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六甲山と瀬織津姫 44 東経135度の子午線

「レイラインは6本ある」という語り部への神託
 (記事はこちら)を私なりに受け止めて、
 メッセージに秘められた意図を推理してみる。
最終的に知りたいのは、無論、六甲山と
沖縄を出発した海人七氏族との関係である。

六甲山レイラインを考えるときの起点は、
語り部の言う日前神宮・国懸神宮(和歌山市)
東経135度12分(北緯34度13分)。

いわばカタカムナ人(アシア族)やホツマ族
の司祭者である向津姫(瀬織津姫)が、
北極星(天御中主神)を仰ぎ、日神に向かって祭祀
した聖地とは、東経135度の子午線(南北線)と、
レイライン(東西軸)が交差する地点となるはずだ。

瀬織津姫に所縁の聖地がはたして6ヶ所あるか…。
(奥宮と里宮の関係にある神社は1グルーブとした)


(1)保久良神社(神戸市東灘区)
東経135度16分(北緯34度44分)
本殿の右脇に摂社・御祓神社と東向きの
伊勢遥拝所、奥には三交岩なる巨大な磐座が
あり、古代祭祀場の中心地だったことが窺える。
御祓神社の祭神は春日大神と天照皇大神だが、
本来は瀬織津姫だったとの説もあるようだ。


(2)芦屋神社(芦屋市東芦屋町)
東経135度18分(北緯34度44分)
カタカムナ文献を残したアシア人が社名の由来?
横穴古墳に↓菊理姫(瀬織津姫)が祀られ、本殿には
豊受姫も鎮座。ちなみに、奥宮と言われる六甲山頂上
 近くの天穂日の磐座は東経135度14分(北緯34度46分)。
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(3)越木岩神社(西宮市甑岩町)
東経135度19分(北緯34度45分)
高さ10m周囲30m、本殿背後の甑岩(こしきいわ)
には、市杵嶋姫大神(瀬織津姫)が祀られている。
奥宮と言われる六甲山頂上の「石の宝殿」は、
東経135度16分(北緯34度46分)で祭神は菊理姫。
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(4)廣田神社(西宮市大社町)
東経135度20分(北緯34度45分)
祭神は撞賢木厳御魂天疎向津姫(瀬織津姫)。
創建時は神呪寺(東経135度19分 北緯34度46分)
のある甲山の麓にあったのではないかとの伝えがある。
↓廣田神社境内には、古代祭祀場跡らしき磐座も。 
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(5)六甲比命神社
東経135度14分 北緯34度46分。
六甲山頂上付近の磐座「六甲比命大善神」で
瀬織津姫が祀られていたことが『ホツマツタエ』
研究者によって紐解かれ、社祠が建造されている。


(6)本住吉神社(神戸市中央区)
東経135度15分(北緯34度43分)。
住吉三神と神巧皇后を祀るが、現在、大阪にある
住吉大社は、本来この摂津にあったと考えられる。


六甲山周辺の6カ所に太陽神を祀る聖地があり、
向津姫(瀬織津姫)たちが春分秋分のレイライン
を崇めていたと、語り部は視ている。

ただ、海人に七氏族がいたとするならば、
聖地は単純に1カ所足りないということになるが、
私は、7カ所目は真名井神社では…と考えた。

(7)籠神社の奥宮・真名井神社(京都府宮津市)
東経135度11分 北緯35度34分。
 日前宮のほぼ真北。祭神は豊受大神(天御中主神)。


東経135度の子午線。南は沖縄
最南端の波照間島から、北は北海道の宗谷岬まで、
連なる日本列島のど真ん中となる。画像は、
↓日本のへそ公園のある兵庫県西脇市のHPより拝借。

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東経135度「女神の子午線」は、何を語るのか…?



by utoutou | 2016-08-15 22:57 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 43 ホツマツタエ

保久良神社境内の磐座群 ↓について書いた頃、
語り部は、磐座が渦巻き状に配置されていると
霊視した。カタカムナ文献を残したアシア族が、
磐座群で宇宙を表現して祀ったものだろう…と。


