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六甲山と瀬織津姫 109 白兎神話は南方から

内陸にもあった、「白兎神話ゆかりの里」。
古来、村々の鎮守として白兎大明神を祀り、崇め、
古墳の数も因幡随一。その中心だったと言われる土師郷は、
現在の八頭郡八頭町にあたるが、そのまさに霊石山山麓に
 流れているのが、千代川の支流・私都川(きさいちがわ)。

この川の流域が八上姫の里だとの説があるいっぽう、
瀬織津姫を祀る神社も多く、なんと4社に祀られている。
(旧八上郡へ範囲を広げると、16社になる)

その理由は不明だが、もしや白兎大明神にあるのではないか。
「白兎大明神は猿田彦」という語り部の仮説が正しければ、
その太陽神・猿田彦の一対神とは、瀬織津姫という名の月神。

伊勢・伊雑宮の奥宮には、猿田彦神(伊勢大神、天照大神)
と瀬織津姫(罔象女神、泣沢女神)が、一対神として
秘祭されていたものだった(記事はこちら → )。

ともあれ、ここ因幡は、朝廷に「まつろわぬ民」の土地
だったのは確かだ。伊雑宮の鎮座する志摩・磯部しかり、
因幡にも、天照大神という記紀によってつくられた皇祖神
を、決して受け入れなかった琉球民族と同じ匂いを感じる。




新たに知った「白兎神話ゆかりの里」はさておき…
『古事記』によって知られる白兎神話の伝承地、
いわば、本家本元の白兎神社(鳥取市白兎)へも参詣した。
出雲大社を思わせる注連縄には、「立派〜」の一言。
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国道9号線沿いの駐車場に車を置き、神社までわずか数分。
鳥居からゆるい上り坂となる参道で振り返ると、水平線が。
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白兎伝承地のハイライトは、こちら淤岐ノ島(おきのしま)。
白兎海岸の沖合150mに浮かぶ小島から、兎はワニの背中を
踏み、対岸の「気多ヶ崎(けたのさき)」まで渡ったとされる。
島の上には鳥居が立っている。また遠目からは分からなかったが、
ワニに見立てられた岩礁は、いまも点々と連って見えるという。
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淤岐ノ島ばかりでなく、
周辺には白兎伝説の場面ごとの伝承地があって楽しめる。
神社の内外には、素裸の兎が体を洗った「不像不滅の池」が、
兎が泣いていた「高尾山」、兎が体を干した「身干山」がある。

ところが、この白兎神話伝承地の歴史は、
江戸時代より遡ることはないと、前出の石破洋教授は、
著書『イナバノシロウサギの総合研究』で述べている。

大国主命が八十神と共に八上姫に求婚する旅に出て、
兎と出会う場面は、必ずしも必要ではなかったのだと。
もし白兎の場面が挿入されるとしても、その海岸は出雲
でも因幡でもよく、淤岐ノ島の名も古代にはなかったと。

では、白兎神話はどのように生まれたのか?
(以下は石破氏の著書より引用)
(兎とワニの)〜場面は南方系の渡来説話が『古事記』
の作者に利用されて挿入されたものと思ってよい。〜

そういう考え方もあるのかと、目からウロコが落ちた。
確かに、小動物がワニに騙される神話は、東南アジア各地
に残ると言われるが、それが「渡来した」と推理するならば、
 いきおい海人族の渡来をリアルに想定することができる。
  神話は、ひとりで海を渡ることはできないのだから。  



実は、白兎海岸から東方を見ると、但馬(兵庫県)の岬
まで見通すことができ、その距離の近さに驚いていた。
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また、神社の駐車場には、こんな立看板があった。
怪しい車、人、船への注意を観光客に喚起している。
いかにも怪しいイラストに、かの半島からの海流を思う。
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何日か前、語り部は言った。
「近くの海岸に、大きく突き出た岬はありませんか?」
「そこが、本当の白兎神話の伝承地とか…?」
「南方から上がってきたらしい古代の船団が見えますね」










by utoutou | 2017-05-23 11:15 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 108 八上姫の里

大国主命妃となった八上姫を祀る売沼(めぬま)神社
(鳥取市河原町曳田)に、謎めいたことが二つあった。
まず、その呼称。社頭の由緒書きにもあったように、
中世まで、「西日天王(にしびのてんのう)」と呼ばれた
というが、詳しいことは明らかになっていない。



もうひとつの謎というか、その余韻が長引いたのは、
曳田川の土手ぎりぎりの場所に鎮座するこちらの摂社。
赤く塗られていたらしいので稲荷神社か。はたまた、
曳田川は古来、頻繁に起こる水害で暴れ川と恐れられた
千代川の支流だけに、川の氾濫をなだめる治水の女神か。
あるいは、この小祠から遥拝する聖地があるのだろうか。
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こちらの小祠からは、霊石山を遥拝するのでは? と思ったのは、
隣接する八上姫公園にあった石碑の絵柄を思い出してからだ。
その中央には日本海へと注ぐ千代川が、また右(東)から
合流する私都川(きさいちがわ)が描かれているようだ。
八上姫の傍を流れているのが、曳田川のように思われる。
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天照大神を猿田彦が道案内したという神話が残る
霊石山は、八上姫と同じく往古の八上郡(やがみのこおり)
の象徴として、土地の人々の崇敬を受けていたのだろう。



