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六甲山と瀬織津姫 84 比売大神(ひめおおかみ)

宗像大社(福岡県宗像市田島)。

祭神は、宗像三女神(宗像大神)こと
田心姫神(たごりひめのかみ、沖津宮)
津姫神(たぎつひめのかみ、中津宮)
市杵島姫神(いちきしまひめのかみ、辺津宮)。
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神社に着いたのは正午。旧暦正月の元旦とあって、
露天の並ぶ参道は晴れやかな顔の初詣客でびっしり。
と思ったが、参道に立つ紅白の幟は「節分」一色。
旧正月というより新暦の節分を祝うお日柄らしかった。
というわけで、人波を避けてカメラ・アングルは空へ。
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さて、
和布刈神社のある門司港駅から、こちら最寄りの
東郷駅まで、JR鹿児島線の中で頭を占めていたのは、
他でもない、比売大神(ひめおおかみ)のこと。

和布刈神社の栞には、次のようにあった。
〜御祭神第一座【比賣大神(ヒメオオカミ)】
別称 宗像三女神
御利益…海上安全・交通安全 
日本の代表的な海の神であり、福岡県の宗像大社や
広島県の厳島神社の祭神としてよく知られている。
「日本書紀」には、天孫降臨の際にその道中の安全
 を守護するようにと天照大神から命じられたとあり、
そこから海上安全、交通安全の神として
信仰されるようになった。〜



和布刈神社には宗像三女神が祀られている。
当然、宗像大社にも宗像三女神が祀られている。
 ↓こちら第二宮(田心姫神)と第三宮(津姫神)。
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いっぽう、比売大神は宇佐神宮にも祀られている。
二之御殿の祭神は、比売大神
(多岐都姫命・市杵島姫神・多紀理姫命)である。 

宇佐神宮の御由緒は次のように記す(以下要約)。
☆神代、宇佐島に比売大神が降臨された。
☆725年に八幡神(応神天皇)を祀り創建された。
☆比売大神は、八幡神が現れる以前の地主神として
創建の6年後に二之殿に祀られ、崇敬されてきた。

宇佐神宮HPの境内案内を見ていて驚いたのは、
上宮に北辰神社が鎮座していることだった。
参拝したときには気がつかなかった(以下引用)。

〜【北辰神社】比売大神の脇殿といわれ、本宮
の地主神と伝えられる造化三神を祀っています。
上宮中門の中に鎮座しています。〜

地主神は、北辰・造化三神=天御中主神という。
やはり地主神という比売大神は、東南に坐す奥宮
・御許山の9合目にも祀られるが、ということは…
比売大神は天御中主神に寄り添う星神と、考えられる。

語り部に聞いた口伝が、すぐに思い出された。
「沖縄の御天父親加那志(うてぃんちちおやがなしー)
は、ヤマトでいう天御中主神(太一)のことです。
御天母親加那志(うてぃんははうやがなしー)は、
御星親加那志(みふしうやがなしー)ともいって、
星々(北斗七星)を生むお母さん。ヤマトで
後に弁財天とか瀬織津姫と呼ばれる女神のことです」

比売大神とは、沖縄で崇められてきた
御天母親加那志=御星親加那志ではないのか。

思えば、宗像三女神については、石垣島へ行った
際の記事『宗像三女神の龍脈』に書いていた。
宇佐神宮の御許山と、石垣島の於茂登岳は、
宗像三女神の降臨伝承でつながっていると。
その推理が、時空を経て確信に近づいている予感…。



と思いつつ歩いていたら、山上の高宮斎場に着いた。
こちらにも、旧正月と節分を寿ぐ参詣客の列が。
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古代祭祀場だった高宮斎場の神籬(ひもろぎ)。
まさに沖縄の御嶽と同じ構造でイビに聖樹が立つ。
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高宮斎場の説明板。左には、
沖ノ島の古代祭祀について記されている(以下要約)
☆三宮のなかでも沖ノ島は、今も女人禁制。
☆常駐する当大社の神職は毎朝海に入って禊をする。
☆4世紀から600年間、国家規模の祭祀があった。
☆8万点に及ぶ神宝が出土している(すべて国宝)。
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大島の沖津島遥拝所まで行ってみようかと、思う。
こういう気分を「呼ばれた」というのだろうか。
大社から大島フェリーの出る神湊(こうのみなと)まで
バスで25分、フェリーに乗って25分。というわけで、
私は大島に渡ることにした。↓神湊フェリー乗り場。
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by utoutou | 2017-02-03 19:38 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 83 安曇磯良

和布刈神事は100人ほどの見学者で賑わっていた。
アマチュアカメラマンは十数人、ブロの人たちも
ビデオカメラマン含めて十数人はいたと思う。
20分前に着いた私は、海沿いの玉垣に脚立を並べる
アマ・カメラマン軍団のすぐ後ろに陣取ることにした。


松明が燃え尽きるまでの時間が勝負なのだろう。
非常に段取りよく、ご神事は進行した。
神職さんらが海に出たのが2時34分で、35分開始。
※私はスマホ使用なので撮影時刻が記録されている

3分後、松明の火はいったん消えかけたが、
6分後には新しい松明が投入され、素早く交換されて、
神社側のアナウンスを機にメディア用の撮影が始まった。

つまり、ご神事6分、取材6分といった割り振りだ。
アマチュアカメラマンは口々に「なんだよ」とボヤいた
が、私は思った。和布刈神事はやはりこの形なのだなと。

いや、マスコミによる「囲み撮影」の話ではない。

↓神職は松明を横向きに持ち直して、海底を照らした。
前回のブログに投稿した写真(前半の神事)では、松明が
重いためなのか、神職はそれを縦に抱えていたが、
今度は「由緒正しい」構図で、取材に対応している。
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↓ 昼間、私が境内で見ていた和布刈神事のイラスト。
ワカメ採りを照らす松明は、ほぼ横向きになっている。
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松明はなぜ、横向きになっているべきなのか?

