飾馬具(同じく借用)
中国河南省殷墟武官村大墓出土。殷後期(復元模型)。
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宝貝は、琉球が最大の産出地だった。
それを琉球人が採り、需要のある中国へもたらした。
船で運んだのは、主に九州の倭人たちだったと記し、
森氏はこの丹後の宝貝入り土器について分析した。

〜 丹後には中国の根強いタカラガイ愛好の習俗が
伝わっただけでなく、貯貝器に入れるというような
作法も伝わっていたとみられるのである 。〜

琉球産の宝貝が中国で珍重され、やがて日本海を経由
して、丹後に輸入されたのだろうと考えておられた。
ただ、伝わってきたのは「習俗と作法」だけとも読める。

では「宝貝と壷」はどこから来たのか? 土器は、
ここ丹後か播磨で作られたとの見方があるという。
宝貝については、琉球直送か大陸経由か分かっていない。

いずれにしても日下部氏がらみか? と、私は思った。

籠神社・海部氏の同族と思われる日下部氏は、
    この丹後・丹波・摂津・播磨に根を張り、   
日本海側の由良川から、瀬戸内海側の加古川へと繋がる
交通網の航海・水運権をほぼ掌握していたと思われる。

  いっぽう、日下部氏の祖先は、
薩摩の阿多にいた隼人という。その海人集団は、
紀元前から、琉球や南島産の貝を運搬する貝商人だった。

薩摩半島西岸部の阿多(現・南さつま市金峰町)の
高橋貝塚(縄文晩期〜)からは、琉球産のゴホウラ貝や
オオツタノハなどの大型貝類が出土しており、
              ヤマト各地に流通する貝輪の一次加工所があったという。              






















by utoutou | 2016-04-27 08:38 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 ⑨ 日置部のレイライン

六甲山が聖地たる所以は、ひとつには
六甲比命神社が鎮座していること、そして
もうひとつは、天日穂命の古代祭場があることだ。


六甲比命神社の磐座は、多聞寺(神戸市北区)
の奥の院として、雲の岩(↓写真奥の岩)や心経岩と
一体となっており、夏至の日の入りを向くという。
逆に、日の出方向に天穂日命の磐座がある。
この太陽の道(レイライン)を引いた古代人とは誰か?
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 磐座について、独自の視点で綴っておられる
ブログ『火(ホ)と「ニワ」と鍋釜』で、
甲山の磐座』(4/7)という記事を拝見したが、
六甲山東端にある甲山の東斜面からは、
見通しがよければ、年中、日の出が拝めるという。

ちなみに神呪寺は、北緯34度に位置している。
伊勢神宮、三輪山など、多くの聖地と同じ緯度である。
'80年に放送のNHK番組『謎の北緯34度32分をゆく
〜知られざる古代』は、未だに語り継がれている。

また、空海が創建した高野山も同緯度だと気づき、
「空海はなぜ北緯34度にこだわったのか?」
について調査された研究家に、笠井則男氏がいる。
笠井氏は、空海が金剛界曼荼羅を模してお寺を配置し、
レイラインを作ったのではとの仮説をまず立てたという。
(『空海の謎 ウェブサイト空海』に詳しい記事がある)。

レイライン作りに携わったのは、古墳時代初期
に活躍した測量集団・日置部(ひきべ)だった。
彼らは太陽の影を利用して、正確な緯度を測量。
レイライン上に寺院を配置するための日読みをした。



真名井神社の鳥居から宮津湾を遠望。天橋立から
北(写真左)へ約3km行くと日置(ひおき)の里。
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日置(ひき、ひおき)氏の祖先は出雲臣族という。
このうち紀伊・日置首は、天穂日命の後裔。

ようやく、六甲山の「天穂日命の古代祭場」に
↓ ストーンサークルがある意味にに合点がいく。
造ったのは天穂日命の裔にあたる測量集団だったか。
世界的に、夏至の日の出のとき、ストーンサークル
外側の立石と中心の石が一直線に並ぶとされる…。
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そういうわけで、日置氏は、
野見宿禰の土師氏や、菅原道真の菅原氏と同祖だった。