売沼神社から3㎞北に立つ河原城(別名・若鮎城)は、
千代川を挟んだ西、鳥取市河原町に平成6年に「築城」された。
ふるさと創世事業によって、町の情報発信の拠点として完成。
元々は、豊臣秀吉が因幡平定の際に陣を築いた場所という。
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河原城(全高24m)の天守閣から見る霊石山
と、その南麓に広がる八上郡(現・八頭郡八頭町)。私は
 登城の余裕なく、写真は鳥取市公式ウェブサイトより拝借。
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霊石山に連なる中山の展望台から八頭郡の平野を見下ろす。
写真には写らないが、立ち位置の右方向に霊石山、河原城。
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展望台からの見た目通りの地図なので、南北が逆だが、
白い平野部分が古代の因幡国の中心・八頭郡八頭町。
「白兎伝説の里 八頭町 ゆかりの地」が図示されている。
白兎伝説ゆかりの地は白兎海岸だけではなかったらしい。
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Googleの航空写真に、
「白兎伝説ゆかりの地」の主だった寺社を記してみると、
霊石山一帯の山麓(写真下部)に集中しているのが分かる。
赤いピンを置いたのが霊石山(現・鳥取市)。
その右下の黄丸が中山展望台(八頭町)。
左下のピンク丸が河原城。
赤丸が、右から成田山青龍寺、池田神社。上下にふたつある
のが、土師百井廃寺跡、土師百井神社。左が売沼神社。
日本海岸沿いの赤丸が有名な白兎神社。右端が鳥取砂丘。
ちなみに青丸は、万代寺遺跡(八頭郡八頭町万代寺)。
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八上郡に点在する「白兎伝説ゆかりの地」を繋げると、
「夏至・冬至ライン」になると発見したのは、大江幸久氏。
その著書『天照大神・瀬織津姫の因幡行幸--ホツマで解く
  八上姫・白兎神話の真相』では、そればかりか、鳥取県を
    瀬織津姫を祀る神社が「密度では全国一」とも記している。  
(実数での最多は岩手県、2番目は静岡県という)

語り部が先日言ったように白兎明神が猿田彦神ならば、
伊勢・伊雑宮の奥宮・天岩戸に併祀されていたように、
瀬織津姫が、この地にも祀られているのは不思議ではない。

さて、上の航空写真地図に青丸で記した万代寺遺跡
(八上郡の古代役所跡)や、土師百井廃寺跡のある
旧・八上郡土師郷を「八上姫の郷」と指摘したのは石破洋氏。
    著書『イナバノシロウサギの総合研究』で、概略こう記した。   

〜(因幡の中央に住んだ)白兎は因幡の国の神であった。
因幡国を代表する八上姫も同じ所に住んでいたと考える
のが、神話的な思想であろう〜

すると、その因幡の中心地から見て、売沼神社は
冬至の太陽が沈む方向。まさに「西日大王」に相応しい。

古の沖縄では、朝日を東大主(あがり・うふぬし)、
沈む夕陽を西大主(いり・ぬ・うふぬし)として崇めた。
八上郡には琉球に似た太陽(朝日夕陽)信仰が感じられる。

by utoutou | 2017-05-18 15:20 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(1)

六甲山と瀬織津姫 107 八上姫の恋

「八上姫というのは、誰の娘ですか?」
鳥取で神社巡りをした日、語り部が電話で聞いた。
八上姫を祀る売沼(めぬま)神社(鳥取市河原町)
にも参拝することは、あらかじめ伝えていた。

誰の娘と聞かれても…と返答に困ったが、言った。
「それは謎のままらしいですよ。豪族の娘に違いないと
思いますけど。もしや八上姫のお父さんは因幡の白兎?」

なかば口から出まかせだったが、考えられなくはない。
神話『因幡の素兎(しろうさぎ)』で、大国主命と八上姫
 の結婚を予言したのは、大国主命に助けられた因幡の白兎。
「あなたは八上姫と結婚することになるだろう」という
予言通り、大国主命は八十姫を娶ったのだから、
白兎は予言者か、八上姫の父神か、どちらかの化身だ。

そして前回の「猿田彦の導き」で、因幡の数ヶ所に
 祀られる白兎大明神とは猿田彦命のことだろうと書いた。

いま、語り部は言う。
「白兎に隠れている神は、猿田彦だと思っていました。
沖縄ミントングスクの神面に残るアマミキヨ、そして、
伊勢神宮でも秘祭される興玉神と神像が重なっている」
(「ダビデの神面」「伊勢に沈む古代」に記事あり)



