カテゴリ:瀬織津姫( 138 )

六甲山と瀬織津姫 28 てぃだ(太陽)の穴

ちょっとした疑問があった。「太陽の道」
は「鉄の道」と真弓常忠氏は説いたが、
北緯34度32分には幅(1分=1.85km)がある。
同じように「朝日さす夕陽輝く土地」でも、
南北1.85㎞のゾーンには山もあれば平地もある。
ならば太陽とも鉄とも言い切れないのでは…と。

山中には鉱床があり、平野は祭りの庭だった。
大和平野の中央であり、三輪山の真西に坐す
多神社(奈良県磯城郡田原本町)では上古から
三輪山の祭祀が行われていたと、「太陽の道」
に最初に着目した小川光三氏は、その
著書『大和の現像 知られざる古代太陽の道』
(大和書房)に、記している。

多神社が三輪山の祭祀にとって重要となった
理由は次の3つ(要約)。
・春分の朝日が三輪山の背後を輝かせて登ること。
・平野の中央にあるので、人々の集合に便利。
・古代は飛鳥川の河原か、寺川に挟まれた
中州のような所であったこと。

地元では、三輪山を「おおがみさん(神さん)」
と呼び、多神社を「おおのみやさん(宮さん)」
呼んできたという。つまり、「神を祀る場所」。
両者を結ぶ線上に、箸墓、室生寺、大鳥神社、
斎宮など聖蹟が並ぶとしたのが「太陽の道」だ。


↓写真は、小川光三著『大和の現像 〜
知られざる古代太陽の道』(大和書房)より拝借。
題して「多神社の杜と二上山の夕陽(秋)」。
a0300530_15170002.png



いっぽう、「鉄の道」は中央構造線と重なる。
↓こちらの地図は大鹿村構造線博物館HPの
中央構造線てなに?」から拝借したが、
大和平野を貫くように中央構造線の付加帯
(濃ピンク色)が走っているのが分かる。

ちなみにこの西日本内帯は、東は諏訪湖
まで、南は沖縄まで続いているという。
a0300530_15083763.png



「太陽の道」を発見した小川氏は、さらに
  興味深い、もうひとつの「太陽の道」を記した。

大神神社の摂社・桧原神社の真西を正確に計る
と、二上山北鹿の北側に見えるV字の谷で、
春分と秋分の夕日はここに当たるというが、
その谷とは、古来、大阪道とも呼ばれた穴虫峠。

万葉歌にもある大穴道(オオナムチ)が語源で、
そこには、古代人の宇宙観が反映されていると。
曰く、東から出た太陽は天空を横断して西の穴
(穴虫峠)に入り、翌日また東から現れる…。

このくだりを読んだとき、私は仰天した。
琉球の古代人の宇宙観とまるで同じなのだった。
久高島では、古来、地中には太陽の通る道
があると考えて、「てぃだが穴」と呼び、崇めた。
古来、アグルラキという御嶽では、その穴を
崇拝する祀りが行われていたという。


久高島、西海岸の漁港から本島を望む。
斎場御嶽の方向が「太陽(てぃだ)が穴」だ。
a0300530_15074618.jpg



'14年の夏至の日没を撮ったこの港、
↑古称「ちみんとぅまい」(聞得大君の着く港)
からは、斎場御嶽の奥宮・ナーワンダーグスクも
見える。そのグスクの様相も奈良の二上山に似て、
男(イキガ)女(イナグ)一対の巨岩である。

同じ景色を聖地として崇め、同じ宇宙観を持った古代
の人々。どちらも天体をよく知る海人族だったか。
「太陽の道」には、その習俗が感じられる。
















by utoutou | 2016-06-26 12:31 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 27「太陽の道」は「鉄の道」

北緯34度32分をゆく「太陽の道」の線上に
 ある美具久留神社(大阪府富田林市宮町)に
 は水分神(みくまりのかみ)が祀られている。

天水分神(あめのみくまりのかみ)
国水分神(くにのみくまりのかみ)

天水分神とは、聞き慣れない神名だったが、
籠神社に参った際に「御由緒略記」で知った。
主祭神・彦火明命、相殿に豊受大神、
天照大神、海神、次に水分神が配祀されている。

天水分神とは、
〜大元霊神の御徳を分掌せられて、水の徳を
以って諸々の水利、水運、水道などをお司り
になる。奥宮相殿の罔象女(みずはのめ)命と
共に、神代以来最古の水神。〜だという。



田畑に水を配分するのが、天水分神。
籠神の奥宮・真名井神社へ進むと、
鳥居の前で狛犬ならぬ一対の狛龍がいた。
水分神といい龍といい、海洋の民らしい設えだ
と思ったが…。※'13年10月に参った際に撮影。
a0300530_17551400.jpg


 
 あれから数年を経たいま、丹後や丹波の
国名が含む丹(水銀=辰砂)と水別神の
関係が、しきりと思い起こされる。

北緯34度32分の線上に鎮座する
 美具久留(みぐくる)神社の創建由来に出てきた
  氷香戸辺(ひかとべ)は丹波国氷上郡の女首長。
 
 氷上郡は今も「日本一低い分水嶺」として有名で、
 古来、太平洋と日本海の交易ルート上にあったが、 
 その分水嶺が「水分かれ」と呼ばれる
 産鉄地だったことは各地の伝承が物語っている。

