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六甲山と瀬織津姫 104 サムハラと渡来人

サムハラ神社・奥の院は、
岡山県津山市加茂町の日詰山の中腹にある。その
山頂に築かれた落合城(亦名は百々城、1581年築城)
に、サムハラと刻まれた石碑があったという。
それ以前の謂れは、いまのところ分かっていない。


城址のある日詰山の山頂から、旧名・美作加茂町を一望。
巨大な階段の展望台があったが、登らなくても眺望はよく、
加茂町の南部にあたるここからは、地勢がよく分かった。
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↓こちらは、加茂町歴史民俗資料館にあったジオラマ。
資料館には町随一の万燈山古墳について知るべく訪れた。
赤の矢印は当方の加工で、下のがサムハラ神社のある
日詰山、上が万燈山古墳のある塔中(たっちゅう)集落。
古墳は、町の東を流れる加茂川と、西を流れる倉見川に
挟まれた丘陵の先端に、6世紀後半に築かれた。
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万燈山古墳。
直径24m、高さ4mの円墳。築造された6世紀後半
から7世紀はじめまで22体もの追葬が行われたといい、
南(写真左)に大型横穴式石室の開口部がある。
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美作最大の規模である玄室は、幅2.2m、奥行き6.6m。
傍の説明板によると、天井には巨大な花崗岩を8個使用。
出土品は、金環、勾玉、直刀、鉄鏃、土師器、須恵器、
高杯、祭具、大甕、そして鉄滓など多数。
近くで農作業していた古老は、「これは王の墓」と言った。
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資料館でしばし見とれた、万燈山古墳から出た馬具。
資料館の天井のライトが写り込んでいるが、馬具の
金張りには1400年の歴史時間を感じさせない色艶があった。
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万燈山古墳に葬られた「王」の経済力を物語る出土品の
極め付けがこちらの土師質亀甲型陶棺(6世紀後半)。
石室内部には、石棺(1)、木棺(7)もあったが、
最大の特徴である陶棺(1)には、3体が合葬されていた。
身と蓋は2分割式。18本の足を持つ姿は、まさしく「亀」。
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土師質亀甲型陶棺は、吉備王家の繁栄した古墳時代、
 吉備の東北部である後の美作だけに集中して作られた。
その特殊な事情について、真壁忠彦氏は著書
『古代吉備王国の謎』で、次のように推理した。以下要約。

☆美作には大和王権の屯倉(みやけ、直轄領)があった。
☆中央に直接従属して鉄生産に関わる人々が多かったか。
☆土師式陶棺は、製鉄のための製鉄炉で焼かれたのでは。


美作国の前身は、『日本書紀』が欽明16(555年)
に置かれたと記す白猪(しらい)の屯倉と言われる。
美作が鉄生産に関わる朝廷の直轄領であったことは、
大量の鉄滓が出土していることからも明らかだという。

資料館で見た古墳とたたらの分布図によれば、加茂にも
古墳は24基、たたら遺跡や遺物散布地は125ケ所ある。
屯倉に役人が派遣された、6世紀後半に陶棺は作られた。



資料館に、こんな一文があった。
〜古来、加茂の原動力は鉄と木材だった。
万灯山古墳の被葬者は、鉄を握った首長だった。〜
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その「鉄を握った首長」とは誰だったか…。
白猪屯倉の管理に携わった人物に、百済系渡来人
の白猪臣がいたという。白猪屯倉は複数ヶ所あったとも。

もし陶棺が作られたこの加茂の地が大和朝廷の直轄領で、
渡来人がいたとするなら、彼らがサムハラの護符を定着
させたとも考えられるのではないだろうか。

古代韓国語で
「サム」は「生きる」、「ハラ」は「しなさい」。
「サムハラ」は「生きなさい」の意味になるという。






















by utoutou | 2017-04-30 20:22 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 103 サムハラ神社・奥の院

サムハラ神社・奥の院(岡山県津山市加茂町)に参拝。
「呼ばれた人しか辿り着けない神社」と何かで読んだが、
JR因美線の美作加茂駅で降車してタクシーに乗り、
運転手さんに聞いてみると、やはりそういう傾向らしい。
「ええ、お客さんは皆さんそうおっしゃいますよ。
呼ばれた…とか、呼ばれた人しか来られない神社…とか」

平日も少なくとも数組は参拝に訪れるらしく、大阪や東京
から、北海道や九州といった遠方からもと、人気は全国区。

この山あいの町に、にわかにブームが到来している模様だ。
運転手さん曰く、去年あたりから参詣客が増えてきたと。
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その多くは、岡山からJRか車で訪れるらしいが、
 私の場合は、鳥取からJR因美線で美作加茂へと移動した。
(鳥取での神社巡りレポートは後日また…)
日本海側の鳥取から1時間半、電車は川に沿って南下した。
鳥取から智頭(ちず、鳥取県)までは日本海に注ぐ千代川に、
峠のトンネルを越えると、今度は瀬戸内海に注ぐ加茂川に。

