カテゴリ:瀬織津姫( 138 )

六甲山と瀬織津姫 119 新羅王は琉球で生まれた

400年前に新羅から来たという難破船が接岸したため、
その名がついた奥武島の聖地・御新羅(ミシラギ)。
「難破船はどこへ向かおうとしていたのか?」という問い
に対して、難破船の伝承は答えてくれることはないが、
古来、朝鮮半島と琉球を往来する海路はあったようだ。



奥武島観音堂から至近の距離に、タカラ城(グスク)
という創祀年代がまったく不明の御嶽がある。
語り部によれば、「タカラ=多加羅」。つまり、加羅諸国
の人々が渡来した痕跡ではないかという。※'17年2月撮影。
a0300530_11151498.jpg




集落の一角に埋もれるようにあるタカラ城の御嶽。
威部(いび)の傍の表示には「Takaragusuku Tomb(墓)」
と英字も。それ以上の解説は『奥武島誌』にも記載がないため、
逆に、琉球と新羅の間にあるかもしれない秘史に興味が湧く。
a0300530_11232680.jpg




ところで、「新羅第四代の王・脱解(57〜87年)は琉球
で生まれた」と記したのは『契丹古伝』訳者の浜名寛祐氏。
脱解王の話は、その著の第十八章「五原以前の支那原住種族」
にある「クマソ」を、「脱解」の項の前段として捉えている。

(要約)
☆(大陸の)五原にいた先住民のうち南原のクマソは
 新羅三姓(朴金昔)の祖。卵生神話があり鳥人と呼ばれる。
☆先住民はよく服順したが、クマソは従わなかった。
☆クマソは難波…つまり琉球の那覇を経て、大隈国の
宇豆、筑紫を通り、遂に辰藩(=新羅)に侵入した。

新羅はクマソの興した国であるというのだ。そして、
『三国史記 新羅本紀』を引き、脱解の生誕へと訳文を繋いだ。

〜 脱解は多婆那国の所生なり。
その国は倭国の東北一千里にあり。〜

この一文を解して、脱解王の所生を次のように記した。

(要約)
☆『三国史』に云う脱解の生まれた「多婆那国」を、日本の学者
は、丹波や但馬や肥後の玉名と解しているが、古代を契丹古伝
の如く大観すれば、それは台湾を含めた琉球でなくてはならない。
☆「倭」は我が日本だけでなく、遠く東シナ海にも存在した。
☆「倭の東北一千里」とは、「委の東北一千里」のことである。
「委」は「越」の古名なので、「多婆那国」とは琉球のことである。


「新羅人が九州に渡って熊襲になった」との説はあるが、
  浜名説はその逆で、南原にいた熊襲が新羅入りしたという。
「では、南原とはどこか?」には詳しい言及はないのだが…。



富山県作成の「逆さ地図」を真似て、Googleマップ
を(アバウトだが)↓ 逆さ地図にしてみると、
大陸と日本列島と琉球列島の位置関係がよく分かる。

繋がった眉毛のような日本列島と奄美・琉球諸島は、
あたかも東シナ海という内海の淵に立地しているようだ。

赤い矢印が沖縄本島。朝鮮半島東南部にあった新羅を、
例えば南方に向け船出すると、常に島々が見えるという。
船乗りの視界から初めて陸地が見えなくなるのが、沖縄本島を
離れてからだそうだ。本島南端の喜屋武岬の近海を離れると、
次に視界に入る宮古諸島までの距離は、約200mile(320㎞)。

南進北進を問わず、船乗りの航海術が試される海域と聞く。
黒潮やその反流や季節風に抗しきれなければ、「内海」から
太平洋へと押し流されて、奥武島や玉城に漂着することになる。
a0300530_08062566.jpg




奥武島の橋にかかるモニュメントのハーリー船。
古代人は、刳り船か葦舟かで大陸と島々とを往来していた。
a0300530_10184792.jpg










by utoutou | 2017-07-17 10:55 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 118 奥武島の御新羅(ミシラギ)

玉城城とレイラインの話は、思えば4年前に始めた
当ブログの初回に、「太陽の道と貝の道」として書いた。
アマミキヨが築いたという玉城城とレイラインの関係が
分かれば、琉球の歴史の一端は紐解けるか…と考えていた。

先月の沖縄旅でも玉城城に登り、一の郭の前に立って
玉城台地(現在は琉球ゴルフ倶楽部のコース)を見渡した。


カメラ視線の真っ直ぐ先から、夏至の太陽が昇るという。
↓稜線を描く山の麓に、玉城の神女オバアが「琉球最古に近い」
と言った「垣花の御嶽」が、またその1㎞先に垣花城址がある。
夏至の朝日は2点の「垣花」を貫いて玉城城の一の郭に届く。
それはまた、垣花城(照城之嶽)と玉城城という2点の
「アガル御イベ・ツレル御イベ(=東方の御嶽)」を繋ぐ。
語り部は、「アカル姫はアガルイの御嶽にいる」と言った。


a0300530_12403403.jpg




さて、
垣花城跡〜垣花御嶽〜玉城城を通る「アカル姫のレイライン」。
その先(西南の先端)は、奥武島(南城市玉城奥武)である。
奥武島から撮った写真の東北に、5㎞離れた玉城城の城壁が写る。
奥武島(南)と玉城(北)を結ぶ橋(60m)の奥武島側から撮影。
a0300530_12432603.jpg




ミシラギは、漢字で表記すると「御新羅(みしらぎ)」。
標識に 〜観音堂由来の難破船を繋いだ岩〜 と、短い
説明があるように、奥武観音堂ができるきっかけとなった
400年前の難破船伝承の残る地で、以来、拝所となっている。