八上姫命を祀る売沼神社
(めぬまじんじゃ、鳥取市河原町曳田)
日本海から遡った千代川の支流・曳田川の北岸に鎮座。
「売沼」は本来は「比売沼」で「比」が脱字したものという。
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創祀年代は不詳。小高い丘になった境内のすぐ下を
曳田川がなだらかに蛇行する様子は、古代を思わせて優美。
川とほぼ平行して建つ売沼神社・本殿は、東面している。 
伊勢の興玉神こと猿田彦とは、東から昇り来る太陽神だった。
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境内にあった由緒書によれば…(以下要約)。

賣沼神社 祭神 八上姫命
☆延喜式神名帳にある式内社である。
☆中世は「西日天王」と呼んだが、元禄より現在の社名。
☆「古事記」の伝えでは、八上姫は白兎の仲介で、
その難を救った大国主神と結婚した。
☆この神話伝説は、漂着した外地の舟人たちが先代川
を遡り、まずこの曳田郷を拓いたことを物語る。
☆対岸山麓の前方後円墳を神跡としている。
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曳田川の対岸・梁瀬山(283m)に嶽古墳(だけこふん)
がある。全長50m、直径は後円部25.8m、前方部24.2m。
5世紀後半から6世紀前半の造営。八上姫の墓と言われるが、
造営年代から一族の末裔の墓とも。ただし石室などは未調査。
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売沼神社、嶽古墳と一帯となった八上姫公園には、
大国主命との恋物語を刻んだ一連の石碑があり、
公園内を歩きながら楽しめるようになっている。
曰く、八上姫は「日本で一番最初の恋物語のヒロイン」
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ところで、大国主命と結ばれた八上姫命は子どもを生む
が、『古事記』はその結末を多くは語らない。  
〜八上姫は自分の生んだ子を連れて出雲に来たが、
正妻の須勢理姫を怖れて、子を木の俣に差し込んだまま
 にして因幡に帰ったので、その子を木俣神(きまたのかみ)、
また、御井神(みいのかみ)という。〜

「木俣神という神名も、猿田彦の亦の名である
八街の神(やちまたのかみ)を思わせますね」
と語り部。確かに、その暗示とも受け取ることができる。
















by utoutou | 2017-05-13 13:05 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 105 天穂日命の末裔

美作加茂へは、前日、空路東京からまず鳥取市へ入り、
1泊してJR因美線で南下したのだったが、その経路を
辿っていなければ、全国出土の7割は美作からという
土師質陶棺に、あれほど強く思いを巡らせなかったと思う。

因幡から美作へと、また逆に美作から北上して因幡へと、
いずれのルートだったとしても、土師氏族の広がりを
思わせる痕跡の極致に、美作加茂で見た土師質陶棺はあった。



鳥取では↓お約束の砂丘を観光。さらに西へ30㎞離れた岬
・長尾鼻の南にある弥生遺跡・青谷上寺地(あおやかみじち)
遺跡展示館を見学。そして、市内に点在する神社巡りをした。
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鳥取市で参ったのは、売沼神社、白兎神社、土師百井神社、
因幡国一宮・宇倍神社などだったが、もっとも印象深かった
のが、天穂日命神社(鳥取市福井)。地図はこちら↓
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日本一大きい淡水池という湖山池の西に位置する。周辺
 には、その御子神を祀る天日名鳥神社があり一族所縁の地?
天穂日命は、出雲臣と土師氏の祖と伝わる神である。
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天穂日命は、神話では天照御大神の次男とされ、出雲国造家
、出雲大社宮司家である千家氏の祖とされるいっぽう、その
国造交代の際の神火相続式をする神魂神社(島根県松江市)
を創建した神とも伝わる。つまり、天穂日命は「火」の神。

そして、先日参った鳥取
の天穂日命神社には、由緒がこのように記されていた。
(以下要約)
☆古代高草郡の豪族因幡国造氏の氏神を祀る。
☆9世紀頃までの因幡では、最上位の格式にあった。
☆因幡の中心的勢力は、因幡国造氏だった。



因幡国造家の祖でもあったのか、天穂日命。神社境内
には、真新しい天穂日命像が白兎をお伴にして立っていた。
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さて、岡山県北最大規模、美作加茂の万燈山古墳に
埋葬されていた土師質亀甲型陶棺の製作者であり被葬者
もまた、天穂日命を祖とする土師氏の人々だったと思う。
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土師質の陶棺は、土師氏が製作して土師氏の長を葬った。
そして↓万燈山古墳は、土師氏一族の墓陵である…
とは、しかし、どの資料にも記されてはいない。
古墳は加茂町の奥地の墓地に隠されるようにしてあり、
いまは地元老人会でも、被葬者を語る人は少ないという。
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古墳と陶棺が造られた6世紀末、美作の地に
白猪屯倉(しらいのみやけ)という朝廷の直轄領ができた。
そこへ派遣された役人は百済の渡来人かと、前回書いた。
屯倉であれば、陶棺も製作できる規模の大型製鉄炉が
あってもおかしくはないという説も紹介した。

