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六甲山と瀬織津姫 94 秘められた北斗七星

志賀島は神々の島、そして多くの神話が生まれた舞台。
その悠久の歴史を下ればこそ、金印を授かった
「漢委奴国王」が生まれたと思うのだが、それはさておき…。
綿津見神三社元宮のある島の最北では、地名が
神話の名残りをとどめていて、時の止まる思いがした。



こちら下馬の浜(げばのはま)。
現在は下馬の浜海水浴場。そこに休暇村志賀島もある。
カメラの背後、右に沖津宮、左に中津宮が鎮座。
神功皇后が三韓出兵の際に志賀島を訪れ、
この浜で馬を降りたことにちなんだ地名だという。
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沖津宮と仲津宮に挟まれた海は、神遊瀬(大戸・小戸)。
『筑前国続風土記付録』(1798年)によれば、
沖津宮に向かって左を小戸、右を大戸と呼んだようだ。
神遊瀬(しんゆうのせ)に浮かぶ島々には洞穴があったか。
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『筑前国続風土記付録』に掲載された地図。
上が沖津宮、下が仲津宮、右下の山が「表津宮趾」。
三社を繋いでいた砂州と砂浜(入江)を彷彿とさせる。
左ほぼ中央に、神遊瀬の別名・御手洗の名も見えるが、
それはここが記紀曰く黄泉の国から戻ったイザナギが禊祓
すると綿津見三神が出現したアワギが原に比定されるため。
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こちら、舞能ヶ浜(まいのうがはま)。
志賀海神社に保存された神功皇后出兵絵巻によれば、
安曇磯良を海の国から召し出そうと7日7晩に渡って
神楽を奏した浜という由来があるという。
やがて、志賀大明神(安曇磯良)が奉賽するとともに
  馬がいなないたので、勝馬という字名がついたと伝わる。 
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さて、この周辺のどこかに「北斗七星が隠れている」
と語り部は言ったが、とりあえずこの海で行われる
神事はないかと、youtubeで「歩射祭り」を観て驚いた。


志賀海神社で1月に行われる厄疫退散と五穀豊穣と
豊漁を予祝いする恒例神事が歩射祭りだが、その
前日、新参の射手(いてし)として祭祀組織に加入する
ことになる若者たちが、胴結(どい、藁製の的)を運ぶ。
そのときの「胴結舞(どいまい)」で、先頭で胴結を
背負う若者が、杓文字で顔を隠したているのである。
(※下2点の写真は、志賀島歴史研究会ブログから拝借)
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ここに北斗七星が隠れていた…。杓文字は、
琉球の祭具でもある杓子(にぶとぅい)と同義。
広辞苑には、次のように記されている。
杓文子 ;(杓子の女房詞)飯や汁などをすくう道具。〜

にぶとぅい星とは、ウチナーグチで北斗七星のこと。
久高島のイザイホーでは、にぶとぅい(神職)が、
新加入なった神女に、にぶとぅい(杓子)で神酒を注ぐ。

男女の違いこそあれ、一定の年齢になったとき
島の祭祀組織に加入する通過儀礼のなかに秘められた
北斗七星は、共通する星辰信仰を思わずにいられない。

琉球王朝時代まで残った「天御中主神と7人の日巫女
は、北斗七星(巫女7人)と、輔星アルコル(弁財天)
 とで8人の巫女が天御中主神に奉じた形態を偲ばせるが、 
歩射祭りの新参射手も8人。しかも、その若者たちが
禊祓いをする場所は、天御中主神を祀る沖津宮である。



若者たちは、さらに海に潜ってガラ藻を採り、沖津宮
 の神前に供えて、古参から橙の盃に神酒を受けるという。
いわば「ガラ藻神事」は、「和布刈神事」にも相当する。
いずれも安曇族の奉斎する神社での古い正月神事だ。
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琉球には、海藻を神前に供える神事はないが、
イラブー海蛇が龍神の使いに例えられたのは、海の底
 の神聖なる海藻や生物を摂り入れるからだとも言われる。
 その結晶が、龍神がくわえていたとされる宝珠だと…。











by utoutou | 2017-03-15 21:28 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 93 オリオン座の三ツ星

志賀島の北、玄界灘に浮かぶ沖津宮と、志賀島の
最北の岬に鎮座する仲津宮を、真っ直ぐに結ぶと、
その延長線上というか、南に、もう一宮ある…。
沖津宮と仲津宮を交互に見つつ、確信に近い思いを抱いた。


綿津見三神とは住吉三神の異称であり、
 海人族の航海を導くオリオン三星の神格化したものだった。 
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古来、星信仰が盛んだった沖縄では、オリオン三星は、
「黄金三星(くがにみつぶし」と呼ばれ崇められた。
また、八重山では「立明星」とも呼ばれていたという。 

その明星は、琉球王朝時代、君真物(キンマモン)
と呼ばれ、国王の守護神だった(※『琉球神道記』)。
つまり、オリオン座の三ツ星は琉球国の守護神とされた。


また『中山世鑑』(1650年)には、こう記されている。
「キンマモンは、海底の宮を住家とする」。つまり、
星神とは海神・龍神であり、逆もまた真なりとすれば、
   天御中主神と表津綿津見神を祀る ↓ 沖津宮は龍宮でもある。  
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さて、志賀島の地図を見てみると、
沖津宮と仲津宮を結ぶ線の延長戦上に宇賀神社がある。