「新羅から来た船」は、難破して奥武島に辿り着いた後、
↓防波堤の右端近くの岩に船を繋ぎ、避難していたという。
一帯は志堅原(しけんばる)集落。船乗りたちは、滞在中に
使った川泉に「仁川」と命名。現在も「じんがー」と呼ばれる。
集落の人々の協力で船の修復も終わり、やがて帰国した一行は、
その恩に報い、琉球王府を通じて純金の観音像を贈ってきた。
a0300530_12441187.jpg




「新羅」から到来した観音様を安置する奥武島観音堂。
ハーリー(海神祭)前日、航海安全などを祈願するのが恒例。
コンクリート製の鳥居には三日月の彫刻。'17年2月の撮影。
a0300530_16393425.jpg




「新羅」製の観音像は高さ24㎝ほどの大きさだったという。
蓮の上に乗り、左手に糸玉、右手に糸巻きを持っていた。
それが今次の戦乱で失われてしまったため、終戦後、
京都から取り寄せたのが ↓こちら。陶製の楊柳観音という。
a0300530_18312837.jpg




『奥武島誌』('11年、奥武区自治会発行)は、しかし、
「漂着船は新羅から来た」という伝承には、やや懐疑的だ。
その理由とは…。以下、記事を要約。

☆漂着した年代(※1615年頃)は古老たちの推測であり、
漂着船の国籍(中国か韓国か?)を含めて調査研究が必要。
☆ミシラギとの関連が伝わる「新羅」は、西暦356年から
朝鮮半島東部にあった国で、935年に滅亡しているため、
「新羅から来た」にしては、時代的に700年ほどズレがある。


私はこう推理する。難破船に乗っていた一行は、
自ら「新羅人の末裔」と名乗っていたのではないだろうか。
いっぽう、400年前の奥武島の人々は、そもそも、
新羅に対して親しみの感情を抱いていたのではなかったか。

各地のレイラインには日置族の関与があったと言われる。
玉城城のレイラインも然りで、その存在があったと考える。

日置族の本拠は南薩摩。熊襲・隼人と故地を一にする。
『契丹古伝』を和訳した浜名寛祐氏は、こう記している。
「新羅は熊襲が興した国である」。そして、
「新羅第四代の王・脱解(だっかい)は琉球で生まれた」と。

古来、琉球と深い関係があり、もしその伝承が残っていたと
 するなら、「新羅」をめぐる年代のズレは問題にならないし、
 新羅に、わざわざ「御(み)」を冠した拝所名もうなずける。





by utoutou | 2017-07-13 12:57 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 117 アカル姫のレイライン

久高島八月祭り(テーラーガーミ)で男たちが集落をお祓い
しつつ歌う神歌『赤椀の世直し(ゆのーし)』。世直しとは
神に神酒(ウンサク)を供えるための木のお椀を指すというが、
歌詞にあるその世直しの出所が、私には長年の謎だった。
a0300530_14171713.jpg




〜サウルカラクダユル ヘイ(サウルから下った)
アカワンヌユナワシ ヘイ(赤碗の世直し)
ヤマトカラクダユル ヘイ(ヤマトから下った)
クルワンヌユナワシ ヘイ(黒碗の世直し)〜
(※全歌詞と祭りのレポートは こちら に)

さあ、世直し(酒椀)に神酒を注いでお供えしよう…と。
その世直しが下された元とは、久高島に渡来した先祖の故郷
らしいが、「サウル」と「大和」とは一体どこのことか?

祭りで歌った経験のあるオジイは言った。
「ソウルは中国、ヤマトは大和(本土)のことだよ」と。

ところが、この度、語り部が視た世直しは違った。
「いま初めて視ました。赤椀は赤い琥珀でできている。
琥珀だから、光線によって黒椀にも見えたわけですよ」

一瞬、息を飲んだほど、意外な話だ。
「赤椀と黒椀の2種類があるわけじゃなかったのか…」
語り部も、自ら霊視したものに少し興奮しているようだ。
「渡来の歴史を隠して神を祀っていたのでしょうね…」


赤い琥珀で作られた、世直し。
そう聞いて思い出すのは、何年か前に観た
『草原の王朝〜契丹〜美しき3人のブリンセス』展である。
印象に残った遺物に、複数の赤い琥珀の装身具があった。


↓ 図録から11世紀前半の王の首飾り写真を拝借。
解説文によれば、龍や魚や蓮華を浮った珠を繋いだもの。
赤琥珀を好む傾向は「中原」の民、つまり漢民族にはなく、
それを珍重するのは契丹の王族の特徴ということだ。  
また、赤琥珀は契丹領内の産物とも考えられるらしい。
この材質で作られたのが、赤椀の世直しか…。

a0300530_14575184.png


世直しがいつ琉球にもたらさせたものかは分からないが、
赤や朱は古代人にとって神聖な色だったという。特に
中原の周縁に住む倭人にとっては。漢民族から東夷など
と呼ばれた、ユーラシア大陸の先住民たちの立てた国は、
契丹古伝によれば東大神族(しうから)。その民は赤を珍重した。

