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六甲山と瀬織津姫 150 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊〈2〉

饒速日命が天降りたという磐船神社の天の磐船石。
その写真を初めて見たときから、何かの姿に似ている
と感じていた。真正面からは船というより丸い小山の
ように見える巨大な磐座を、饒速日命の末裔たちはなぜ
 御神体として、古代から連綿と崇め続けてきたのか…。

何はともあれ、天の磐船石の奥に広がる岩窟に入った。

社務所でサインした申込書には、コースを巡る時間の目安
として自己申告する二択(30分、45分)のチェック枠
があったので前者に入れたが、同行してくれた神社の若い
人に聞くと「6分あれば廻れます」と言った。速い…。
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石窟巡り中の写真撮影は禁止のため、社務所にて配布
している「コース解説」プリントで振り返る。
(※実際の写真一覧はA4サイズ紙だが、5分割した)。


左から ①天の磐船石 ②岩窟入口 ③第一の橋。
川を渡った先は登りか下りか見当がつかず、ひるむ。
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左から ④押上岩 ⑤岩の下へ入る ⑥見えない滝。
岩と岩の間を潜るか岩を登るかは矢印で示されるが、
その先は真っ暗闇で、見えないことへの恐怖を感じる。
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左から ⑦生まれ変わりの穴へ ⑧足から降りる
⑨空の見える場所。⑧がコースの最難関箇所のようだった。
狭所恐怖症の人は、ここでリタイアしてしまうらしい。
私は頭から入ろうとして、「足から!!」と一喝されたが、
足場なく深さも分からない。運を天に任せて滑り落ちる。
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左から ⑩崖を登る 龍神様の祠
参道より岩窟を覗く。この解説書があるのを知らず、
コースを予習しなかった私は、⑪の暗さに打ちのめされ、
初めてこの挑戦を後悔したが、実は出口直前だった。
もっとも深い闇を経て見た光は、まさに太陽神だ。
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天の岩戸 大岩大神(同祖神)白福大神(々)。
岩窟を廻り、登り詰め、光に映える磐座と対面した。
長く感じられた所要時間は、時計では10分だった。
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同行の若い人と別れて、「天の岩戸」をゆっくり拝観。
天の磐船石の上部に位置しているらしく、参拝客の声
が聞こえるが、岩窟を通らなければここへは来られない。
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天の岩戸、大岩大神などを順拝して、社務所の方向へ
歩いてこの神像に出会い、「そうだったのか!」と納得。
一対の龍神が、修行の終了を祝すように鎮座している。
饒速日命(天照大神)と瀬織津姫=龍蛇族のヒコヒメだ。
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ここでようやく、あの天の磐船石が何の形に似ているか
について気づかされた。それは、とぐろを巻いた蛇神…。
吉野裕子氏が『蛇』で「鏡餅の原型」と記したその形だ。

どうやら、岩窟の小さな「穴を潜り抜ける」ことは、
「蛇の脱皮」を疑似体験して蛇神に近づく行為だったか。
岩を縫って進む動作も、蛇(イラブー)の生態に近い。

沖縄久高島のイザイホーで歌われる神歌(てぃるる)
には、「てぃりないぬ」という言葉が出てくるが、
それは久高島の方言で「再生の」という意味。
本島では、蛇が脱皮するように生まれ変わることを
「すでなりの」と言う(※記事はこちらに)。


古の琉球では、祭りを神と人が一体となることを、
神遊び(かみあしびー)と呼んだが、この地に渡来した
肩野物部の一族も、こうして龍蛇神を崇め、龍蛇族への
加入儀礼に替えて磐座群を祀ったのではなかったか…。


帰りに社務所で、「修行終了」の御札を頂戴した。
透明な袋入りのまま、壁や柱に貼ってもよいそうだ。
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御札に添えられたプリントに、次の説明があった。
〜 磐座神社の岩窟はご神体天の磐船の磐座に連なる
無数の巨石群が天野川を覆い尽くし、その隙間を
行場として人々が修行を修めてきた場所で、古く平安
時代以来、修行道生駒北嶺の霊場とされ…(後略)〜

饒速日命の天の磐船と、命の供奉衆たちを祀る聖地が、
  ここ河内国河上の哮ヶ峯(いかるがのみね)だった。  

それにしてもなぜ、ここを「イカルガ」と呼ぶのか。
少し前、語り部は謎めいたことを言ったものだ。
琉球のセーナナー(海人七氏族)はイカルガへ行った」

気づいて、すかさず、語り部に電話を入れた。
「饒速日命の天磐船は、セーナナーのことですか?」
「そうなりますね」
  そうだったのか…。
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by utoutou | 2017-12-18 04:28 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 149 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊〈1〉

律令制成立前後、機内三国を治めた凡河内氏。その
祖は天御影命、始祖は天津彦根命。天穂日命もいる。
一族に二始祖神が存在する謎について語り部は言った。

「天津彦根命と天穂日命はともに古代の玉城と久高島に
 いたアマミキヨで、双子だったように私には視えます」

霊能力のない私は、いつもながら「まさか」と思った
が、あれこれと調べていて、似た所見に出会った。

本居宣長が『古事記伝』に記している(要約)。

〜『新撰姓氏録』に「土師宿禰は天穂日十二世の後}と、
また「凡河内寸忌は天穂日命十三世孫の後」とある
が、伝えが混乱したのは遠祖が兄弟だったためだ 〜

つまり、天津彦根命と天穂日命は兄弟だったのだと。
しかし、そんな神代の系譜を検討する術はあるのか?