他に乗客のいない各駅停車の車内から、田園風景を
眺めていたが、智頭から川の流れる方向が反対になった。

実はその2本の河川は、古代、砂鉄の採掘地だった。
ここ加茂町(村)は、古代産鉄の盛んな土地だったようだ。
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賽銭箱の神社紋は、大阪のサムハラ神社でも見た。
「百」を上下に抱き合わせた形は、ここへ来て、創祀者の
田中富三郎翁が加茂村の百々(どうど)出身ゆえと知った。
百々という珍しい地名は、どのような由来なのだろうか。
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さて、
サムハラ神社・奥の院は金刀比羅神社の境内に鎮座する。
↓ こちらは、「奥の院」の参道から見た金刀比羅神社。
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金比羅神社にいる間は、下から度々突風が吹き上がり、
金比羅神社の幟が、激しく踊っているかのように揺れた。
ここでは古代、たたら炉による製鉄が行われていたかと思う。
たたら製鉄には、一にも二にも強風が必要だったという。
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金刀比羅神社の摂社には、やはり稲荷神社があった。
産鉄の地に稲荷神社が祀られているのは各地で見た。
摂社には荒神社もある。竃の神、地神、山の神である。
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サムハラ神社が古代琉球と関わっていると、語り部が
言ったのは、この地が産鉄地だったことと無縁ではない
のだろうと思う。鳥取市内でも、美作加茂への道筋でも、
点々とした「土師(はじ)」という地名がそう思わせた。

鳥取市には、土師氏ゆかりの天穂日命神社も鎮座する。
天穂日命が久高島と縁の深い神であることは、何度か書いた。
そして、もちろん、天穂日命の磐座がある六甲山とも…。









by utoutou | 2017-04-25 12:06 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 102 サムハラの霊験

サムハラは常用漢字にはなく、PCフォントにもない。
神字と呼ばれるらしいが、その起源は戦国時代らしい。
社務所で聞くと、「元々武士が懐に入れていた」という。

サムハラ神社の奥の院がある岡山県津山市加茂町
(駅名は美作加茂)にあった落合城に、サムハラと神字が
刻まれた石碑があり、武士が紙などに写して身に付けて
いたという話が、津山瓦版に載っている。



↓こちらの四文字は、
社務所横にあるサムハラ之宮合気道塾のHPから拝借。
合気道の開祖・植芝盛平は、
       サムハラ龍王が降臨したと唱え信奉していたようだ。        
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サムハラ神社を創建したのは、美作(みまさか)出身の
実業家・田中富三郎氏(明治元年生まれ)。
上阪して田中大元堂を設立、万年筆を普及して事業に成功。
私財を投じて、この本社と奥の院を創祀した。神社庁に
は属さない宗教法人で、本社の名称はサムハラ神社護符所。
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「不思議の四文字 身を護る」という御守り。
中には四文字の赤いお札と、造化三神の神名のお札。
そこには「無傷安全・無病息災・延命長寿」とある。
社務所で求めるとき「1個でいいんですか?」と聞かれたが、
確かに1個だけの人は他にいなかった。おみくじは一発大吉。
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参拝後、「不思議の四文字」のお守りをバッグに入れて
境内を散策していると、さっそく不思議なことが起きた。
スマホで撮った本殿屋根の千木の上に、珍しく鳥が写っている。
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「鳥を撮った」と語り部に伝えたわけではなかったが、
サムハラ神社の話をしているうち、「鳥取」の地名が出た。
なんという予兆か霊験か。それとも、ただの語呂合わせか。

前々回の記事「宝珠は龍より出る」では造化三神
(天御中主神・国皇産霊神・神皇産霊神)に触れたが、
すぐに、三神を祀る神社を知った偶然を言ったまでだった。

ところが、語り部は言った。
「サムハラ神社の北はどこになりますか? 鳥取ですか?」
いったん電話を切り、地図を調べて言った。
「サムハラ神社の奥の院のある美作から一直線に北へ
行くと、日本海に飛び出た長尾鼻という岬。鳥取市です」
「そこに、古代の集落はありませんでしたか?」
「いや、ちょっとそれは、調べておきますね。まさか…」

その後は絶句した。まさか、私は鳥取へ行くことになる…?