氷香戸辺が『日本書紀』で皇子に進言するくだり
は唐突だが、鉱山の頭領だった有力者なら頷ける。


「日本一低い分水嶺」として有名な丹波市氷上町。
いまは↓「水分れ公園」がある。背景が分水嶺?
こちらの写真は神戸観光名所写真集より拝借。
a0300530_18185735.jpg


そんなわけで、「太陽の道」は鉱山と無縁ではない
と思う。線上に位置する箸墓古墳からは、10年前、
水銀の朱を使った祭具(木製仮面)が出土している。


逆に西へ進んで、ほぼ線上にあるのが、
 宇陀水分神社神社(うだのみくまりじんじゃ)
(奈良県宇陀市)。崇神天皇代の創建。国宝である
豪華な朱塗りの社殿の写真は公式サイトから拝借。
a0300530_11332449.jpg

宇陀水分神社は、大和水銀鉱山に最寄りで、
祭神は、天水分神、速秋津比古神、国水分神。

水分神、あるいは水分神社について、
田中八郎著『大和誕生と水銀〜土ぐもの語る
古代史の光と影』(渓流社)は次のように述べる。

(要約)
☆水分神社と「水の配分」とは関係がない。

☆水分神社は奈良県内に50社以上あったが、
社名変更されたり、神名を掲げていない社も。

☆主に、宇陀・都祁(つげ)・吉野に集中
しており、奈良盆地内には4社しかない。
奈良県以外には大阪府に3社など、わずか。

☆飛鳥でヤマト政権が動き出し、金メッキの
仏像などの生産工房が稼働すると、水銀産出地
である宇陀は、一時加工所のメッカとなった。
その「水分加工所」は8世紀後半まで稼働し、
後に神社として祀られたが、歴史は失われ、
9世紀の「延喜式」で単に「水の神」とされた。

☆ほどんどの社が、天水分神と国水分神の併祀
で、王権直属系と先住民系の違いを表している。

話は戻って、「太陽の道」は「鉄の道」だと、
真弓常忠氏はその著書『古代の鉄と神々』
(学生社)で論を展開している(以下要約)。

☆「朝日さす夕日輝く」土地は財宝ならぬ鉄の
在り処を教えている。

☆北緯34度32分線上の三重県御壷山の周辺は
土壌が鉄分を含む赤土。ここは日置姓が多く、
日祀りと共に日神祭祀を行い、製鉄に従事した。

☆線上の葛木山(金剛山)の土壌は朱砂(辰砂)。
ここで修行した役行者は賀茂の役(採鉱)の民。
賀茂氏も古くは製鉄と関わりを持っていた。





by utoutou | 2016-06-22 22:08 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(7)

六甲山と瀬織津姫 26 知られざる元出雲

北緯34度32分のレイラインに古代遺跡や神社
などが並ぶ「太陽の道」。それについて
考えるとき、いつもふと脳裏に浮かぶのは、
保久良神社(神戸市灘区)で見た大阪湾鳥瞰図。


鳥居前の見晴し台から見える海の景色に対応。
大阪湾、古称「茅渟(ちぬ)の海」が、
丸い海岸線に包まれるように広がっている。
淡路島(鳥瞰図の右端)から天王山(左端)
まで、ポイントの地名がズラッと記されている。
a0300530_12011412.jpg


ちなみに、赤の矢印は私の加筆による。
二上山(左の矢印地点)と淡路島(右)。
左右2点を繋ぐと北緯34度32分の「太陽の道」。
三輪山の方向も、あの左端かなと遠望できる。

ちょうど散歩中のおばあさんが足を止めて、
言ったことが、繰り返し思い出される。

「西は淡路島でしょ。東はほら奈良の二上山まで
バーンと見えるの。聖徳太子のお墓もあのへん」
「そうですか。二上山って案外と近いんですね。
ここの神様も海をバーンと見渡していたかしら?」
「そりゃあ、まあ、見ておられたでしょうねえ」


私たちの後ろの正面に、祭神の椎根津彦こと
珍彦(うづひこ、後の倭宿禰)が鎮座していた。
a0300530_11571250.jpg

いま保久良神社神社に祀られる珍彦は、
淡路島の北の速水門(明石海峡)で、東征する
神武を出迎えた。渦潮が逆巻くそこは海の関所?
珍彦は、茅渟の海の王だったのではないか。
いま私はかなり本気で、「太陽の道」を定めた
 のは珍彦の一族、日下部だろうと考えている。