ただし、おそらく役人は役人である。
陶棺を造る窯業の技術者(工人)ではないし、
被葬された「鉄王」でもあり得ないだろうと思うのだ。

そもそも、土師氏とは、埴輪の制作や祭礼に関する職分を
担当する品部だった。垂仁天皇妃・日葉酢姫命の葬儀に
あたって、それまでの慣習だった殉死に替えて、埴土で人型の
埴輪を作って埋葬することを、土師氏の祖先である野見宿禰
が天皇に奏上したことが始まりだと言われている。

そのとき、百人の職工たちが出雲から都に呼ばれた。
つまり、垂仁の時代、出雲に埴輪作りは行われていた。
美作でも、産鉄や窯業は盛んだったと考えるのが自然だ。

美作という国名の起こりは時代降って和銅6(713)年。
それまでは吉備国だったのが、備前・媚中・備後、美作
という4つの地域に分割された。吉備とは、それだけ
歴史が深く、鉄資源が豊富な強国だったわけで、ヤマト
王権が屯倉を置いたのは、その弱体化を図ったためだろう。

そして、美作に土師質・亀甲型・陶棺が誕生した。
わざわざ「・」を付けて区切ったのは、そこに後に
土師部となる「火の一族」の特性を強く感じるからだ。

埴土は『日本書紀』に曰く、スサノオが出雲に来たとき
に乗った船の材質であり、亀は海人族のトーテムであり、
陶棺は、先史時代の家を模した家型埴輪に由来すると思う。

その陶棺は、南方の島々の家屋と同じく高床式である。
天穂日命とは、「火の神とホとヒ」で書いたように
琉球の祖神だったのだなと、加茂町で再確認したのだった。










by utoutou | 2017-05-04 10:01 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 104 サムハラと渡来人

サムハラ神社・奥の院は、
岡山県津山市加茂町の日詰山の中腹にある。その
山頂に築かれた落合城(亦名は百々城、1581年築城)
に、サムハラと刻まれた石碑があったという。
それ以前の謂れは、いまのところ分かっていない。


城址のある日詰山の山頂から、旧名・美作加茂町を一望。
巨大な階段の展望台があったが、登らなくても眺望はよく、
加茂町の南部にあたるここからは、地勢がよく分かった。
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↓こちらは、加茂町歴史民俗資料館にあったジオラマ。
資料館には町随一の万燈山古墳について知るべく訪れた。
赤の矢印は当方の加工で、下のがサムハラ神社のある
日詰山、上が万燈山古墳のある塔中(たっちゅう)集落。
古墳は、町の東を流れる加茂川と、西を流れる倉見川に
挟まれた丘陵の先端に、6世紀後半に築かれた。
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万燈山古墳。
直径24m、高さ4mの円墳。築造された6世紀後半
から7世紀はじめまで22体もの追葬が行われたといい、
南(写真左)に大型横穴式石室の開口部がある。
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美作最大の規模である玄室は、幅2.2m、奥行き6.6m。
傍の説明板によると、天井には巨大な花崗岩を8個使用。
出土品は、金環、勾玉、直刀、鉄鏃、土師器、須恵器、
高杯、祭具、大甕、そして鉄滓など多数。
近くで農作業していた古老は、「これは王の墓」と言った。
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資料館でしばし見とれた、万燈山古墳から出た馬具。
資料館の天井のライトが写り込んでいるが、馬具の
金張りには1400年の歴史時間を感じさせない色艶があった。
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万燈山古墳に葬られた「王」の経済力を物語る出土品の
極め付けがこちらの土師質亀甲型陶棺(6世紀後半)。
石室内部には、石棺(1)、木棺(7)もあったが、
最大の特徴である陶棺(1)には、3体が合葬されていた。
身と蓋は2分割式。18本の足を持つ姿は、まさしく「亀」。
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土師質亀甲型陶棺は、吉備王家の繁栄した古墳時代、
 吉備の東北部である後の美作だけに集中して作られた。
その特殊な事情について、真壁忠彦氏は著書
『古代吉備王国の謎』で、次のように推理した。以下要約。

☆美作には大和王権の屯倉(みやけ、直轄領)があった。
☆中央に直接従属して鉄生産に関わる人々が多かったか。
☆土師式陶棺は、製鉄のための製鉄炉で焼かれたのでは。


美作国の前身は、『日本書紀』が欽明16(555年)
に置かれたと記す白猪(しらい)の屯倉と言われる。
美作が鉄生産に関わる朝廷の直轄領であったことは、
大量の鉄滓が出土していることからも明らかだという。