しかし、調べると、それもまた必然なのかと思えてきた。
サムハラの歴史は、戦国時代や美作の地にとどまらない
もっと広遠な時空を背後に秘めているようだった。

例えば、
平安末期の武将の位牌に四文字が綴られていたとか、
中国の新王朝(8〜23年)の厭勝銭(護符)のひとつに、
サムハラ銭があったとか、孔子の弟子の會子が
死に際(BC505)にサムハラに祈ったとか、故事がある。

そもそもサムハラの由来はサンスクリット語の
「三跋羅(サンバラ)」で、意味は抑制・防止・律儀という。
そこから、「難を逃れる」「九死に一生を得る」「弾除け」
などの神徳が流布されて、崇められるようになったらしい。

サンバラは、大随求菩薩(だいずいくぼさつ)の真言にもある。
〜オン バラ バラ サンバラ サンバラ インドリヤビジュダネ
ウン ウン ロロ サレイ ソワカ 〜

大随求菩薩とは、「多くの真言護符の所持者」であり、
観音菩薩の化身だそうだが、とにかくサンスクリット語が
語源ならば、サムハラはインドが由来ということになる。

「出雲神族はインドから来たんでしたよね?」
後日、私が言うと、語り部も言った。
「出雲神族はインドから大陸北部のシベリアを通ってこの
列島に来たと伝わりますが、インドから南の海路を通って
来たり、朝鮮半島を通って来た渡来人もいると思います。
その中に、琉球から北上して鳥取(因幡)へ、そして丹後へと
流れた民もいて、サンパラのマントラを運んだのではないか」




ともあれ、今週末、大阪のサムハラ神社では春祭りがある。
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by utoutou | 2017-04-19 21:17 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 101 サムハラ神社

大阪へ出張して時間があったので、宿泊するホテルの近く
を散歩して知った、サムハラ神社(大阪市西区立売堀)。
まったく知らなかった。しかも、なぜ社名がカタカナ…?
と、看板を見上げて、しばし立ち止まっていると、
参詣客が次々と私を追い越して鳥居の中へと進んでいく。
どうも、最近人気のパワースポットらしい。
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古い石の社号標があった。初めて見る難解な漢字だが、
境内を具るり取り巻く多数の奉納提灯が人気を物語る?
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境内はさほど広くないが、社殿の奥行きはありそうだ。
拝殿左に創祀者・田中富三郎翁の銅像がひっそりと立つ。
日清日露戦争に御用商人として従軍、生還したことから、
昭和9年、岡山県苫田郡西加茂村(現・津山市加茂)に
あった「サムハラ様」の古祠を再建。これを奥の院として、
戦後、大阪に自費でサムハラ神社を創建したという。
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社務所でご由緒を頂戴して、とても驚いた。
祭神の「サムハラ様」とは造化三神のことという。前回、
「造化三神」の名が出たところで、今その神々に出会うとは。

ご由緒には、次のようにあった。以下要約。

☆サムハラ(漢字で表記)の意味は、天御中主神、
高皇巣日大神、神産巣日大神の三神の総称。
☆全ての神様の親神様で、人類根源の大祖先であり、
全知全能の創造主としての神格を有せられる神様。
☆無病息災・延命長寿の御神徳があり、守護くださる。



ということで、
霊験あらたかなお守りの人気も高いらしく、
その問い合わせで、社務所の電話が立て続けに鳴っている。
特に指輪型の御守りが人気で、「県外から来た」と言う人も。
社務所のドアや境内には、「品切れ」を告げる表示があった。
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それにしても、造化三神との偶然の出会い。
これは何かのメッセージかと思い、語り部に電話して、
事と次第を告げると、今度は語り部が少し驚いている。

曰く、知り合いの人が岡山の神社に行くと聞いたとき、
「サムハラ神社へも」との言葉が語り部の口を突いて出たと。
いわゆるシンクロ二シティー現象が起きている?

また、語り部は言った。
「岡山のサムハラ神社を北へ進むと何がありますか?」
そんなことは大阪のサムハラ神社すら知らなかった
私には分からないが、電話を一旦切って地図検索すると、
日本海に突き出た「長尾鼻」という岬に行き当たるようだ。

それを告げると、語り部は言った。
「そこは弥生時代、海路が行き交う要衝の地でしたね」
「まさか、そこに琉球から移った古代人がいたとか?」
「そうかもしれませんね」

掘るべき歴史の底が、見ている間に深くなっていく…笑。







by utoutou | 2017-04-16 21:02 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 100 宝珠は龍より出る

六甲山と瀬織津姫シリーズも、とうとう100回目。
当初2、3回で終わるはずが、なぜこんなに長く続く…。

語り部が「宝珠は(六甲山に)隠された」と言うので、
それは「空海の隠した珠」だろうと推理してから、早1年。
歴史時間を遡ったり下ったり、東奔西走したりもしたが、
それがはたして本当に「琉球の珠」なのか、そしてまた
六甲山のどこに隠されたのかは、未だに分からない。