いっぽう、アカル姫は太陽を思わせる赤い瑪瑙玉の化身。
その母は昼寝して陽光にホトを射されて妊み、赤玉を生んだ。

それを思えば、赤椀はアカル姫の象徴として相応しい。
アカル姫が東大神族の流れにいるならば、あの神歌の
「ヤマト」とは、東大神族=倭(やまと)とも受け取れる。

「ところで…」と、語り部は言った。
「アカル姫の霊は東方(あがるい)の御嶽にいるようです。
久高島のアカララキ以外にも、同じ名の御嶽はありますか?」

しばらく考えて、「あーっ」と思いついたのが玉城城である。
玉城城の城内にある「天つぎ雨つぎ」(※由来記では雨粒天次)。
「その神名は、アガル御イベ・ツレル御イベといいます。
地元では、アガルイの御嶽と呼ばれることもある」



という訳で、翌日さっそく玉城城(南城市玉城)に登った。
この日は珍しく一の郭までに2組の見学客とすれ違った。
a0300530_16131394.jpg




一の郭の丸い穴から城跡に入ると火の神(写真右)がある。
夏至の朝日は一の郭を通り、この香炉を射すと伝わる。
石積みの中が「天つぎ雨つぎ」こと「アガルイの御嶽」だ。
a0300530_16151798.jpg




いつものように一の郭から琉球ゴルフ倶楽部を見通す。
夏至の朝日を見ようと登ったときは、あいにくの雨だった
…などと思い出していると、ふと、あることに気がついた。
あの山の先に、垣花城(かきのはなぐすく)の城跡がある。
城内の御嶽も、やはり「アガルイの御嶽」という。
a0300530_12565095.jpg



垣花は、古くは和名垣花と呼ばれたという。
和名とは、大陸から渡来して大和古代豪族となる和邇氏の
根拠地だったろうと、語り部がかねてから言う集落である。

玉城城と垣花城にある同じ神名の「アガルイの御嶽」。
2ヶ所は、まさしく夏至の朝日のレイライン上にある。
つまり「アカル姫のレイライン」なのか…?













by utoutou | 2017-07-09 12:57 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 116 アカル姫の御嶽

アカル姫。
『古事記』応神天皇記には、「天之日矛の妻」「新羅から来て
難波の比売小許社に坐す阿加流比命」と、記されている。

『日本書紀』垂仁天皇記には、「都我阿羅斯等
(つぬがあらしと)が追った童女」「難波の比売語許社、
そして豊国・国前郡の比売語曽神社の神になった」と
記されていることから、この童女もアカル姫と見られるが、
記紀どちらにしても、古伝としての記述である。

そのアカル姫について、語り部は言った。
「久高島のアカララキに祀られる女神と、神像が一致する」と。
また、アカル姫は「琉球の玉を持っている女神」であるとも。
それは如意宝珠や「三種の神器」の勾玉にも匹敵する神宝。
太陽の化身として、至高の霊力を発する玉であったらしい。


久高島の西海岸に位置するアカララキの御嶽(写真左)
島西南のユーラヌマ浜に位置する(↓ 6月27日に撮影)
a0300530_16380106.jpg





アカララキ(=アカル姫)は転生再生を司る女神。
イザイホーの際には祭場に移動して、島の女性たちが
神女として生まれ変わるのを見守ったと考えられる。 
(以前の記事は こちらこちらに)

アカララキに祀られる女神の名は、伏せられてきた。
その理由が渡来の女神だったからなのだとすれば、
イザイホーが長く秘祭とされ続けた理由もそこにある。

天皇の践祚大嘗祭の原型とも言われるイザイホー。
その祭場に祀られたアカララキが渡来の女神では、
都合が悪かったということだろうか。

しかし、アカル姫は決して渡来の女神ではない。
崇めたのは、ユーラシア大陸を治めたと考えられる
古代王朝・東大東族(しうから)民。倭人と呼ばれた人々は、
琉球・日本・大陸の間を、潮流に乗って行き来した海人族だ。



琉球には歴史がないと言われて久しいが、そうした古伝
は、琉球王朝時代まで密かに継承されてきたらしい。
  アカララキは「君の泊(ちみんとぅまい)」と呼ばれた港に位置。
「君」とは聞得大君の意味で、その船はここに着岸したという。
降り立ったその足で、いの一番に参詣したのがアカララキだ。
↓ 斎場御嶽と海峡を挟んで向き合う「東方の御嶽」でもある。
a0300530_15303007.jpg




「アカル姫は、東方(あがるい)の御嶽にいる」
と、語り部は言った。
私には初めて聞く御嶽の名だったが、「暁の御嶽」
と言われるアカララキには、そんな古名もあったのだろう。
琉球では、太陽の昇る方向を東方(あがるい)と、
また太陽神を「東方大主(あがるい・うふぬし)」と呼ぶ。


太陽神を祀り、そして自らも祀られるアカル姫の御嶽。
御嶽の中央に置かれた小祠の中には、小さな神体石が、
いま水平線から昇って再生する朝日のように祀られている。
a0300530_16381036.jpg




さて、
夏にアカララキを起点として行なわれる久高島の男祭り
テーラーガーミ」を見て書いたのは3年近く前だったが、
アカル姫を知ったいま、訂正しなくてはならないことがある。
男たちがお祓いのために手にする「日の丸」の扇子。それを
近年の祭具なのだろうと考えたが、これがアカル姫の「赤い玉」
を象徴しているとすれば、近年からであろうはずはなかった。
a0300530_14450730.jpg





そして、「赤玉」がアカル姫が持つ神宝だったなら、
これまで腑に落ちなかった神歌(ティルル)の謎も解ける。
テーラーガーミで男たちが歌う『赤椀の世直し』の一説だ。

〜ソウルから下たる赤椀の世直し〜(※世直し=祭具)