資料館で見た古墳とたたらの分布図によれば、加茂にも
古墳は24基、たたら遺跡や遺物散布地は125ケ所ある。
屯倉に役人が派遣された、6世紀後半に陶棺は作られた。



資料館に、こんな一文があった。
〜古来、加茂の原動力は鉄と木材だった。
万灯山古墳の被葬者は、鉄を握った首長だった。〜
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その「鉄を握った首長」とは誰だったか…。
白猪屯倉の管理に携わった人物に、百済系渡来人
の白猪臣がいたという。白猪屯倉は複数ヶ所あったとも。

もし陶棺が作られたこの加茂の地が大和朝廷の直轄領で、
渡来人がいたとするなら、彼らがサムハラの護符を定着
させたとも考えられるのではないだろうか。

古代韓国語で
「サム」は「生きる」、「ハラ」は「しなさい」。
「サムハラ」は「生きなさい」の意味になるという。






















by utoutou | 2017-04-30 20:22 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 103 サムハラ神社・奥の院

サムハラ神社・奥の院(岡山県津山市加茂町)に参拝。
「呼ばれた人しか辿り着けない神社」と何かで読んだが、
JR因美線の美作加茂駅で降車してタクシーに乗り、
運転手さんに聞いてみると、やはりそういう傾向らしい。
「ええ、お客さんは皆さんそうおっしゃいますよ。
呼ばれた…とか、呼ばれた人しか来られない神社…とか」

平日も少なくとも数組は参拝に訪れるらしく、大阪や東京
から、北海道や九州といった遠方からもと、人気は全国区。

この山あいの町に、にわかにブームが到来している模様だ。
運転手さん曰く、去年あたりから参詣客が増えてきたと。
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その多くは、岡山からJRか車で訪れるらしいが、
 私の場合は、鳥取からJR因美線で美作加茂へと移動した。
(鳥取での神社巡りレポートは後日また…)
日本海側の鳥取から1時間半、電車は川に沿って南下した。
鳥取から智頭(ちず、鳥取県)までは日本海に注ぐ千代川に、
峠のトンネルを越えると、今度は瀬戸内海に注ぐ加茂川に。

他に乗客のいない各駅停車の車内から、田園風景を
眺めていたが、智頭から川の流れる方向が反対になった。

実はその2本の河川は、古代、砂鉄の採掘地だった。
ここ加茂町(村)は、古代産鉄の盛んな土地だったようだ。
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賽銭箱の神社紋は、大阪のサムハラ神社でも見た。
「百」を上下に抱き合わせた形は、ここへ来て、創祀者の
田中富三郎翁が加茂村の百々(どうど)出身ゆえと知った。
百々という珍しい地名は、どのような由来なのだろうか。
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さて、
サムハラ神社・奥の院は金刀比羅神社の境内に鎮座する。
↓ こちらは、「奥の院」の参道から見た金刀比羅神社。
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金比羅神社にいる間は、下から度々突風が吹き上がり、
金比羅神社の幟が、激しく踊っているかのように揺れた。
ここでは古代、たたら炉による製鉄が行われていたかと思う。
たたら製鉄には、一にも二にも強風が必要だったという。
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金刀比羅神社の摂社には、やはり稲荷神社があった。
産鉄の地に稲荷神社が祀られているのは各地で見た。
摂社には荒神社もある。竃の神、地神、山の神である。
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サムハラ神社が古代琉球と関わっていると、語り部が
言ったのは、この地が産鉄地だったことと無縁ではない
のだろうと思う。鳥取市内でも、美作加茂への道筋でも、
点々とした「土師(はじ)」という地名がそう思わせた。

鳥取市には、土師氏ゆかりの天穂日命神社も鎮座する。
天穂日命が久高島と縁の深い神であることは、何度か書いた。
そして、もちろん、天穂日命の磐座がある六甲山とも…。









by utoutou | 2017-04-25 12:06 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 102 サムハラの霊験

サムハラは常用漢字にはなく、PCフォントにもない。
神字と呼ばれるらしいが、その起源は戦国時代らしい。
社務所で聞くと、「元々武士が懐に入れていた」という。

サムハラ神社の奥の院がある岡山県津山市加茂町
(駅名は美作加茂)にあった落合城に、サムハラと神字が
刻まれた石碑があり、武士が紙などに写して身に付けて
いたという話が、津山瓦版に載っている。