境内を金網越しに撮影した磐座(神生岩)。
         磐座群が渦巻きを成すかは、一見では分からない。         
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私は言った。
「本殿の奥へは勝手に入れなかったのですが、
ネット情報では、そういう意見もあるようですね」
「渦巻き状の磐座は、まさに先日のブログの内容、
カタカムナのウタヒ”を象ったものだと思います」

そう言えば、やはり縄文人の古伝と言われる
『ホツマツタエ』の「アワ(天地)の歌」も
古代人の宇宙観を表し、四十八音が渦巻く。

語り部は言った。
「古代の人々が六甲周辺にいたのは、土地の持つ強い
宇宙エネルギーが渦巻いていたからだと思います。
日本のはじまりは六甲からとされるのは
その地質のためで、先住民も渡来人も、それに
引き寄せられるように、六甲を聖地とした…」



こちらは、ホツマ研究家・いときょう氏が
主宰する『縄文文字を楽しく書く会』で、
資料として頂戴した ↓「フトマニの図」。

カタカムナとは一味違うが、やはり図象文字。
言霊を中心としたホツマの宇宙原理を表す。
円の中央に「アウワ」とある3つの象字は、
宇宙の中心にいる創造主のことだという。

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 ↑古代人は、創造神が「ウー」と息を吐くことで
  アウワ(ビッグバン)が起きたと考えていた。
  この息から左巻きの渦「ア」と、右巻きの渦「ワ」
  が出現したという。これが語り部の言う「アワの歌」
  の渦巻き。保久良神社の磐座は渦巻きの再現か?

  

さて最近、そんなアレコレを
思い出させる話が、語り部から飛び込んだ。

「六甲周辺には、カタカムナ系とホツマ系、
ふたつの縄文民族の流れがあったと思います。
どちらも、非常に似通った宇宙観を持っていた」

初耳な話だったので、すかさず質問した。
「そういうふたつの民族が、共存していた?」
「他にも流れはあると思いますが、少なくとも
2族は熊野(紀伊半島)から北上した。その痕跡が
日前・国懸神宮のご神体、2枚の鏡だと思います」



紀ノ川の下流域に坐す日前宮(和歌山市秋月)
は、日前神宮・国懸神宮という東西2社をさすが、
西の日前神宮は「日像(ひがた)の鏡」が御神体。
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いっぽう、東の国懸神宮は「日矛の鏡」を御神体とする。
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神域の中央あたりの坐すのは、地主神である
名草彦・名草姫を祀る中言(なかこと)神社。
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聖域の奥深く祀られる2枚の鏡は、
記紀神話「天照大神の岩戸開き」に登場する
八咫の鏡に先立って造られた鏡というのが由緒だが、
語り部は、その具体的な経緯を推理した。

「日前神宮の日像の鏡は、カタカムナ人の御神体、
国懸神宮の日矛の鏡は、ホツマ人の御神体かと…。
縄文の同時代、ふたつの海人族がこの地で融合して、
瀬戸内海から六甲山へと移動したと、私には視えます」

しばし呆然の後、私はいくつかのことを思った。
ふたつの海人族は南方から渡来した?
この地に残留した集団は名草族とも融和した?
北上集団は、瀬戸内海を渡り加古川から六甲へ?

そして、視界が晴れるような爽快感を感じた。
一対の鏡を日神の御神体として祀ったのは日前大神。
その女神を、『ホツマツタエ』では瀬織津姫という。
亦の名は、撞賢木厳之御魂天疎向津姫。
六甲山の向津姫あるいは、六甲比命とも呼ばれた。

すると今度は、難問が飛んできた。
「天疎(あまさかる)の意味は何だと思いますか?」
「天御中主神を仰いで…ですか」
ただし、次の一言が私には難解すぎた。
「だから、六甲山にレイラインは6本あるのです」






by utoutou | 2016-08-12 18:41 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 42 カタカムナ文献

天御中主神と言えば…六甲山系の
金鳥山で発見されたカタカムナ文献に登場する
ミナカヌシのことではと、密かに思っている。

紀元前1〜数万年前という超古代の日本に
先住していたというアシア族(カタカムナ人)
の文化を示したカタカムナ文献。

科学者の楢崎皐月(ならさきこうげつ)が、
1949(昭和24)年、電気測定調査プロジェクト
のため金鳥山の山中に2ヶ月ほど穴居していた折り、
平十字(ひらとうじ)という猟師らしき男と出会い、
「カタカムナの神の御神体」なる巻物を見せられた
のを機に、5年の歳月をかけて解読したという。