和布刈神事のある日は、闇夜と決まっているからだ。
旧暦の正月は新月なので月は見えない。
だからこそ、新生・再生のエネルギーに満ちている新月
に、古来、人々は豊漁や航海安全を祈ったのだったし、
だからこそ「和布刈」には松明の炎が必要だったと思う。

そして、闇夜には、冬のオリオン座がよく見える。

オリオン座は、琉球では、
「黄金三つ星(くがにみつぶし)」と呼ばれた。
以前『聞得大君の守護神』として書いたが、
オリオン座の黄金三つ星は、キンマモン(明星)
と同神ともされ、また海神として崇められた。

ところで、海神・龍神は和布刈神事のカナメである。
そして、海神・龍神が生む宝珠もまたカナメである。

和布刈神事の由来には、いくつかの説があるようだ。

☆「三韓征伐」から凱旋した神功皇后は勝利を祝い、
自ら神主として早鞆の瀬戸の和布を刈り神饌とした。
☆従神・安曇磯良が神功皇后に潮満珠・潮干珠
を献上した故事による。
☆神功皇后が、安曇磯良を海中に遣わして、潮満珠
・潮干珠の法を授かり、新羅に勝利した遺風による。


潮満珠・潮干珠の「珠そのもの」にしても、
「その法」にしても、いずれにしても和布刈神事とは、
安曇磯良が海神から「珠」を授かった古事が起源だった。

以上は、東京から福岡への道中で調べ学習したことだ
が、ちょうど福岡空港に降り立った到着ロビーで、
私の携帯電話が鳴った。語り部からだった。
(内容は、以下要約)

☆安曇磯良が神功皇后に渡した宝珠は、3つある。
☆海神の宮とは琉球(龍宮)のことである。
☆潮満珠・潮干珠、そして伝説から失われた
もうひとつの珠は、六甲山か丹後に眠っている。

私は、すかさず聞いた。
「それが、六甲山に隠された宝珠なんですね」
「だと思います」

いよいよ「六甲山と瀬織津姫」シリーズも終盤
にと突入かと内心で小躍りしたが、いっぽうで、
語り部が常々語る「安曇磯良はミントンの人」で、
  「琉球の稲作の祖・天祖のアマミツは安曇磯良のこと」
という感得を、私はどうやって解き明かせば良いのか…。
旅はつづく。



和布刈神社の本殿。
安曇磯良は、第5座に祀られている。
第1座には比売大神、第2座に日子穂々出見命、
第3座に鵜草葺不合命、第4座に豊玉比売命。
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以下は余談だが…。
ワカメを奉納する神事を見届けてから
タクシーを呼ぼうと境内で待機していた午前3時。
暇なので氏子さんに ↓記念撮影をしてもらっていたら、
テレビの取材クルーにマイクを向けられた。


「ご神事は神秘的でしたか?」と聞かれたので、
「取材のライティングが明るくて、そう思えなかった」
 と答えたら、記者兼カメラマンが一瞬絶句した。
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by utoutou | 2017-01-31 21:42 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 82 和布刈神事(めかりしんじ)

旧暦正月(1/28)の午前2時半に始まる
和布刈神社(北九州市門司区)の和布刈神事を見た。


今年も例年通り、元旦の干潮時に行われた。
例年と言っても、1300年も続く新年の予祝行事という。
神職3人が海に入り、ワカメを刈り採って神前に供えた。
和布は万物に先んじて芽を出し自然に繁盛するので
幸福を招くと、境内に書いてあった。元旦ならなおさらだ。
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和布刈神社は、もともと早鞆の瀬戸(関門海峡)の岬
の磐座だったらしいが、いまは関門橋が頭上を横切る。

東京を旧暦大晦日の始発便で出発し午後2時に着いた。
和布刈神事の半日前。ちょうど満潮で波は荒々しかった。
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和布刈神社までの道中、そこに参る動機らしき
 ものを、以下のようにつらつら書いた(前回の続き)。

☆☆☆

持統6(692)年、伊勢・志摩に行幸した持統は、
伊雑宮の坐す磯部で「倭姫旧跡の封印」とでもいうような
「開かずの門」を建てて行った。その伝聞は『倭姫の真実
に書いたが、あの3年前、私は思った。持統は「丹後の姫」
のシャーマン気質が、よほど疎ましかったのだなと。

しかし、いま、持統の伊勢行幸に関する「謎」を改めて
思うとき、その奥底に見え隠れする策略にも似た思惑
に行き当たる。持統は「丹後」を抹殺したかった?

持統行幸の「謎」とは、ざっと次のような点だ。

☆伊勢行幸なのに、伊勢神宮へは参らなかった。
☆伊勢行幸なのに、近江・美濃・尾張・三河など
から呼んだ随行団に、帰朝後、大胆な調役免除をした。
☆高官(三輪氏)に反対されたのに、行幸を強行した。
☆行幸なのに、天照大神御杖代の旧跡を封印した。
☆行幸なのに、宮廷歌人の柿本人麻呂は随行させなかった。
☆伊勢行幸なのに、三河へも足を伸ばしたらしい。

こうして「謎」を並べると、恩赦や調役免除は、
行幸を目撃した者への口封じだったのかもしれない
と思えてくるが、やはり三河でも何かを封印したのか?