などと戸惑った12月最初の週末、東京から日帰りで
大阪へ行き、磐船神社(大阪府交野市私市)に参拝。
祭神は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。

凡河内直などの祖・天御影命は、河内川上の
哮ヶ峯(いかるがのみね)に天降った饒速日命に
供奉した防衛32人の一人と『先代旧事本紀』は記す。
その哮ヶ峯に、一度足を踏み入れたいと思っていた。

後に神武天皇に帰順した饒速日命は、それゆえ
紛れもなく初代王だったわけで、その降臨地へイザ。
それで何が分かるのかは予想もつかなかったが、
極めてハードと噂の「石窟巡り」にも初挑戦したい。
 転落事故で閉鎖されてから3年、最近再開したという。


新大阪から交野市へは電車で50分。
交野(かたの)市の地名は、「肩野物部」に依る。
饒速日命の降臨に兵杖を帯びて供奉した25人の一人。
最寄駅は私市だが、レンタカー店は交野市駅前のみ。
車で20分走ると哮ヶ峯の麓に着いた。登山客多し。
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御神体は巨大な天の磐船石。なぜこの地に降臨した?
という問いへの答えを、神社の由緒はこう記している。
〜太古、淀川は枚方(シラノカタ津)付近まで入江と
なっており、大和に入るには当時、哮ヶ峯の麓を
流れる天野川を遡りつつ大和に入るのが至便だった
と考えられます 〜 
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神体の巨岩を横から。まさに磐船の舳先のようだ。
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饒速日命一行が遡ったという、神社近くの天野川。
生駒山を水源に交野市と枚方市を北流して淀川に注ぐ。
肩野物部氏はこの川の流域で米作りを始めたらしい。
物部の里らしく、星田妙見など星にちなむ聖地も点在。
交野市は「七夕伝説発祥の地」となっている。
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天野川トンネルのある「磐船狭」は錦秋の彩り。
河岸の公園は週末の散歩を楽しむ人でいっぱい。
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ところで、
河岸の道路は観光客の車が並び、神社に参拝する
トレッキングのグループも多かったが、岩窟巡りする
 人は決して多くはない。聞くところ参拝客の1割程度。

単独での岩窟入りは禁止ということで、事前連絡して
 同行をお願いしていたが、その難易度は予想を超えた。

社務所で入山申し込みを済ませて持ち物をすべて預け、
白い襷を渡されたまでは、そんな大仰な…と思ったが、
同行してくれる神社の方は、私の靴を見て言った。

「その靴では危険ですよ」と。
私は、履いていた平底のブーツを指差した。
「沖縄の磐座や洞穴をこれで歩いてきたので大丈夫です」

ところが、まったく大丈夫ではなかったのである。
岩底を流れる天野川が、岩々の肌を濡らしていた。
琉球石灰岩は凸凹があって手足を引っかけやすいが、
ここでは巨岩の岩肌のほとんどすべてが、修験の人々
 の手で磨耗したのか、ツルツルして掴み所がなかった。



岩窟内部は撮影禁止なので、外から岩窟を見る。
例えば右にあるような岩に登り、左下に見えるような
小穴を潜り抜ける。進路は矢印で示されるが超ハード。
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進むも地獄、戻るも地獄の河内国河上哮ヶ峯岩窟。
 なんとか生還した岩窟巡りの様子は、次回に…。





by utoutou | 2017-12-14 11:54 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 148 みんな瀬織津姫

摂津・河内・泉州という畿内三国を治めたという古代
豪族・凡河内氏(おうしかわちうじ)の祖を遡れば天御影命に、
さらに始祖は、天照大神と素戔嗚尊の誓約で生まれたという
天津彦根命に至るが、その系譜は記紀に見えている。

天津彦根命について、『古事記』は多くの氏族の祖と記し、
筆頭に凡河内国造(おうしこうちのみやつこ)を、また
数番目に山背国造(やましろのみやつこ)を挙げる。

凡河内氏は4世紀から摂津(兵庫県東南部)を支配した
が、8世紀頃から朝廷に服属して、国造に任命されたようだ。

ちなみに、河内国魂神社(=五毛の天神、神戸市灘区)
は、凡河内氏が河内から遷移させたものと言われ、神社
の森は「御影の森」と呼ばれ、御影町の名も祖神に由来。
また、会下山(兵庫区)にはその氏寺があったという。