さて、随分と前置きが長くなったが…こちらも
「太陽の道」の線上にある、美具久留御魂神社
(みぐくるみたまじんじゃ、大阪府富田林市)。

私は参ったことがないので
↓写真は富田林観光協会様から拝借した。
a0300530_11445428.jpg


語り部の見立てでは、この
神社が「太陽の道」の重要ポイントらしい。
それを聞き、私なりにも調べてから、
美具久留御魂神社の由緒をかいつまんで話した。

「由緒によると…十代崇神天皇の時代、ここに
大蛇が出て農民を悩ませていたが…丹波の国の
氷香戸辺(ひかとべ)の子に、お告げがあったと。
日本書紀に見えるその託宣とは…、
“玉藻鎮石 出雲人祭 真種之甘美鏡 押羽振
底宝御宝主(略)底宝御宝主”…それを祭るようにと。
天皇はそれをお聞きになって、この御神体は
山河を泳ぎ渡って来た和邇神(龍神)だとして、
この地・支子(きし)に皇子(後の垂仁天皇)
を遣わして、美具久留御魂大神を祀った…。
和邇神、龍神、なんだか琉球を感じますね」

語り部は言った。
「美具久留とは、沖縄で言う御心(みぐくる)だと
思います。和邇神・龍神というならなおさらに」
「確かに、琉球は龍宮と言われていた…では、
琉球も出雲として、出雲の人が祀った何かとは?
随分と難しい漢字が並んでいますけれど…」
「玉藻のような勾玉、本当の鏡、立派な刀。
出雲が祀った“三種の神器”のことだと思います」
「でも、ここは出雲ではなく、大和ですよね」
「つまり、本当の元出雲ということでしょう。
この事件がきっかけで出雲に杵築大社を創建する
計画が立てられたのではないでしょうか?」

確かに『日本書紀』の
崇神天皇の条に、「神宝事件」が綴られている。
神宝を管理していていた出雲振根の留守中に、
朝廷の求めに応じて、弟が神宝を差し出した。
振根は怒り、何年も治まらず、遂に弟を殺した。
それを聞いた吉備津彦は、出雲振根を殺させた。
出雲臣側は怖れて、出雲大神を祀らなくなった。

そして氷香戸辺の登場、神託となるのだが、
思えば、その女性シャーマンのいた丹波の
氷上とは、由良川と加古川の繋ぎ目にあたる地域。
一帯の水運・航海権を握っていたのは日下部だ。

元出雲とは、日下部とその同族の海部氏が
 君臨した大丹波王国のことだったか。別名・倭。
珍彦が見渡していた「茅渟の海」と「太陽の道」。
 つまり河内、和泉、難波、大和。そして近江も?
また背後の丹波、丹後、摂津、因幡、播磨、但馬。

そのすべてが大和に中央集権国家が成立する
以前の大王国だったなら、「太陽の道」とは、
単なる太陽祭祀ラインではないかもしれない。
巨万の富を築き、経済と流通を支えた生命線。
もしや、それは「鉄の道」とか?







  

by utoutou | 2016-06-20 09:38 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 25 太陽の道

狭井神社の「さい」とは「斉の国」だ…という
語り部の話で思うのは斎場御嶽(せーふぁうたき)。
古来、「さいはのうたき」と呼ばれていた。

琉球王朝時代には、代々の聞得大君(最高神官)
の就任式を行った聖地、つまり王家の「祭祀場」だ
が、「葬場」あるいは「墓地」でもあったと思う。

斎場御嶽の奥宮と伝わるナーワンダーグスク
(イキガ(男)とイナグ(女)、ふたつの巨石)。
 その御嶽名の由来は、ナーワンダー=なでるわ。
「祖先の神霊」が滞留するという意味である。

となると、大和の出雲こと三輪山の磐座との
共通点を、いやが上にも思わせる。大国主の
末裔という古代出雲王家・向家の伝承で、斎場
とは、王の遺体を埋葬した山の神籬を指すという。

※古代の琉球と出雲の関係や、契約古伝については、
これまでも書いており、「大陸渡来のワニ氏…
など「甦る古代琉球」のシリーズをご参照ください。

さて、
  17802年続いたと琉球王朝の史書(中山世鑑)が
記す天孫氏王朝を、海を越えて隆盛した古代出雲
(斉の国)と見る語り部は、その王とはスサノオ
(契丹古伝ではスサダミコ)で、亦の名を
「天地(あめつち)の大神様」「天王ガナシー」と
呼ばれたという。ちなみに妃は「天妃ガナシー」、
または「照(てらし)ウヤガナシーと呼ばれた。
※ガナシー=神様、ウヤ=親。

その一対神は、
久高島を東端として東西軸上の聖所に祀られてきた。
久高島・大里家、斎場御嶽、大里・天代大世の拝所。
(以前の記事「スサノオの天孫氏王朝」はこちら
そして、おそらく東西軸の西端にあたる浦添城にも。

ただ東西軸=太陽の道=レイラインを作ったのは
誰か、または何族かを、解明した人は未だいない。


話は戻って、大和の出雲こと三輪山。
ダンノダイラは三輪山の東(1.7㎞)に位置する。
そこで、俄然、気になるのは「大和の東西軸」だ。

NHKのドキュメンタリー『知られざる古代』('80)
や、そのディレクター・水谷慶一氏が同名著書で
記した「北緯34度32分」、つまりレイラインの存在。

三輪山を中心に、東西軸上には長谷寺や室生寺が、
70 ㎞東には伊勢の斎宮後があると、水谷氏は書いた。
西には箸墓、大鳥神社(堺市)、淡路島の伊勢の森。



↓三輪山の摂社・桧原神社も当然のこと同じ緯度で、
二上山に沈む春分・秋分の落日が見えるという。
※美しい写真は『山辺の道ガイドブック』
(三輪山分化研究会)より拝借。
a0300530_22385600.png