空海が神呪寺の如意輪観音像に隠したという如意宝珠は、
浦島太郎が龍宮から持ち帰った箱に入っていたものという。
その伝説には、どんな意図が込められているのか。
そして「琉球の珠」なら、なぜ隠す必要があったのか。

その答えは、琉球から六甲山へと海人族が北上した
   であろう足跡を甦らせるヒントになるはずだったが…。  



昨年5月18日、如意輪観音像(融通観音)ご開帳の日
の甲山・神呪寺。横断幕の上に金の宝珠があしらわれていた。
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この一件は迷宮入りかと思った矢先、如意宝珠にまつわる
ある言葉を、ひょっこり思い出した。龍樹の著による
大乗仏教の論書「大智度論」に、それはあった。

〜宝珠は龍の脳より出る〜

宝珠は龍の頭に乗っているという説である。その龍とは、
沖縄や南方の海域に棲むイラブー海蛇を指している可能性
もあるかと、語り部の意見を聞いてみると…。

「はい、可能性はあると思います。
イラブーは、龍宮の宝を刈る生物と言われますからね」
と、即答が返ってきた。
「宝を刈る…とは、和布刈神事を思い出す表現ですけど、
 まさか若布(わかめ)では、宝珠になりはしないですよね?」
「……」
語り部は電話の向こうで沈黙していたが、
それも束の間だった。すぐに反対に質問が飛んできた。

「若布の根っこには、何が付いてますか?」
 若布の茎に付いているのは若布と、言いそうになったが、
何か閃くようなものを感じて、すぐに言い換えた。

「スズが付いていたのかもしれませんね。 製鉄材料の褐鉄鉱」
「はい、そうだと思います。筒が3つ、縦に並んでいます」
「筒が3つとは、住吉三神のことなんじゃないですか!?」

底筒男命(そこつつのお)、中筒男命(なかつつのお)、
表筒男命(うわつつのお)の三神は、住吉大神ともいう。
住吉三神は海人にとっての航海神で、オリオン三星を神格化
したものだと考えているが、そこに、若布と、褐鉄鉱…。
解きほぐすのが相当に難しそうな組み合わせである。



旧正月元旦の朝3時、和布刈神社で和布刈神事を見た。
対岸の住吉神社でも同時に行われるというが、未だに秘祭。
ともあれ、ふたつの和布刈神事と琉球には強い因縁がありそうだ。
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住吉大神と若布と褐鉄鉱を解く鍵は、『日本書紀』にあった。
三韓遠征のくだり、仲哀天皇に祟った神々の名を、神功皇后
に問われて、神は撞賢木厳御魂天疎向津媛などを告げたが、
その最後に、住吉三神の名を次のように挙げていた。

〜 日向国の橘小門の水底にいて、水葉も稚(わかやか)
に出で居る神、名は表筒男、中筒男、底筒男の神 〜

水底の水葉に憑依する神を住吉三神という、と。
それは「筒」と呼ばれたスズ(褐鉄鉱)のことと考えられる。

語り部が言った。
「若布の根っこを取り巻いたスズは、筒の形をしている。
 それを食べるから、イラブーの体内で珠が作られ、
珠は龍から出ると言われることになったのだと思います。
和布刈神事は、海人族が龍宮(琉球)から来た証でしょう」

では、住吉三神こと「筒の三神」とは、何を指すのか?
「造化三神のことだと思います」
「天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神ですか。
天地開闢の神が若布に憑依すると考えられていたとは…」


筒の形はどんなだろうと探すと、視力検査表に行き当たった。
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↑この筒が、若布の茎を取り巻いていた「神」の形と考えると、
ひょっとして、勾玉の原形は「筒」なのではないか…。



旧正月の元旦、初若布の奉納神事を待つ和布刈神社拝殿。
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by utoutou | 2017-04-09 16:19 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 99 神功皇后の審神者(さにわ)

神功皇后の忠臣・武内宿禰の身代わりで自刃したと
 いう悲劇の人・壱岐真根子は、三韓遠征に従軍した後、
「防衛のため」壱岐に派遣され、壱岐氏の祖となった。

父は雷大臣(いかつおみ)。
亦の名は中臣烏賊津使主(なかとみのいかつおみ)。
天児屋根命を祖とする、中臣氏の裔だったという。

さて、真根子が派遣された壱岐という島は
半島と列島を繋ぐ海路の中継地点だが、それゆえ、
弥生時代から朝鮮半島由来の製鉄技術が根づいていた。

壱岐にある弥生時代(1〜3世紀頃)の環濠集落
カラカミ遺跡から、日本最古と考えられる製鉄炉跡が
見つかったのは、つい数年前のことだ。
炉跡は半島南部の遺跡に見られる精錬炉跡と似ていた
といい、炉に風を送るフイゴや鉄材も出土したという。

「魏志倭人伝」に一支国(いきこく)と記される壱岐は、
朝鮮半島の資源を入手して製鉄を行なっていたわけで、
「倭人が朝鮮半島南部で産する鉄に頼っている」と記した
「魏志東夷伝」の内容は、ほぼ正しかったことになる。

では、そんな壱岐という島へ、
 三韓遠征の後になって真根子が派遣された理由は何か。
「(三韓から)防衛のため」とされるのは本当なのか。 
父・雷大臣は対馬に派遣されたというが、なぜ父子とも?