さて、
国造というステータスは律令制成立の前後で変化した。
直木孝次郎氏は『古代難波とその周辺』に次のように記す。

〜律令制下の国造はそれ以前の国造と違い、国造に
任命された国の祭祀を掌握する権利しか持たないが、
律令制以前の国造から選ばれるのが普通だった。〜

つまり、凡河内氏は摂津(六甲山周辺)の祭祀を司った。
そうだったのか…と、いまようやく理解できるのが、
六甲山で神々を斎き祀った姫たちのプロフィールである。


廣田神社(西宮市大社町)に、天照大神の神託によって
撞榊木厳御魂天疎向津姫(天照大神荒御魂)を祀ったのは、
山背根子の娘の葉山姫だった。 山背氏は凡河内氏の
同祖同族である。↓境内の斎殿神社は葉山姫を祀る。
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長田神社(神戸市長田区)に、事代主命を祀ったのは、
葉山姫の妹の長姫。こちらも天津彦根命の末裔である。
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では、生田神社(神戸市中央区)に稚日女命を祀った
海上五十茅はどうかと調べると、文字通り海上国造の姫。
海上氏は伊勢津彦の後裔といい、祖神を猿田彦大神とする。
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その伊勢津彦は出雲神で、亦の名は天櫛玉命、出雲建子命。
出雲の祖は、こちらも天照大神と素戔嗚尊の誓約で
生まれたとされる天穂日命だが、実は、凡河内氏には3系譜が
あり、その1系統に当たっているのである。

海上五十茅も凡河内国造の末裔ならば、六甲山で司祭
した姫たちは、みな天津彦根命と天御影命の神裔である。

天御影命の一対神は、日牟礼八幡宮で見たように
息長大姫大目命(=アカル姫、瀬織津姫)と考えられる。


天御影命と天津彦根命の神名が出てきたあのとき、
語り部はいみじくも言ったものだ。
「これから瀬織津姫の名がバンバン出てきますよ」と。
確かに、みんな瀬織津姫の系譜の姫たちである。

もちろん、それぞれの神社の由緒に名を残す神功皇后も、
天津彦根命と息長水依姫を父方の祖とする。
みんな瀬織津姫であり、みんな天津彦根命に繋がるが、
この神こそがアマミキヨだと、語り部は言う。






by utoutou | 2017-12-09 17:19 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 147 辛国息長大姫大目命

「いよいよ、ここまで来ましたね」
近江の天御影命(あめのみかげのみこと)に辿り着いた
とき、語り部はそう言った。

いよいよか…。私自身も「隠された琉球の珠探し」が
終わる日が近いように感じるのは、同時に息長という古代
豪族の…それも息長大姫大目命に辿り着いたことが大きい。

息長がつく姫と言えば、息長帯姫命(神功皇后)や
その父方の先祖・息長水依姫命が有名だが、その系図の
上位に在るのが、近江の日牟礼八幡宮に地主神として
秘祭されてきた瀬織津姫こと、息長大姫大目命である。

ちなみに、天御影命も日牟礼八幡宮に降臨したと伝わる
が、天照大神の子と日本書紀が記す天津彦根命の孫
・天御影命の妹(※『百家系図』による)とされる。つまり、
天御影命と息長大姫大目命は兄と妹(おなり神)の関係だ。

その息長大姫大目命とは、
新羅の皇子・天之日矛の妻となったと神話が語る赤留姫
のことで、帰国後に難波などでヒメコソ神として祀られた。


帰国後にも、同じ息長大姫大目命として祀ったのが、
香春(かわら)神社(福岡県田川郡香春町)である。
昨日12月5日は所用で福岡にいたので一走り参って来た。
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【縣社 香春神社御由緒(略)】
〜祭神 及び創立
第一座 辛国息長大姫大目命
神代ニ唐ノ経営渡ラセ給ヒ崇神天皇ノ御代ニ御帰国
香春一ノ岳ニ鎮リ給フ 〜

※第二座、第三座についてなど詳細は後日に。
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太陽が西に傾くなか、しみじみと由緒を見上げた。
辛国息長大姫大目命の「辛国」こそは、
古代の朝鮮半島とヤマトと琉球との関係を物語る接点だ。

辛国とは「加羅の国」と解釈しているが、加羅や新羅、
あるいは百済や高句麗など、朝鮮半島からの渡来人を
語る歴史において琉球は常に除外され、語られずにきたが、
久高島のアカララキに祀られるのが(我々の私見では)
アカル姫こと辛国息長大姫大目命と分かった以上、
渡来人たちは南下して琉球にもやって来たことを物語る。


さて、では天御影命もまた大海を往還していたかというと、
「そうではないと思う」と、語り部は言った。
「むしろ、海人族で継承された大王の尊称だろう」と。

確かに、その神名が固有名詞でなく「太陽神霊を継ぐ大王」
といった意味の尊称ということは、例えば『海部勘注系図』
にその神名を冠する名前が、6柱も登場することで知れる。
筆頭は、四世孫の倭宿弥(やまとのすくね)命で、
「亦名 天御影命」との注釈が記されている。