こちら自前の写真。狭井神社の鳥居近くの標識。
左・桧原神社、右・大神神社の左右が東西軸。
いわゆる太陽の道・レイラインである。
対して南北(標識の縦板)にあるが山辺の道。
a0300530_16443696.jpg



数年前に撮った箸墓古墳。左奥が三輪山。
ここを起点に西向きのレイラインは始まる。
a0300530_16521892.jpg



では東に行けば…とツラツラ考えていて、こう思う。
その東端は、斎宮よりもっと先にあるのでは? と。
すぐ東、伊勢神宮の外宮内宮、二見興玉神社も同緯度。
太陽の道は東端の千葉県まで繋がっているのでは?

そんな折り、語り部から連絡が来た。
「美具久留御魂神社は、どこにありますか?」
「みぐくる…ですか?」
「はい、その神社が視えて仕方ないので…。
詳しいことをちょっと調べてもらえますか?」

私も知らなかったので電話で話しながら検索。
「ありました…えっと…」
なんという偶然、神様はお見通しということか。 
美具久留御魂神社(大阪府富田林市)の緯度は、
34度31分。「太陽の道」と、わずか1分の違い…。
その由緒がまた、とんでもなく「出雲」なのである。











れれれ
by utoutou | 2016-06-16 22:43 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 24 三輪山は大和の出雲

大神神社境内の笹百合が見頃だそうだ。
私が参った10日前も「ささゆり園」が公開されて
いたが、あのときはまだ大きく咲いていなかった?

大神神社の御神花であるささゆりは、
この地の歴史に登場する姫神の象徴でもあった。

伝承によれば、神武天皇の妃となった媛蹈鞴五十鈴姫
は、三輪山西麓の狭井(さい)川のほとりに住んでおり、
その辺り一帯には笹百合(三枝ともいう)が咲いていたと。


6/10の笹百合。写真は大神神社HPから拝借。
a0300530_07003679.jpg


『古事記』では、姫の名は、伊須気余理比売だが、
  〜その家は狭井川のほとりにあった〜とある。  
      〜神武天皇は比売のもとで一晩お休みになった〜と。     

  大神神社の摂社・狭井神社に関係の深い神話。
三輪山の参拝客は、中腹にある「三光の瀧」まで
狭井川のほとりを歩いたり、橋を渡ったりするが、
私たちはあのとき大和神話の重要な舞台に立っていた。

伊須気余理比売(=両親である大貴巳と活玉依姫)の
家は、狭井川をもう少しさかのぼった地点らしい。
中山和敬著『大神神社』(学生社)には、
〜狭井神社の北側の柿畑になっている岡一帯を
現在も出雲屋敷と呼んでいる 〜と記されている。


↓ 狭井神社の北側とは、こちら拝殿の奥の地域か。
大神神社からも北へ500mほどの距離にあるその地は、
なんと、「大和にある古代出雲」だったのである。
a0300530_09032667.jpg


やはりか…と、
三輪山山頂の奥津磐座(記事と画像はこちら)を思った。
高さ1mほどの磐座が数十mに渡って縦横に並ぶ磐座群。
その光景はある本で見た、古代出雲の王墓によく似ていた。


それは古代出雲代々の王墓(出雲の熊野山にある斎場)。
斉木雲州著『出雲と蘇我王国』(大元出版より拝借)。
a0300530_10242439.png


クナト王を始祖として、紀元前にインドから渡来したと
いう古代出雲王家・富(登美)族の伝承によれば、 
その葬送の風習は、代々の王を山に葬って斎場とし、
屋敷には石を置いて「拝み墓」とする両墓制だった。

ちなみに、沖縄では現代でも、集落内にある
神屋での拝みを御嶽へと当てる「古代出雲式」だ。

話は三輪山に戻って、
この地が出雲ならばと、古伝に沿って考えてみた。
三輪山山頂の奥津磐座群が、語り部も言う
みささぎ(墓陵)ならば、拝み墓のある集落はどこに?