そして、日置氏には次のような特徴がある。
○土師氏は、埴輪作りや古墳造営に携わった。
○日置部は、製鉄・鍛冶を職掌としつつ
測量・暦作り・卜占いなどもした。
○日置部は太陽祭祀を司り、宮中では主殿寮殿部
として灯燭を司り、浄火を管理した。
 ○日置の語源は火起(ひき)。火鑚りの神事をした。
○日置郷は、新潟から鹿児島まで各地に点在した。

火と日と霊を崇め、御祀りをする火の一族。
沖縄久高島のアグルラキに住んだ島の始祖
アナゴノシー・アナゴノファーをやはり彷彿とさせる。
漢字表記にすると「穴子の子・穴子の婆」。

この一対神は、てぃだが穴(太陽の穴)
日夜守り崇めた天穂日命の一族だろうと、語り部は言う。
古代琉球人は、太陽は西(方言で、いり)に沈み、
地下を通ってまた東(あがり)から昇ると信じていた。
その太陽信仰からすれば、
地下は、夜の間の太陽の道(レイライン)だった。


ところで、日下部首の祖とされる浦島子がいた里
は日置(ひおき)といった。両者は同族だったのか?

日下部(日下部連、日下部首)は、開化天皇の御子
である彦坐王の後裔といい、『新撰姓氏録』には、
火闌降命(ほのすせり)の後裔で隼人と同族とある
ので、血脈は異なっているらしいが…。

とはいえ、日下部のいたところに日置の地名あり。
丹後だけではない。薩摩の阿多(吾田)にも日置があった。
阿多には、隼人の祖・火闌降命を生んだ木花咲耶姫がいた。
そのため木花咲耶姫は、亦の名を神阿多都比命という。

丹後と阿多は、海人族だった日下部氏を象徴する、
あるモノで繋がっていた。そして、琉球も…。



久高島・伊敷浜。東(あがり)のニライカナイを望む。
アナゴノシー・アナゴノファーの住んだ
アグルラキ(通称・みるく)はこの浜から近い。
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by utoutou | 2016-04-25 11:40 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 ⑧ 憧賢木厳之御魂天疎向津媛命

浦島神社(京都府与謝郡伊根町)には、
祓戸神(=瀬織津姫)も祀られている。

浦島神社の社殿は北向き。そうすると参拝する
方向はおのずと南向きになるわけで、真っすぐ先
に六甲比命の磐座が位置することになるという。
(大江幸久氏の資料より)

その六甲比命の磐座からは、
幾通りかの太陽の道(レイライン)が見て取れる。
夏至の日の出方向に六甲山頂、
石の宝殿(六甲山神社)、武庫山厳島弁財天などがある。
また、六甲比命の磐座から東へ300m離れた場所に
天穂日命の磐座が位置しているのも、見逃せない。


さらに見れば、
天穂日命を祀る ↓芦屋神社(芦屋市芦屋町)の
夏至の日の入り方向に位置しており、大きく俯瞰すれば、
伊勢の伊雑宮と、出雲大社を結ぶ線上にあるのだという。
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↓こちらは越木岩神社(西宮市甑岩町)の六甲山社。
憧賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかき・
いつのみたま・あまさかる・むかつひめのみこと)を
祀る山頂近くの六甲山神社(石の宝殿)を遥拝する。
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六甲山は古来、廣田神社(西宮市大社町)の社領だった。
廣田神社の主祭神は、『日本書紀』神功皇后
の条に登場する、憧賢木厳之御魂天疎向津媛命。

由緒によれば、その女神は、
伊勢神宮内宮に鎮座する天照大御神の荒御魂で、
神功皇后が征韓したとき霊位を示した。

私たちは、当然、天照御大神の荒御魂と、
憧賢木厳之御魂天疎向津媛命は同神と思ってきた。
が、そこに、「待った」をかけた人がいた。
古代史研究家の大和岩雄氏である。

〜『日本書紀』は、天照大神の荒御魂が
憧賢木厳之御魂天疎向津媛命だと、どこにも
書いていない。荒魂説は
鈴木重胤の『日本書紀伝』の「節」でしかない。〜
(大和岩雄・著『神と人の古代学』大和書房刊)