なぜ赤椀(酒杯)はソウルから下ったのか…の答えは、それを
もたらしたのがソウル(新羅)から帰ったアカル姫だったからだ。
「赤椀の材質は、赤琥珀(レッドアンバー)でできている」
と、語り部は霊視している。





by utoutou | 2017-07-05 11:52 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(3)

六甲山と瀬織津姫 115 琉球の玉

初めての帰化人で新羅の王子と言われるアメノヒボコ
(天之日槍、天之日矛)の持参した「八種の神宝」は、
4種の比礼(布)だけでなく、2種の玉も2種の鏡も、
八種の神宝のすべては、航海のための器具と考えられると、
茂在寅男氏はその著書『古代の航海術』で述べている。

那覇で会った語り部も同じ意見だった。
「波風を鎮める呪具でありツールだったのでしょうね」

が、「ただし…」と、すぐに話は意外な展開になった。
「神宝が天之日槍の持参したものとは思えないのです」
「それは、どういうことですか?」
「持参したのではなく、授けられたのではないかと…」
「誰から、ですか?」
「猿田彦からだと思います」

猿田彦…なるほど、そういうことになるのか。
猿田彦の神像は、このところ語り部のなかでは絶大らしく、
スサノオや豊玉彦と同様に大きな海神なのだと度々言う。
もしかすると、スサノオの異名なのかもしれないとも…。

つい先日、因幡の白兎神は猿田彦のことだと言っていたし、
そもそも「猿田彦はアマミキヨであり元津神」というのが、
語り部のかねてからの見立てだ。
アメノヒボコとの接点も史書では語られることはないが、
語り部の霊視によれば、その関係はかなり密接らしい。

「ところで…」と、私は話の方向を少し変えた。

「アメノヒボコの神話に、赤い玉というのが出てくるんです。
新羅の国のアグ沼で、昼寝をする女の人が、下腹部に日光が
差し込んだことで身籠り、赤い玉を産みます。
この玉を授かったアメノヒボコは、やがて玉から生まれた
女の子を娶るのですが、その妻は夫・ヒボコの我儘に憤慨
して倭国へ帰ってしまう。この妻の名前がアカル姫で…」

『古事記』では、天之日矛の妻になる阿加流比売神。
『日本書紀』では、意富加羅国王の子・都怒我阿羅斯等
(ツヌガアラシト)が童女を追いかけて日本に来るが、
その童女がアカル姫とも読み取ることができる。

私は、長く抱いていた仮説を聞いてもらうことにした。
「アカル姫が帰った先の倭国とは、琉球ではないかと。
アカル姫は、久高島のアカララキと関係がありますか?」

アカララキは、西海岸の「君の港(チミントゥマイ)」に
王府時代からある御嶽。その聖地に滞留しているのは、
アラハバキ(瀬織津姫)とも、読み解いてきたのだった。

アカララキとは「暁の太陽の御嶽」という意味だが、
アカル姫も、暁の太陽を表す赤いメノウの化身。
共通する「アカ」に秘められた符号がありそうに感じる。

沈黙を置いて、語り部がおもむろに口を開いた。
「はい、アカララキはアカル姫の御嶽だと思います。
そして、その赤い玉とは、琉球の玉」
「琉球の玉! あの六甲山に隠された宝珠のことですか?」
「はい」

1年数ヶ月に渡る謎解きも、とうとう最終コーナーか?


翌日、東シナ海を見ようという気になり、本島北部
の国頭郡にある御嶽・備瀬のワルミへ行ってみた。
観光客が大勢いたため頭上しか撮らなかったが、絶景。
a0300530_10090808.jpg





砂浜に出て大岩を見ると、それは如意輪観音の横顔のよう。
思えば、如意輪観音ご開帳の六甲山・神呪寺へも行った。
空海が真井御前をモデルに彫った秘仏・如意輪観音像に隠した
珠とは、浦の島子が持ち帰った「龍宮の玉」だと言われる。
a0300530_08234869.jpg




砂浜にあった2艘のカヌーに古代人の航海を思った。
東シナ海の黒潮に乗り朝鮮半島や大陸との間を往還した。
琉球産宝貝などの交易は、縄文時代から行われていた。
a0300530_08241212.jpg

by utoutou | 2017-06-30 13:49 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 114 アメノヒボコ

青谷上寺地遺跡(鳥取市)と御領遺跡(福山市神辺町)。
ふたつの遺跡からは弥生時代の船の線刻画が出土している。
その共通点は、準構造船に描かれた「旗」ではないだろうか。
学説があるわけではないが、青谷上寺地遺跡展示館で、
↓ 船団の線刻画を目にしたとき、中央の船の船尾に立っている
のは「旗を立てる柱なのでは?」と、胸が騒いだものだった。
a0300530_15063228.png





いっぽう、御領遺跡の線刻画にも旗とおぼしきものが
描かれていた。この地域は、古代にはまだ瀬戸内海沿いで、
ゆえに交易港であり、そのため奈良時代には国府も置かれた。
a0300530_07303709.png





'14年末に、御領遺跡から弥生土器の壺に描かれた線刻画が
発見されたとき、「国内最古の屋形船」と大きく報道された
が、残念ながら描かれた「旗」が注目されることはなかった。
a0300530_07544626.png





話は戻って、青谷上寺地遺跡展示館。
青谷出土のものと似た線刻画として、御領遺跡(写真右)の
他に、袴狭遣跡(はかざいせき、兵庫県出石郡)も挙げられて
いるのを見たときも、「旗」を思わずにいられなかった。
a0300530_15064926.jpg