前回掲載した地図に新たに番号を加えてみた。
8.神遊瀬(大戸・小戸) 9. 表津宮 10.宇賀神社
沖津宮と仲津宮と宇賀神社がほぼ一直線に並び、
まさにオリオン三星を地上に遷し祀ったかのようだ。
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宇賀神社は御霊(ごりょう)神社とも呼ばれ、
いまは休暇村志賀島の敷地内に鎮座している。
(※休暇村の園内地図に赤色で矢印を加筆)以下は説明。


御霊神社
〜休暇村前の海岸に立つ仲津宮・沖津宮とほぼ3社が
直線上に並んでいることからも、綿津見三神を祀る
元宮三社とも言われ、静かな森の中にひっそり
立っている神社は神秘的(後略)〜
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しかし、ここで大きな疑問が湧く。宇賀神社が
綿津見三社の元宮なら、表津宮は三社に入らないのか。
 
沖津宮と仲津宮と表津宮跡を繋げると、
仲津宮を真ん中にして鍵型に曲がった形となり、整列する
オリオン三星とは程遠い配置ということになってしまう。

ここは、語り部のインスピレーションに頼ろう
と尋ねると、答えは相変わらず明快だった。

「鍵の型…。それは釣り針をかたどった配置でしょう。
  山幸彦は、失くした釣り針を探しに龍宮へ行った。
ここは龍の都、釣り針は安曇族の象徴ですからね。
ところで、沖津宮の近くの岩場には何があるのですか?」

「岩場ですか…。地図によると、そこは
神遊瀬(大戸・小戸)という所らしいですけど」
「そこに北斗七星やシリウスが隠されているようです」


天御中主神に、オリオン三星に、北斗七星も。さて、
この小島のどこに新たな星神が隠されているのだろうか。
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by utoutou | 2017-03-12 21:04 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 92 志賀島の最北へ

旅の終わりは子ぬ方(にぬふぁ。沖縄では「北」)へ。
志賀島の最北には表津綿津見神と天御中主神
(北極星、子ぬ方星)が祀られる沖津宮が鎮座している。

島の方の車で、雨のなか北部の休暇村志賀島まで
送っていただき、お礼を言って別れ、海鮮丼を食した後、
まずは仲津宮へと急いだ。余談になるが、旧正月で週末
だったせいか、休暇村のメインレストランは地元名士に
 よる盛大な貸切パーティーの最中で、ランチ客は宴会場へ。

その「金印の間」から、駐車場と金印海道を挟んで、
玄界灘と海水浴場と、砂浜を散歩するカップルが見えた。
 やがて雨は上がり、空を覆う雲は勢いよく流れていった。


ランチの後、休暇村から北へ7分ほど探し歩いて、
仲津宮に着く頃には、思いもよらないドピーカンに
空を仰ぐと、鳥居に掛かる「勝馬宮」の社号が見えた。
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鳥居の横に案内板が立っている。
鳥居の先は勝馬宮こと仲津宮境内、そして仲津宮古墳。
このときはまだ、古墳の全容を知らなかったが…。
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森の中の古い参道をしばらく進むと、拝殿に出た。
祭神のことは志賀海神社の由緒で分かってはいたものの、
こちらに案内板はない。島の東北? を向くかたちで参拝した。
左(西)の方向から、玄界灘の潮騒が聞こえてくるようだ。
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神社の前庭のスペースに、御嶽というか神籬があった。
沖縄の御嶽と同じで神名は知れない。先の仲津宮古墳
の案内地図から想像すると、ここが古墳つまりお墓の跡か。
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改めて、鳥居脇にあった案内板(を撮った写真)を見る。

仲津宮古墳
〜この古墳は、7世紀ごろ(古墳時代)に造られた
もので、勝馬(かつま)を基地とした海人集団の首長の墓
と考えられています。この古墳は円墳で、円丘の径7m、
高さ1.5mの大きさをもち仲津宮の前庭に位置しています。
 埋葬はまず、長さ約3.8m、幅約2.8mの長方形の縦穴を掘り、
その中に平たい石を用いて、4段以上に組み石室を造り
(縦穴系石室)、少なくとも5体の埋葬が行われ(※中略)…
石室の床面には、須恵器の浅底のお椀のようなもの(坏身、
坏蓋)、須恵器の壺、鉄鏃、鉄矛、刀子、鉄斧などの鉄器、
表面に銀をはった金属製の耳環、ガラス製管玉、小玉
などが埋葬されていました。1997年3月 福岡市教育委員会〜


そう、安曇族は産鉄の民だった…と思ったりしていると、
拝所の左手に坂道があるのに気がついた。道は↓石段
 に繋がっていた。※写真は降りてから振り向いて撮影した。
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仲津宮の森を降り切るとそこは海。小島が浮かんでいた。
島の地図で見た沖津宮に違いないと、近づくとやはり…。
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満潮で渡れないが、100mほど先に沖津宮が鎮座。
小島の中央に鳥居が立ち、山上へ登る石段が見える。
海神と星神を併せ祀る志賀海神社の摂社・沖津宮だ。
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それにしても、仲津宮が古墳とは知らなかった。
岩に腰掛けて、スマホで福岡市文化財情報を検索…。