↓こちらの四文字は、
社務所横にあるサムハラ之宮合気道塾のHPから拝借。
合気道の開祖・植芝盛平は、
       サムハラ龍王が降臨したと唱え信奉していたようだ。        
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サムハラ神社を創建したのは、美作(みまさか)出身の
実業家・田中富三郎氏(明治元年生まれ)。
上阪して田中大元堂を設立、万年筆を普及して事業に成功。
私財を投じて、この本社と奥の院を創祀した。神社庁に
は属さない宗教法人で、本社の名称はサムハラ神社護符所。
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「不思議の四文字 身を護る」という御守り。
中には四文字の赤いお札と、造化三神の神名のお札。
そこには「無傷安全・無病息災・延命長寿」とある。
社務所で求めるとき「1個でいいんですか?」と聞かれたが、
確かに1個だけの人は他にいなかった。おみくじは一発大吉。
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参拝後、「不思議の四文字」のお守りをバッグに入れて
境内を散策していると、さっそく不思議なことが起きた。
スマホで撮った本殿屋根の千木の上に、珍しく鳥が写っている。
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「鳥を撮った」と語り部に伝えたわけではなかったが、
サムハラ神社の話をしているうち、「鳥取」の地名が出た。
なんという予兆か霊験か。それとも、ただの語呂合わせか。

前々回の記事「宝珠は龍より出る」では造化三神
(天御中主神・国皇産霊神・神皇産霊神)に触れたが、
すぐに、三神を祀る神社を知った偶然を言ったまでだった。

ところが、語り部は言った。
「サムハラ神社の北はどこになりますか? 鳥取ですか?」
いったん電話を切り、地図を調べて言った。
「サムハラ神社の奥の院のある美作から一直線に北へ
行くと、日本海に飛び出た長尾鼻という岬。鳥取市です」
「そこに、古代の集落はありませんでしたか?」
「いや、ちょっとそれは、調べておきますね。まさか…」

その後は絶句した。まさか、私は鳥取へ行くことになる…?

しかし、調べると、それもまた必然なのかと思えてきた。
サムハラの歴史は、戦国時代や美作の地にとどまらない
もっと広遠な時空を背後に秘めているようだった。

例えば、
平安末期の武将の位牌に四文字が綴られていたとか、
中国の新王朝(8〜23年)の厭勝銭(護符)のひとつに、
サムハラ銭があったとか、孔子の弟子の會子が
死に際(BC505)にサムハラに祈ったとか、故事がある。

そもそもサムハラの由来はサンスクリット語の
「三跋羅(サンバラ)」で、意味は抑制・防止・律儀という。
そこから、「難を逃れる」「九死に一生を得る」「弾除け」
などの神徳が流布されて、崇められるようになったらしい。

サンバラは、大随求菩薩(だいずいくぼさつ)の真言にもある。
〜オン バラ バラ サンバラ サンバラ インドリヤビジュダネ
ウン ウン ロロ サレイ ソワカ 〜

大随求菩薩とは、「多くの真言護符の所持者」であり、
観音菩薩の化身だそうだが、とにかくサンスクリット語が
語源ならば、サムハラはインドが由来ということになる。

「出雲神族はインドから来たんでしたよね?」
後日、私が言うと、語り部も言った。
「出雲神族はインドから大陸北部のシベリアを通ってこの
列島に来たと伝わりますが、インドから南の海路を通って
来たり、朝鮮半島を通って来た渡来人もいると思います。
その中に、琉球から北上して鳥取(因幡)へ、そして丹後へと
流れた民もいて、サンパラのマントラを運んだのではないか」




ともあれ、今週末、大阪のサムハラ神社では春祭りがある。
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by utoutou | 2017-04-19 21:17 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 101 サムハラ神社

大阪へ出張して時間があったので、宿泊するホテルの近く
を散歩して知った、サムハラ神社(大阪市西区立売堀)。
まったく知らなかった。しかも、なぜ社名がカタカナ…?
と、看板を見上げて、しばし立ち止まっていると、
参詣客が次々と私を追い越して鳥居の中へと進んでいく。
どうも、最近人気のパワースポットらしい。
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古い石の社号標があった。初めて見る難解な漢字だが、
境内を具るり取り巻く多数の奉納提灯が人気を物語る?
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境内はさほど広くないが、社殿の奥行きはありそうだ。
拝殿左に創祀者・田中富三郎翁の銅像がひっそりと立つ。
日清日露戦争に御用商人として従軍、生還したことから、
昭和9年、岡山県苫田郡西加茂村(現・津山市加茂)に
あった「サムハラ様」の古祠を再建。これを奥の院として、
戦後、大阪に自費でサムハラ神社を創建したという。
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社務所でご由緒を頂戴して、とても驚いた。
祭神の「サムハラ様」とは造化三神のことという。前回、
「造化三神」の名が出たところで、今その神々に出会うとは。

ご由緒には、次のようにあった。以下要約。

☆サムハラ(漢字で表記)の意味は、天御中主神、
高皇巣日大神、神産巣日大神の三神の総称。
☆全ての神様の親神様で、人類根源の大祖先であり、
全知全能の創造主としての神格を有せられる神様。
☆無病息災・延命長寿の御神徳があり、守護くださる。



ということで、
霊験あらたかなお守りの人気も高いらしく、
その問い合わせで、社務所の電話が立て続けに鳴っている。
特に指輪型の御守りが人気で、「県外から来た」と言う人も。
社務所のドアや境内には、「品切れ」を告げる表示があった。
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それにしても、造化三神との偶然の出会い。
これは何かのメッセージかと思い、語り部に電話して、
事と次第を告げると、今度は語り部が少し驚いている。

曰く、知り合いの人が岡山の神社に行くと聞いたとき、
「サムハラ神社へも」との言葉が語り部の口を突いて出たと。
いわゆるシンクロ二シティー現象が起きている?