三河は養蚕に関係のある安曇族や、秦氏や、物部氏の
居住地であり…‥つまり、「伽耶」からの渡来民の、
さらには「新羅」からの渡来民の一大勢力拠点だった。

いっぽう、持統の実父である天智天皇は親「百済」派だ。
天皇となった父娘に重用された藤原鎌足と不比等父子
もまた、百済からの渡来人だったと考えられている。

天智と天武は兄弟ではなかったともよく言われるが、
兄弟に仕立てたのは、持統と不比等だったのだろう。
『日本書紀』に記される天武と持統の夫婦愛もしかり…。
持統の天皇即位には、壬申の乱に勝った天武亡き後、
天智系(百済系)の復活という目論見があったと思う。

そこで思い出すのは、持統が詠んだあの歌。

春過ぎて 夏来たるらし白妙の 衣干したり 天の香具山
(万葉集巻1、小倉百人一首)

天香具山は、ご存じ大和三山のひとつ。
持統が藤原不比等とともに建てた藤原京からは
東南の位置に見えたはずだったが、その
藤原京に都を遷したのは、伊勢行幸の2年後、
持統8(694)年のことだった。よって
この和歌は、それ以降の作と考えるのが自然だ。

その3年後、持統は孫の軽王(文武天皇)に譲位して
上皇となった。天香具山に干された白妙は、孫の即位式
となる践祚大嘗祭の神衣だったのではないだろうか。
持統は神衣を纏う天照大神に自身を重ねた。
 夏、天香具山に翻った白妙は、冬、我が衣になるのだ。

何日か前、語り部が言った。

「私が若い頃、神女おばあが、こう言ったのです。
御天母親加那志(うてぃんははうやがなしー)は、
御星親加那志(みふしうやがなしー)ともいって、
星々(北斗七星)を産むお母さんなんだよと。
後に瀬織津姫とか、弁財天と呼ばれる女神です。
御天父親加那志(うてぃんちちおやがなしー)は、
ヤマトで天御中主神と呼ばれる太一のことです」

太陽と月と星々。ヤマトでは、太陽信仰のもと
掻き消された月星への信仰は、琉球では生きていた。


ところで、
『人麻呂の暗号』(1989年)で著者の藤村由香氏は、
持統時代の柿本人麻呂の万葉集歌に新解釈を加えた。

くしろ着く 手節の崎に今日もかも 大宮人の玉藻刈るらむ
↓ ↓ 
かんざしを着けた女たちを今日もまた
大宮人たちは刈る。まるで玉藻を刈るように。

持統のお供らは、女たちを玉藻を刈るように刈った
事実を人麻呂は告発したのだと、藤村氏は読んだ。

持統が「女たちを刈った」理由はここではさておき、
玉藻を刈るとは、和布刈(ワカメ採り)のことである。
玉藻は月の引力がつくる干潮のときに刈るものだ。
新月で月は見えない代わりに、星々は大きく輝く。

天照大神に自身をなぞらえても、月星と共に生きる
女たちを抹殺しても、月星そのものは消えないのにと、
人麻呂は言いたかったのではないか。
そして、流罪となってしまったのかもしれない。

☆☆☆

午前3時、本殿ではワカメを奉納する神事が始まった。
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by utoutou | 2017-01-29 08:51 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 81 玉柱屋姫命

大嘗祭の神御衣を織るための「赤引きの糸」を
産するのは、三河国宝飯郡の赤日子神社
(現在の愛知県蒲郡市)だと『延喜式 巻九』にある。
とはいえ、三河地方には古来「赤引きの糸」の産地
は他にもあり、それを伊勢神宮まで運搬する
「お糸船」という神事も、現代にまで続いている。

つまり、「赤引きの糸」とは「明らひく糸」。
神へ供進するための「清白な糸」という意味で、
赤日子神社で独占生産されたものではなかったようだ。

「赤引きの糸」は、『日本書紀』にも登場する。
持統6(692)年5月の13日のくだり。
※『日本書紀』講談社学術文庫版より引用

〜伊勢神宮の神官が天皇に奏上し、
「伊勢国の今年の調役を免じられましたが、二つの
神郡(渡会郡と多気郡)から納めるべき、赤引き糸
三十五斤は、来年に減らすことにしたいと思います」
と言った(今年は入用の免じ難いとの意か)〜

原書では「伊勢大神が言った」とあり、神託を
神官が奏上したということらしいが、どうもこの
 現代語訳が腑に落ちない感じがしてならない。
私なら、こう意訳したいところ。「神官が言った。
赤引きの糸を急に奉納中止にされては困ります…」

しかし、これは、はたして天皇に奏上する物言いか?
まるで、命を賭けた神官一世一代の直訴ではないか。

実はこの「事件」には伏線があった。その2ヶ月前、
持統天皇が強行したらしい伊勢行幸だ(以下引用)。
〜(天皇は)お通りになる神郡(度会、多気の両郡)
と伊賀・伊勢・志摩の国造に冠位を賜わり、当年の
調役を免じ、また供奉の荷丁・行宮造営のための
役夫のその年の調役を免じ、〜