私は、このくだりを読んだ数年前、本当か?と、
図書館に出向いて各版元から出ている『日本書紀』
を比較してみたが、本当だった。

〜神風の伊勢国の百伝ふ度逢県の析鈴五十鈴宮に
坐す神、名は憧賢木厳之御魂天疎向津媛命なり。〜
と、伊勢神宮の神であることは記しているものの、
天照大御神の荒御魂とは、記されていなかった。

なぜ荒御魂になったかについて、大和氏は考察する。
鈴木重胤は幕末の国学者で、長州藩の勤皇の志士
たちに影響を与えた人物。そのため最後は暗殺された。
そういう生粋の国学者だったので、伊勢神宮に鎮座する
祭神は天照大御神以外にはあり得ないと独断したのだと。

なるほど、天照大御神が、持統天皇の時代に
つくられた女神であり皇祖神であるとすれば、
いわば縄文の女神といえる瀬織津姫が、その荒魂
 というのも、考えてみれば確かに少し無理がある。


伊勢神宮内宮・荒祭宮(左は古殿地)。
天照大御神の荒御魂が祀られているとされる。
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大和氏はこうも述べる。
伊勢神宮にあるすべての宮は南面しており、
東向きなのは外宮に鎮座する「土宮」だけだと。

土宮は、式年遷宮の山口祭・御船代祭の祭場、
古代海人族の古儀をいまに伝えている。

その太陽祭祀は、朝日・夕日信仰だった。
司祭したのは、天照日の神から離れて向かう姫。
憧賢木とは心御柱、いわゆる神木のことだろう。 
向津姫でなくては、神霊(厳御魂)は降ろせなかった。

では、神霊を発する最高神とは? 
例えば沖縄では、御天父親加那志(うてぃんちちうやがなし)
そして、御天母親加那志(うてぃんははうやがなし)という。

憧賢木厳之御魂天疎向津媛命は、古代の
海人族に奉じる日巫女で、後に女神と見なされた。
そして、神功皇后は最後の日巫女だったと思う。

『日本書紀』はその神功皇后を卑弥呼に仕立てたが、
憧賢木厳之御魂天疎向津媛命を天照大御神の荒御魂に
見せかけたのも、付会だったのではないかと私も思う。

 






by utoutou | 2016-04-23 08:23 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 ⑦ 真名井御前は日下部氏の姫

空海に浦島太郎の珠を渡したと言われる
真名井御前は、日下部氏の姫だったのか?
つまり、籠神社の海部氏の養女だったのか
について、あれこれ考えてみたい。

空海とともに神呪寺(かんのうじ)を創建して、
瀬織津姫を弁財天として祀った真名井御前。
その名前から、丹波の比治(ひじ)の真名井を
舞台にした「天女伝説」が、つい思い浮かぶが、
そのあたりに何か、真名井御前の出自に関する
ヒントが隠されているかもしれない。


籠神社の奥宮・真名井神社の鳥居。
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『丹後国風土記』(8世紀)に載るその
天女伝説が、沖縄のそれと決定的に違うのは、
羽衣を隠したのが男でなく、
和奈佐という老夫婦だった点だ。
二人に助けられた後、豊宇賀能売命という天女は、
お酒を造って老夫婦に大きな富をもたらした。

比治の里という伝説の舞台の地名、
酒を造るという特技(噛み酒)、
そして、老夫婦の名乗っていた「和奈佐」…。
このキーワードを並べてみると、この天女、
やはり琉球や奄美の島々に関係がありそうだ
と、思わずにはいられなかった。

地名のヒジに似たヒシとは、琉球から
南九州にかけて連なる島々を取り巻く干瀬のこと。
また、女が噛み酒を造るのは隼人族の風習。
隼人とは、薩摩の大隅半島にいた人々の呼称だ。

古来、噛み酒の風習は琉球にもあり、
久高島の古祭イザイホーでは、神女(かみんちゅ)
の就任儀礼を終えた女たちのする初仕事は、
嚙み酒を神人や島人に振る舞うことだった。
歯の綺麗な女ほど、よい酒が醸せると言われた。



久高島イザイホー(4日目)の演目、
グゥキマーイ(樽回り)と名のついた円舞。
中心に、タルマーミキ(樽の神酒)が置かれる。
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以前イザイホーの記事にも書いたが、
噛んだ酒を発酵するのには月の力を借りたという。
久高島では月の女神の名は、マチヌシュラウヤサメー。