調べると、三輪山の東部にも出雲という地名があった。
その村は鎌倉時代に現在地へと降りてきたが、それまで
は三輪山の東1.7kmに位置するダンノダイラにあった。
現在の出雲地区から約140m北、標高450〜480m、
尾根の上の広大な平坦地(6.3万㎡)だという。
※地図は「DEEPだぜ!!奈良は」様のサイトより拝借。
           ダンノダイラの探索ルポや出雲に関する情報が満載。          
a0300530_10584580.jpg


上記の書と同じ著者による『出雲と大和のあけぼの』
に、「三輪山の祭り」と題した一項がある。

(以下に要約)
☆三輪山の狭井神社には、古くはサイノカミ三神
(※クナト大神、幸姫命、サルタ彦)が祀られていた。

☆狭井川の上流付近に出雲屋敷と呼ばれる所が
あり、登美家の姫君の斎宮たちが住んでいた。

☆沖縄に残っていた古代の風習ではノロと呼ばれる
主婦が中心となって祭祀を行ったが、本土でも古代
は同じで、三輪山の祭りは登美家の姫君が司祭した。


そう言えば…と、私はまたある確信を得た。
久高島にティミグスクと呼ばれる謎のグスクがある。
その御嶽の威部(最奥部)は磐座墓地の様相だが、
グスク名のティミとは、富(登美族)のことと考えられる。
a0300530_11464996.png



2日ほど経ったとき、語り部から神託の報せがあった。

「三輪山にあるのは、狭井神社といいましよね。
狭井(さい)とは、どんな意味だと思いますか?」
「いやあ、考えていなかったですけど」
「斎場とか斎宮というときの、斎という意味ですよ」
「さい…三輪山が? そうでしたか、斉ですか…」
そう驚くことはなく、私は言った。
「なら、サイノカミ三神も斉の意味なんでしょうね。
笹百合も、古名は三枝(さいぐさ)だそうです」

斉とは、紀元前1046年頃から386年頃まで
あったと言われる中国大陸・山東省あたりの国だが、
『契丹古伝』を調べていた際、我々は、古代出雲
とは斉のことであるという仮説に至っていた。
秦の始皇帝に滅ぼされたという、あの斉である。

古代出雲とは、島根県の出雲だけを指すのではない。
その領土は、中国雲南省、タイ・ベトナムとの国境
から朝鮮半島・日本列島を含む広大なものだったと。
それが斉、言い換えれば「倭」である。
『契丹古伝』を沖縄目線で読み解くと、そうなった。

斉の国に、天から送られた神子の名はキリコエアケ。
我々は、それが「聞得大君」の語源だと解釈した。












by utoutou | 2016-06-12 14:46 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 23 神々の封印と鎮魂

大神神社祭神・大物主は饒速日尊(二ギハヤヒ)。
記紀成立のとき、女神(皇祖神)・天照大御神に
神名を奪われたとされる男神・天照大神のことだ。


何日も経った今さらながら、大神神社の境内に
広がる池の名を、なるほどなと、ひとり振り返る。
↓ 鎮女池(しずめいけ)とは、女神を鎮魂する池か。
『ホツマツタエ』で天照大神の妃神と記された
瀬織津姫を祀るために「鎮女池」の名があり、その
本地仏・弁財天(市杵島姫)を祀る神社がある…。
a0300530_10132299.jpg



鎮女池の傍には、皇后陛下の歌碑もある。
〜三輪の里 狭井のわたりに 今日もかも
花鎮めすと 祭りてあらむ〜
(昭和45年にご親拝、5年後の歌会始で詠まれたとある)
a0300530_13554755.jpg



いっぽう饒速日尊(天照大神)の鎮魂は、大神神社
春の大祭の後宴祭で奉納されるという能の演目
『三輪』に見て取ることができる。

〜思えば伊勢と三輪の神、一体分身の御事、今更何と〜

この一節を、鎮魂と言わずして何と言うべきか。
伊勢大神(天照大神)と三輪の大神は同神だと、
つまり天照大神はこの国の地主神だと、詠っている。


それならばと、私は語り部に聞いた。
「やはり、三輪山の山頂を外したという三ツ鳥居の
先には、饒速日尊の磐座があるのでしょうか?」
「沖縄の斎場御嶽のような磐座だと思います」
「イキガナーワンダー(男の祖先霊)のような?」
「そうですね」

すると、逆に、聞きたくなるのは三輪山頂のこと。
由緒には、奥津磐座に大物主が祀られているとあった。

 「では、三輪山の山頂の奥津磐座に祀られているのは、
大物主(饒速日尊)ではないということですか?」
「陵(みささぎ)には違いないと思いますが…」
「が…?」

「私はこう思います」と、語り部は言った。
「高宮神社に祀られている日向御子神とは、
日本(ひのもと)大物主…つまり、饒速日尊
 より古い、代々の天御子(あまみこ)でしょう。
本当の国津神ということです」
「日向御子神(ひむかのみこがみ)とは日本大物主?」
「そうです」

大物主神にも、新旧がある。すると、
 饒速日尊が天磐船に乗って「日本」に天降りたとき、
 既にこの国を治めていた代々の王、地主神がいた…。



三輪山山頂の奥津磐座群は陵(みささぎ)か。
磐座群は幅10m、奥行き約40〜50m続いている。
撮影OKな頃の画像?を「近畿のANABA」様から拝借。
a0300530_16290786.jpg













by utoutou | 2016-06-09 14:01 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 ㉒ 大物主神は饒速日命だ

奈良の大神神社摂社・狭井神社にある登拝口から、
往復2時間の登山。足下に気を取られつつ、
息を切らして休憩しつつ、御神体山の気を感じつつ、
すれ違う人と挨拶を交わしつつ、大神神社の祭神
・大物主神と、三輪山頂上の高宮(こうのみや)神社
の祭神・日高御子について、あれこれ思いを巡らせた。