ここを改めて読んで、私は思った。持統がした
「神郡への調役免除」とは、伊勢神宮への嫌がらせか。
だとしても、妙な気はする。持統が伊勢神宮の祭祀
(その当時に確立していたかは謎だが…)を妨害した
  のなら、そこにはいったいどのような理由があるのか。

まるで出口の見えない迷路をさまよう感じで数日間
を過ごした挙句、ひとりの姫に辿り着いた。


玉柱屋姫(たまはしらやひめ)命。


↓伊雑宮、そして伊射波神社の祭神の一柱であり、
やはり祭神の伊佐波登美命の妃でもあったといい、
天日分神(あめのひわけのかみ)の子だという。
そして天日分神とは、当時の伊勢神宮の神官であり、
度会・多気という神郡の郡領だった度会氏の祖。
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そして、『伊勢風土記』には、こう記されている。
〜天日分神は、天御中主神命の12世の末裔〜

そこに、持統が度会氏を忌み嫌った理由があったか。
やがて、その神官の座は荒木田氏へと交代する。
荒木田氏は中臣氏同族であり、中臣鎌足は大化の改新
で活躍した後、没した669年に藤原姓を賜った。

 その藤原鎌足の子が、持統から絶対の信頼を得た
 藤原不比等部あり、その名が歴史に初登場するのは、
あの、神官が「赤引きの糸・舌下事件」を起こした
と、私が推理する年の3前前…689年のことだった。

「赤引きの糸」こそは、度会氏や安曇氏、さらには
 琉球の始祖とされるアマミキヨ族など、古代海人族に
 とっての天祖・天御中主命に供える幣帛だったと思う。




伊雑宮の樹々が繁る神域。
玉柱屋姫は伊勢を紐解くのに重要だと、語り部は
 言っていたが、思えばこの女神も瀬織津姫である。
詳しくは、次回に…。
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那覇市首里にある ↓「子ぬ方(にぬふぁ)の御嶽」
へは、昨年11月に初めて行った。祀られるのは、
ニヌファ星=北極星=北辰=天御中主神命。
伊勢一帯で崇められる「太一」と同神である。
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by utoutou | 2017-01-24 22:45 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(3)

六甲山と瀬織津姫 80 元伊勢の元伊勢

語り部の言う4種類の幣帛は大嘗祭の祝詞にあった。
新しい天皇が先代より霊力を継承する即位式に
奉じる幣物(供物)を忌部氏に備えさせる内容で、
次の4種類の幣帛(布)についての言及がある。

〜明妙(あかるたえ)・照妙(てるたえ)、
荒妙(あらたえ)・和妙(にぎたえ)〜

意味は順番に、美しい幣帛、輝くような幣帛、
布目の荒い幣帛、柔らかい幣帛。それはおそらく、
古神道にいう「一霊四魂(いちれいしこん)」
である、幸魂・奇魂・荒魂・和魂に対応して
奉じるられるのではと、語り部と話し合った。

さて、知りたいのは幣帛の産地である。
語り部は伊射波神社のある鳥羽の加布良古岬に
「蚊帳のように薄い白妙」と「天皇らしき男性」
を視たと、言ったので、その白妙は
もしかすると大嘗祭で影向されるはずの神の衣を
織るための幣帛なのだろうと、私は思ったが、
白妙の産地は、はたして伊射波神社の坐す鳥羽か?


『延喜式神名帳・践祚大嘗祭巻(927年)』に、
幣物の産地や数量が詳細に指定されており、
それによれば、例えば、式のための食材と幣帛は、
阿波国、淡路国、紀伊国から提供されるとあった。


細かく見ると、紀伊国の「海部郡」、つまり現在、
↓ 日前・国懸神宮の坐す旧・名草(なぐさ)である。
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いっぽう、
神御衣織る糸の産地として『延喜式』に掲載
されているのは、三河国宝飯郡という地である。
研究書『践祚大嘗祭』(田中初夫著)によれば、
その地は、現在、赤日子神社のある愛知県蒲郡市で、  
 そこから供進される糸は古来「赤引きの糸」と呼ばれる。  


なるほど、蒲郡市HPを見ると、三河地方では
養蚕の歴史が古く、赤日子神社は養蚕の祖神を祀る
代表的な神社だという。※写真も同サイトより拝借。
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そうだったのか…と、
何かこうカチカチとバズルがハマる気配がする。

まず、赤日子神社の主祭神は、彦火火出見命と、
豊玉彦・豊玉姫で、安曇族の崇める綿津見神である。
古来、渥美半島には安曇族がいたことを裏付ける。

いっぽう、養蚕を日本にもたらしたのは紀元前
に揚子江の河口にあった越に破れた呉の太伯
の家臣だった安曇族という説がある。

ちなみに話は少し脱線するが、アマミキヨの
渡来したヤハラヅカサがある土地は百名といい、
古代琉球はここから広がったと伝わるが、私は
↓百名海岸に着いた琉球の始祖・アマミキヨは、
「百越」から来た安曇族の長だろうと考えている。
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そもそもアマミキヨの語源は安曇・海部・奄美。
語り部は、アマミキヨ直系・ミントン家から出た
「琉球の稲作の祖・天祖(あます)のアマミツ」
とは「安曇磯良のことだ」と、常々言っている。
「アマミツは、海(天)津見神のことだ」とも…。