金鳥山は ↓保久良神社(神戸市東灘区)の北にある。
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境内の裏(西北)に、金鳥山への道標があった。
楢崎は、金鳥山の頂近くのドロカエシの沼あたりで、
カタカムナ文字の巻物を持つ平十字と出会った。
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保久良神社参拝の後、その道標の前で、
金鳥山コースを登っていく男性と擦れ違った。
地元の方らしかったのに、ドロカエシの沼が
実在しているかを聞けなかったのが悔やまれる。
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さて、
カタカムナ文献の解読に成功した楢崎氏の弟子
・宇野多美恵氏が著した『相似象』学誌(全15号)
には、図象文字で書かれた80首の歌(渦巻き)
のうち5首が載っているが、第1首が ↓こちら。
※『相似象』第10号より拝借

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中央の「カ」から始まる渦巻き状の文字列とは…。

〜 カタカムナ ヒビキ マノスヘシ
アシアトウアン ウツシマツル
カタカムナ ウタヒ 〜

次のように読み解けるという。
※深野一幸著『超科学書 カタカムナの謎』より要約。

〜現象世界の背後には目には見えないカム
 という無限エネルギーが広がる潜象世界があり、
カムナという主(ヌシ)が存在する。いっぽう
現象世界にはカムナから作られたアマナという
主(ヌシ)が存在する。(中略)
このカタカムナの歌はアシアトウアンという
人物が渦の図象として写し奉った。〜

カムナという潜象世界の主に対する存在として、
アマナヌシという現象世界の主がいると…。
その名は、別の歌には、ミナカヌシとも記される。

アマノ・ミナカヌシと天御中主。酷似している。
また、アシア族と芦屋。
これも酷似しており、その関係も気になるところ。
保久良神社と芦屋は、わずか1駅の距離にある。


↓保久良神社の参道に立っていたMAPの拡大。
(赤線は当方の加工です)

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ちなみに、平十字は楢崎に言った。
このアシアトウマンとはアシア族の首長で、
天孫族(天皇家)との戦いに破れ九州で死んだと。

六甲は、やけに古代人の往還する土地柄だ。

先日、語り部も言っていたものだ。
「六甲には沖縄のセーナナー(海人七氏族)も
渡っていたのだろうと思います。
北へ北へ、にぬふぁ星(北極星)を目指して。
あるいは先祖のいた土地へ、先祖還りのために。
芦屋神社の祭神・天穂日命を祀る一族もしかりです」









by utoutou | 2016-08-10 10:31 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 41 天皇の背負う星

天で動かぬ北極星は、天帝であり天御中主神。
その星神は古祭・イザイホーから消えた。
というより、むしろ国王の神魂と習合されたうえ
祀られたと考えられるが、その神祭りの
在り方は、何も琉球王国だけに限らなかった。

伊勢神宮と大嘗祭(天皇の即位式)の主祭神は
太一(北極星)だと、民俗学者の吉野裕子氏は
『天皇の祭り』(講談社学術文庫)で述べている。

その推理とは…(以下要約)。

☆大嘗祭の祭神は、「太一」と太一に習合された
「天照大神」と「天皇霊」という三位一体の神霊で、
これらを祀るのが現身(うつしみ)の天皇である。

☆礼服は日本古来のものでなく、古代中国皇帝
の服制の踏襲。また伊勢神宮の宗教改革や
大嘗祭の制定は、天武朝において行われた。

☆天皇は、自身が宇宙神・北極星の化身であると
の自覚から、北斗七星を礼服の背に負っている。

☆天皇の礼服は、隠された大嘗祭の意味を
無言で明示する物的証拠である。



ということで、同書では
幕末の孝明天皇の礼服(宮内庁所蔵)を掲載。
北斗七星を背に負う。中国皇帝の場合は北斗七星
でなく、北斗と織女が袖に配されデザインが異なる。
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↓ 礼服表面の最上部(肩)には、
左に太陽と三本足の鳥が、右に月と兎が、また
両袖には巻龍が、大袖と裳(下の写真)の
全体で12種の刺繍が配されている。