仲津宮古墳が発見されたのは平成6(1994)年のこと。
その後、発掘された古墳はまた埋め戻されたという。

古墳は「勝馬を基地とした海人集団の首長の墓」と
案内板でも見たが、首長とは誰だったのか。紀元前に
渡来した安曇族の、そして「漢委奴国王」の末裔か? と
 思うところを、単に「海人集団」とは。謎めいている…。

残り時間がなかった。このとき13時。バスで港へ戻り、
14時のフェリーで志賀島を離れて、東京へ帰るのだ。


また来よう…と、立ち上がり、振り返って驚いた。
沖津宮を正面に見た位置の真後ろに、仲津宮の山が。
つまり、沖津宮と仲津宮は真っすぐに向き合っている。
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いや、向き合っているのではない。もしや古代には、
沖津宮と仲津宮、そして表津宮(の元宮)は、ここ勝馬の地
で北から南へ、黄金三星(オリオン三星)のように一直線に
 配祀されていたのではないか…。このときは、そう思った。


by utoutou | 2017-03-09 12:45 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 91 金印「漢委奴国王」

志賀島は金印の島。
この日、博多から電車とバスを乗り継いで志賀島へ。
海の中道という砂嘴を通って志賀橋を渡る頃には、
車窓から「金印」の2文字が目についてきた。
金印くん(島キャラ)、金印ドッグ(ホットドッグ)、
降りたところは、金印海道(金印公園がある海岸通り)。


港へと歩いてみると、旅客船ターミナルビルの
外壁には見上げるほど巨大な金印のオブジェがドーン。
なぜか金色ではなく、赤黒のツートンカラー。
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↑ 国宝金印『漢委奴国王』
1784年、現在の福岡市東区志賀島より出土した。永らく
旧福岡藩主黒田家に保管されていたが、その後福岡市に
寄贈された。現在は福岡市博物館で展示されている。金印
の鈕(紐をとおす部分)は蛇の形で、印面には漢委奴国王
(漢の委(倭)の奴の国王」と彫られている。中国の歴史
『後漢書』に「建武中元2年(57)倭の奴国奉貢朝賀す。
光武(後漢の皇帝光武帝)賜うに印綬を似てす。」とある。
弥生時代に福岡平野にあった奴国は、当時の日本列島では
最も栄えていた国の一つで、後漢王朝に使節を派遣し、
光武帝から贈られたのがこの金印である。印面の一辺の
長さは2.347㎝で漢字時代の1寸にほぼ等しい。この金印
 は、2千年前の日本と中国との交流を証明するものである。




2千年前の判子か…と、オブジェに向かってシミジミ。
確かに↓彫刻とは逆字だ。写真は福岡博物館より拝借。
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港のあたりをブラつくと、さらに「金印」と出会った。
博多港と志賀島を結ぶフェリーは「きんいん号」で、
金印マラソンや、金印カレーもあることを知った。
志賀島神社の授与品に金印ストラップを発見したり…。

島の北部、志賀島国民休暇村には「金印の湯」があり、
その館内で私が海鮮丼を食べた宴会場は「金印の間」。

休暇村へは、おばさまがご親切に車で送ってくれた。


港近くの金印海道を歩きつつ、金印公園場所を訊ねる
と、「歩いては無理、待ってて、車持ってくるから」と。
突然雨も降ってきたので、ご好意に甘えることにした。
「金印公園は工事中だから」と、一気に休暇村まで。
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車の中で、幸運にも志賀港の今昔を聞くことができた。
おばさまは弘漁港(地図の4)から志賀港(地図の1)
の近くへ嫁いだのだという。「いまはね、夜になると、
家の前の海を、外国の豪華客船みたいな船が横切って、
そりゃあ綺麗ですよ。子ども時代には、こんな素敵な
ナイトクルーズ船を見られるなんて夢にも思わなかった
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※志賀海神社で頂戴した地図に、番号を振った。
1.志賀島漁港・旅客船ターミナル 2.金印公園
3.叶ヶ浜  4.弘漁港 5.志賀海国民休暇村 
6.志賀海神社・中津宮 7.志賀海神社・沖津宮


やがて車は金印公園前を通過、おばさまは言った。
  「右が甚兵衛さんが金印を見つけた所(地図の2)。  
“かねのはま”の“かねのみさき‘’から出たんだって
  

おばさまと別れた後で調べると、福岡博物館サイトに
〜(金印出土地の)叶崎(かねのさき)は叶浜(かねのはま)
の突き出た部分と考えられる〜と、確かにあった。


かねのさき…どこかで聞いたことがあったなと
考えていたら、志賀海神社の境内に立つ万葉歌碑に、
鐘の岬(かねのみさき)とあったことを思い出した。
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〜ちはやぶる
鐘の岬を過ぎぬとも われは忘れじ 志賀の皇神〜
原文は下記。
〜千磐破 金之三崎 過鞆 吾者不忘 牡鹿之須賣神〜
波の荒い「かねのみさき」を過ぎても、志賀の神様の
ご加護は忘れません…そう訳すと、ピタリ当てはまる。