と、ここまで書いて、ポンと思い出すことがあった。
六甲山の麓に鎮座する弓弦羽神社(ゆずるは神社)である。
昨年の秋、六甲山の磐座巡りをした日の最初に訪れていた。

地名は、神戸市東灘区御影。御影石の産地である。
祭神の熊野大神ということで八咫烏にちなみ、
サッカーポールのオブジェも御影石で造られている。
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御影の地名は、↓ 弓弦羽神社に伝わる故事にも表れている。
神功皇后が新羅遠征から帰還、この地で弓矢甲冑を納めた
 折、この里の泉に姿を写したことから「御影」と呼ぶと。
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しかし、はたして、それは本来の言い伝えだろうか…。
神功皇后の父方の祖は、天御影命であった。

そして、御影(現在の兵庫県東南部)や六甲山を
含む摂津国、そして河内国、泉州国といった畿内三国で
勢力を張り、大阪湾(茅渟の海)を掌握するようになるのは、
天御影命の末裔である凡河内(おうしこうち)氏であった。
ゆえに、「御影」の地名がついたのではなかったか…。

ならば、当然、六甲山で凡河内氏が崇めた女神とは、
息長大姫大目命こと瀬織津姫ということになる。

 凡河内氏の勢力は4世紀頃から強まり、5、6世紀には
 国造となるが、律令制が完成する8世紀には衰退して
  いったというから、時代は瀬織津姫のそれと一致している。


by utoutou | 2017-12-06 21:23 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 146 琵琶湖の比売神

アカル姫(ヒメコソ神)を祀る人々は琵琶湖へ、
そして信州へ「逃げたと思う」と語り部は言ったが、
むしろ古代海人族の信仰に従って、「移住した」のではないか。
前回ブログから1週間、私はそう考えるようになった。

天之日矛の元から逃げ帰ったヒメコソ神。その祖神を
探すと、御上(みかみ)神社(滋賀県野洲市)に行き着く。
「御上の祝(はふり)」と呼ばれた祠官家に残る系図に、
天照大神の孫とされる天御影神の妹・息長大姫大目命が
いて、亦名が比賣許曽神である(※『百家系図』等)。

天御影神。
日前神宮・国懸命神宮の祭神でもあるその神を、
語り部は「スサノオの魂を継ぐ太陽神」と解いた。
「御影」は太陽の「陰」でなく、「コピー」と同義だと。

その太陽神・天御影神の異名は、
天目一箇神(あめのまひとつの神)、明立天御影神など。
「ひとつ目」が示す通り、忌火の神、鍛冶の神でもある。
思えば、琵琶湖周辺は上古からの一大産鉄地だった。

天御陰神の妹・息長大姫は、タタラ製鉄に必要不可欠な
火と水と風を司り、兄を霊的に守護する「おなり神」
だったのだろう。(※おなり信仰についてはこちらにも)
豊玉姫がそうだったように、おなり神は、たとえ子を生み
母となっても、兄の守護神として里に戻る宿命を背負う。

同時に、アカル神を祀る一族も移住したのではないか…。
その後、新しい鉱脈を求めて、琵琶湖〜信州へ向かった
とも考えられないだろうか。
難波から淀川と京都の桂川を遡れば、琵琶湖の南岸に着く。



琵琶湖と言えば、日牟礼八幡宮へ初めて参ったのは2年前
のことだったが、あのときの「謎」が解けそうな気がする。
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本殿の横に小祠があった。「天岩戸神社」との説明板があり、
瀬織津姫が祀られていると記されていた。
〜祭神 撞賢木厳御魂 天疎向津姫命
往年 近江の人は毎年伊勢神宮に参詣した。それが
できない年はこの大神に代参した。真の御柱といって
神殿の柱を祭神とする伊勢信仰が生まれている 〜
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大神とは、まごうことなき近江の地主神である。
が、「真の御柱」の意味が、あのときは理解できなかった。
その言葉を、改めてかみしめてみる…。

伊勢神宮の内・外宮の正殿の床下にある「真(心)御柱」
は、神殿ができる以前の時代の御神体だったわけだが、
伊勢も、この近江も、古代タタラ製鉄の舞台である。


つまり、シャーマンが心御柱(=撞賢木厳御魂)に迎える
べきは、日の神、火の神、水の神、そして風の神だった。
風の神を思うと、本殿裏に立ちはだかる屏風岩が甦る。
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ほとんど垂直に立ち上がるあの巨大な屏風岩は、
「風を防ぐ」というより、「風を呼ぶ」装置ではないか?
天御影神が太陽神だったように、屏風岩を神籬に見立て、
天疎向津姫(瀬織津姫)は鍛冶の無事を祈ったのだろう。
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さて、ひょんなところから天御影神と琵琶湖の比売神
(ヒメコソ神、アカル姫)の関係を思う結果になった
が、語り部はこんなことを言った。
「その比売神は、やはり久高島のアカララキに祀られる神でしょう」
「では、天御影神も琉球から?」
「そういうことになりますね」






by utoutou | 2017-11-27 15:04 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 145 消えたアカル姫

住吉大社にアカル姫が祀られていたことは、思えば
 驚くにはあたらなかった。神の坐すところ祀る民あり。
新羅から帰ったアカル姫は、難波の上町台地に、
 新羅から渡来した人々に祀られた…ヒメコソ神として。

 追って来た天之日矛は上陸できず但馬に落ち着いたと
 伝わるが、難波には天之日矛の末裔・三宅氏の名が残る。

いや、しかし、そういう理解でよいのだろうか?
三宅氏の祖は田道間守で但馬から出た一族と言われる。
つまり、父方は天之日矛でも母方はアカル姫ではない。
ではいったい、難波でアカル姫を祀った一族とは?