↓こちら、袴狭遺跡から出土した木片の線刻画アッブ。
ひょうごの遺跡』サイトから拝借。但馬地方の中央を日本海
に向かって流れる円山川の支流・袴狭川の流域にある
その遺跡理線刻画木片には、大小16の船が描かれていた。
a0300530_15082122.png




ところで、袴狭遣跡は、出石神社に至近という立地から、
これまで、その祭神・天日槍命との関係を示唆されてきた。

垂仁天皇の時代に新羅から渡来した王子として記紀に登場、
また、神功皇后の数代前の祖先と言われる天日槍命。
その一族の渡来の様子を船団の線刻画は描いているのでは…と。

天日槍命が持参して、出石神社の祭神・出石八前大神
と言われるのが、『八種の神宝(やくさのかんだから)』だ。
その内容は、珠二貫(玉を緒に貫いたもの)2本、
領布(ヒレ)4本、鏡2枚、合わせて八種ということだが、
4枚のヒレとは、海神に航海安全を祈る祭具としての「旗」?

ヒレには名前が付いている。
「浪振るヒレ」「浪切るヒレ」「風振るヒレ」「風切るヒレ」。
これが線刻画の船に描かれた「旗」だったのではないか…。



一昨日、梅雨明けの那覇空港に降り立ったので、
アメノヒボコの神宝について、語り部の意見を聞いてみよう。
ヒボコの五代孫に神功皇后がいるが、亦名は、息長垂姫命。
その名にある「垂(たらし)」は、垂れる頒布の意味なのかも。
a0300530_09414849.jpg













by utoutou | 2017-06-24 13:12 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 113 海を支配する王

吉備津彦に首を跳ねられた温羅(うら)と、浦島太郎。
ふたつの名が含む「うら」とは、「浦」を意味すると思う。

もちろん、浦島太郎の「浦」は、文字通り「浦」である。
「浦島の子」と読まれたのは中世以降だそうで、「浦の島子」
と読むのが正しいとする水野祐氏の説があるが、卓見だ。
浦々を取り締まり交易権を掌握する長としての「島子」、
あるいは「嶼子」は、『魏志東夷伝』に見える伊都国の官名
「泄蟆觚(しまこ)」に通じるというのが、水野説の根拠。

丹後の浦島神社は「宇良神社」とも表記するが、さて。
語り部の言った沖縄県国頭村宇良も、東シナ海に面する
集落で「ウラは浦の意」だと、『国頭村史』は記している。

ちなみに、沖縄で「浦」の地名の代表格といえば「浦添」。
 語源は「浦襲い」で、「海を支配する所」という意味があり、
浦添城は舜天・英祖・察度といった琉球王の居城だった。

また時代は下って、琉球王家の居城・首里城の正殿は
「百浦襲(もんだすい)」と呼ばれた。
百浦…つまり「数知れぬ浦々を支配する王の居処」である。


さて、吉備の「鬼」と呼ばれた温羅(うら)は、どうか。
こちらの名も「浦」の意味と取るのが自然ではないか…。
その実在性が疑問視されたり、個人でなく渡来人の集団を指す
のではないかという説もあったりで、本名か否かも不明。

つまり、温羅も「渡来して海を支配した王」なのだ。
鬼退治の舞台・吉備津は、神奈備山・中山の周辺に拓けた。
現在は瀬戸内海の湾岸線から10㎞以上奥まっているものの、
吉備津彦の時代には、海岸線はその南麓に迫っていたという。



JR吉備津駅から南へ進むとすぐに現れる吉備津神社一の鳥居。
写真の中央に写る緑色の物体は旧山陽道を走行中のトラック。
旧山陽道は古代、海岸のごく近くを通っていた。
a0300530_12184817.jpg




つまり、4世紀頃に築城されたという吉備津彦の御陵こと
中山茶臼岳古墳も瀬戸内の「浦」を見下ろす最高の立地に
あった。その場所は当然のこと「鬼」を征服した側よりも、
征服された側、吉備王家を築いた一族の墓にふさわしい。



吉備津神社の拝殿の天井には、菊の御紋の提灯。また、
注連縄の上の扁額には「平賊安民」とあって何やら意味深?
a0300530_12160565.jpg





中山茶臼岳古墳が吉備津彦御陵として宮内庁管轄となった
のは明治時代のこと。その考古学的根拠は乏しいと言われ、
被葬者は「海を支配した王」とする声もあるという。
つまり、その王とは「浦の嶼子」だったとも言えるか…。
なんだか浦島太郎と桃太郎が脳内で混乱してきた。
↓写真は、吉備津神社境内の「桃太郎みくじ」。
a0300530_14041390.jpg





ところで、吉備国は「真金吹く吉備」と呼ばれた。
〜真金吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ〜
と言う歌が「古今集」に。「真金吹く」は吉備の枕詞なのだ。
吉備王家が繁栄した源泉は、吉備で産出する鉄であり、大和
朝廷が吉備に屯倉を置いたのも、鉄を狙ってのことだった。


と、こうして美作〜因幡〜吉備と駆け足で廻った旅を
振り返るのも、そろそろお仕舞いかと思ういっぽう、
それにしても、この旅がアマミキヨとどう関係するのかと、
やや疲弊気味になっていた数日前、語り部が言った。

「もう、因幡のことは終わりですか?」
「はい、ネタが尽きたようで…」
「因幡と吉備に渡来したのは、同じ一族だと思います。
琉球にも関係があるかと。共通点は何かありませんか?」