狭井神社への参道は「久すり道」。狭井神社の湧水
は「くすり水」と呼ばれ、酒造りや薬用に使われた。
a0300530_13301188.jpg




↓ 狭井神社の拝殿と、その横にある登拝受付所。
神社の正しい名称は、狭井坐大神荒魂神社。
主祭神は大神荒魂神、相祠神は大物主神。

また天皇家と出雲系との関係を示すように、
(神武の皇后となった)姫蹈鞴五十鈴姫命、
(同じく神武の皇后となった)勢夜多々良姫命、
(五十鈴姫の父)事代主神(=大国主神)も祀られる。
a0300530_13283161.jpg



大国主が合祀されているということは、
大物主と大国主(大巳貴)は別の神なのだろうな…
というのが、山の中の参道で繰り返した自問だった。

では、大物主(ミムロ神)とはどんな神なのか?
 
  出雲の大国主神が大和に来たと、出雲伝承には
あるというが、その時代は杵築大社が現在地
に創建された7世紀からはさかのぼらないだろう。

いっぽう、前回も書いたが、三輪山の
 禁足地裏磐座群から子持ち勾玉が出土しているので、
 大物主祭祀は少なくとも5世紀には始まっていた。
  つまり、大物主神はあらかじめ祀られていた。
  この国の農業・商業・産業・航海・水運・祭祀など
   にオールマイティーな霊験あらたかな大神として。


『日本書紀』崇神天皇の条に、神酒を天皇に献じた
  という杜氏の活日(いくひ)が歌った句がある。  

〜この神酒は 我が神酒ならず 倭成す 
大物主の 噛みし神酒 幾久 幾久〜

活日はいま、大神神社の摂社・活日神社に祀られて
いるが、その人の歌った「我が神酒ならず」と、
「倭成す大物主が噛み酒を造った」という意味は重大だ。
神酒造りの神事を司ったのは、大物主だった。
 
古代、噛み酒は琉球や薩摩など南方の習俗だった。
そしてそれは、若く美しい巫女の仕事と決まっていた。
大物主には齋宮のような存在があったことになる。
日子(ひこ)・日女(ひめ)のツートップ祭祀は、
古代海人族の証ともいえる習俗である。

思えば、木花咲耶姫(亦の名・神阿多津姫)は、
嚙み酒(神酒)を造って「酒解子神」と呼ばれた。
それを思うと、大物主と日下部氏の関係が浮上する。
まさに、木花咲耶姫の名に「阿多」の2文字がある。
勾玉を造る糸魚川の翡翠を交易したのは、阿多隼人。
神武が日向から随伴したのも阿多隼人だった。

日下部氏と籠神社・海部氏は同族同祖である。
海部の祖神とは、天火明命。
別名を、天照国照天火明櫛玉饒速日命という。
  饒速日命(二ギハヤヒ)。天照大神と呼ばれた太陽神。

大神神社が「日本最古の神社」であれば、
神武に禅譲した倭国の初代王・饒速日命こそが
この地に祀られるにふさわしい大神だった

あの拝殿の三ツ鳥居に緞帳が掛かっている理由も、
それならば、納得できるというものだ。
大物主こと大いなる物部の王・饒速日命は、
朝廷の祟り神として、三輪山に封印されたのだろう。
 
では、三輪山の頂きの
高宮神社に祀られる日向御子神(ひむかのみこがみ)
とは、饒速日命の子・大歳なのだろうか?



三輪山は撮影禁止のため、ガイドブックより
参考画像を拝借した。↓こちら摂社の神坐日向神社。
高宮神社は、ちょうどこんな規模とスタイルだった。
その奥50mほどに渡って、磐座群が広がっている。
a0300530_17241584.png














by utoutou | 2016-06-05 11:45 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(4)

六甲山と瀬織津姫 ㉑ 三輪山に登拝

本邦最古の神社という奈良の大神神社。

『古事記』によれば、大物主神は出雲の
大国主神の前に現れて言った。
〜国造りを成就するためには、吾をば倭の青垣、
東の山の上に齋き祀れと。〜
朝廷成立前、倭の青垣(聖域)は三輪山だった。

祭神はその神体山に鎮まっているため本殿はなく、
三輪山に祈るという、いわば沖縄の御嶽遥拝方式。


〜神社の社殿が成立する以前の原初の神祀りの様を
今に伝えており、その祭祀ゆえに我が国最古の
神社と呼ばれています。〜(大神神社HPより)
↓ 三つ鳥居の写真は同パンフレットより拝借。
a0300530_12494176.png



ただし拝殿から拝礼しても、その先に山頂はない。
この配置を「三輪山の山頂“外し”」と書いたのは、
地元桜井市に住む在野の歴史家・田中八郎氏。
著書『大和誕生と神々』(彩流社刊)より以下に要約。