ここ志賀島漁港から見えるのは静かな内海。古来、
↓能古島(のこのしま)とに挟まれた天然の良港だ。
金印の出た叶崎は、ここから右(北)へ車で3分。
   そこは、波の荒い外海へ出る寸前の国際港だった?    
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そして、叶崎では、内航船(小さな丸木船)から
外航船へと、荷物の積み直しをしたのでは?
そして荷札か何かに「倭奴国王」の印を押したのでは。

 そう考えるヒントは、丹波・久美浜の朝日の港
古来、大陸との交易を担った安雲や住吉族は
 その港で外航船⇆内航船の荷物を積み替えていた

さて、この金印から約170年後の1954年、
志賀島と同型の金印『滇王の印』が、中国雲南省の
石寨山(せきさいざん)古墳群から出土したことは書いた。
同じ古墳から、琉球産らしき宝貝を入れた青銅製の
貯貝器も多数出土したということも『琉球産の宝貝』に。

後漢の光武帝が委奴国王に金印を授けた弥生時代、
沖縄〜志賀島〜(黄河沿いの)洛陽〜丹波を
外航船と内航船を繰って交易した海人に安雲族もいたか。

ちなみに倭と滇、ふたつの金印に共通するのは蛇鈕。
漢の皇帝は、朝貢する国の王に駱駝や羊など象徴的な
を冠した金印を与えたというが、両国の場合は蛇だった。
琉球もまた「龍(蛇)の国」、安雲と同族だったと思う。






by utoutou | 2017-03-05 14:00 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 90 志賀海神社

ブラタモリ神戸で話が途切れたが、九州旅の
最後に志賀海神社(福岡市東区志賀島)へ行った。

和布刈神社〜宗像大社〜そして、こちら志賀海神社。
玄界灘の主だった海人族にゆかりの神社を巡る旅。
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宗像神社では、
拝殿に掛かる『神勅』を、複雑な思いで見た。
「汝三神 宜しく 道中に降居して
  天孫を助け奉り 天孫に祭かれよ」
これが、天照大神から宗像三女神への『神勅』という。

「天孫を助け奉り 天孫に祭かれよ」の一文から、
大和朝廷のルーツだったはずの海人族の神々が、
          やがて、天孫への帰属を余儀なくされた歴史が窺える。         
いや海人族こそが天孫と考えれば、新天孫への帰属か?

記紀が成立する以前、筑紫を舞台にして起きた
朝鮮半島諸国との交易や交流、あるいは動乱や内乱。
そして、大和朝廷が頼りにした海人族の盛衰を思った。


さて、
「海神の総本社・龍の都」と呼ばれる志賀海神社。
一の鳥居の朝10時。宗像大社と違ってとても静か。
港から参道を10分歩いたが、出会う人はいなかった。
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鳥居左手の樹々の下、石神がひっそり祀られていた。
近づくと猿田彦命と刻字があり、あっ…と思う。
猿田彦の下駄』にも書いたが、沖縄久高島では、
魚根家(イン二ヤーと読む、ヤマトでは和邇氏)の始祖
あり、龍宮神(海神)と考えられているのが猿田彦神だ。
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南国を思わせる樹々が生い茂る参道を進みつつ、思う。
猿田彦大神とは海神(綿津見神)の子・宇都志日金
であり穂高見神と記紀などに見えるが、つまり志賀海神社
 に綿津見三神を祀る安曇氏は、アマミキヨと同族である。
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「アマミキヨとは、アマべ・アマミ・アズミが語源」
と古来伝わるが、こうして安曇氏の本拠・志賀海神社
に来ると、猿田彦命を介して、その系統が確信できる。


志賀海神社、本殿拝殿。
祭神は、左殿 仲津綿津見神(相殿 神功皇后)
     中殿 底津綿津見神(相殿 玉依姫命)
     右殿 表津綿津見神(相殿 応神天皇)
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古来、綿津見三神を奉斎してきた神裔・安曇族は、
志賀島を一大拠点として国内・大陸との交流を広く
行い、経済的・文化的に高い氏族。その交易の足跡が、
長野県安曇、滋賀県安曇川、兵庫、対馬などに、また
「しか」「あつみ」の地名に多く見られると由緒に。

神名ならば、和布刈神社にも祀られていた安曇磯良、
そして、アマミキヨということになるか。



↓ 本殿の右の海側にある、亀石遥拝所。
その由緒にも安曇磯良が登場する。以下要約。

〜その昔、神功皇后が三韓へ出兵される際、正面対岸の
打昇浜にある亀ヶ浜にある亀ヶ池・亀栖池の辺りで、
安曇磯良丸が凱旋を祈願して、七日七夜、神楽を奏でた。
すると黄金雌雄の亀に乗った志賀明神と勝馬明神が出現。
神功皇后へ干珠満珠の玉を授け、船の舵と航路を守り導いた。
黄金雌雄の亀は後に石となって現れたので、社前に納めた〜
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安曇とは、海津見神(あまつみ)の転訛で、
琉球稲作の祖と伝わる「天祖(アマス)のアマミツ」
は、安曇磯良のことだと、語り部は常々言っている。