また、語り部は言った。
「岡山のサムハラ神社を北へ進むと何がありますか?」
そんなことは大阪のサムハラ神社すら知らなかった
私には分からないが、電話を一旦切って地図検索すると、
日本海に突き出た「長尾鼻」という岬に行き当たるようだ。

それを告げると、語り部は言った。
「そこは弥生時代、海路が行き交う要衝の地でしたね」
「まさか、そこに琉球から移った古代人がいたとか?」
「そうかもしれませんね」

掘るべき歴史の底が、見ている間に深くなっていく…笑。







by utoutou | 2017-04-16 21:02 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 100 宝珠は龍より出る

六甲山と瀬織津姫シリーズも、とうとう100回目。
当初2、3回で終わるはずが、なぜこんなに長く続く…。

語り部が「宝珠は(六甲山に)隠された」と言うので、
それは「空海の隠した珠」だろうと推理してから、早1年。
歴史時間を遡ったり下ったり、東奔西走したりもしたが、
それがはたして本当に「琉球の珠」なのか、そしてまた
六甲山のどこに隠されたのかは、未だに分からない。


空海が神呪寺の如意輪観音像に隠したという如意宝珠は、
浦島太郎が龍宮から持ち帰った箱に入っていたものという。
その伝説には、どんな意図が込められているのか。
そして「琉球の珠」なら、なぜ隠す必要があったのか。

その答えは、琉球から六甲山へと海人族が北上した
   であろう足跡を甦らせるヒントになるはずだったが…。  



昨年5月18日、如意輪観音像(融通観音)ご開帳の日
の甲山・神呪寺。横断幕の上に金の宝珠があしらわれていた。
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この一件は迷宮入りかと思った矢先、如意宝珠にまつわる
ある言葉を、ひょっこり思い出した。龍樹の著による
大乗仏教の論書「大智度論」に、それはあった。

〜宝珠は龍の脳より出る〜

宝珠は龍の頭に乗っているという説である。その龍とは、
沖縄や南方の海域に棲むイラブー海蛇を指している可能性
もあるかと、語り部の意見を聞いてみると…。

「はい、可能性はあると思います。
イラブーは、龍宮の宝を刈る生物と言われますからね」
と、即答が返ってきた。
「宝を刈る…とは、和布刈神事を思い出す表現ですけど、
 まさか若布(わかめ)では、宝珠になりはしないですよね?」
「……」
語り部は電話の向こうで沈黙していたが、
それも束の間だった。すぐに反対に質問が飛んできた。

「若布の根っこには、何が付いてますか?」
 若布の茎に付いているのは若布と、言いそうになったが、
何か閃くようなものを感じて、すぐに言い換えた。

「スズが付いていたのかもしれませんね。 製鉄材料の褐鉄鉱」
「はい、そうだと思います。筒が3つ、縦に並んでいます」
「筒が3つとは、住吉三神のことなんじゃないですか!?」

底筒男命(そこつつのお)、中筒男命(なかつつのお)、
表筒男命(うわつつのお)の三神は、住吉大神ともいう。
住吉三神は海人にとっての航海神で、オリオン三星を神格化
したものだと考えているが、そこに、若布と、褐鉄鉱…。
解きほぐすのが相当に難しそうな組み合わせである。



旧正月元旦の朝3時、和布刈神社で和布刈神事を見た。
対岸の住吉神社でも同時に行われるというが、未だに秘祭。
ともあれ、ふたつの和布刈神事と琉球には強い因縁がありそうだ。
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住吉大神と若布と褐鉄鉱を解く鍵は、『日本書紀』にあった。
三韓遠征のくだり、仲哀天皇に祟った神々の名を、神功皇后
に問われて、神は撞賢木厳御魂天疎向津媛などを告げたが、
その最後に、住吉三神の名を次のように挙げていた。

〜 日向国の橘小門の水底にいて、水葉も稚(わかやか)
に出で居る神、名は表筒男、中筒男、底筒男の神 〜

水底の水葉に憑依する神を住吉三神という、と。
それは「筒」と呼ばれたスズ(褐鉄鉱)のことと考えられる。

語り部が言った。
「若布の根っこを取り巻いたスズは、筒の形をしている。
 それを食べるから、イラブーの体内で珠が作られ、
珠は龍から出ると言われることになったのだと思います。
和布刈神事は、海人族が龍宮(琉球)から来た証でしょう」