また、伊射波神社と並び称される志摩一宮・伊雑宮
の祭り「磯部の御神田」では、「太一」の大扇をーが
用いられるが、それは「太伯」にちなむものと思う。
「太一」は、安曇ら海人族が崇めた天御中主神である。

思えば、大嘗祭の幣帛を提供した紀伊国の海部郡
(名草)にも、安曇族が盤踞していたに違いない。
以前も書いたことがあるが、神功皇后の新羅遠征
に参加した人物に、「志賀の海人・名草」がいた。

筑紫の志賀島は安曇族の本拠地だったが、
伊勢・志摩・三河・紀の国にも分布していたのだ。

伊勢に天照大神を鎮座させた垂仁天皇の皇女
・倭姫は海部の女。『古事記』によれば、その母
・日婆須比売は、丹波道主命と川上麻須郎女の娘だが、
母方の祖父で丹後久美浜にいた豪族・川上麻須郎は、
日下部・安曇・和邇と同族だったと思う。
言い換えれば、加耶から来た渡来人だった。

丹後は元伊勢と呼ばれるが、
その元伊勢の元伊勢は、伊勢だったのではないか。

語り部はどうやら、伊勢に先住した安曇族は、
呉から来て沖縄を経由したアマミキヨと見ている。


by utoutou | 2017-01-20 22:15 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 79 稚日女命の復活

稚日女命を主祭神とする伊射波(いざわ)神社
(鳥羽市安楽島町)。加布良古岬に鎮座しており、
古来、加布良古大明神として親しまれたという。

安楽島(あらしま)の地名は、加耶からの渡来人
が住んだ土地ということなのだろうかと、古名
を調べると、これまた朝鮮半島に、そして
 六甲に、大きな関わりがあることに気がついた。

旧名は、他でもない稚日女命の亦名に示されていた。
…神功皇后が三韓征伐に行った帰路、
難波へ向かおうとしたが、船が真っ直ぐに進まない
ので武庫の港(神戸港)へ廻って審神をすると、
稚日女命が現れて名乗った…その神名こそが、
「尾田の吾田節の淡郡に居る神」であった。
※『日本書紀』(岩波版)神功皇后摂政前紀。

尾田(現在の加布良古の古名)の
吾田節(現在の答志郡の古名)の
淡郡(粟島、現在の安楽郡の古名)に居た稚日女命
が、「私は活田長狭国にいたい」と宣ったのだった。
それが、神戸三宮に鎮座する生田神社の由緒だ。



天皇家の十六菊を神紋とする生田神社。
皇祖神・天照大御神の妹神という稚日女命を祀る。
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思えば、稚日女命の亦名であるらしい
加布良古大明神の「布」を含んだ神名も、
『日本書紀』に記された神話に、いかにも相応しい。

服織り女(はたおりめ)であった稚日女命は、
高天原の斎服殿(いみはたどの)で神衣を織って
いたときに、スサノオに、逆剥ぎにした馬の皮を
投げ込まれたため驚いて機から落ち、手にしていた
機織りの梭(ひ)で身体を傷つけて死んだのだから。
(『古事記』では、梭でホトを突いて死んだとある)

この神話の上にこそ、丹後の倭姫が天照大御神を
背負い巡行して伊勢に到着したときの神話…
伊勢の五十鈴の川上に着くと、大宮の辺りに
八尋の機屋を建て、天棚機姫の孫の八千々姫命
に、高天原でしていたように大御神の神御衣を
織らせた…(※『倭姫命世記』)という
稚日女命の復活を思わせる第二の神話が成り立つ。

この書では、記紀に稚日女命とある服織り姫は
天棚機姫(あめのたなばたひめ)となっている
が、その背景にも、書を撰した度会氏
(伊勢外宮・豊受大神宮の神職家)の譲れない
 伝承があってのことかと、大いに興味を引かれる。

天棚機姫は幡千千姫(※日本書紀。古事記では 
萬幡豊秋津師比売命)と同神とされるが、
その伝でいけば、稚日女命は幡千千姫であり、
皇高産霊命の娘ということになる。

それは、ともあれ…
機織りの伝承は現代まで続き、機殿神社二社が
伊勢神宮内宮所管社として松阪市に鎮座している。
神宮の神御衣祭を控えた5月と10月には神職
が出向いて、八尋殿で機織りを奉職するという。



神宮の神服織機殿神社と神麻続機殿神社
の二社は「両機殿」と呼ばれる。
↓写真は「伊勢神宮123社めぐり」より拝借。
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  稚日女命は機織り姫。そして、
 生田神社では神功皇后を海難から救った海の神。
   縁結びの神徳もあるという高貴な女神。 
  その女神がなぜ「伽耶」「蚊帳」に結びつくのか?