その安曇磯良は、
本殿の山側の摂社・今宮神社の祀られているが、
こちらの主祭神は、宇都志日金命(=猿田彦神)。
そして住吉三神、安曇磯良をはじめとする安曇諸神。
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今宮神社の由緒には、こう記されている。以下要約。
☆安曇連等は綿津見の神の子・宇都志日金命の子孫。
☆綿津見神を宮司として奉職するのは、代々安曇家。
☆神功皇后三韓出兵の際に出現した安曇磯良丸命は、
ここ龍宮より干珠・満珠を借り賜って海上指揮に支えた。

これを読み、あることを思い出して、ひとり唸った。
本来の龍宮は久高島あたりにあると、語り部は言う。
つまり干珠・満珠とは、実は「琉球の珠」なのだと。
そして、それは本来3個の珠から成っていたのではと。

「琉球の珠」は3個あった…。難題が甦り、
というより、難しすぎるため聞かなかったことに
していた難題も、こうして志賀海神社に来たからには、
そうそう無視してはいられないと、ひとり苦笑した。



by utoutou | 2017-03-01 10:41 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 89 ブラタモリ神戸

日本の三大神滝「布引の滝」(神戸市中央区)が
ある砂山(いさごやま)は、生田神社の元宮だった。

延暦18(799)年、洪水で布引の渓流が氾濫して
砂山の西端が崩壊寸前となり、社殿も被害に遭ったので、
1.5㎞南の現在地に遷移したというのが、生田神社の歴史。

その布引の滝へ、2月19日、先週の日曜日に登った。
登ると言っても、新幹線・新神戸駅の裏手へと廻り、
砂子橋を渡って15分進むと着いた。その距離0.4㎞。
ただし、山道は急坂、かなりの急階段。
新神戸駅は六甲山をえぐるようにして造られたらしい。

朝9時半、駅前のあちらこちらで、
トレッキング姿のグループが集合している。
出張ついでにちょっと寄ってみた普通の格好の自分は
相当に浮いていると思いきや、登山道には意外にも、
コート姿の旅行客や、カップルや家族連れもいたりする。
布引の滝から上へは登らない、「滝見」する人々だ。

あるいは、前夜放送された
NHK『ブラタモリ神戸編(前編)』効果かしらん。
テーマは「神戸はなぜ1300年も良港なのか」、
その条件のひとつは「神戸の水」にあるという。

耳にしたカップルの会話からもブラタモリ効果が分かる
「布引の水は無機質なので、赤道直下でも腐らないから、
昔から外国船の船乗りが喜んだんだって」と、男子。


追い越しざま、そうそうそこ私も見ました…と
呟いていると、間もなく雌滝(めんだき)に着いた。
新幹線の駅裏でこんな絶景に出会うとは。同時にここは、
神戸市の生活水源。写真右手で古い取水施設も見学できる。
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ちなみに、
「日本三大神滝」とは、布引の滝・那智の滝・華厳の滝
そして、布引の滝は4つの滝から成っている。
上から、雄滝(おんたき)、夫婦滝、鼓滝、雌滝だ。


鼓滝の近くで、驚くばかりに青い清流を見た。
『ブラタモリ』でも「ブルーの水」と紹介されたように、
不純物がほとんどなく透明度が高いことが、一目瞭然。
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雌滝や鼓滝から5分も登ると、雄滝に着いた。
白い岩肌を、止まることなく原始の水が流れ落ちる。
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下が夫婦滝。水量の多いときは二手に分かれるらしい。
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さて、少し前に『稚日女命の謎』で書いたが、
生田神社の祭神は、稚日女命(尊)である。古代に
「伽耶」から渡来した人々の崇めた女神と思われる。


ならば、ここ布引の滝にも稚日女命を祀った痕跡がある
かと周辺を見回すと、滝と同じ崖面に祠が並んでいた。
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祠に近づくと、中には、不動明王が祀られている。
神仏混合の時代、海人族の崇めた瀬織津姫が消し去られよう
としたとき、真言密教では不動明王に置き換え守ったという。
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この滝に、いつから不動明王は祀られているのか。
調べると役行者と布引のたき」という伝説があった。


いっぽう、
その修験道の開祖・役小角(飛鳥〜奈良時代)は
六甲山で弁財天(瀬織津姫)を感得したことから、奈良
洞川に住む近縁者・四鬼氏を六甲山西部の唐櫃に移住
させたと伝えられる。その四鬼氏によって修験霊場として
六甲山、六甲比女神社を含む一帯の聖地は守られた。

『ブラタモリ』では「神戸の水」が良港である理由と
言ったが、古来その水源地で人々は水の女神を秘祭した

三韓遠征の帰途の神功皇后に、稚日女命が影向して、
「私は活田長狭国に居りたい」と宣ったという生田神社
の由緒は、この白く美しい瀑布に発していたか。
布引きの滝は、瀬を織る姫の滝…。

by utoutou | 2017-02-23 09:15 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 88 契丹古伝の女神

『契丹古伝』は、唐王朝(618〜907年)の次に
生まれた契丹(=遼、907〜1125年)に伝わる史書。
契丹語で綴られた一巻を、太祖・耶律阿保機
(やりつあぼき)が、重臣に漢字で編纂させたという。