では、住吉三神こと「筒の三神」とは、何を指すのか?
「造化三神のことだと思います」
「天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神ですか。
天地開闢の神が若布に憑依すると考えられていたとは…」


筒の形はどんなだろうと探すと、視力検査表に行き当たった。
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↑この筒が、若布の茎を取り巻いていた「神」の形と考えると、
ひょっとして、勾玉の原形は「筒」なのではないか…。



旧正月の元旦、初若布の奉納神事を待つ和布刈神社拝殿。
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by utoutou | 2017-04-09 16:19 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 99 神功皇后の審神者(さにわ)

神功皇后の忠臣・武内宿禰の身代わりで自刃したと
 いう悲劇の人・壱岐真根子は、三韓遠征に従軍した後、
「防衛のため」壱岐に派遣され、壱岐氏の祖となった。

父は雷大臣(いかつおみ)。
亦の名は中臣烏賊津使主(なかとみのいかつおみ)。
天児屋根命を祖とする、中臣氏の裔だったという。

さて、真根子が派遣された壱岐という島は
半島と列島を繋ぐ海路の中継地点だが、それゆえ、
弥生時代から朝鮮半島由来の製鉄技術が根づいていた。

壱岐にある弥生時代(1〜3世紀頃)の環濠集落
カラカミ遺跡から、日本最古と考えられる製鉄炉跡が
見つかったのは、つい数年前のことだ。
炉跡は半島南部の遺跡に見られる精錬炉跡と似ていた
といい、炉に風を送るフイゴや鉄材も出土したという。

「魏志倭人伝」に一支国(いきこく)と記される壱岐は、
朝鮮半島の資源を入手して製鉄を行なっていたわけで、
「倭人が朝鮮半島南部で産する鉄に頼っている」と記した
「魏志東夷伝」の内容は、ほぼ正しかったことになる。

では、そんな壱岐という島へ、
 三韓遠征の後になって真根子が派遣された理由は何か。
「(三韓から)防衛のため」とされるのは本当なのか。 
父・雷大臣は対馬に派遣されたというが、なぜ父子とも?



壱岐の製鉄炉跡発掘のニュースが流れた'13年の末、
高良大社(久留米市御井)に参詣していた。壱岐真根子
は、こちらの祭神・高良玉垂命(竹内宿禰)の忠臣だった。
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高良玉垂命の9柱の御子神を祀る摂社・高良御子社。
写真右端に屋根が見える末社・真根子社の撮影は失念した。
高良大社HPによる境内社の案内はこちらに。
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しかし、いま、三韓遠征で果たした雷大臣の事績を
 思うとき、一族の役割がいかに重要だったかが分かる。

雷大臣は、神功皇后の審神者(さにわ)だった。
審神者とは、神託の意味を解く神人のこと。三韓
遠征を前に、仲哀が崩御した事情を聞く場面に登場する。

『日本書紀』神功皇后の項を以下要約してみる。

☆仲哀9年、天皇は筑紫の香椎宮で亡くなった。
☆皇后は斎宮に入り、自ら神主となって竹内宿禰に
琴を弾かせ、中臣烏賊津使主を審神者として問うた。
☆「仲哀に祟った神の名」について、イカツミは答えた。
「伊勢の五十鈴宮に坐す撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」と。

天照大神荒魂こと瀬織津姫に、仲哀が祟り殺されたのは、
新羅出兵という神意に背いたからと『紀』は言外に言うが、
どうもその神託とは、「鉄」を抜きには語れないようだ。

伽耶諸国、そして新羅は鉄の一大産地だったことは、
「沙比新羅(鉄の新羅)」の言葉があったことで分かるが、
神功皇后が産んだとされる応神天皇の時代になると、
半島内の動乱や高句麗の南下によって、新羅系や百済系の
製鉄技術者が大挙して渡来してきた。それから考えるなら、
三韓遠征とは、製鉄の技術移転を図った一大プロジェクトだった。

そのコーディネーターが、紀一族だったのではないか。
神功の船団が、紀州の港から出て紀州へと帰ったこと
からも、瀬戸内海周辺での立場や絶大な軍事力が窺える。



竹内宿禰や真根子の母方である紀直は、
↓日前神宮・国懸神宮を奉祀する神職家で、そこには
天照大神の鏡に先立って造られたという
日像鏡・日矛鏡が、御神体として祀られている。
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紀氏は始祖として、須佐之男命と五十猛命(イタケル)を
崇めたが、その神には鍛治神の神格があり、
また、伊都国県主の五十迹手(イトテ)にも通じる。
 『契丹古伝』は「五十迹手は倭の王だった」と記している。

竹内宿禰、そして雷大臣・壱岐真根子の父子は、
「鉄の5世紀」を招来した、倭王の末裔だったと思われる。




by utoutou | 2017-04-02 13:05 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)