語り部は言った。
「白妙(しろたえ)…が見えます。
蚊帳のように薄くて綺麗な白い布のようです」
私は言った。
「それは機殿神社で織る天照大神の神御衣では?」
しかし、語り部はこうも言った。
「纏うのは男の方のようです。大嘗祭の関係では」
「大嘗祭に献上する幣帛ということですか?」
「はい。白妙は何でできていますか?」
「荒妙(あらたえ)は麻、和妙(にぎたえ)は絹です」

私は織物の種類について言ったが、語り部の視る
 織物は、どうもそれとは材質が違うものらしい。
「他にも白い布の反物があったのですか?」
「幣帛は4種類あったのではないかと思います」

調べると確かに、大嘗祭の祝詞に4種類の幣帛
の名がが載っているのだった。つづく…。



加布良古岬に鎮座する伊射波神社「一の鳥居」。
船の上から海人たちが礼拝した古俗の名残りか。
※写真はじゃらん様のサイトから拝借。
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by utoutou | 2017-01-16 10:47 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 78 稚日女命の謎

朝鮮半島にあった加耶諸国からの渡来人は、
おびただしい数だったと言われる。

文化人類学者の小山修三氏の研究によれば、
日本全土における縄文晩期の人口は75,800だった
のが、弥生時代になると594,900に、さらに
奈良時代になると5,399,800に増加している。

地方ごとで言えば、九州地方の縄文人は6300で、
弥生時代になると、1,05,100増加している。
10万近くが一気に増えたのは、渡来人の
 移住によるもので、各地に故地の名がつけられた。

例えば、琵琶湖東岸の安羅神社が鎮座する草津市
穴村は、加耶諸国にあった安羅(あら)国からの
渡来人が住んだ土地で、地名は安羅が穴に転訛した。
神社には新羅の王子だったという天日槍が祀られる。

加耶・伽耶・萱・蚊帳などと同じように、
安羅・阿耶・阿良も伽耶諸国に由来するわけだが、
安羅を思わせる地名ならば、沖縄にも何ヶ所かある。

石垣島には安良(やすら)という集落があった。
(明和の大津波で被害に遭い、やがて廃村になった)
本島北部の離島・伊江島に阿良(あら)御嶽があるし、
本島中部北谷のアラハビーチは、安良波と表記する。

加耶・加羅・安羅・新羅だけでなく、
百済を表す「大加羅」も、日本各地の地名になった
という説を、石渡信一郎・著『日本地名の語源』で
一読したときは、かなり驚いたものだ(以下要約)。

☆701年頃、倭国は国名を日本に改めた。
☆4世紀に成立した倭国は、南朝鮮からの渡来人
が(日本列島に)建設した国家のことである。
☆加羅系倭国の後、5世紀に百済系倭国が成立した。
日本語の地名には、二つの倭国が関わっている。



この百済系倭国「大加羅」が転訛して「アカラ」に
 なったとするが、沖縄の聖地に見る名もその名残りか。
伊是名島に神降臨伝説のアカラの御嶽があり、久高島の
アカララキ(※ラキ=御嶽)も由来は不明とされるが…。
(※写真は'14年の旧正月に撮影)
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久高島の年中行事のひとつ「太陽の祭り」である
テーラーガーミでは、アカララキを出発した男たちが
茅(かや、方言で「すぅば」)を手に島祓いの行進
をするのだが、そのときの神歌「赤椀の世直し」に、
〜ソウルから下たる赤椀の世直し、
ヤマトから下たる黒椀の世直し〜のフレーズがある。
(※世直し(ゆのーし)とは祭具の盃のこと)

ソウル(朝鮮語で都)とは朝鮮半島のどこかを指す
のだろうと思っていたが、最近は半ば確信している。

スサノオを「天地の大神様」「天王ガナシー」
として崇める沖縄では、祭祀や風習のなかに、古代
朝鮮半島を思わせる様式を見ることは少なくないが。

 アカララキについては、魂の再生を司る女神として、
瀬織津姫やアラハバキをダブらせて書いてきたが、
渡来の女神かと推理してからは、同じ出自かも
知れない稚日女命が気になって仕方なくなった。

記紀神話では、スサノオから受けた狼藉や無残な
死に方が描かれているが、何しろ天照大御神の
岩戸隠れの動機となったのだから、神格は高い。
とはいえ神像は謎が深い気がして、語り部に聞いた。

「稚日女命は、どういう女神さまですか?
  祀る生田神社では、天照大御神の妹だとしてますね」
言うと、語り部は、すぐさまこんな答えを…。

「私にはそうは思えないですね。かと言って、
よく同神と言われる丹生都姫とも思えない。
稚日女命は稚児のような日巫女に見えます、そして」
「……?」
「どこか海辺に鳥居のある神社に祀られていますね」
「それなら、鳥羽の伊射波(いざわ)神社では…?」

稚日女命が祀られる神社は、全国にそう多くなく、
そのうちの伊射波神社については書いたことがある。

志摩国一宮。伊雑宮の元宮と言われ、
加布良古崎(かぶらこざき)の海岸に一の鳥居が立つ。
縄文から平安時代の複合遺跡である贄遺跡から近く、
「聖徳太子がしていたような金のバックルが出た」と、
 伊雑宮のある磯部で古老から教えられたものだった。 

ブログには「祭神は伊左波登美命」とだけ書いたが、
主祭神が稚日女命という由緒は記憶に新しい。

「この神社、浦島太郎や倭姫にも関係があります?」
聞くと、語り部は言った。
「龍宮の蚊帳が収められてたのは、ここかも知れません」

稚日女命、アカララキ、浦島太郎、そして「蚊帳」。
何か、海底宮殿を探り当てたような予感が高まる…。
伊射波神社の所在地は、安楽(あら)島である。



旧年中のことになるが、丹後の久美浜へ行く朝、
稚日女命を祀る生田神社(神戸市中央区)に参拝した。
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六甲の越木岩神社(西宮市)にも、その磐座がある。
六甲と伊勢と沖縄。稚日女命が繋ぐそのラインとは?
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by utoutou | 2017-01-12 06:33 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 77 加耶から来た稚日女神