☆縄文神である大物主神(ミムロ神)は、
そうではないのに、大和政権の守護神にされた。

☆鳥居の中に入れない隔離した特異な祭祀の在り方。

☆三ツ鳥居は、三輪山頂(467m)から500m南
の地点(標高326m)のコブを向いている。

☆拝殿の向きはミムロの親方の古里・宇陀の方向
でもあり、地元の民衆は好都合だと思ってきた。


標高326mの地点とは、どのような場所なのか?
↓ 三輪山磐座MAPを見ると、そこは舞台状の平場らしい。
中央青丸は大神神社拝殿、右矢印は326mの表示を指す
(画像に私が加工)。確かに拝殿はその地点を向いており、
すぐ北の地域は「禁足地裏磐座群」と示されている。
そこから、子持ち勾玉・勾玉・臼玉が出土したという。
a0300530_16213030.jpg



↓ 禁足地から出土した祭祀用の子持ち勾玉。
子孫繁栄を祈願する祭祀で埋斎されたのだろうか。
もしや、326m地点とは、古代祭祀場だったか?
(大神神社HP・宝物庫のサイトから拝借)
a0300530_18003697.jpg

子持ち勾玉は、授与品としてお守りに。1000円。
a0300530_00123688.jpg



さて、本題の三輪山登拝レポート。
↑上MAPでは右端、頂上の奥津磐座を目指した。

結果、
上下山の一本道を、2時間というごく標準タイムで
踏破したものの、所々に現れる急斜面には閉口した。

ネット情報で得た、狭井神社にあるコインロッカー
を使用する予定が、日曜のためか満杯で、泊まり道具
やらパソコンやら本やらが詰まったリュックとトート
の2個持ちという、ちょっと場違いな登拝姿である。
コンバース履きでは、川沿いの坂道では滑りがち…。



↓ 狭井神社でいただいた資料から、登山道の略図。
「8」高宮(こうのみや)神社、「9」奥津磐座。
「7」の急坂を経て西面する高宮神社が目に入った
 ときには、さすがにホッとして荷物を降ろした。

a0300530_12431030.png



高宮神社の小祠に祀られているという祭神は、
日向御子神(ひむかのみこのかみ)。
大物主が坐す山頂に相坐すとは、どのような神か?

さらに…
登拝から4日経ったいま、気になって仕方ないのが、
大神神社拝殿の正面に坐していたかもしれない神。
こちら山頂に大物主がいるならば、あちらには一体?

下山してから語り部に聞くと、こう言った。
「とても大きな神が祀られていると思います」











































by utoutou | 2016-06-03 01:37 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 ⑳ 三輪山に登拝するまで

大和国一宮 大神(おおみわ)神社
(奈良県桜井市三輪)の御神体である三輪山。
山頂の高宮神社に日向御子神(ひむかのみこがみ)
が祀られているというが、どのような神か?
語り部は「倭宿禰(珍彦)に関係があるのでは」
と言っていたが、さて…。

参ったからといって分かるものでもないが、
参ってみなけりゃ分からないと、三輪山に登拝。



大神神社(の拝殿)。御祭神は、
大物主大神、大己貴大神、少彦名大神。
a0300530_15023758.jpg




【ご由緒】
〜大物主神は、世に大国主神(大国様)の御名で知られ
る国土開発の神で、農工商業等あらゆる産業を開発し、
方除・泊病・造酒・製薬・交通・縁結び・開運等、
世の中の幸福を増進することを計られた人間生活万般
の守護神であります。後に神様の御思召しにより
その御魂(幸魂、奇魂)を三輪山に永くお留めになり、
それ以来、秀麗な三輪山を御神体と崇めて、本殿
は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し、お山を
拝するという原初の神祀りを今に伝えている
我が国最古の神社であります。(後略)〜
a0300530_15235281.jpg





拝殿の背後に立つ三ツ鳥居は、以前、拝観した
ことがあるので、拝殿を離れて狭井(さい)神社
にある登山口へと急ぐ。途中、鎮女池(しずめいけ)
にある市杵島姫神社、通称「弁天さん」には参拝。
a0300530_15241868.jpg




大神神社から徒歩5分ほどで、摂社・狭井神社に。
祭神は、狭井坐大神荒魂大神。
三輪山登拝は、こちらの受付で申し込む。
a0300530_15243941.jpg




登拝料300円を納め、住所氏名連絡先を書き
登拝許可証(番号・鈴付きの襷)を受け取って
祢宜さんより、しばし入山心得を聞く。
「行程は上り下り約4km、所要時間は2〜3時間。
年に数回、救難ヘリが飛んでいます。くれぐれ
も無理せず安全を心がけて…。御神体山のため、
撮影・飲食・供物・草木の採取は禁止」云々…。
a0300530_15514373.jpeg




三輪山への登拝口。
賽銭箱横に設置の御弊で、各自お祓いする。
遥拝所でもあるのか、地元の方らしき女性が祈願中。
「倭大物主櫛甕魂命」と、小さく神名が聞こえる。
やまとおおものぬしみかたまのみこと…
三輪山に祀られる、大物主神の亦の名である。
a0300530_15283757.jpg



あれ? と思わずにはいられない。
こちら登拝口では大物主を遥拝するが、
大神神社の拝殿からは三輪山という神体山を拝する。

摂社で祭神を祀り、本社で神体山を拝む…のが、
由緒にいう「原初の神祀り」である拝礼様式なのか?