アカル姫は新羅から「帰った」というのだから「故郷」
は、この国のどこかに存在しているのではないか…
祀ったのはその民かと思っていると、語り部が言った。

「実は、アカル姫が久高島から難波に上がっていく様子を
霊視したことがあったのですよ。そこには松林と井戸が
あって、住吉大社だと分かったのですが、赤い太鼓橋
のあたりで、その姿がパッと消えてしまった…」


↓今年の春に参った住吉大社(大阪市住吉区)の境内
 にある太鼓橋。姫が消えたとはどんなメッセージか?
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語り部に降りてくる不思議なイメージ。私が聞く。
「姫が消えたとは、どういう意味なんですか?」
「アカル姫は住吉大神、つまり綿津見神の娘なのでしょうね」
「豊玉姫とか玉依姫のような…?」
「海神の姫だから、上古から大海を船で行き来できたのでは」
「難波でアカル姫を祀ったのは、それでは安曇族…?」
「はい、住吉で姿を消してからは、北の方角へ進み、
 琵琶湖を通って、信州へと逃れていくのが視えました」
「逃れて、消えた…」
「アカル姫を崇める一族が、です…」


参拝後に、境内の休憩所で見た古代船の絵。
第四宮に祀られる神功皇后の征討船を描いたものか。
第四宮は当初、姫宮と呼ばれたらしいが、その姫とは?
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語り部は「アカル姫は消えた」と言うが、9〜10世紀成立
 の『住吉大社神代記』に、その名は「子神」として載る。

〜赤留比売命神(中臣須牟地神(なかとみすむちのかみ)。
草野神(かやのかみ))〜

草野神とは、新羅の前身国・伽耶(加羅)を暗示している
ようだが、中臣須牟地神は、何やら聞きなれない神名だ。
「住道神(すむちのかみ)」の名もあったが、どちらも
磯歯津路(しはつみち)に「住む神」ということらしい。

磯歯津路なる街道ができたのは5世紀後半、雄略の時代。
住吉津に着いた外国からの技術者や使節を、大和の飛鳥へ
向かわせるために造られた主要交通路だった。


地図は『東アジアに開かれた王宮〜難波宮』から拝借。 
赤の矢印は私の加工で、住吉津(=住吉大社)の場所。
東を流れる大和川に向け磯歯津道(点線)が築造された。
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『住吉大社神代記』には、次のようにある(要約)。
☆住道神は八前なり。天平元年(※729年)、託宣に
 よって河内国丹治比郡の盾原(たてはら)に鎮座した。
 ☆中臣須牟地、神須牟地、須牟地曽弥、の三神社を創祀。

そのなかで、アカル姫は、中臣須牟地神社
中臣須牟地神として祀られたが、祭司したのは、
藤原鎌足・不比等の父子の出た中臣氏だったという。

語り部の言う安曇族でなく、系譜を異にする氏族だ。
つまり、アカル姫は、朝廷祭祀を司る中臣氏によって
来朝者への饗応のために創祀された住道神社に祀られた。

延喜式(玄蕃寮)に、次のような事情が載る(要約)。
☆新羅から来朝客には、各地から稲を集めて醸した。
☆その酒を難波館(※迎賓館)で給した。

『住吉大社神代記』に、アカル姫が
「草野神(かやのひめ)」と特筆された理由とは、
鹿野姫」に通じる神徳も備えていたからなのだろうか。
 その女神は酒の神、つまり「酒を醸す月の神」だった。

語り部の言う「姫が消えた」とは、そのことか…。
神徳だけを奪われて、姫を祀る一族は追いやられた?


by utoutou | 2017-11-19 10:17 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 144 女神たちの難波

玉造稲荷神社の祭神・下照姫(したてるひめ)命。
『古事記』では、大国主神と田紀理毘売命の娘。
『日本書紀』では、大国主神の娘。いっぽう、
新羅から来た天之日矛の妻・アカル姫(阿加流比売神)
は、「難波の比売碁曽社に坐す」と、紀にはある。
記では男は都怒我阿羅斯等だが、内容は同じだ。

よって、アカル姫=比売碁曽神だが、そこになぜ
=下照姫という亦の名がつくのか…が分からない。

そこで、『摂津名所図會』(1798年)を開き
玉造稲荷神社の旧名・豊津稲荷社のページを見ると、
意外な神名が出てきた。いきなり話は脱線するが、
社名にある「豊」とは豊受大神の略だと記されている。