契丹の位置(10世紀)
『草原の王朝 契丹』(九州国立博物館)図録より拝借。
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『契丹古伝』の原文はわずか2980字、句読点のない
叙情詩といった体裁だが、日露戦争中に鴨緑江で従軍中
 に偶然写本を入手した浜名寛祐氏が、20年をかけ解読。
『日韓正宗遡源』として刊行した。
契丹古伝』はその復刻版。


契丹(きったん)=キタイ=Cathy。
英語で中国の語源ともなった契丹は、ユーラシア大陸
遊牧の民が建てた帝国。その古伝には、中国の正史
にはまったく登場しない神話と歴史が満載である。

しかも、綴られた古伝はまさに大陸的で、初版本
タイトルにある『日韓…』には治らないスケールだ。

浜田氏によれば、契丹人の祖先は東大族(シウカラ)。
日本や朝鮮半島の民やモンゴル系の砂漠の民のみならず、
一族は「大陸全面に展開」しており「殷人と縄文人は同族」
「殷の大半は倭の種族だった」と記されている。
(※殷はBC17世紀にあったと言われる最古の王朝)

『契丹古伝』に記述はないが、この殷で琉球産の
宝貝貨幣として使われたという(記事はこちら)。
交易したのは、古くから貝商人の隼人だったと見られる。

シウカラは「倭人の古代王朝」だった。
神祖(日祖)は、スサノオを思わせるスサナミコト。
日祖が地上に降臨させた日孫は、スサナミコという。
「日孫の一族は各地に発展」「先住民と仲良く暮らした」。

各地に「発展」して居住した神子や姫たちのなか
には、日本神話に登場する神も登場する。例えば…。

☆スサナアキヒがカクタラ(鹿児島)に居住させた
アタカシ媛は、木花咲耶姫である。
☆また、ウサハミ媛をムコハキ(山口県萩市)
   居住させた。祖霊の大廟があるその地は一族の聖地。
    シウカラ発祥の地だったとの大胆推理のくだりもある。  

語り部に聞いてみた。
「シウカラの姫が鹿児島や萩に…。どう思いますか?」
「あると思います。アタカシ姫とは日下部族の姫でしょう。
また、萩市の須佐には、スサノオも来たと思います」


さらには、
『契丹古伝』に琉球に関連する箇所もあると、語り部。
キリコエアケなる神子がそれではないかと、私は睨んだ。
↓『第十五章 神子キリコエ阿解と長白山』のくだり。
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この項、浜名氏による訳文はこうだ(以下要約)。

☆キリコエアケに命じて、フカムを治めさせた。
☆神祖ははじめこの長白山に降りた。白山宮である。
☆キリコエアケ(王)は、頭に角が生えていた。

浜名氏は、キリコエアケのキリと中国の吉林省を
同義として、また白山を朝鮮半島の長白山(白頭山)
として解読しているが、思うに少なくとも、
「頭の角」の特徴は、琉球のアマミキヨと同じである。

語り部は言った。
「キリコエアケとは、聞得大君の始祖なのだと思います。
フカムは久高島のノロ・外間(ほかま)に聞こえます。
または、久高島近くのフマカ島(コマカ島とも)かも
しれませんね。沖縄本島の南部は珊瑚の地層で白い山です」

あのとき、私は聞いた。
「ヤマトの女神で言うと、どの神様ですか?」
「菊理姫だと思います。弁財天とも呼ばれますね」

「聞得大君の本地仏は弁財天なり」
琉球語の古語辞典『混効験集』(1711年)には、
そう記されるが、その発祥は古代のシウカラからだった?
浜名氏が述べたように白山宮が長白山だったとしても、
漢民族との戦いに敗れて朝鮮半島へ押し出された人々
の故地は、シウカラだった可能性は大いにある。


「ミントンは、大昔、ウフアガリと呼ばれた」
アマミキヨの墓がある沖縄本島南部のミントングスク
には、そんな言い伝えがある。
東大族=シウカラ、大東=ウフアガリ。妙に似ている。

戦前まで、ミントングスクの
神壇には、「神の花」(香炉)は9個あったという。
また、斎場御嶽の三庫理で発掘された金の勾玉も9個。
菊理姫(くくりひめ)は、北斗九星を括った星神だった。



菊理姫(白山比咩神社のHPから拝借)。
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by utoutou | 2017-02-17 11:05 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 87 菊理姫(くくりひめ)

『日本書紀』に登場する菊理姫(くくりひめ)の
「くくり」の意味を、「聞き入れ」と解いたのは、
平田篤胤だった。※『日本書紀通釈』

火の神を生んで亡くなった伊奘冉尊を黄泉の国まで
 追いかけた伊弉諾尊が、妻の変貌ぶりに驚いて逃亡、
 怒って逆に夫を追いかけた伊奘冉尊と対峙する黄泉平坂
の場面に登場する菊理姫。二神を「仲裁」したことから
女神の言葉を男神に聞き入れた」ことにちなむ神名だと。

だから、菊理姫=聞き入れる神=聞得大君なのか?
と、ひとり推理したのは、3年前のことだった。

加賀一ノ宮 白山比咩神社(石川県白山市三宮町)の
祭神・菊理媛大神(白山比咩大神)は、「括りの神」
「縁結びの神」と由緒にあるが、当時、語り部は言った。

「菊理姫は、聞得大君の元になった女神だと思います」

琉球王朝の最高神官としての聞得大君というより、
ここで言うのは、『琉球国由来記』や『中山世鑑』の琉球
神話に登場する琉球の始祖・アマミキヨとシネリキヨ二神
の長女「聞得大君」を指す。とはいえ「菊理姫」と聞いた
ときは、「まさか琉球と加賀の神が同じ?」と、首を傾げた。