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さて、
古来、天皇のあらたえ(神衣)を織り上げたのは
阿波(徳島県)忌部氏の末裔・三木家だったが、
平成の大嘗祭(平成2年11月)でも伝統は貫かれた。



忌部氏は古来、三種の神器(剣・勾玉・鏡)
を奉持し(古事記)、天皇家の祭祀の中心を成した。
神衣を織る大麻作りは、徳島県美馬郡木屋平村で、
三木家当主による種播きの儀式から始まるのが伝統。
↓『大嘗祭』(キョーエイ刊、非売品)より拝借。
(厚さ6cmある大著ゆえコピー不可で概観)
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大麻の刈取りと製糸を経て、神衣の織り初め式。
忌部神社で織女たちが4反の神衣を織った。

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平成2年10月27日、1年かがりで仕上がった
4反の神衣は、三木家から皇居へと運ばれた。

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天太玉命を祖とする阿波忌部氏は、
6世紀の中頃、阿波国に進出したと言われる。

忌部氏ら六家(他に出雲・物部・三輪・吾道・卜部)
は上古より続く史家だと『先代旧事本紀』は記した。

六家に天皇家を合わせて北斗七星を成す七家…。
忌部氏は、伊計島にいまも残るセーナナー御嶽を
発った七氏族のうちの一氏だろうと、語り部は言う。
六家の行き先は六甲山から丹後へ、出雲へ、紀伊へ、
伊勢へ。さらに東へ。列島各地だったに違いないと…。


by utoutou | 2016-08-06 10:12 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 40 天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)

伊祖グスクの後、波上宮へと足が向いた。
5月に参拝したばかりだが、ふとその気になった。

スサノオとイソタケル(五十猛命)。
「書記」では高天原から出雲に天降った親子神だが、
記紀の影響をほとんど受けていない沖縄にあって
も、イソタケルは馴染みの薄い神様だと思う。

いっぽう父神のスサノオは、沖縄総鎮守である
波上宮(那覇市若狭)の祭神・速玉男尊、
事解男尊と異名同神。琉球八社のうち七社に
祀られていることもあり、篤い崇敬を受けている。


波上宮の鎮座伝説に登場する崎山里主は、
察度王(1321〜1395年)の子で、南風原の
大国家(だいこくやー)の養子となったが、海で
釣りをしていて「モノを言う不思議な石」を得た。
霊石を狙う追っ手を逃れて ↓波上山に来たときに
「熊野権現をこの地に祀れ」と神託を受けたという。
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大国大主神の名は伊計島セーナナーでも見たが、
どうやら大国家はスサノオの神系統にあったようだ。

スサノオはまた天王ガナシーとしても崇められる。
「天土大神様(あめつちのおおかみさま)」とも
呼ばれ、琉球開闢の地・ヤハラヅカサ(南城市)
の浜川御嶽に香炉があったと、語り部から聞いた。



私は伊計島を取り巻くこの↓大海原を見たとき、
天王ガナシー・天土大神様・スサノオとは「水の星の神」
「地球創世の神」と人々は捉えていたのだろうと実感した。
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さて、伊計島を先頭(北)にして、本島の東に
浮かぶ、宮城島、平安座島、浜比嘉島、浮原島、
津堅島、久高島という7つの島を、かつて神人たちは
北斗七星に例えて、「にぶとぅい星(ぶし)」
(柄杓という意味)と呼んでいたという。

いっぽう、北極星は「子ぬ方星(にぬふぁぶし)」
で、船乗りたちが航海するときの目当てとされた。
その星は、籠神社の伝承で「宇宙根源の大元霊神」
とされる天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
(=太一、天帝)のことである。

沖縄とヤマトでは、天御中主神の神格は大違いだ…
と、つい思いがちだが、実はそんなことはない。
「子ぬふぁ」(北の方向)に動かずに坐す大神として、
久高島の古祭・イザイホーでも崇められていた
ことが、その祭祀構造から見てとれる。