そう言えば、数年前に参拝した折り、総合受付で
お願いして三ツ鳥居を特別拝観させていただいた。
そのときに感じた小さな違和感が思い出される。

予想したのは、御神体山を遠くに仰ぐ景色だった
が、三ツ鳥居の奥には山は見えなかったのである。
少なくとも、三輪山の頂上を仰ぐことなどは…。
いやこれはちょっとヘンだなと、虫が騒いだ。

というところで長くなったので、
ほぼ頂上に祀られる高宮(こうのみや)神社、
そして圧巻、奥津磐座の模様は次回に続く…。
















by utoutou | 2016-05-31 18:00 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 ⑲ 珍彦(うづひこ)は倭の大王

保久良神社の鳥居横に銅像が建つ椎根津彦命。
亦の名は倭宿禰命、珍彦(うずひこ、うづひこ)。
「籠神社本系図」には、
始祖・天火明命(饒速日命)の孫とある。
「海部氏勘注系図」には、天照大神の五代目の孫と。



籠神社の椎根津彦命の像に比べると、柔和な表情。
鳥居の隣という立ち位置は、椎根津彦命こと珍彦が、
実はこの神社の主祭神なのだろうかと感じさせる。
a0300530_12364975.jpg



保久良神社の由緒は、その晩年をも記している。

珍彦は倭国造の要職を子孫に譲ると、この菟原に
戻り、吉野の宇陀で出会った土着の民の
弟猾(おとうかし)と共に故郷の開拓に尽くした…。

はたして、弟猾という人は、
珍彦と同族だったのか。同族になったのか?

「勘注系図」によれば、珍彦の父は天村雲命、
母は伊加里姫、そして吉野直の姫を娶った。その
妃は白雲別神の女・豊水富命(とよみとみのみこと)。
この豊水富命が、吉野首(おびと)の祖と呼ばれる
井光(いひか、『紀』)=井氷鹿(いひか、『記』)。

『日本書紀』では神武が大和へと軍を進めたとき、
吉野の「井の中」から出て来た人物が井光である。
おそらく丹(水銀)を採取する土着の民の女首長。

ならば、珍彦が、宇陀にいた弟猾伴って
摂津の菟原に帰郷した話も、そう不思議ではない。
そんなことを考えていたとき、語り部が言った。

「倭宿禰は丹後から大和のかけての国々を治める
大王だったと思います。だから神武を先導できた。
逆に言えば、宇陀や吉野や吉野川流域の人々は、
倭宿禰こと珍彦の臣民だったということになりますね」

そう考えて初めて、
まさに「珍彦」の名前が、真実味を帯びてきた。

古代、
「珍」と「貴」は、いずれも「うづ」と読まれた。
あの「隼人の盾」や、大分県の日田で発掘された
「卑弥呼の鏡」にも描かれていた渦巻紋と同義だった。

毎夕隠れては、朝になると必ず昇ってくる太陽
を表すその渦巻紋は、不死と再生と輪廻の象徴。
「珍(うづ)彦」とは「日(太陽)の御子」だった。
つまり大和の前身となった、倭の大王だったのだろう。



「珍彦神社」という目線で保久良神社を振り返ると、
↓遥拝所の意味も、なるほどとうなづくことができる。
「遥拝所」は、太陽の昇る東を向いていた。
a0300530_22184440.jpg


また、境内の内外には巨石の磐座群が残っており、
それは渦巻きを描くように配置されているという。
↓こちら、境内の立石という磐座。
a0300530_22175134.jpg



立岩の傍に、磐座についての説明があった(要約)。

☆この岩は人々が神に祈願するために立てた岩。
社務所の裏に「神生岩(かみなりいわ)」がある。
神社の裏の岩群を中心に、大きな円形状に巨石が
配置されており、この岩群は磐座・磐境と呼ばれる。

☆昔の人は巨石に神を招いて、農業生産、諸行繁栄、
村里安全を祈ったので、ここは古代祭祀遺跡。
祭具である壺、甕、皿の土器破片や、
鏃や斧の石器が出土している。

☆ここでの祭祀は、紀元前200年頃から行われた。
またこの磐座は、大和(奈良県桜井市)の大神神社
の背後の三輪山頂の磐座と、同じ時期のものである。



↓こちら、保久良神社本殿の南西にある神生岩。
a0300530_22180561.jpg


三輪山の山頂と同じ時期の磐座??
説明版のそのくだりでは、少なからずのけぞった。
語り部が先日、ふとこんなことを言っていたからだ。

「珍彦は、三輪山の周辺に祀られていませんか?」

調べると、三輪山の山頂には、大神神社の奥宮
・高宮神社(こうのみやじんじゃ)があるという。
祭神は「日向御子神」。はたして珍彦のことか⁉︎








by utoutou | 2016-05-28 22:54 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)