しかし、六甲山や宗像へ参ったいまなら大いに理解できる。




六甲山頂にある「石の宝殿・白山の宮」
に参ったのは、昨年11月の岩倉巡りでのことだった。
拝殿で、「白山開山 1300年」のポスターを見た。
泰澄による開山(717年)から数えてのことらしい。
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六甲山神社は廣田神社の場外末社で、神功皇后が
三韓遠征で持ち帰った神石を納めたとの伝説が残る。



本殿は拝殿奥の石祠だが ↓この磐座が御神体という。
白山修験の山伏たちが霊山と崇めたことを物語る。
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↑石の宝殿は、越木岩神社の氏子らが建立したという。
↓芦屋神社(西宮市芦屋)にも菊理姫が祀られている。
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菊理姫(白山姫)を祀る六甲山頂の近くに、古代の
六甲人が天御中主神を祀ったという三国岩がある。
時代を超えて天御中主神と菊理姫を一対神として祀ったのか。
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調べると、宗像にも白山神社がある。宗像大社から
5㎞東に坐す、若宮八幡宮(宗像市河東)の摂社だ。

『筑前国続風土記』に、白山神社(権現)は、
〜この神が坐す故に(山を)白山と号す〜 とあり、
かつては大きな神社だったことを伺わせる。

また同じく摂社に妙見社もあると、『宗像群誌』に。
「祭神は不詳」だが、一般に妙見とは天御中主神のこと。
ここにも、天御中主神と菊理姫が並んで坐している。

天御中主神を祀る摩利支天神社(宗像市東郷)
の由緒には、こうある。〜往昔、
宗像大宮司代々崇敬の社ゆえに当群中央の地に鎮座 〜

現代の地図でも、市役所に至近。宗像市のド真ん中だ。

そう言えば、かつて語り部はこう言った。
「菊とは九九(くく)のことでもあり、北斗九星の要」
北極星+北斗七星+菊理姫で北斗九星となる、と。

北斗九星は、大嘗祭の悠紀殿に祀られた最強の星図。

そこで思い出すのは、
琉球王朝時代、聞得大君御殿に掛かっていた
という「天御中主神と七人の日巫女」の掛け軸だ。
(焼失したが、同じ構図の掛け軸が首里の某拝所にある)

鎌倉芳太郎氏の記録では「弁財天の掛け軸」だったが、
あれこそは、「北斗九星の図」だったのかもしれない。

つまり、菊理姫とは、
琉球で、御星親加那志(みふしうやがなしー)
と呼ばれた弁財天(瀬織津姫)だった。
亦名は御天母親加那志(うてぃんははうやがなしー)。
御天父親加那志こと天御中主神との一対神である。

宗像と琉球には、共通の「北斗九星」信仰があった?
白山信仰が、大陸から伽耶経由で伝わったものならば、
可能性は大いにあり得るのではないか…。

それを解く鍵は、『契丹古伝』に見ることができる。








by utoutou | 2017-02-13 18:37 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 86 宗像の瀬織津姫大神

織津姫神を祀る波折(なみおり)神社は2社ある。
うち有名なのが、福津市津屋崎にある波折神社。
宗像郡誌 上編』に、長文の由緒が記されているが、
なんと、神功皇后の三韓遠征ゆかりの古社という。

(以下、由緒要約)
☆神功皇后が三韓遠征から凱旋したとき、
瀬織津姫神・住吉大神・志賀大神がこの地の鼓島に
現れたので、海辺の河原に神籬を造ってお祀りした。
☆昔、この浦の3人の漁師が沖合で大風・荒波・雷に
 遭うも、三神が現れて波が凪いだので鼓島に漂着した。
 そこで3日間、風待ちすると三神が現れ飲食を授かった。
☆港に生還してから船に残された3個の石を見つけた
ので、波折大神の御神体として祀った。

祭神は、瀬織津姫神・住吉大神・志賀大神。
神社側の由緒では、瀬織津姫も「大神」となっている。

瀬織津姫は「縄文の女神」と呼ばれるいっぽう、
中臣神道では「禊ぎ祓いの神」に格下げされるといった
後世の悲劇がクローズアップして語られがちだが、
記紀成立からはるか昔、神功皇后の時代の4世紀には、
この地の「大神」として、崇められていたのだと分かる。



宗像神社の10㎞南西、津屋崎にある波折神社。
福津市観光情報「ふくつのじかん」サイトより拝借。
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さて、もう一社の波折神社は、
田野郷(宗像市田野)に坐す依嶽神社の摂社。
宗像郡誌 上編』によれば、宗像大社の75末社の
ひとつとして祀られているのは、こちら。
祭神はやはり、瀬織津姫・住吉神・志賀神の三神だ。

田野や、さらに隣接する上八(こうじょう)の地域は、
縄文後期の鐘崎貝塚にも近く、宗像氏の故地だった。
依嶽神社は古名・与里嶽宮(よりたけのみや)。
室町時代にこの神社を造営した宗像氏の棟札が、
昨年、社内から発見されたとニュースになっていた。