↓イザイホー(1978年で終了)の祭祀場となった
御前庭(うどぅんみゃー)。神アシャギ(中央)など
神屋は南面し、その奥=子(北)の方向の森のなか、
神女らが籠る7つの小屋(ナナツヤー)が建てられた。
8つ目の小屋にはアカララキ(瀬織津姫)が鎮座した
(過去の記事はこちら)。神魂の転生を司る縄文の女神だ。
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子(北)と午(南)の方向を重視する祭祀様式から、
イザイホーは「子午線の祭り」とも呼ばれる。
が、祭りが王権儀礼となって以来、天御中主神の
信仰は失われたのではないかと、島の神人は言った。
「久高島に日神と月神はいるが、星神は消えた。
それは琉球国王に取って代わられたのだろう」と。

とはいえ、
琉球王朝は「日月星辰」を信仰の基層とし、
天御中主神を秘神として崇めていた節がある。
首里城の北に位置する神屋には、聞得大君御殿に
あったものと同じ掛軸(弁財天と7人の日巫女)が、
いまも残っている(過去の記事はこちら)。  
その神像図は、丹後地方に残る天女伝説と相似だ。

語り部は、その中心に天御中主神を視る。

真名井神社の祭神は、豊受大神(=天御中主神)。
セーナナー(海人七氏族)は丹後へと渡ったのか…。





by utoutou | 2016-08-01 10:48 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 39 イソタケルの城

伊計島は、古くは伊計離と書き「いちはなり」と
呼ばれたそうだ。「いちばん離れた島」の意味
     というが、なぜ「いち」に「伊」の字を当てるのか。    

思えば、沖縄に「伊」のつく地名は少なくない。
伊是名島、伊平屋島、伊江島、伊武部、
伊良部島、伊波、伊集、伊敷など。

久高島の東海岸にある白砂の聖地は、伊敷浜。
また地名でありグスク名でもあるのが、伊祖。


というわけで、伊計島を訪れた後、浦添市にある
伊祖グスク(現在は伊祖公園内)に行ってみた。
英祖王(1129〜1299年)の父祖代々の居城
だったと伝わる。伊祖公園内の丘陵がグスク跡で、
あちらこちらに古い石積みや石垣が残っている。
高さ50〜70m、縦長の城跡。鳥居の先が本丸跡。
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伊祖グスクは、『おもろさうし』に、
「あまみきよが、たくだる(つくった)ぐすく」と
歌われ、土器、須恵器、中国製磁器、貝殻、南蛮陶器
など、海を越えた交易を物語る遺物が出土している。

↓ 伊祖グスクの本丸跡あたりに建つ伊祖神社。
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↓ 伊祖神社の奥へ進むと物見台。拝所でもある。
眼下に、沖縄最古の貿易港である牧港が見える。
(煙突は火力発電所のもので、電波塔も兼ねる)
写真の右奥には、宜野湾や北谷の海岸が、また
写真からは外れるが、南西には慶良間諸島が望め、
この地が古来、要害の地だったことが感じられる。
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これまでも、
英祖王はアマミキヨ」などで推察してきたが、
この伊祖グスクで生まれたとされる英祖王は、
海部・安曇の流れをくむ古代海人族の末裔である。

では、伊祖の「伊」とは? と、改めて考える。
ヤマトの各地にも「伊」のつく地名は少なくない。

伊勢、伊豆、伊東、伊根、伊賀、伊丹、伊予、
伊那、伊万里など、全国に点在している。


神社では、伊勢神宮、伊雑宮、伊弉諾神社、そして
伊太祁曽神社(和歌山市)が代表的なところか。
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伊太祁曽神社はスサノオの御子・イタケル
(五十猛命、イソタケルを伊太祁曽神社ではそう呼ぶ)
を祭神とするが、歴史作家の戸矢学氏は、
「伊」とはイタケルのことであると、
著書『二ギハヤヒ』(河出書房新社)に記している。

紀伊国の「紀」は紀氏を意味するが、では古代、
「伊」氏もいたのかという観点から氏は考察した。
(以下、要約)

☆紀伊地方に紀氏と並ぶ伊氏がいたが、消えた。
☆「伊」姓は奄美地方に、またかつて沖縄にもいた。
古代海人族「伊」氏の名残かもしれない。
☆古来海人族の活動範囲は、中国江南から朝鮮半島、
日本列島の沿岸部全体で、自由に往来していた。
☆「伊」とはイタケル、海人族の王のことである。