うむ…と悩むこと三日三晩。今朝ようやく気がついた。
弥生時代の船である。鳥取の青谷上寺地遺跡と、
吉備から分かれた備後の御領遺跡(福山市神辺町)に
遺る船の線刻画は酷似している。沖縄のハーリー船とも…。




by utoutou | 2017-06-16 16:20 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 112 吉備の瀬織津姫

壱岐諸島を離れて因幡・八上郡を根拠にした菟狭族
は、さらに、山陽・北九州・東九州へも発展して、
古の菟狭国は大いに繁栄したという。そして…。
『古伝が語る古代史』(宇佐公康著)は、その所領地
についても記している。(以下要約)

☆所領地だった筑豊・日向・肥後・肥前のうち、最たる
ものは備前で、古の菟狭国の神都は備前なり。
☆ことに吉備の高島(現・岡山市)は古代日本の中心だった。
☆神武も東征の途中で、そこに高島宮を置いた。

つまり崇神天皇の時代、四道将軍のひとり彦五十狭芹彦命
(後の吉備津彦命)が平定(鬼退治)のため派遣された
とき、吉備には既に菟狭族がいたということになる。


思えば、1ヶ月半前、「因幡の白兎」の舞台・因幡から
美作へJRで南下、さらに岡山から空路東京へ帰る旅の最後
に、ふと足が向いたのが吉備津神社(岡山市北区)だった。




吉備津彦命を祀る吉備津神社・拝殿。
吉備を平定した吉備津彦命とその一族を祖神として祀った
 のは、命から五代目の加夜臣奈留美命(かやおみなるみ)。
一説には、吉備海部直の娘を娶った仁徳天皇による創建とも。
a0300530_07485870.jpg





鬼退治の桃太郎のモデルになった大吉備彦命は、第七代
孝霊天皇の皇子という。仁徳天皇にしろ、いずれにしろ、
創建が王権と関わり深い一族に依るためか、境内はどこも
かしこも豪華絢爛。社号の扁額は黄金色に輝き、国宝である
比翼入母屋造の本殿・拝殿は、出雲大社の2倍以上の大きさ。
a0300530_07492747.jpg






JR吉備津駅から数百m続いた松林の参道も立派だったが、
境内を貫く廻廊は、これも400mあるというスケール。

↓ 境内図の左下(北東)から鳥居を潜ると拝殿への石段がある。
この境内摂社の配置は、吉備津彦に討たれた怨霊を鎮魂している
(封じている)…。と、気がついたのは参拝後のことだったが。
a0300530_07495623.jpg






「怨霊」として、神社の由緒に登場するはずもないが、
吉備津彦命が「退治」したという鬼神とは、温羅(うら)。
伝承では百済から渡来した王子ということになっており、
性格は極めて凶暴、悪事を働き人々を困らせていたという。


その居城だった鬼ノ城は、神社の北西(写真左方向)に
15㎞離れた国新山(総社市)にいまも残り、また、北東に
(写真右方向)に鎮座する本殿のその先2.5㎞には、やはり
温羅の霊を祀る艮御崎(うしとらおんさき)神社が鎮座する。

本殿内部の北東方角の隅にも、同神社の小祠が鎮座する
というから、おそらく内外の艮御御崎神社は相対しており、
艮→乾の方角へ、吉備津彦神社の本殿を貫いて鬼ノ城を遥拝
する祭祀空間設計になっているのではないかと思われる。
a0300530_07513992.jpg







↑ 上の写真は、吉備の地主神・建日方別神を祀る若山宮 ↓
を背にして撮ったものだが、長く真っ直ぐな階段を
降りた先に位置する御釜殿のその地下に、吉備津彦に
跳ねられた温羅の「鬼の首」が埋められているという。
a0300530_07524221.jpg








若山宮から、御釜殿の方向を見下ろす。階段の両脇は
紫陽花の花壇ということで、ちょうど今は見頃だろうか。

御釜殿では、現在も吉兆を占う鳴釜神事が行われている
というが、小廻廊が、メインの廻廊から枝分かれして、
建物の前まで続いているのは、多くの境内社でも御釜殿のみ。
その点からしても、温羅のタタリを怖れ、鎮魂の勤めが休み
なく続けられてきた長い歴史が窺われるようだ。
a0300530_07505059.jpg







ところで、廻廊を真っ直ぐに進んだ先、境内のもっとも
北西に本山宮があり、その脇に西門の鳥居があった。
小道を隔てた先は、境外の御嶽となっているようだった。

その御嶽に滝祭神社が鎮座し、瀬織津姫が祀られていると
知ったのも、迂闊にも帰路についてからのことだったが、
その女神が菟狭族の崇めた太陽神と知ったいまでは、納得。
(写真は、吉備津神社HPより拝借しました)
a0300530_07502403.png





↓ 境内地図を拡大して見て、西の端(赤丸を付けた)に
滝祭宮があるのを知ったのだったが、後の祭りだった。
ちなみに地図上部、緑色のエリアは吉備津彦命の御稜である
中山茶臼岳古墳。まさしく祓戸の神・瀬織津姫が寄り添う…。
a0300530_17371306.jpg





きょう、語り部に電話で意見を求めたいことがあった。
温羅のウラは、浦島太郎のウラと同義だろうか?
単なる直感だが、私にはそうとしか思えなかった。
浦島太郎は元来、「浦の島子」「浦の長だった嶼子」
という意味だったはず。

もし「ウラ」が古代海人族とか、津々浦々に住んだ
原住民族を指す言葉だとしたら、どうだろう?