ヤマトでは、発酵の神、月の神、草の神。
『古事記』によれば、鹿屋野比売神(かやのひめかみ)。
亦の名は野椎神(のづちのかみ)だと記されている。
    鹿屋野比売神は、イザナギ・イザナミの間に生まれた。 
そして、木花咲耶姫命の母神となった。
  
鹿屋野比売神は、なかなか歴史の表舞台に
登場しないが、その娘・木花咲耶姫命を祭神
とする都萬(つま)神社が、宮崎県西都市にある。
古来、司祭しているのが日下部氏である。

酒造りをする天女・豊宇賀能売命、
真名井神社の祭神である豊受大神
そして、真名井の霊水で育った真名井御前。
三重に重なるその女神像は、真名井御前が、浦島子
と同族の日下部氏の姫だと暗示しているように思える。

そう言えば、
浦島神社の相殿に祀られた祭神は、月讀命だった。



真名井神社への道。里と呼ぶのにふさわしい空気感。
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by utoutou | 2016-04-22 18:17 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 ⑥ 浦島太郎は住吉大神

浦島太郎が丹波の豪族だったことは、
浦島神社(京都府与謝郡)の由緒で分かる。

〜創祀年代は淳和天皇の天長2(825)年
浦嶋子を筒川大明神として祀る。
浦嶋子は日下部首等の祖先に当る。日下部に
ついては『新撰姓氏録』の和泉皇別の条に
「日下部宿禰同祖、彦坐命之後也」とみえる。
彦坐命は開化天皇(紀元前157〜98)の子、
従って日下部首は開化天皇の後裔氏族で、
その大祖は月讀命の子孫で当地の領主である。〜


祭神は浦島子(筒川大神)。
相殿神は月讀命と祓戸大神。
↓浦島神社写真はまたもや公式サイトより拝借。
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「月讀命」については後に考えるとして、
開化天皇→彦坐命→浦島子→日下部宿禰という系譜。
浦島子とは開化天皇の後裔にして、与謝の領主。
また、摂津を治めていた日下部宿禰の祖だった。

浦島子が帰還した頃、真名井御前が、
先祖の地・摂津の六甲山の東麓に、神呪寺を
創祀したというのも、自然の成り行きだったか。

と、ここまで書いて我ながら苦笑した。
浦島子が347年ぶりに帰還とはあり得ない話。

そこで、改めて語り部の意見を反芻してみる。
浦島子は、
「再びまた戻って来たのだと思います」

そこで、ようやく私もその真意に思い至った。
消えた神々が戻って来たということか…。

浦島子が龍宮城へ行った雄略22年。
真名井神社にも異変があった。
祭神・豊受大神が、天照大御神の神勅によって
  伊勢神宮外宮に御饌都神として迎えられたのが、
 同じ雄略22年だった(年代参照 伊勢神宮HP)。

それから347年、真名井御前が甲山で感得した
女神とは、故郷・真名井原に坐す豊受比売だった。
そのとき、一対神である豊受大神
(=浦島子=筒川大神)も甦ったと祝福された。
住吉三神の「筒」を冠した筒川大神とは、
住吉大神の亦名だったと思う。




↓真名井神社のご神体山(禁足地)の鳥居脇に、
神々の名が連なっている。
左の碑には、鹽土老翁、亦名 住吉大神、
亦名 綿津見神、亦名 豊受大神とある。すべて同神
という意味だろう。ちなみに、磐座の奥に小さく
「道祖神」とあるのを参拝した3年後のきょう発見。
こちらも同神としてのクナト神のことだろう。
そして、宇迦之御魂は豊受比売の亦名だと思う。
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『浦島太郎』とは、聖地・真名井にいた女神を
皇祖神・天照大神の御饌都神(食事を司る神)
として奪われた古代海部族のリベンジ物語か。

真名井御前は、真名井に坐す女神こと豊受比売
神格を継ぐ霊力(しじ)高い日の巫女だった。
幼名は厳子(いつこ)。

その一字「厳」は、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命
(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつ
 ひめのみこと=瀬織津姫)にも含まれる
「神聖なる、神々しい」という意味だろう。

真名井御前は、日の神に向かって崇める
「向津媛」となる宿命の姫だったのだ。



by utoutou | 2016-04-18 08:24 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)