さて…
伊祖グスクは、アマミキヨの造った城。
「伊」をイタケルと仮定するなら、伊の祖
・アマミキヨとは、スサノオということになる!?







by utoutou | 2016-07-27 18:48 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 38 豊葦原の大国主

伊計島・セーナナー(海人七氏族)の御嶽を
背にして右(西南)を見ると、宮城島が見える。
海中道路(1971年完成)が貫通するいまは、
勝連半島から伊計島まで一気にアクセスできる。
古代の船は、島々添いにこの海を往来したが、
干潮時には、近い島同士なら歩いても渡れたそうだ。


ちょうど大潮の日、珊瑚礁が露になった
その干潮(ヒシ)が、目の前に広がっていた。
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セーナナーを背に左を向いても↓干潮の海。
(写真中央右)に伊計島の北端近くにあるホテルが、
またその先に、本島の金武湾周辺の陸地が見える。
金武湾沿岸にも、九州弥生時代の遺品が出た
宇堅貝塚や、伊波貝塚などがある。ヒシは、
南洋・琉球奄美諸島・九州を結ぶ珊瑚礁の道だ。
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沖縄方言では干潮を指す「ヒシ」という言葉。
隼人族は、ズバリ「鉄」をそう表現したという。
台湾や南洋系の海人族の間では、「鉄」「鉄斧」。
マレー語では、besiに「鉄」という意味がある。

豊葦原の瑞穂の国とは、この東海の島々のことだ。
そしてこの島々から発した人々は「豊」の一族…。
干潮(ヒシ)を見渡すこの海辺に立ち、
そう思わずにいられなかった。



セーナナーの聖域内の石碑には、
「御先神様御降臨の聖地」と刻まれている。
御先(うさち)とは、紀元前後のことをいう。
その時代に往来した古代海人七氏族の痕跡を、
この地に残った後裔族が語り継ぎ、建立したようだ。
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御嶽内には石棺がいくつか安置され集合墓地の
様相を呈している。市教委の説明板にある通り、
この「降臨地」から、ある一族は島内の西部へと
移り住み…またある一族はヤマトへと北上した。
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海人七氏族の痕跡は↓御嶽内の拝所にも見られた。
縦70cmほどの小ぶりな石に神名が刻まれている。

左は、左三つ巴紋とその下に「大国大主神」と。
右は、左二つ巴紋とその下に「恵比寿大神」と読める。
中央には日月紋らしき刻印があるが、その下の神名は、
摩耗していて、しばらく目を凝らしても読めなかった。

とはいえ、大国主と恵比寿神というヤマトの神名
は、末裔同士の交流が長く続いた歴史を偲ばせる。
逆に、大国主は琉球に発した言葉とも考えられる。
沖縄本島には、大国大主という按司がいて、
大国家という根家があったとの伝承が残っている。
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海人族は、「移住する王朝」でもあったと思う。
首長・大国主に率いられた一族は居住地を
離れて新たな土地へと移住したが、故郷に残った
血縁一族とは交流を続け、領土を拡大していった。

その「豊の国」は九州を北上し瀬戸内海を渡って、
丹後へ、出雲へ、紀伊へ、大和へと移住した。

海人七氏族とは、「豊の国」から移動して
ヤマト国を拓いた「七つの首の蛇(龍蛇族)」。
神女は「七ぬウミナイ」(7人の日巫女)という。
(那覇市に残る所縁の記事は、こちら

「豊の国」の日巫女たちが崇めたのは、豊受大神。
  籠神社は亦名を宇迦御魂(うかのみたま)とする。 
海人七氏族(七つの首の蛇)の御魂である。















by utoutou | 2016-07-23 19:01 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 37 伊計島の「鏡」

沖縄本島の東に浮かぶ伊計島。
セーナナーの御嶽を抜けると海に出た。
7月4日(月)11時11分。
丘の上に、南東の空を向く大きな鏡を発見。
斎場御嶽のナーワンダーグスクと同じカーブミラー状。
鏡自体は古い時代のものではないと分かるし、
いま『琉球国由来記』を調べても、伊計島ノロが
祀る祭祀所として記録が残っているわけではない。