聞くと、語り部は言った。
「ようやく気がつきましたね。そうだと思います」
「丹後の浦島神社は正式には宇良神社といいますし、
温羅も、宇佐族と関係のある人物かもしれませんしね」
「沖縄の国頭村には、宇良という地名がありますよ。
宇良さんていう名字も。語源は琉球にあると思います」
そうだったのか…。









by utoutou | 2017-06-11 12:09 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 111 ウサ族の瀬織津姫

弥生遺跡の出た青谷(鳥取市)から、長尾鼻の岬を左に
見ながら東に車を走らせると、↓ 展望台(魚見台)に着く。
そこからは鳥取砂丘と、白兎神社のある海岸が正面に見える。


案内板の上部にご当地民謡「貝殻節」の歌詞が1行あるが、
その「何」の先あたりに見える海岸線が鳥取砂丘。また
「の」の先あたりに白兎海岸が見える。対岸までの距離は、
海沿いの国道9号線で12〜3㎞。車で15分とかからない。
a0300530_13263671.jpg





いっぽう、青谷上寺地遺跡を位置は↓こちら(左の赤丸)。
長尾鼻の付け根の西側から1㎞内陸にあるこの弥生遺跡こそ、
『因幡の白兎』神話の舞台ではないかとの異説が、最近ある。

確かに、ここ気高郡(旧地名)と神話の舞台「気多の岬」
という地名の類似や、大国主の時代と遺跡年代の符合、また
朝鮮半島や出雲からの海流がぶつかる良港としての地勢や、戦乱
を物語る遺物(殺傷痕のある人骨)など、頷ける材料は少なくない。
a0300530_13561809.png




さらに、白兎とワニの神話とは、ウサ族とワニ族の部族間抗争
の例えなのではないか…との新説を唱える向きもある。

青谷上寺地遺跡から出た遺物(銅剣、木製品、土器)に、
まったくワニを思わせる線刻画が多数描かれているためだ。
魚説、イルカ説があるなか、確かに背ビレが2つある絵がある。 
↓展示館発行の資料にも、「サメを神聖視する思想が広まって
いたかのかも」と、和邇族の存在を思わせる解説が載っている。
a0300530_18425078.png





日本列島に先着渡来して古代豪族となった和邇族。
そのトーテムは、文字通り鰐鮫だと古くから言われている。
この国に鰐は生息していないが、東南アジアや中国南部にはいる。
和邇族が大陸にいた当時に出会っていた爬虫類の鰐、あるいは、
海のフカや鮫に対する畏怖の念は、龍蛇信仰とも通底する。

思えば、白兎神社の社務所で見た由緒板も、ワニを漢字で
「和邇族」と記していた(写真右の赤丸部分)。次のように。
〜白兎海岸  神社の北方150メートルの海岸で、
白兎神と和邇族との古戦場である。〜 

このリアルな表現は何ゆえかと調べると、そもそも『古事記』
の原文は、ワニは「和邇」、ウサギは「菟」と表記していた。
a0300530_17424135.jpg




では、ウサ族の裔・宇佐神宮宮司家の口伝ではどうかと、
宇佐国造五十七世である宇佐公康氏の著書で確認してみると…。
『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』('90年、木耳社)に、
菟狭族の来歴と、「稲羽白兎の伝説〜」と題した項があった。
(以下要約)

☆菟狭族は9千年前の早期縄文時代から山城国の稲荷山を
根拠地として原始生活を営んでいたが、8500年前に
猿田彦族が進入してきたので、分裂して集団で各地に移った。
☆移動先は古の吉備国、隠岐諸島、北陸、関東、国東半島など。
☆そのうち、吉備の高島は、古代日本の政治文化の中心になった。

☆古の因幡は隣国の伯耆とともに古くから豪族の出雲が統治
しており、その統治下に菟狭族や和邇族がいた。
☆和邇族の祖神はワニ神、菟狭族の祖神はウサ神だった。
ウサ神とは動物の白ウサギではなく、月神のことである。

☆白ウサギがワニに皮を剥がれて赤裸になったという
伝説は、菟狭族が和邇族との経済上の取引に失敗して資産
を押さえられ、赤裸になってしまったことを物語っている。
☆伝説中、ウサギがいたのは現在の鳥取市ではなく、島根県
の壱岐諸島で、菟狭族は、この本土と朝鮮半島との交通の要地
にも住み、石器時代から自給自足の農漁業を営んでいた。
☆壱岐諸島の領有権と全財産を和邇族に奪われた菟狭族は、
大国主命の仲裁で、因幡国八上の地に移住することになったが、
そこには八上姫と女性いうシャーマンがいた。大国主命は、
八上姫と夫婦の契りを結んで、八上地方の統治権を獲得した。
☆九州の宇沙に移動するまで、縄文時代から長い年月を要した。


ところで、宇佐公康氏の著した伝承の書には続編があった。
『宇佐家伝承 続・古伝が語る古代史』('90年、木耳社)。
購入から何年か経っていたのを初めて読んでみて、驚いた。
宇佐神宮の奥宮・御許岳山頂の禁足地について記されていた。

☆御許山頂に三女神が降臨する以前から祀られていた宇佐明神
とは、天御中主神に直属の撞賢厳之御魂という原始太陽神で、
天疎向津比売命(あまざかるむかつひめのみこと)、
天照大日貴命(あまてらすおおひるめむちのみこと)とも呼ばれた。
☆その聖地は天地根元の神を祀った日少宮(ひのわかみや)
であり、神籬山・神奈備山であり、古代菟狭族の墳墓である。
☆宇佐一円には古墳時代の墳墓も多いが、ほぼすべて御許山を
 向いて築かれ、遺体も頭を御許山に向けて埋葬した形跡がある。