壱岐の製鉄炉跡発掘のニュースが流れた'13年の末、
高良大社(久留米市御井)に参詣していた。壱岐真根子
は、こちらの祭神・高良玉垂命(竹内宿禰)の忠臣だった。
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高良玉垂命の9柱の御子神を祀る摂社・高良御子社。
写真右端に屋根が見える末社・真根子社の撮影は失念した。
高良大社HPによる境内社の案内はこちらに。
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しかし、いま、三韓遠征で果たした雷大臣の事績を
 思うとき、一族の役割がいかに重要だったかが分かる。

雷大臣は、神功皇后の審神者(さにわ)だった。
審神者とは、神託の意味を解く神人のこと。三韓
遠征を前に、仲哀が崩御した事情を聞く場面に登場する。

『日本書紀』神功皇后の項を以下要約してみる。

☆仲哀9年、天皇は筑紫の香椎宮で亡くなった。
☆皇后は斎宮に入り、自ら神主となって竹内宿禰に
琴を弾かせ、中臣烏賊津使主を審神者として問うた。
☆「仲哀に祟った神の名」について、イカツミは答えた。
「伊勢の五十鈴宮に坐す撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」と。

天照大神荒魂こと瀬織津姫に、仲哀が祟り殺されたのは、
新羅出兵という神意に背いたからと『紀』は言外に言うが、
どうもその神託とは、「鉄」を抜きには語れないようだ。

伽耶諸国、そして新羅は鉄の一大産地だったことは、
「沙比新羅(鉄の新羅)」の言葉があったことで分かるが、
神功皇后が産んだとされる応神天皇の時代になると、
半島内の動乱や高句麗の南下によって、新羅系や百済系の
製鉄技術者が大挙して渡来してきた。それから考えるなら、
三韓遠征とは、製鉄の技術移転を図った一大プロジェクトだった。

そのコーディネーターが、紀一族だったのではないか。
神功の船団が、紀州の港から出て紀州へと帰ったこと
からも、瀬戸内海周辺での立場や絶大な軍事力が窺える。



竹内宿禰や真根子の母方である紀直は、
↓日前神宮・国懸神宮を奉祀する神職家で、そこには
天照大神の鏡に先立って造られたという
日像鏡・日矛鏡が、御神体として祀られている。
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紀氏は始祖として、須佐之男命と五十猛命(イタケル)を
崇めたが、その神には鍛治神の神格があり、
また、伊都国県主の五十迹手(イトテ)にも通じる。
 『契丹古伝』は「五十迹手は倭の王だった」と記している。

竹内宿禰、そして雷大臣・壱岐真根子の父子は、
「鉄の5世紀」を招来した、倭王の末裔だったと思われる。




by utoutou | 2017-04-02 13:05 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 98 ネコのお告げ

志賀島での最後に、港で猫の写真を撮っていた。
出航まで10分ほど時間があったので、寝顔のアップなど…。
しかし、プイと横を向かれてしまい、仕方なく港を撮った。


フェリー・金印号が停泊中の志賀島渡船場。 写真右が漁港。
波のない内海に、能古島(のこのしま)が浮かんでいる。
猫に嫌われなかったら、多分この写真は撮っていなかった。
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もしや猫のお告げだったのか。ふとその場で振り向くと、
真っ直ぐ先(北)に金印海道沿いに立つ一の鳥居が見えた。
志賀海神社は、神功皇后の時代に現在地に遷った
という神社の由緒を、境内で読んだばかりだった。
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由緒曰く1800年前のこと。つまり三韓遠征の準備として
表津宮は島の北の勝馬から、南の勝山の麓に遷宮したか。
いずれにしても、地名に「勝」がつくのが勇ましい。

遠征の大本営は本土の香椎宮にあったとされるのだから、
船団と志賀島で合流して出立する社地には南が相応しい。

神社の由緒にあった一文を思い出す。
〜神功皇后の三韓遠征に際し舟師を率い御舟を導き
守り給うた安曇磯良丸をして表津宮を当地の勝山の
懐に遷座したと伝えられている。〜