  『摂津名所図會』豊津稲生大明神。(以下要約)
☆垂仁天皇の世、下照姫命を祀り「姫の社」とした。
☆同座に倉稲魂命を祀った。この神は、外宮御神体の
豊御食津神と同神異名なので、「豊津社」と名づけた。

玉造稲荷神社は元四天王寺であり、元伊勢だったか…。


東から見た社殿。並ぶ紅白の鳥居は摂社・厳島神社。
ちなみに、この場所に聖徳太子作の十一面観音像
と多聞天不動像を祀る観音堂があったが、焼失した。
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『摂津名所図會』豊津稲荷社。社殿左上に描かれるお堂
が、聖徳太子が十一面観音像を祀った長楽寺観音堂。
いま南面する社殿は西面し、日の出方向を崇めていた。
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さて、難波にある比売古曽神社。その一社目は、
玉造稲荷神社から車で10分ほどの近距離にある
高津宮神社(大阪市中央区高津)の摂社として鎮座。

『摂津名所図會』高津社(以下要約)
☆祭神・仁徳天皇。往古は下照姫命を祀る「比売社」。
☆高津社の旧地は大阪城辺りにあったが、天正年間に
この地に遷座したため、下照姫命を境内の別社に祀った。


現在も高津宮神社・比売古曽神社の祭神は下照姫命
だが、小祠すぎて『摂津名所図會』では見つからない。
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地主神というのに摂社に追いやられた下照姫命だが、
高津社の項には、その神名の由来が記されていた。
「そもそも高津宮は…」と一文は始まる。(以下要約)
☆神代には、下照姫の住まい給う土地だった。
☆高津は大江の岸(上町台地の西崖)の最も高い所で、
北は淀川、東は大和川、西は海浜。その中で押し出て
いるような地形ゆえ、和歌では「おしてる」と詠まれる。


そうだったのか…。「おしてる」という難波の枕詞
があるが、まさに難波の台地は「海に押し出た土地」。
そこで祭司した下照姫とは、日の巫女だったのだろう。

琉球には「おしあげ(押し上げ)」を含む御嶽名がある。
「夜のトバリを押し上げるような朝日」との意味だが、
それで解しても、下照姫とは「昇る太陽神を祀る巫女」。
下照姫を祀る比売社こと玉造稲荷神社(豊津稲荷社)が
創祀当初は東西軸に建っていた理由も、これで納得だ。


また、下照姫は宝珠を持った日巫女でもあった。
もう一社の比売許曽神社(東成区東小橋)にほど近い
「磐船旧跡」にその伝承があったと、古書は記している。

『摂津名所図會』比売許曽神社。(以下要約)
☆祭神・下照姫命は大己貴命の娘、天雅彦の妻、
味耜高彦の妹。神代、天磐船に乗りこの地に天降りた。
☆垂仁記には、都怒我阿羅斯等が追った童女が難波の
 比売許曽神社に祀られたと記されている。
☆『朝野群載(※1116年)』に曰く、下照姫が天降りた
磐船は縦70m、横35m。中に如意宝珠が一粒あった。
東北方向を向いた磐船の上に祠を建て、石霊を祀った。



比売許曽神社は絵の右下、左端の木の立つ山が磐船山。
上の小高い山が、現在の産湯稲荷神社(天王寺区)。
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アカル姫(比売古曽神)=下照姫の旧跡が点々とする
 古代の難波は、つくづくと「女神たちの聖地」だった。

   そして、驚いたことに、上町台地の最南端に鎮座する    
住吉大社にも、アカル姫は祀られていた。つづく…。








by utoutou | 2017-11-16 21:18 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 105 天穂日命の末裔

美作加茂へは、前日、空路東京からまず鳥取市へ入り、
1泊してJR因美線で南下したのだったが、その経路を
辿っていなければ、全国出土の7割は美作からという
土師質陶棺に、あれほど強く思いを巡らせなかったと思う。

因幡から美作へと、また逆に美作から北上して因幡へと、
いずれのルートだったとしても、土師氏族の広がりを
思わせる痕跡の極致に、美作加茂で見た土師質陶棺はあった。



鳥取では↓お約束の砂丘を観光。さらに西へ30㎞離れた岬
・長尾鼻の南にある弥生遺跡・青谷上寺地(あおやかみじち)
遺跡展示館を見学。そして、市内に点在する神社巡りをした。
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鳥取市で参ったのは、売沼神社、白兎神社、土師百井神社、
因幡国一宮・宇倍神社などだったが、もっとも印象深かった
のが、天穂日命神社(鳥取市福井)。地図はこちら↓
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日本一大きい淡水池という湖山池の西に位置する。周辺
 には、その御子神を祀る天日名鳥神社があり一族所縁の地?
天穂日命は、出雲臣と土師氏の祖と伝わる神である。
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天穂日命は、神話では天照御大神の次男とされ、出雲国造家
、出雲大社宮司家である千家氏の祖とされるいっぽう、その
国造交代の際の神火相続式をする神魂神社(島根県松江市)
を創建した神とも伝わる。つまり、天穂日命は「火」の神。