ただ、鏡の前に置かれた香炉は、ここが
太陽神と祖神を崇める聖地だったことを物語る。
少なくとも七氏族(セーナナー)の末裔にとっては。
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…にしても、はあ(なぜここに鏡)と、溜め息が出た。
標石は見当たらない。ただ日に向かう鏡。
その中心へと寄り添うように支石が積まれている。
語り部がの話では、20年前ぐらいまでは、もう少し
小型だったというが、ともかく鏡は祀られていた。

スマホ画像に残る時刻は、同じく11時11分。
正面から見上げる鏡に太陽光が映り込んでいた。
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やはり11時11分。右へ進んでまた1枚。
近くの海岸に釣り人がいるらしい気配があったが、
あえて島の突端に鏡を祀ったところに、
海人族の末裔らしい神祀りのありようを感じる。
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セーナナー御嶽へと進む小道沿いには、
大日本塗料社の耐候性試験所というのがあった。
また、後日ネットで店名を知ったのだったが、
ギリシャ料理店リトルグリークキッチンがあった。
コンテナを利用した店内を窓から覗くと、
天井で白い羽根の扇風機がゆっくり廻っていた。
本島からグルメが車を飛ばして通う人気店らしい。





鏡と正対したまま振り帰ると、一面の海。
鏡はいったい、何と相対しているのか? と思う。
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海から30度ほど体を西にひねると目前に宮城島。
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拝所を去る間際にもう1度、鏡を見上げる。
微妙な角度で上を向く鏡には通信機能もあったか?
久高島で聞いた話では、神人たちや海人たちは、
かなり最近まで鏡の光で通信し合ったという。
西海岸と東海岸で、モールス信号を打つように。
しかし、鏡の先には太平洋が広がるだけだ。
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あるいは、南中の太陽光線を捉える装置か。
子午線(南北線)を示す太陽コンパス?
しかし、羅針盤ならこうして大地には祀らない。


どこまでも謎の鏡。一笑に伏される覚悟で聞いた。 
「鏡は、沈没したムー大陸を指しているのでは?」
    すると語り部は、さらりと言った。   
「日のいずる処から来た人々の痕跡ですからね」
「ムー大陸から来て、ヤマトへ行った人たちの?」
「はい、そう思います」

(やはりか…)はあ…と、また溜め息が出た。










by utoutou | 2016-07-19 21:47 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 36 琉球にいた海人七氏族

海部氏系図に「おとよ」という男孫がいる
いっぽう、歴史に残る姫に台与(とよ)がいる。
『魏志倭人伝』に卑弥呼が没して国が荒れた後、
13歳で女王として立ったと記された日巫女である。

海部氏の勘注系図では、
九世孫の妹・日女命(ひめのみこと)がいて、
その亦名が、倭迹迹日百襲姫命
(やまとととひももそひめ)だが、これが卑弥呼か。

また日女命は十一世孫の妹にもいて、その亦名
稚日女命(わかひるめのみこと)、あるいは、
小豊姫命(おとよひめのみこと)となっている。
この姫が、どうやら台与のことらしい。
(伴とし子著『卑弥呼の孫トヨはアマテラス
だった』を参照)

小登与、小止与、雄豊、そして小豊姫…。
それら「おとよ」なる人々は、語り部が言うように
真名井神社の祭神・豊受大神に繋がる人々なのか?

語り部は言う。
「豊とは沖縄でいうトトの神、つまり偉大なる父神
を意味する言葉です。神様を拝んで合掌する
とき、沖縄の人たちはウートートと念じますよね。
そのトトです。そして、倭迹迹日百襲姫命に
あるトトも、私は同じ意味だと思っています」

私のブログネームはそのウートートから戴いたが、
豊受大神を指しているかもしれないとは驚きだ。
「豊」族が、古代に琉球から渡海した海人族なら、
邪馬台国の台与も琉球にいたことになるのか!?