本年もよろしくお願いいたします。
ということで、お正月(3日)、年末からの加耶の
 話にちなんで大國魂神社(東京府中市)に初詣した。


参道には恒例の露店が賑やかに並んでおり、
社門はこの通り屋台のテントに囲まれていたが‥。
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鳥居の下は人の波、スマホを上向きで撮るしかなく‥。
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長蛇の末尾につく前に境内に紛れ込んでみたが、
参拝客の列は拝殿まで続いていた。当たり前か‥。
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お正月らしい人垣というより神社が見たいので、
境内から振り返り、隋神門を撮ってみたりする。
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一昨年、↑こちら大国魂神社の隋神門にちなみ、
ヤマトタケル〜大国主と天日槍』を書いた。
あのとき語り部は、「天日槍は大国主」だと言った。
「その祖先は国堅大神(くにかためしし大神)」とも。

国堅大神の名は、『播磨国風土記』にあり、
「大国主の別称」と記されているが、
加耶から来た渡来人の可能性が大いにある。

国堅大神は丹生山(神戸市北区)の丹生神社に
に祀られているが、祀ったのはその子である
爾保都比売姫(丹生都比売)だと、同『風土記』に。

神名が示す通り、ここは丹生(朱砂・水銀)の
産地で、同時に鉄・銅・金などの鉱物も産出した。
国堅大神とは渡来の産鉄神、韓鍛冶だったわけだ。

丹生津姫には稚日女尊という別名があった。
神功の三韓征伐の帰途「我を生田に祀れ」と託宣
したあの女神で、生田神社(神戸市中央区)では、
天照大御神自身の幼名とも説明している。
国堅大神が加耶から来たなら、当然のこと
   姫もまた加耶から来たことになるが‥。  


ところで、
丹生津姫のいた丹生山(六甲山系)あたりに
韓鍛冶だった忍海(おしぬみ)部の根拠地があるが、
その押部谷町に、なんと顕宗・仁顕神社が鎮座する。
前回のブログに書いた、逃亡したオケオケ2皇子
が身を寄せた2ヶ所目の潜伏先が、この地だった。
つまり忍海部も日下部と同族か縁故ある一族である。

国堅大神、丹生津姫、稚日女尊、天日槍、
神功皇后、顕宗・仁顕という天皇兄弟が、
「加耶」「日下部」のキーワードで繋がってくる。
稚日女尊を幼名とした皇祖神・天照大御神もまた‥。
天皇家も加耶から来た一族だったのだろう。

では、琉球はどうだろうか?
今年いちばんに語り部に電話したのは、ここ
大国魂神社の境内からだったが、私は言った。
「久高島の瀬織津姫ことアカララキに坐す神様も、
加耶から渡来した女神に思えてきましたよ」
「ようやく悟りましたか」と、語り部は言った。

アカララキとは、「アカラ(大加羅)の御嶽」
のことかもしれないと、私はついに思うに至った。



結局、本殿参拝は後日に回して、奥の摂社に詣でて‥
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人のまばらな水神社で、龍神から若水を戴いた。
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by utoutou | 2017-01-05 18:16 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 76 丹後のカヤノ姫

加耶と同じ「かや」を含む古代地名は各地にあった。

伯耆国の蚊帳郷、但馬国の賀陽郷、筑前国の加夜郷、
備前国の賀夜郷、大隅国の鹿屋郷、播磨国の賀野郷。
また出雲国や因幡国の大草郷の「草」も「かや」と読む。
すべて加耶から渡来した人々の居住地だったという説がある。

503年に新羅に併合された南部朝鮮の加耶(かや)。
その小国家群は、百済や新羅のように国家として、
ひとつにまとまることは最後までなかった。

加耶には、いつかの表記と読み方があった。
田中俊明著『古代の日本と加耶』より、以下要約。

☆加耶の最古の史料は広開土王碑(414年)で、
「任那加羅」とあり、「任那という加羅」の意味。
☆『三国史記』は主に加耶と記しているが、他にも、
伽耶・加良・伽落・駕洛とも表記している。
☆朝鮮音では「ka-rak」、日本音では「カラッ」。
加耶「ka-ya」は「ka-ra」の「r」音が転化したもの。
☆『日本書紀』では、主に加羅と表記している。
☆『梁書』の加羅、『隋書』の迦羅、あるいは
『続日本記』の賀羅も、みな加耶・加羅の異表記。

「かや」「から」を含む地名は、しかし、残念ながら、
摂津・丹波・丹後には見つけることはできなかった。

ただし‥
加悦谷(かやだに)なら丹後半島の付け根にあった。
加悦町も、町合併で与謝野町となる'06年まで存在した。
加悦谷の南北を流れる野田川は、天橋立の内海
(阿蘇海とは由緒の気になる名称だが‥)へと注ぐ。
川を遡れば、与謝野町字加悦に、蛭子山古墳がある。

この蛭子山古墳という名もまた意味深である。
水蛭子や、蝦夷や夷狄といった蔑称をつい連想する。

さて、
その蛭子山古墳は、網野銚子山古墳、神明山古墳と
並び称される丹後の三大古墳のひとつだが、
築造の歴史は最古で、4世紀中頃であるという。
丹後を初めて拓いた首長の陵墓だろうか。



蛭子山古墳。現在は与謝町古墳公園として整備
されているが、旧名は加悦町古墳公園といった。
※写真は、そのパンフレットより拝借。
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蛭子山古墳(現・与謝町明石)のある旧加悦町。
※地図画像は同じく古墳公園のパンフレットより拝借。
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ところで、加悦町には、四社の神社があった。
天満神社、二宮神社、一宮神社、七谷神社。
また、加悦町与謝に、驚くべき神社が鎮座する。