そして、先日参った鳥取
の天穂日命神社には、由緒がこのように記されていた。
(以下要約)
☆古代高草郡の豪族因幡国造氏の氏神を祀る。
☆9世紀頃までの因幡では、最上位の格式にあった。
☆因幡の中心的勢力は、因幡国造氏だった。



因幡国造家の祖でもあったのか、天穂日命。神社境内
には、真新しい天穂日命像が白兎をお伴にして立っていた。
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さて、岡山県北最大規模、美作加茂の万燈山古墳に
埋葬されていた土師質亀甲型陶棺の製作者であり被葬者
もまた、天穂日命を祖とする土師氏の人々だったと思う。
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土師質の陶棺は、土師氏が製作して土師氏の長を葬った。
そして↓万燈山古墳は、土師氏一族の墓陵である…
とは、しかし、どの資料にも記されてはいない。
古墳は加茂町の奥地の墓地に隠されるようにしてあり、
いまは地元老人会でも、被葬者を語る人は少ないという。
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古墳と陶棺が造られた6世紀末、美作の地に
白猪屯倉(しらいのみやけ)という朝廷の直轄領ができた。
そこへ派遣された役人は百済の渡来人かと、前回書いた。
屯倉であれば、陶棺も製作できる規模の大型製鉄炉が
あってもおかしくはないという説も紹介した。

ただし、おそらく役人は役人である。
陶棺を造る窯業の技術者(工人)ではないし、
被葬された「鉄王」でもあり得ないだろうと思うのだ。

そもそも、土師氏とは、埴輪の制作や祭礼に関する職分を
担当する品部だった。垂仁天皇妃・日葉酢姫命の葬儀に
あたって、それまでの慣習だった殉死に替えて、埴土で人型の
埴輪を作って埋葬することを、土師氏の祖先である野見宿禰
が天皇に奏上したことが始まりだと言われている。

そのとき、百人の職工たちが出雲から都に呼ばれた。
つまり、垂仁の時代、出雲に埴輪作りは行われていた。
美作でも、産鉄や窯業は盛んだったと考えるのが自然だ。

美作という国名の起こりは時代降って和銅6(713)年。
それまでは吉備国だったのが、備前・備中・備後、美作
という4つの地域に分割された。吉備とは、それだけ
歴史が深く、鉄資源が豊富な強国だったわけで、ヤマト
王権が屯倉を置いたのは、その弱体化を図ったためだろう。

そして、美作に土師質・亀甲型・陶棺が誕生した。
わざわざ「・」を付けて区切ったのは、そこに後に
土師部となる「火の一族」の特性を強く感じるからだ。

埴土は『日本書紀』に曰く、スサノオが出雲に来たとき
に乗った船の材質であり、亀は海人族のトーテムであり、
陶棺は、先史時代の家を模した家型埴輪に由来すると思う。

その陶棺は、南方の島々の家屋と同じく高床式である。
天穂日命とは、「火の神とホとヒ」で書いたように
琉球の祖神だったのだなと、加茂町で再確認したのだった。










by utoutou | 2017-11-16 17:16 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 143 下照姫はアカル姫?

玉造稲荷神社境内にある難波玉造資料館。
創祀2千年記念事業として、'86年に開館したという。

境内の北東に位置している家形埴輪を模した建物がそれ。
豊臣の時代には大阪城城内だったため秀頼像も近くに。
上古から戦国へ、時空が幾重にも織り込まれている。
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禰宜さんが恭しく開錠してくれた資料館は、
こじんまりした空間に玉作りに関する資料が満載。
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曲玉作りの工程や工具や、瑪瑙など原石も漏れなく展示。
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【難波・玉作(造)】についての解説(要約)。
☆ 古代より玉作岡と呼ばれたこの神社一帯には、
古墳時代中期に玉類を製造加工する玉作り集団がいた。
☆ 付近の森ノ宮遺跡には約4500年前から人がいた。
☆境内からは、昭和17年(1942)、大阪府警察
・消防部(現・大阪府消防局)による防火水槽建設工事中
に土器片と貝殻類に混ざって、中国古代銭が出土した。
☆ 古来、中国大陸や朝鮮(韓)半島の人物交流用地
として重要な位置を占めていたと考えられる。
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こちら韓国国宝・天馬塚金冠(5〜6世紀、古新羅時代、
慶州博物館)のレプリカ。58個付いている硬玉(翡翠)
は、新潟県糸魚川地方で産出された原石という。
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【玉作蓮・玉作部】についての解説(要約)。
☆ 古代社会において玉祖連(むらじ、別名…玉作連)
   に総轄され、玉造りを専業とした部民のこと。
☆ 記紀の神代巻には、玉祖命(たまおやのみこと)が
初めて玉を作られたとあるが、その伝統的技術は縄文
時代中期にまで遡り、古墳時代に定型化し盛行した。
☆ このように古い伝統を持つ各地の集団は、4世紀頃
の大和朝廷の伸長に伴い、再編成された多くの手工業
集団の一つとして成立。7世紀に至り、氏姓制度の
崩壊と共に、一部は律令制下に組み入れられた。
☆ 各地に玉造の地名と、玉祖(玉造)神社[祭神
…玉祖命、別名 櫛明玉、豊玉明、天太玉、天明玉、
羽明玉〕があり、そこが氏族の本拠地と考えられる。