安曇磯良が率いた舟師は、「中西八軒」と呼ばれた。
またしても「8の暗号」…。そもそも八乙女と呼ばれる
 巫女には、その8軒の婦人がなるという習俗があったという。
 『筑前国続風土記付録』には、舟師とは神人だったとも。

〜 八家の漁夫は名草の末にして、浦公とよぶ。
代々漁を業とし、神に仕ふまつるとなん 〜

そして、彼らは名草の末裔だった。
武内宿禰」にも書いたが、安曇族同族の名草族の名は、
『日本書紀』神功皇后・朝鮮出兵の条に見えている。
〜 磯鹿の海人名草を遣わして視しむ 〜

また、『住吉大社神代記』にも以下のような記述がある。
〜然して、新羅国を服え給い、三宅を定め、亦、
大神の社を定めつ奉つる…祝(はふり)は
志加乃奈具佐(しかのなぐさ)なり〜


「志賀の名草」の本拠は、紀の国(現和歌山県)。
日前・国懸神社の摂社に、名草宮がある。また、
神功皇后の功臣・武内宿禰の母方の故郷でもあった。


港近くの鳥居から一直線に伸びる参道と楼門。
この地では影が薄かった武内宿禰が、一気に浮上した。
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さて、冒頭の「猫写真」に話は戻って。
志賀海神社を背にして、カメラ目線を先に伸ばすと、
対岸のどこに行き着くのだろうか?  と思い立ち、
 地図に赤線を引いてみると、なんとそこにもネコがいた。


壱岐神社(福岡市西区生の松原)の祭神は、
壱岐真根子(いきのまねこ)という。
そもそも地名の「生(いき)の松原」とは、神功皇后が
戦勝を占い、逆さに立てた松の枝が育った伝説が由来とか。


姪の浜に坐す住吉神社のHPに壱岐神社の由緒があった。
〜『日本書紀』によれば、都を留守にしている間に反乱の
罪を着せられた武内宿禰を助けるため、壱岐直真根子が、
自分の命を犠牲にして身代わりになった(後略)〜
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壱岐真根子は、父(雷大臣命)に従い三韓へ行ったが、
戦勝後も壱岐に留まり、壱岐氏の始祖となっていた。

いっぽう、真根子の母は武内宿禰の妹だとの説がある。
真根子は叔父の宿禰と容貌が似ていたため身代わりとなり、
内紛決着の策として自害した…させられたとも考えられる。

武内宿禰は名草にいた紀氏のルーツと言われているが、
では、5代の天皇に二百数十年間も仕えたという、
あり得ない伝説の人・武内宿禰とは何の象徴だったのか。
マネコの死には、重要なお告げが隠されていそうだ。

つづく…。
 





by utoutou | 2017-03-27 08:45 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 97 スサノオの暗号

志賀島の港から真っ直ぐに伸びた志賀海神社の参道は、
早足で歩けば10分もかからないと思うが、摂社や句碑
など見所が多く、本殿に着くまでに倍の時間がかかった。


楼門では、十六菊の神紋で足が止まってウォッチング。
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大山津見神を祀るあの山之神 社が鎮座しているのは、
参道の最終アプローチ部分。楼門のすぐ前だった。

こちらでも、参拝してからスマホカメラを手に諸々観察。
大山津見神を、前回は「オコゼ好きな女神」と書いたが、
正直な話、あのときリアルに見ていた神像は男神だった。


日本書紀の一書には女神ともあり、一般に山の神は女性
だが、「鹿屋野姫を妃にした男神」「木花咲耶姫の父神」
と思いつつ、ここに山之神を祀られる意味を考えつつ、
傍に立つ神木スダジイ(写真左端)を、しげしげと見た。
(木の名前は分からなかったが、保存樹の説明板で確認…)
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スダジイ(椎)には、注連縄が巻かれていた。
神功皇后が、急逝した仲哀天皇の霊廟とした香椎宮の
 社名の由来となったのが、「香る椎の木」だったという。


椎が絡み付く左の木はイヌマキ(沖縄方言ではチャーギ)。
首里城の建材としても使われたというから耐久性は保証済み
だが、古くから神木ともされ、神壇に供える家も多いとか。
2本の神木が寄り添う姿からは、なぜか南方の匂いがした…。
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スダジイを見ていて、足名椎・手名椎の神を思った。
この2神になぜ「椎」の字が入っているかは
諸説あるようだが、それはさて置き、
出雲神話では、ふたりは大山祇神(大山津見神)の
子どもたちで、兄弟婚をした夫婦神として描かれる。
兄妹婚や、姉妹がひとりの男に嫁ぐ姉妹婚は南方の俗だ。