王子神社(上宮社と下宮社がある)。
455年、後の雄略天皇に殺された市辺押磐皇子の
遺児たち、億計(おけ)王子(後の仁賢天皇)と、
弘計(おけ)王子(後の顕宗天皇)を祀っている。
二王子は臣下の日下部蓮使主と共に丹波国与謝郡
へ逃亡して潜伏、難を逃れたと言われているが、
逃亡先は、当然のこと日下部氏の勢力範囲だった。

『日本書紀』には、まず潜伏した先として、
「丹波国余社郡」の名が見えるが、この場合の
丹波国は、和銅6(713)年に丹後国が分かれてから
の丹後であり、つまり浦島太郎伝説に出てくる与謝郡
のことであり、その浦島子は日下部首の先祖であった。

蛭子山古墳のある加悦は、日下部の根拠地だったわけだ。
宝貝の交易で朝鮮半島や大陸とを往来した豪族。
その故地は南九州で、母神は鹿野姫と書いてきたが、
丹後の加悦には、鹿屋姫を祀る神社もある。



天満神社(与謝野町加悦)の摂社・吾野神社には、
吾野廻姫命(かやのひめのみこと)が祀られている。
※写真は、同じく神社拾遺さまサイトから拝借。

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梅本政幸著『丹後路の史跡めぐり』には、
「加悦町」の語源が二通り、紹介されている(要約)。
☆朝鮮の任那の中に加耶(かや)という国があった。
☆加悦の安良(やすら)は昔、安羅と書かれたが、
任那の中に安羅(あら)という町があった。
現在の咸安(かんあん)である。
☆吾野神社に祀られるのが萱野媛(かやのひめ)
であるところから、この加悦谷盆地に
その名がつけられたとも考えられる。


萱野姫とは鹿野姫のことであり、
かぐや姫であり、後に瀬織津姫と呼ばれる姫たちである。





by utoutou | 2016-12-30 14:23 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(4)

六甲山と瀬織津姫 75 明刀銭は語る

朝鮮半島の伽耶が丹後と琉球を繋ぐキーか‥。
そう思ったのは、丹後・久美浜の海岸近くから、
琉球と同じあるモノが出土したと知ったからだった。

旭神社の鎮座する久美浜蒲井・旭地区から東へ10㎞。
箱石浜海水浴場近くの箱石浜遺跡(遺物包含地)から
中国の明刀銭(めいとうせん)が2枚出たという。

【明刀銭】とは‥※「琉球コンパクト辞典」より
〜中国の戦国時代(紀元前403〜221年)、燕の国で
流通した貨幣。表面に〈明〉の字があることから、
そう呼ばれる。1923(大正12)年、那覇市城岳の
貝塚から日本で初めて発見された。〜


↓明刀銭。画像はコインの散歩道さまから拝借。
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明刀銭が出た丹後久美浜・箱石遺跡については、
諸々の資料によると、以下のような概要だ(要約)。

☆明治時代に新王朝(8〜22年)の貨泉が出た。
☆縄文・弥生土器、銅やじり、土師器なども出た。
☆青銅製の明刀銭も2枚(長さ14㎝)出ており、
現在は神谷神社に保管されている。
☆現在は砂州になっているが古代は河口で、大陸と
交易した港が存在していたと考えられる。
☆大和系の土器も出土。瀬戸内海との交流もあったか。


明刀銭は、琉球と丹後と大陸をまたぐ何らかの
交易があったことを表しているわけだが、この
刀型の通貨は、いったい誰が何の交易で使った痕跡か。


「琉球産の宝貝交易の担い手は隼人だった」と言う
 森浩一氏は、『海から知る考古学入門』にこう記した。
(要約)
☆燕の領域は華北の東部、東北の南部、朝鮮半島
の北東部で、その範囲内で明刀銭が分布している。
☆城岳の明刀銭は朝鮮半島北西部の西海岸から
南下、さらに倭人伝ルートを通って九州に渡り、
南島の島々を経由して沖縄本島にもたらされたか。
☆「貝の交易の道」では、隼人の役割が大きかった。



こちらは、
那覇の史跡旧跡案内にも載る城岳公園からの景観。
沖縄県庁の白く大きな建物が見える('14年撮影)。
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城岳は現在は公園として整備されているが、戦前まで
は鬱蒼とした松林で、那覇港を眺望する景勝地だった。
このあたりの旧名は、真和志間切古波蔵村といった。



「琉球八景」を描いた葛飾北斎もこの地を「城嶽霊泉」
と題して、汪樋川から流れ出る湧水を描いている。
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北斎の絵に描かれる拝所の跡だろうか。
公園の一角に建っている拝所に、「600年前、
貢船の舟子たちが建立」とあったのを覚えている。
今では想像もつかないが、この地は内海の湾口だった。
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隼人族と言えば、摂津や丹波や丹後や但馬にいた
日下部氏のこと。言うまでもなく海部で、和邇氏の同族
であり、大陸から来たアマミキヨだろうと書いてきたが、
その人々は漢民族に夷狄として追われ、海に消えた。
その中に伽耶に留まり、琉球や丹後に流れた人々もいた
のではないかと、私は常々考えていたのだった。






by utoutou | 2016-12-23 21:44 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)