現在、宗像大社の東を流れる釣川は、往古には蛇行
して田野・上八地域に流れていたという。そして、
金山と銅山があった。縄文集落の適地だったようだ。


↓波折神社は田野(赤☆)と津屋崎(青☆)にある。
現在、宗像大社のある場所は田島(橙☆)。





では、古来、宗像大社(辺津宮)はどこにあったか?
『筑前国続風土記』によれば、海濱宮(へつのみや)は
 神湊にあったというから、↓フェリー港あたりとなる。
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宗像宮司家が秘祭していたと思われる瀬織津姫
について少しずつ分かってくると、宗像大社に坐す祖霊社
に参拝しなかったことが、いま、しきりと悔やまれる。


拝殿本殿から神宝館の前を通り、バス停を目がけて
急いでいるとき、祖霊社を目の端にしつつスルーした。
思えば、祖霊社は境内の丑寅の方角(東北)にあった。
祭神は宗像三女神となっているが、その実、
鬼門を守るべく瀬織津姫をお祀りしていたのではないか。


↓ 心字池に見とれていた私の背後に祖霊社はあった。
「見逃した神様は大きい」とよく思うが、またもや…笑。
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などなど、波折神社や瀬織津姫について語り部に
話していると、突拍子もないことを聞かれた。

「で、瀬織津姫とは、どの神様のことですか?」
うむむ…と思いながら答える。
「撞賢木厳之御魂天疎向津姫…ではないんですよね」
「琉球に降臨された神様です」
「ああ、あの女神。いよいよですか」
「はい、菊理姫(くくりひめ)のことだと思います」
またの名はキリコエアケ。倭の国の女神である…。






















by utoutou | 2017-02-10 11:07 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 85 宗像「一女神」

宗像大社の参道は沖ノ島へと繋がっている。
そう気づいたのは、境内最奥(南西)に位置する
古代祭祀場・高宮祭場からの帰り道のことだった。


鬱蒼たる森のなか、風が通り光溢れる一角があった。
祈る人が木陰にいて、遥拝所だと分かった。それは、
中津宮(大島)と沖津宮(沖ノ島)の方向へと開いていた。
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位置関係を宗像大社HPの「境内MAP」で見る。
MAPの下が北西方向。本殿・第二宮・第三宮も、
北西(沖ノ島)方向を向いている。遥拝所らしき
ポイントは、MAP右上の高宮祭場の下にあった。
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境内MAPを逆さにして見ると、よりリアルに分かる。
上が北西(冲ノ島)方向。遥拝所はMAP左下の小道沿いに。
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↓ 俯瞰MAP(境内の案内板から拝借)で見ると、
宗像大社(辺津宮)→大島(中津宮)→沖ノ島
(沖津宮)と玄界灘を貫く遥拝ラインが確認できる。
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さて、本土側の神湊からフェリーで大島港へ渡り、
南の海岸沿いを5分歩くと、宗像三女神の次女こと
  湍津姫神(たぎつひめのかみ)を祀る中津宮に着く。 
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14時20分。
中津宮の鳥居に立つと、春光が左から注いでいた。
私はこのときすでに、大島の北西に位置する
岩瀬海岸にある沖津宮遥拝所を向いていたはずだ。
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沖津宮遥拝所。
拝殿から50㎞先の沖ノ島(沖津宮)を遥拝できる。
女人禁制の至聖地を拝する、女性のための遥拝所。
こちらで私たちは、沖津宮の祭神・田心姫神
(たごりひめのかみ)に拝礼していることになる。
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肉眼で沖ノ島は見えなかったが、
この玄界灘の絶壁に立ち、私は思った。
宗像三女神は『日本書記』で生まれた、いわゆる
アマテラスとスサノオによる「誓約の神」というが、
宗像三女神とは、実は「一女神」なのではないか?

そして、さらに思った。だとすれば、
本当の比売大神は、宗像大社に隠れている。
でなければ、沖ノ島(沖津宮)に背を向けて、
 本殿を拝するような祭祀空間は作らないだろう。

そもそも、
記紀に見る三女神の位置づけは一定してしない。
長女はタゴリ姫、次女はタギツ姫、末女はイチキシマ姫
というのが宗像側の神名だが、
『古事記』では、次女と末女が逆になっていたり、
『日本書紀』でも、長女をイチキシマ姫、
次女をタゴリ姫とする一書もあるなど、諸説紛々。

では、
比売大神が「一女神」ならば、どんな女神なのか?
頭を悩ますこと一夜、宗像大社・本殿の奥に
おびただしい数の末社群があったのを思い出した。
調べると、その中央に鎮座する末社は、浪折神社。

公式サイトはなく、「古墳巡りウォーキング」様
 のサイトで「縁記」の画像を見ると、こうあった。

〜 祭神は、瀬織津姫大神、住吉大神、志賀大神 〜

比売大神とは、瀬織津姫大神のことだったのか。
内宮の奥の荒祭宮に瀬織津姫を祀る伊勢神宮を思う。
宗像大社は、伊勢と同じ祭祀構造で作られている?













by utoutou | 2017-02-07 11:42 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)