夫婦には8人の娘がいたが、八岐大蛇に年にひとり
ずつ人身御供に取られ、最後のひとりに残ったのが
末娘の奇稲田姫。姫は助けた素戔嗚尊の妻となった…。


この八岐大蛇の神話にそっくりな
物語を帯びた沖縄の祭りに、マータンコーがある。

津堅島で毎年旧暦11月14日に行われる伝統行事で、
 奇稲田姫や素戔嗚尊の名は出てこないが、口伝では、
古くは久高島でも同時に行われていたといい、日程が
イザイホー前日というのも、何やら深い意味を窺わせる。

祭りのなかでは省略されてしまったが、伝承の物語で、
大蛇退治のために用意された酒甕は7つ。それを7つの首
で飲み、酔っ払ったマータンコーは村人に刀で切られたが、
 尻尾を切るときに刃が欠け、代わりに剣が出てきたという。



私が見学した一昨年は、雨で体育館での催行だったが、
銅鑼を鳴らす人を先頭に、旗を持つ人やマータンコー
と呼ばれる7つの首の大蛇に飲ませる酒甕を担ぐ人が
続いて練り歩き、まさに八岐大蛇の神話を彷彿とさせた。
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祭りの後、「八岐大蛇みたいでした」と言ったら、
島のおばあは「ヤマトよりこっちが先ってよ」と笑った。

7つの首の蛇。尾を合わせると、八岐大蛇。
大山津見神は素戔嗚尊の義理の祖父にあたる神である。

そうすると、大山津見神にオコゼやアラカブを供える
と願いが叶うという山之神 神社の由緒は、素戔嗚尊と
 の関係をカモフラージュするための作為にも思えてくる。

八岐大蛇、八重垣、八尺瓊勾玉、8人の子ども、
八雲立つ、8の字で回る茅の輪くぐり、八坂神社…。
ざっと考えても、素戔嗚尊と「八」の縁は深いが、
志賀島神社の祭りも、「八」の数字を重視するという。

歩射祭の射手は8人、世話役も8人、準備は1月8日から、
的は藁8束、矢の数は6×8で48本、神酒を注ぐ橙は8個。
神に仕える巫女は8人、神幸祭では八乙女の舞を踊る。

そもそも、神功皇后が三韓遠征から凱旋した際、
対馬の海神神社に祀った旗は、8本だった
というから、何やら暗号めいてくる。

海神…ヤマト神話のスサノオは海を統べる神だった。
志賀海神社は菊紋、に真のスサノオを隠している?

by utoutou | 2017-03-23 13:02 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 96 女神はオコゼが好き

真砂の話をしていたときだったか、語り部に聞かれた。
「玄界島というのが、志賀島の近くにありますか?」
「はい、下馬ヶ浜から綺麗に見えましたよ」
沖津宮を見た帰り際に、「玄界灘の記念に」と撮った
1枚がこちら。↓道々調べて、玄界島という名だと知った。
志賀島の北西に浮かんでいる。その距離10㎞ほどか。
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語り部のインスピレーションは、アマミキヨ追跡
の大きなヒントであると同時に、こちらにとっては、
「裏取り」というミッションを告げる(笑)もの…。

調べ物が苦手な語り部からの質問は続いた。
「昔は、久島とか、月海島とも呼ばれていましたか?」
「調べてみます…」
「月読命を祀る若宮神社はありますか?」
「へぇ、調べてみます…」
「猫がたくさんいますか?」
「猫ですか、調べてみます…」


ようこそ玄界島へ」というご当地のサイトを見ると、
語り部の話は、すべてドンピシャの大当たりだった。

玄界島は、古くは久島、さらに月海島と呼ばれており、
若宮神社の祭神は月読命、また国内有数の猫の島だという。
2005年に起きた福岡西方沖地震では、真砂土が
土砂崩れを起こしての被害が相当あったことも分かった。

語り部からの話は、いったい何を示唆をしているのか?
キーワードはどうも、「隼人」のようだと、私は考えた。



志賀海神社の摂社に ↓ 「山之神 社」がある。
祭神は大山津見神。木花咲耶姫や山幸・海幸の父神だ。
隼人族の地元・鹿児島では「鉱山の神」として崇められる。
そう言えば、薩摩隼人は砂鉄を採り産鉄技術を有していた。
 隼人・海人族・真砂・産鉄・大山祇神と、一線に繋がった。
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「山之神 社」の説明板には、冒頭、次のようにあった。
 
〜御神徳 えんむすび・夫婦円満・開運
おこぜ や あらかぶ を供えると、その顔立ちの悪さを
見て滑稽に思われ、快く願いを叶えてくれる(後略)〜

まさしく大山祇神社と同じだ。愛媛の大三島にある
大山祇神社にも、オコゼを奉納する風習があると聞いた。
山の神は醜女なので自分より醜い魚を見ると喜ぶのだと。

さて、興味深いことに玄界島で月読命を祀る若宮神社
にも同じ風習がある。以下、玄界島のサイトより引用。

〜若宮神社
若宮神社の神様は女性の神様で、その姿はみにくく、
綺麗な女性や綺麗な魚を嫌い、オコゼという
醜い魚を祭ります。若宮神社の始まりは島の海岸
に流れ着いた神様・月読命を 〜(後略)