玉造の玉作り関連の遺物には ↓「三輪玉」がある。
地図下の○印が玉造稲荷神社、出土地は森ノ宮遺跡周辺。
三輪玉とは、奈良・大神神社の祭祀遺跡から出土した
古墳時代中期以降のもので、大刀の柄に付ける装飾品。
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などなど資料館では勾玉や考古の世界を堪能したが、
神社祭祀に関する資料が少なかったのが残念だった。

他でもない、祭神の下照姫命のことである。
下照姫命は、同じ難波にある比売許曽神社の主祭神
でもあるが、社名通りに比売許曽神にも比定される。

その比売許曽神は、『日本書紀』では、
大加羅国の王子・都怒我阿羅斯等が追いかけたが
日本に帰って来た童女・阿加流比売神(以下アカル姫)。
『古事記』では、夫から離れて帰国した天之日矛の妻。

つまり、下照姫=比売許曽神=アカル姫?
下照姫がアカル姫と同神とすれば、何やら事は重大。

日の出の太陽を表す赤い瑠璃の玉の化身・アカル姫
は、沖縄久高島のアカララキにも祀られる女神だと、
我々は見立ててきたのだったし、いっぽう、玉造に
元四天王寺を建てた聖徳太子は「日の出る処の天子」。

アカル姫、アカララキ、聖徳太子。
赤い玉(太陽)というキーワードを持つ3つの点は、
やがて1本の線として繋がっていくように感じられる…。


ところで、一昨日10月5日(日)↓難波京跡公園で、
古代日本と朝鮮半島の交流を再現する祭り四天王寺ワッソ
が催され、アンミカさん扮する聖徳太子と、大桃美代子
 さんが扮するアカル姫らの一行がパレードしたという。
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by utoutou | 2017-11-07 13:50 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 142 玉造稲荷神社

元四天王寺とされる玉造稲荷神社(大阪市中央区玉造)
へ参ったのは9月28日のこと。2ヶ月余り前だが、
聖徳太子の謎を書いていて後回しになってしまった。

そもそも聖徳太子に所縁の地を訪ねようと関西へ赴き、
いの一番に訪れたのが、この玉造稲荷神社だった。

祭神は、宇迦之御魂大神、下照姫命、稚日女命、
月読命、軻遇突智命。


参拝後に神紋を見上げているうちに、ついつい
スマホカメラをズームアップにして撮っていた。
上から勾玉紋、青色の渦巻き紋、その中央に如意宝珠!
神社の拝殿に宝珠を戴くとは、さすが「玉造の里」だ。
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図らずも旅の初心を確認する。私はアマミキヨを追跡
しているのであり、六甲山に隠されたと語り部が視た
「琉球の宝珠」と聖徳太子との関連を睨んでいるのだ。

創祀時、この神社は「比売社」とも呼ばれたという。
本殿に向かい、祭神として祀られる下照姫命を想う。
大国主の娘。紛うことなき縄文の瀬織津姫である。


神社が創祀されたという2千年前、大阪全域はほぼ海。
ここから約2㎞北の大阪城周辺から、約10㎞南の住吉
まで、東西3㎞ほどの上町台地だけが陸地だったという。
下照姫は水の女神か、勾玉で祭司する日巫女だったか…。
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社殿から後ろに移動すると、北に高層ビルが見える。
北へ10分歩くと大阪人のルーツ・森の宮遺跡があり、
その深層からクジラや魚の骨が見つかっているという。

古墳時代、仁徳天皇はこの上町台地に都城を築いた。
6世紀に入ると、朝廷御用達の専門家集団・玉造部
の住居兼工房の地になったというのが、地名の由来だ。
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さらに南に後進、鳥居から社殿を望むと↓こんな図。
6世紀末、聖徳太子はこの地に布陣した。物部守屋と
仏教導入を巡り争った際、戦勝祈願したとの逸話が残る。

「我に勝を与えるなら、これに枝葉を生ぜしめよ」と、
栗の木の箸を土に植えると、翌朝に木が茂り戦に勝利。
そこで太子は十一面観音像と多聞不動像を造り祀ったと
いうのが、元四天王寺と位置づけされる所以でもある。
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玉造は「玉作岡」とも書くが、やがて太子の埋めた栗の木
にちなんで、「栗岡」とも呼ばれるようになったという。
物部と蘇我の対立は創作と思うが、それはまた別の話…。
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さらに南へ、道に出ると奉納者の名前に目が釘付けに。
玉垣に「栗岡」の銘石が並んでいる。栗岡の栗岡さん?
急ぎググると、太子の栗の木を賜って以来、その名乗り
 となった旧家だといい、神主にも栗岡さんがおられた。
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さて、散策した後は境内にある玉造資料館へ。
実はお目当は勾玉の見学、事前に参観予約していた。





by utoutou | 2017-11-03 18:20 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)