菟狭族が崇めたのは、撞賢厳之御魂 天疎向津比売命
(つきさかきいつのみたま あまさかるむかつひめのみこと)。
後に瀬織津姫と呼ばれる女神だった。

菟狭族の八上郡への移住こそが、一帯に白兎神(ウサ神)
と瀬織津姫とを祀る神社が多くある理由だったのだろう。

「ウサ神は月神」というのも、考えさせられる伝承だ。
琉球で瀬織津姫(弁財天)にあたる神とされる御天母親加那志
とは、御天父親加那志(天御中主神)の伴侶であり、月神であり、
星々を生む根元の母神。菟狭族が祀った女神とよく似ている。


白兎おみくじに見る恋愛成就の神徳とは、やや趣が異なる?
a0300530_17140975.jpg






by utoutou | 2017-06-07 15:08 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 110 隼人の盾

青谷上寺地遺跡(あおやかみじちいせき、鳥取市青谷町)
で見た弥生時代(BC3世紀〜)の遺物には、この地に
南方からの民が渡来したと思わせるに十分な見応えがあった。


白兎神社から海岸沿いの国道9号線を西へ15分走ると、
長尾鼻という、まさに猿田彦の鼻のような形をした岬に着く。
 全長1㎞という岬の付け根あたり(写真左)に、弥生遺跡はある。
a0300530_12395474.jpg





語り部が、「古代琉球に関係があるようだ」と霊視した
「サムハラ神社奥の院(岡山県美作町)の北にある岬の周辺」
はこの日本海沿いと思われるが、岬の南西部(↓青谷交差点)
から見ると、長尾鼻(写真右)はそう長くは見えなかった。
a0300530_12400183.jpg





近くにあった青谷上寺地遺跡展示館を訪れた。
弥生時代の青谷地域を示すCGを撮影して赤丸を付けてみた。
上の赤丸は、現在の海岸線に位置する↑青谷交差点あたり。
下の大きな赤丸が、遺跡中心地(集落)のだいたいの位置。
西に勝部川、東に日置川という2本の川が流れる。現在、
河口部は平野だが、昔は見た通り、潟湖(内湾↓)の際だった。
1991(平成3)年、道路建設予定地の調査で発見された。
a0300530_08531160.jpg




日置川河畔の北側にも、青谷上寺地遺跡より規模は
小さいが、青谷横木遺跡という遺跡がある。
日置川流域の旧地名は、文字通り、気高郡日置郷という。

日置(ひおき)…久々に見たその名は、八頭郡中心部の
春分・冬至のレイライン沿いに白兎神ゆかりの寺社が並ぶ
理由を、ようやく解いてくれた気がする。因幡の地に、後に
朝廷の日置部(太陽と火を祀る部民)となる人々がいた証か。

日置部については、「日置部のレイライン」などにも
 書いてきたが、遺跡でそれを目の当たりにするのは初めて。
天穂日命を始祖となる「ホとヒの人々は沖縄・久高島にいた」
と、語り部はかねがね言っていた。土師氏はその末裔だとも。

天穂日神社は、9世紀頃まで因幡一宮より上位だったという
が、この地で繁栄した最古の一族が祀ったとも考えられる。

さて、
青谷寺地遺跡の展示でまず目を見張った遺物は ↓ 盾。
武器のコーナーにあったそれは、水銀朱で赤く塗られ、
左右一対の渦巻き紋と、三角形の文様が描かれている。
a0300530_12413712.jpg




「弥生時代中期後葉」との説明なので、AD1世紀頃のものか。
まさに「隼人の盾」のシンボルマークと同じ文様に息を飲んだ。
が、後に朝廷に服属して隼人と呼ばれ、日下部と名乗ることに
なる熊襲は、縄文時代から大海を渡り交易していたらしい。
その象徴だった渦巻き紋の付いた遺物は、大いに有り得る?



櫂(かい)にも、渦巻き紋が描かれていた。
こちらは、弥生時代後期初頭から古墳初頭のものという。
イラスト化された蕨手紋に九州の珍塚古墳の壁画を思った。
a0300530_12413345.jpg




弥生時代かそれ以前、この青谷に渡来した人々が
乗っていたらしい丸木船の模型やイラストも展示されていた。
その全長は縄文時代最大級の丸木船よりも長く、7.9mという。

構造も少し違い、縄文時代のように船尾は尖っていない。
四角に整形された板を貼り、大きく反り上がった設計だった。
その構造船の周りを、小中型の丸木舟が囲んで進む船団を
描いた線刻画は、沖縄の爬竜船競争(ハーリー)を思わせた。
a0300530_17140731.jpg





沖縄にいた先週は、ハーリー(海神祭)のある旧5月4日
の直前だったこともあり、ランチを兼ねて奥武島に寄った。
ハーリー船の保管庫に、お祭りを前に島所有の船を整備
する海人がいたので、写真を撮らせてもらいつつ聞いた。

「船の長さはどれぐらいありますか?」
「うーん、7mから8mぐらいあるね」
「古代船と似てるけど、あっちは船尾が反り上がってました」
「これは競技用だから。本物の爬竜船は船尾が反り上がってる」
a0300530_12422741.jpg


古代人は、まさにこの規模の船で東シナ海を航海した?
青谷上寺地遺跡からは、朝鮮半島や中国(新、漢)との
交流を窺わせる遺物がいくつも発見されている。


by utoutou | 2017-06-01 12:46 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)