なかば呆然としつつ、改めて
籠神社の所伝にいう豊受大神を見てみる…。

籠神社の先代宮司・海部穀定著『元初の最高神
と大和朝廷の元始 伊勢神宮鎮座前史の研究』
からは、次のような神像が浮かぶ。(要約)

☆雄略の時代、真名井原の与謝宮から伊勢
神宮外宮に御饌都神(みけつかみ、食の神)として
遷移した神格に限らず、宇宙根源の大元霊神である。
☆元初の神で、天御中主神、国常立尊に該当する。
☆その権現した神は、宇迦御魂(倉稲魂)である。

海人族は豊受大神こと宇宙の大元神を信仰した。
思えば、ウカノミタマ(宇迦御魂、倉稲魂)に
ついては1年ほど前に、こちらのシリーズで書いた。
久高島や玉城に残るかすかな手がかりをもとに、
ウカノミタマとは、龍蛇(大船)に同乗して移動
した「7つの首の蛇」こと海人七氏族のことだと。


そして今月上旬、語り部が、何十年も昔に
聞いたあることを、突然思い出したと言った。
  
「御先(うさち、上古)の時代、伊計島からヤマト
に上った七氏族がいたと、神人から聞いたことが
 あります。伊計島にその場所が残っていたんです」

ちょうど沖縄にいた私は、
語り部に案内を頼み、レンタカーを走らせた。


古代氏族の痕跡はしっかりと残っていた。
伊計島の集落のはずれにある御嶽・セーナナー。
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セーナナー(七氏族)の詳しい動向は忘れ
去られたようだが、うるま市教育委員会による
標識が立っており、次のような説明があった。

〜セーナナーは、伊計島に人が最初に暮らした
地と言われている聖地です。その場所から
ニシバル(西原)のシンヤマへ移住したと
伝えられています。
かつて、伊計島のナナウジ(神を祀る家)たち
は御馳走を供え、祈願しましたが、残念ながら
現在は行われていません。〜


鳥居から入った聖域には、拝所や石棺が並ぶ。
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拝所ばかりではない。語り部がジャングルのような
草むらを進むので追うと、その先に開けたのは…。
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海、太平洋である。
さらに、岩場伝いに干潮の波打ち際まで降りると、
これはヒミコの鏡??という光景が目に飛び込んだ。
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by utoutou | 2016-07-17 21:18 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(6)

六甲山と瀬織津姫 35 ヒミコは移動した

海部氏の系図に「とよ(豊)」のつく男孫が、
度々登場するが、その名の由来とは何か?
ということを考える前に、女神の話を少々…。

撞賢木厳之御魂天疎向津姫命(つきさかき
いつのみたまあまさかるむかつひめ)は、
ご存じ、神功皇后が創祀した兵庫第一の古社
である廣田神社の主祭神。
日本書紀的には、天照大御神の荒魂とされるが、
この長い神名について、語り部はこう言っている。

「日巫女が掲げた神の依り代を連ねた神名だ」と。
彦火明命…のあの長い神名のときのように、
今回も分解してみると、意味がよく分かると。

そんなわけで、以下のように分解してみると…
撞賢木・厳之御魂・天疎・向津姫命。
なるほど、絵に描いたように日巫女像が見える。
剣・勾玉・鏡・を掲げて日神に向かう姫だ。


↓廣田神社の祭神名の由来はその祭祀にある?
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廣田神社の境内には古代祭祀を偲ぶ井戸もある。
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その神水は、神奈備である甲山から廣田神社へ。
その御手洗川はいま、散歩道や公園になっている。
↓ 廣田神社にある古代遺跡地図。
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では、その日巫女(向津姫)はどこにいたのか?
私は「豊の国」にいたのだろうと思った。
豊後、豊前、豊浦など「豊」のつく地名の多い
土地と言えば、北部九州である。海部氏の
先着隊は「豊の国」から丹後に移動した。

そして、その名残りをとどめるように、
首長の名に、「とよ(豊)」の暗号を潜ませた?

祭祀を担う日巫女は、撞賢木厳之御魂天疎向津姫命。
剣・勾玉・鏡という弥生時代の「三種の神器」
が、王墓からの副葬品として揃って出土するのは
全国でも北部九州だけで、畿内には見られないという。

「豊の国」には、あのヒミコの鏡の出土した
 日田(大分県)も含まれることは記憶に新しい。
思えば、その一族とは琉球から渡来した日下部
だったとは、何度か書いた()ことだった…。







by utoutou | 2016-07-13 21:28 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)