月読命とは、隼人族(後の日下部氏族)の祖神である。
丹後与謝郡筒川の浦嶋神社の祭神は、浦島子(太郎)
と、月読命と、(瀬織津姫と言われる)祓戸大神である。


月読命と大山祇神が、オコゼ好きな女神だったとは…。
そう言えば、海の底から出てきた安曇磯良は、
醜く鬼のような顔をしたオコゼに例えられたという。

月読命と大山祇神がオコゼ(安曇磯良)を喜ぶのは、
海神を崇めて止まない証だと言っているかのようだ。
また、安曇族と隼人族は同族であるということも…。

安曇磯良の祀られている関門海峡の和布刈神社は、
江戸時代まで速人社・隼人社・早鞆明神と呼ばれた。


伝説や物語も、かなり似ている。
志賀明神とも呼ばれた安曇磯良は、金の亀に乗って現れ、
龍神から賜った潮干珠・潮満珠を神功皇后に授けた。
浦島太郎も亀に乗って龍宮城に行き、
龍宮乙姫から貰ったた玉(珠)手箱を持って帰ってきた。


「龍神の珠」がもたらす霊力は、まさに人智を超えていた。
 海人族(海神族)は、それを生み出す術を知っていたか。

その謎解きは次回以降に進めるとして、つくづく思う。
和布刈神事で刈られたワカメも海神の賜物なのだった。
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by utoutou | 2017-03-21 11:22 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 95 海神のレガリア

志賀海神社の拝殿前には御潮井(おしおい)という
 清め砂が備えられていて、「さすが龍の都」と思う。

イザナギが禊をして神々を生んだという聖なる海
を住処とする海神(綿津見神)に礼拝するためには、
身に沁みこんだ俗世の穢れを祓わなくてはならない。



御潮井の横には、清めの作法も記されていた。
〜御砂を体の左・右・左と振り清め、二拝、二拍手、
一礼にてご拝礼ください〜
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志賀海神社へ来てから3度目の禊になる。まず
通りから鳥居へと上がる石段の下で清め砂による禊を。
楼門から入ったところで、手水舎で水で手と口を清めを。
そして、こちらに着いてから、神前の禊を行なった。
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御潮井は持ち帰りもOKと、楼門の横に書いてあった。
地元ではそれをテポ(籠)に入れて家々の戸口に備え、
外出の際に体に振り清めて災難除けとする風習がある
 そうだ。田畑の虫除けや、敷地の清浄を保つにも用いる。

筑前一帯では、神社に
最寄りの海岸の真砂を「御潮井」と尊ぶのだそうだ。

真砂土(まさど)は各地の土砂災害ニュースで耳にする
が、真砂土や真砂は、花崗岩が風化してできたものだ。
ここ志賀島の地質が花崗岩であるならば、
 境内のあちらこちらで花崗岩に出会ったのも当然か。




参道の脇に立つ、福岡県県有形文化財の
石造宝筐印塔(いしぞうほうきょういんとう)は、
仏典を納めた石塔。貞和3(1347)年の建立。
「花崗岩を用い、高さ334.5m」と、説明板にあった。
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そして、遥拝所の亀石も花崗岩で造られている。
神宮皇后が三韓出兵に際して、無事の帰還を祈願して
神楽を奏でると、黄金雌雄の亀に乗った志賀明神と
勝馬明神が現れて干珠・満珠を授け航路を守ったという。
一対の亀石は金色ではなかったが、本殿を向いていた。
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思い出しつつ、ある素朴な疑問が湧いてくる。
神功伝説に現れる一対の亀は、なぜ「黄金」なのか。


志賀島の真砂は、磁石にくっつくのだと聞いた。
真砂は磁鉄鉱が含まれる産鉄の材料だが、
砂金のことでもある。その砂金から、古代の民は
黄金を採取した副産物として鉄を得たのだという。

つまり「黄金の亀」には、安曇族に
関するメタファーが込められているのではないか。

安曇族が大陸から渡来した産鉄民であったこと、
もしかすると安曇族は、砂金から黄金を採取したか、
高度な錬金技術を持っていたかもしれないこと。

それゆえ、漢の首都まで航海できる航海術と、
倭国代表として金印を授かる経済力を有していたこと。

それゆえ、神は「黄金の亀」に乗って出現した?
 真砂が、だんだんと海神のレガリアに思えてきた。





by utoutou | 2017-03-18 12:03 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)